エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

《あと三ヵ月 死への準備日誌 戸塚洋二氏》

2008-08-12 | 健康
           《咲き始めた萩》

 いつもは図書館で読ませてもらっていたが、文藝春秋今月号(9月号)を書店で求めた。芥川賞作品『時が滲(にじ)む朝』(楊 逸著)や特別企画『日本の師弟89人人生の師から学んだこと、愛する弟子に教えたこと』を読みたいと思った。
そこに、『あと三ヵ月 死への準備日誌 「悟りとはいかなる場合も平気で生きることだ」 戸塚洋二』が掲載されていた。

〈文藝春秋〉の先月号(8月号)で、戸塚洋二/立花 隆 の対談記事 《「ノーベル賞に最も近い物理学者が闘う生と死のドラマ」  がん宣告 「余命十九カ月」の記録 》を読んだばかりだった。それも戸塚洋二氏の訃報をニュースで知ったすぐ後のことであった。(7/10逝去 享年66歳)
 亡くなった方が死を間近に語っている文字を複雑な思いで読んだ。
 
 戸塚洋二氏は自分のブログで「ガンの闘病の記録」を書いておられた。ブログのタイトルは「A Few More Months(あと数ヶ月)」で2007.8.4から死の間際まで書かれた。
 記事のタイトル「悟りとはいかなる場合も平気で生きることだ」は子規の文だ。
彼はブログで、第4ステージのガンと闘うA氏に正岡子規の言葉を贈っていた。
 『悟りとは如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きている事であった。』と。
 また、彼は諦めの境地を考えながら、「私にとって早い死といっても健常者に比べて10年から20年の違いではないか。みなと一緒だ。恐れるほどのことはない。」と書いている。
同紙の記事『日本の師弟89人人生の師から学んだこと、愛する弟子に教えたこと』でも、小柴昌俊氏が「弟子の弔辞を読む痛恨」と題し彼の早すぎる死を悼んでいた。そこで、戸塚氏がノーベル賞の最有力候補であったことを知った。

 戸塚博士の壮絶なガンとの闘いを読みながら、自分の闘病中の様子が思い浮び、あらためて【生きること、死ぬこと】を考えさせられた。
 発病から入院、手術、今も鮮明に思い出される幻覚の情景、死を意識したころの家族への思い、抗ガン剤の副作用に悩まされたころのことなど、自分の闘病生活を思い浮かべた。幸運にも生かされ、健康を取り戻した自分、あらためて日一日を大切に生きなければと思う。戸塚洋一博士のご冥福を祈りたい。


朝の顔

2008-08-11 | 自然観察

夏の朝、アカ・アオ・ムラサキと色とりどりに咲く数輪の朝顔がすがすがしい。


毎年、日除けのよしずの脇にプランターを並べていた。今年は庭のあちこちに朝顔の苗を植えたので、水やりに気を使うこともなく、元気に花を咲かせている。
ナンテン、ツツジ、ナナカマドなど、手頃な植え込みにツルを伸ばして咲いている。

 花弁が星形にとがり、縁が白い花は初めて見た。桔梗咲きという品種らしい。薄い空色の花もいい。青い花も、濃い紫の花もしおれると真っ赤に変色する。まさに、夏の日につかの間にしおれてしまう朝の顔だ。


 


美しいヤマトシジミ

2008-08-10 | 昆虫
            《ヤマトシジミ ♂ 2008.8.9》

夏の炎天下、灼熱の地面近くを何頭ものヤマトシジミが元気に舞っている。食草のカタバミに翅を閉じて止まった裏面は、夏の個体の特徴なのか、黒点がより鮮明で美しく見える。タチアオイの枯れ始めた種の上に羽を開いて止まっている美しい♂を見た。じっくり見ることもなかったが、ヒメシジミに似て美しい青色の縁の黒帯がとても広くて驚いた。これも春型にはみられない特徴だ。

 今、ツバメシジミ、ベニシジミが一緒に飛んでいる。いわゆる普通に見られるシジミチョウだが、ファインダーで覗く顔見知りのチョウたちも、あらためてそれぞれに個性的で美しいと感じた。

《ヤマトシジミの産卵 2007.8.9》
  

カボチャを収穫

2008-08-09 | 日々の生活

 梅雨時に、孫に見せたい思いで花壇の隅にカボチャとスイカの苗を一本ずつ植えた。その後、いずれもずんずんと茎を伸ばし、それぞれ1個ずつ実を付けて収穫出来そうに大きく育った。
 いくつかの収穫を期待していたが、なぜだろうか雌花を確認出来たのはカボチャが2つ、スイカは1つだけだった。
 カボチャは南向きの縁側の広い窓の下で伸び、方向転換させた先端までは約7㍍もあった。だから窓からの出入りは出来なかった。収穫時期がわからなかったが、根元の葉が枯れ始め、結構大きく育ったので収穫した。体重計で測ったら1.6kg、ろくに肥やしもなくて大きく育ったものだ。きっと美味しいことだろう。

カボチャと言えば、息子が小学生のころ、夏休みの自由研究で「カボチャの観察」をまとめ、県の研究作品展で賞状をもらったことを思い出した。理科の自由研究は、3人の子どもたちがそれぞれに工夫し、親も付きっきりで苦労して取り組んだものだ。まとめた研究の成果は今も大事に取ってある。

