■『国土学再考』で著者の大石氏は、自然災害によって、一瞬にしてすべてのものが壊れたり、流されていたという恐怖の経験によって、日本人のほとんどすべての人が流れる歴史観、無常観をもっている*1と書き、かつての街の記憶を消し去り、塗り替えていくような東京の再開発ラッシュの光景はいかにも日本らしいものだと続け、更にそうした動きが、日本の文化や経済活動に、他の地域では見られないダイナミズムを与えているのも、また確かなことなのだと論じている。
かつて東京駅を取り壊して新しい駅ビルをつくる、という計画があったことはよく知られている。このことを伝える新聞記事の切抜きが手元にある(19770421 読売新聞朝刊)。
記事となった日の前日(0420)、当時の都知事、美濃部さんは外人記者クラブの昼食会に招かれて、丸の内再開発構想についてスピーチした。
東京駅を含めた丸の内ビジネス街の大改造プランに対して、外人記者から「東京駅の赤レンガは震災などをくぐり抜けてきた東京の名所、とりこわしてしまうのはどんなものか」と訊かれ、美濃部さんは「東京駅は駅としては非常にまずい。もう少し近代化したいというのが国鉄総裁の意見で、私も賛成だ。しかし、非常に惜しい建物なので明治村に再生するなど、なんらかの形で保存したい」と答えた。
更に記者から「明治村には明治はいっぱいあるが、東京にはひとつしかない」と追求されて美濃部さんはタジタジだったと記事にある。
建築を経済活動の手段としか考えていないと、こんな見解を述べることになってしまう。最近では東京中央郵便局(←過去ログ)がやはり保存か再開発かを巡って議論された。
都市の実態を見れば、確かに大石氏の指摘通りなのかもしれない。しかし、このままでは日本全国記憶喪失都市になってしまう・・・。
*1日本人の無常観の由来について、納得できる説明はなかなか見あたらない、と大石氏は指摘しているが自然災害で虚しく死んでいくという人間の経験の深いところに根差すものというのが氏の見解だ。
この見解に「なるほど!」とはならない。そんな災害でしか無常観は培われてこなかったのだろうか、日本人はそれほど感性が鈍くはないだろう。自然のうつろいを知ることができる細やかな感性による、といった指摘の方が頷ける。