「福は内、鬼は外」 昨日は節分だった。ということで今回は「内と外」について。
「内と外」というのは空間的なあるいは社会的な概念だが、それは階層構造を成している。
分かりにくい、具体的に書く。住居の内と外。住居の集合である例えば村の場合の村内と村外。その上位に位置する例えば県では県内と県外。更に国だと国内と国外。そして地球の場合、地球内という概念は馴染みがないが地球外生物は存在するか、と考えるように地球外という概念は馴染みがあるかもしれない。
空間的・社会的な「内と外」という概念が階層構造を成していることを具体例を示して説明すればこのようになるだろう。
さてここから本題。
福は内、鬼は外、この「内と外」はどれに相当するだろう。豆まきが家庭ごとに行なわれていることから、内とは家の内、外とは家の外を指していることは明らかだ。
豆まきは鬼を家の外に追い出したら後は知~らない!というわけだ。これが仮に村の行事として行なれているとすれば、鬼を村外へ追い出したら隣りの村で悪さをしようが知~らない!ということになるだろう・・・。
そして更にこのロジックを国に当て嵌めると、鬼を国外に追放したら後は知~らない!。 台風がこの国を避けて隣の国に行ったら安堵するというのもこれと同様の国民感情だ。
自分の家の前の道路が汚れていてもお構いなし。この国の人たちに公共意識が乏しいというのは「福は内、鬼は外」に表れているように「内と外」という空間的・社会的概念を最も下位の小さいレベルで捉えているからではないのか。
「福は内、鬼は外」 幼少の頃から毎年繰り返していると、「家(うち)から追い出された鬼が隣りのミヨちゃんちで悪さをするかもしれない、そうしたらミヨちゃんがかわいそう・・・。」こういう発想が育たない。
だから「街をきれいにしよう!」などという掛け声は空しく響くだけなのだ。「地球環境に優しい暮らしを!」などというメッセージは地球を「内」と捉えることができなければ無理だ。豆まきを毎年やっているこの国ではそれは「超」難しい・・・、と思うのだが。
「福は地球!鬼は宇宙!」それも困るな。内という概念をいくら広げても困るのだ。鬼は追い出すのではなく自ら退治せよということでないと。
今回はなんとも眉唾な話をでっち上げてしまった・・・。