 スイカの方は、午後は木陰になる場所だったのでいくらか育ちは良くないようだ。たった1個だが、結構重く、小玉スイカていどに大きくなった。なぜか扁平で、スイカの縞模様は一部で、全体は暗い緑色をしている。立秋なのにようやく夏らしい暑さが続きそうだ。もうしばらく置いてみようと思っている。いまからみんなで十分冷やして食べるのを楽しみにしている。


シオカラトンボのホバリング

2008-08-06 | 昆虫

いつもの観察フィールドで、ホバリングするシオカラトンボを撮ることができた。
1メートル足らずの池の端で、メスが打水産卵を繰り返していた。近づいても全く気にする様子はなく、その上でオスが産卵を見守るようにホバリングしていた。オスはほとんど動かずにホバリングしていたので、望遠のマクロでゆっくり撮影することが出来た。めったにない幸運な機会だった。
 今の時期、池のトンボの個体数は少なく、ついこの前まであれほどいたシオカラトンボもほとんどいなかった。ギンヤンマもあまり見られず、替わってオオルリボシヤンマが出始めた。

 観察フィールドでは、ミズナラの葉上でムモンアカシジミが休んでいた。鮮やかな橙色の裏面を見たのはもう40年も昔のこと、梢を舞うゼフィルス類を追ったころが懐かしかった。今度は活動が活発になる夕方に見に来たいと思った。
 道ばたの草むらには無数のバッタ類が飛び交い、カタバミのまわりには何頭ものヤマトシジミが生き生きと舞っていた。

日々が小さな幸せ

2008-08-05 | 日々の生活
             【絵の具遊び】

 穏やかに夏の日が過ぎていく。朝方の雨降りに、庭の緑がすがすがしい。
雨が上がり、薄日射す東の山の端から霧の流れが見える。曇天に、終日磐梯の霊峰は拝めなかった。
 
 久々に絵筆を握り、麗しの磐梯を描いた。いつもの湖水に浮かぶハクチョウと磐梯の雪景色だ。何も見ないで筆が走る。そして、薄い空色の冬の空には、いつもの同じ文字を添える。
  「寒風に磐梯さやけし 旅立ち前の静寂 白鳥の叫び切なし
  「そこは新しい風の通り道 吹き抜ける風の中で ふるさとの雪は目ざめる」等など、
 夏の盛りに 冬・磐梯を描きながら、寒風に立つ我が身を思い浮かべた。あらためて、巡る季節を思い、時の流れに身を任せる人生を思った。

【ハンカチに描く】
 

 一段落するまもなく、孫たちの絵の具遊びに占領された。勝手に絵の具を搾り、コップの水で溶いて水浸しにして塗っている。まさに、生き生き、思い思いに筆を運ばせていた。

 ひときりすると庭に出て自転車乗りだ。雨上がりの庭にヒメジャノメが舞っていた。たぶん第2化の♀だろう、新鮮な個体だった。

 【ヒメジャノメ♀】

 暑中見舞いから残暑見舞いへ、8月7日は暦の上での立秋、心なしかそこここに秋の気配が感じられる。粟粒ほどの萩の花芽が見え始めた。
 とどまることない時の流れに、日々をこころ穏やかにと願う。こんな当たり前の日々の繰り返しでも、求めすぎることなく、この小さな幸せがいつまでも続いて欲しいと思う。

フォーオール科学技術教育

2008-08-02 | 教育を考える
  【ミンミンゼミ 初見】

「工学教育」の最新号で《フォーオール科学技術教育》()なる表現に出会った。
)「高校・大学・社会の連携による 高校生のためのフォーオール科学技術教育」( 川村貞夫(立命館大学)、小畠 敏夫(立命館守山高等学校)他)

研究報文を読みながら、掲げられた研究の方針にかつての自分の教材研究が重なった。
 【研究の方針】
  1.文系・理系不分離の指向
  2.体験学習と体験の整理・表現の重視
  3.創生教育
  4.科学技術全分野の俯瞰
  5.環境エネルギー課題の重要性

 初めて聞く《フォーオール》に、 いつからか取り入れられたスーパーサイエンスハイスクール(SHH)教育と対比し、一部の生徒よりも多くの生徒に学ばせる教育の視点はより大切であると再認識した。
今後、これらの立命館守山高校の実践とその成果に期待したい。

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 上記の方針に似たような教育理念のもと、日々の教材研究に明け暮れてきたように思う。 数年前まで【創造的教育活動】をテーマに教材研究に没頭していた事実が、はるか遠い昔のことのように思われた。思えば、幾多の教育実践を、そのときどきの具体的な目標を設定し、それらの解決を目指した生き生きした日々があった。
 それに引き替え、今お前は何をしているのか?誰かにそう問われ、答えに窮する自分を意識する。自問自答すれども、はかない日々を悔いる気持ちが湧くのみである。もっとも、たとえ理想的な発想やアイデアが生まれても、もはやそれらを実践するあたわず、たわごと、独り言でしかない。そう思うとますますはかなさを感じざるを得ない。