透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

「ときどき意味もなくずんずん歩く」

2008-02-09 | A 読書日記


『ときどき意味もなくずんずん歩く』宮田珠己/幻冬舎文庫

**二一世紀だ!二一世紀がやってきた。よくわからないが、うれしいことにする。**

**飛行機なんかやめて、全部ジェットコースターで世界を繋いだらどんなに安心かと思った私である。**

**途中ラブホテルの脇に出て、あの窓の内側では今頃素晴らしい何かが行なわれているのではないか、それなのになぜ私はその横を大仏めがけて歩いているのか、(後略)**

面白い文章を書く人がいるものだ。こんなエッセイ集が幻冬舎文庫にあることは知らなかった。旅行のこと、趣味のこと、日常生活のことなどについて書いているが、どれも笑ってしまう。

この本は友人からのプレゼント。今までに『クラウド・コレクター』や『羊男のクリスマス』『ザ・ホテル』など何冊か紹介してもらった。自分では手にしそうにない本ばかりだが、どれも面白かった。相当の本読みでないと本を薦めるのは難しい。

読む本にはその人の内面が表れる。だから本を人に薦めることは自分の内面を明かすことにもなる。他人に書棚を見せることは裸を見せることより恥かしい、という人もいるくらいだ。

今、この友人に薦めるとしたら一体どんな本を挙げればいいだろう・・・。

開智学校

2008-02-09 | A あれこれ



 今回引いたカードは松本の開智学校だった。この学校については設計・施工したオジさんが立石清重(せいじゅう)という松本の大工棟梁ということくらいしか知らない。先日の新聞にこのオジさんが手掛けた松本市内の「建築(確か1階が茶室付きの和室で2階が洋室だったと思うが記憶が曖昧)」を市が買い上げて中町に移築再生するという記事が載っていた。

今回は手元にある資料をカンニングしながら書く。

建築探偵藤森照信さんの『日本の近代建築』岩波新書によると明治4年に筑摩県に赴任した永山盛輝というオジさんはとにかく教育熱心で教育環境の充実に尽くし、警察力を使って未就学児を学校に通わせることまでして、日本一の就学率を達成したという。

永山さんはどこにも負けない小学校の建設を決めて棟梁として立石さんを指名したという。指名を受けた立石さんは明治8年、はるばる東京まで徒歩で出かけて西洋館探訪を行なったそうだ。それも少なくとも2回。

当時約1万1千円にも達した建設費、その約7割を松本町民の寄付で賄ったと案内看板にある。松本の人達のこの学校に託した想いが伝わるエピソードだ。

開智学校というとこの写真、唐破風の下でふたりのエンジェルが開智学校という看板を持っている。



このエンジェルにはちっちゃな凸が付いている。『建築探偵雨天決行』藤森照信+増田彰久/朝日新聞社によると竣工当時はツルリンチョだったということだが、戦後の修理の時、文化庁のお役人さんがそれではマズイと凸をくっつけさせたそうだ(このことは以前書いたと思う)。 何故凹がまずくて凸ならOKなんだろう・・・。



新築当時の模型が教室に展示されている。このように正面右後方に長い校舎があったのだ。正直に書く、このことを私は知らなかった。最初から現在のようなコンパクトな校舎だったと思っていた。



市内を流れる女鳥羽川沿いにあったこの学校はたびたび水害を受けたようで、明治29年の7月の大雨による被害の様子を写した写真が展示されている。



廊下の天井照明。ヨーロッパなら当然鋳鉄で作られたであろう飾り、これはよく見ると木製、職人の心意気を感じる。

この開智学校のように明治初期に日本の職人達によって見よう見真似でつくられた洋風の建築を擬洋風建築というが、擬とは似せる、まねるという意味で、あまりイメージが良くない。

在来の技術を駆使して造られたこのような建築には和と洋とを共存させる、という明確な「意図」を感じる。ただ単に洋を似せて造ったのではない、と思う。黒川紀章さん流に言えば開智学校は立石さんが和と洋の共生を試みた結果生まれた建築なのだ。

『職人たちの西洋建築』ちくま学芸文庫で著者の初田亨さんはこのことについて触れ、**擬洋風建築という用語をもちいずに、和洋折衷の建築ということにする。**と書いている。

重要文化財旧開智学校校舎 昭和36年3月23日指定
規模・構造 木造二階建 寄棟造 桟瓦葺 中央部八角塔屋付 建築面積517㎡(建設当初の教室棟を含めると2653㎡ 児童収容数1300人)