『まちがえる脳』櫻井芳雄(岩波新書2023年)
■ **単純な役割分担による機能局在が脳の特性であるという考えは、人にとってわかりやすいシステムを脳に投影しているにすぎない。**(208頁)
本書を読むと著者が上掲文で指摘しているように、脳に関する従来の基本的な認識が正確でないことがわかる。
「えっ、そうなのか。知らなかった・・・」本書を読んでいて何回も驚いた。以下に付箋を貼った箇所をいくつか載せる(引用文の文字の色は私が変えた)。
**わたしたちの脳の中でニューロンからニューロンへの信号は30回に1回程度しか伝わらず、しかも伝わるタイミングはランダムということになる。(中略)数十回に1回だけ成功する信号伝達を、数十回に1回だけ失敗する程度に改善するメカニズムが、脳には備わっているはずである。**(47,48頁)
**脳もコンピュータも、共に信号を伝達し処理することでさまざまな機能を実現している。しかし、脳は独特の確率的な信号伝達により、まちがえることも多く、記憶も不正確でありながら、多くの高次機能を実現し、損傷からも回復する。つまり脳はコンピュータのような機械とは本質的に異なっており、人が想像可能な精密機械として理解することは難しそうである。**(112頁)
著者はこのように指摘し、機械論的な捉え方ではなく、もっと・・・、ふさわしい言葉が見つからないが、アナログ的な、冗長な、柔軟な、とでも言えばいいのか、信号伝達が行われているということを示す最新の研究成果をいくつか紹介している。
**ニューロンとグリア細胞が連なった神経回路には隙間もありそれを細胞外スペースと呼ぶ。細胞外スペースは、間質液という無色透明の液体でみたされており、成人の脳では全体積のほぼ20パーセントを占めている。**(122頁)
**(前略)脳の神経回路では、シナプスを介したニューロン間の確率的な信号伝達と、細胞外スペースを介した持続的で安定した信号伝達が同時に働いており、しかもそれらはお互いに影響し調節し合っている可能性がある。(後略)(123頁)
脳の信号伝達のメカニズムが単純な電子回路にモデル化され、図解されていることがよくあるが、そのようなイメージとは随分違うようだ。細胞外スペースは脳の保護だけでなく、信号をアナログ的に伝達する役目があるという。信号伝達は信号回路だけがしているのではないということを本書で知った。自然免疫システムもそうだが、進化ということだけで説明できるのだろうか、と考えてしまう。ヒトの体って本当にすごい。
本書は次のように章立てされている。
序章 人は必ずまちがえる
第1章 サイコロを振って伝えている? いい加減な信号伝達
第2章 まちがえるから役に立つ 創造、高次機能、機能回復
第3章 単なる精密機械ではない 変革をもたらす新事実
第4章 迷信を超えて 脳の実態に迫るために
第3章までは最新の研究成果を踏まえて、脳に関する新たな知見が解説され、第4章では章題が示すように、事態とはかけ離れた脳に関するいくつかの誤解について解説されている。4節から成る本章の第1節は「脳は迷信の宝庫」、第2節は「研究者の責任」。
**迷信の誕生と広がりに対して、研究者も決して無縁ではない。データの捏造や改変は論外であるが、たとえ真面目な研究から得た成果であっても、それをわかりやすく伝えるため、あえて簡略化、あるいは誇張して公表することで、まちがった内容で広がることがある。また、極めて不十分なデータから大胆な結論を出したり、単なる推測や仮説をあたかも真実であるかのように断言することで広まることもいある。その背景には、常にわかりやすい解説を求めるマスメディアの存在があるが、それに迎合して迷信を広めている研究者にも大きな責任がある。**(184頁)
**脳の機能は、多様な部位、多様なニューロン、多様な神経伝達物質、そして多様な遺伝子が相互作用しながら働くアンサンブルによ実現されていると考えざるを得ない。(後略)**(222頁)
5月は実に興味深い内容の1冊から始まった。