休日の午後、松本市内のカフェにて
「きのうの夕方、奈良井川沿いの道路を通ったとき、三九郎をやってた」
「そうですか。今朝、新聞で読みましたけど、松本市内で480ヶ所位で三九郎をやるそうですね」
「え?そんなに多いの?」
「ええ、市の教育委員会で把握しているようです」
「三九郎って、しめ縄やダルマを焼いて無病息災を祈る伝統行事、なんだけど、都会だと正月飾りも可燃ごみで出すのかな」
「え~、どうなんでしょう。家庭ごみとは分けているんじゃないですか」
「そうかな、でもニュースには取り上げられないよね。やはり、そっと、ごみで出してたりして。ところで、Mさんってお茶をやるんだよね」
「ええ。随分前から習ってます。ですから茶室にも私、関心があるんです」
「じゃ、いつか四畳半の喫茶店でお茶したいね。ボクは作法を知らないけど。ところで、野だての時に立てる紅い和傘のこと、なんていうのかな」
「え、普通に野だて傘って呼んでますけど」
「野だて傘ね。じゃその野だて傘としめ縄に共通することはな~んだ?」
「野だて傘としめ縄に共通すること、ですか? 日本に古くから伝わる文化?」
「そうだね。しめ縄って、結界を表しているんだよね。神域っていうのかな、それと俗界とをあのしめ縄で区画しているわけで、地鎮祭のとき、縄を張って神域をつくるのと同じ」
「しめ縄を飾ってあるお宅には正月の間、神様が降りて来ているとかって聞いたことがあります・・・」
「そう、しめ縄って神聖な空間をつくる装置というか、そういう飾りだよね」
「それと野だて傘の共通点って・・・」
「野だて傘を立てることで、周りの空間とは違う空間をつくり出しているわけでしょ。違う空間をつくる、その意味ではしめ縄と同じ。どちらも精神的な領域規定かも知れないけど」
「そうですか・・・空間をつくり出す・・・」
「どちらも空間創出装置、建築ってわけ」
「しめ縄も、野だて傘も建築なんですか?」
「そう、建築の定義次第だけど、そういう捉え方もできるね」
「そうですか・・・、なんとなく分かるような、分からないような・・・」
「一見全く関係の無いと思われるふたつの事柄が、見方によっては繋がってくる」
「前にもU1さん、そんなことをおっしゃってましたね。お花見の時に場所取りでテープを張るとかシートを敷くとか、あれも建築ですか?」
「そう。空間を切り取ること、周りとは違う空間をつくること、建築って要するにそういうことなんだから。しめ縄とは違って、花見の場所取りはもっと物的な空間規定だから、より狭義の建築に近いね。雨が降ってもいいように天幕を張ったら建築そのものだね」
「それなら建築だって分かります。建築って随分幅が広いんですね!」
■ ああ、今回はあのことか、と気づかれたと思います。そうです、今年はふたりの生誕100年にあたる年なんですね。
新潮社のHPで昨年末に知りました。新年になって各紙このことを取り上げたようです。1909年生まれの作家は他にもいますが、このふたりを取り上げたのは、ずば抜けて人気が高いということなんでしょう。
太宰治が『人間失格』を世に残して玉川上水で入水自殺したのは40歳になる前でした。一方、松本清張がこの『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞したのが、44歳の時。それから作家活動を始めたわけですから、そのとき既に太宰はこの世の人ではなかった、ということになりますね。
人生いろいろ、ですね。
さて、ここからどう書き進めるか・・・。
松本清張記念館が北九州市小倉にありますね。松本市美術館の設計者、長野の宮本忠長さんの設計。清張ファンとしてはいつか訪ねたい、と思っています。再現されている書斎や3万冊の蔵書が見たいのです。
太宰治の生家「斜陽館」は築100年を過ぎた豪邸。太宰のファンではありませんが、この建築は是非見学したいと思っています。鶴岡あたりからしだれ桜の角館を経由して津軽へ。りんごの花が咲く頃はきれいでしょうね。
どちらもここ5年、いや10年くらいの間に実現したいと思います。
青森が先かな。