■ 小説のタイトルの『明夜け前』は小説が描く時代の状況を、『雪国』は小説の舞台を、『金閣寺』は小説のモチーフをそれぞれ端的に表現している。そして『北帰行』は小説のテーマとも言える主人公の旅を表現している。
既に書いたが今月(12月)10日にえんぱーくで開催された講演会で久間十義さんは『北帰行』の著者である外岡秀俊さんを取り上げ、『北帰行』のことにも触れた。久間さんと外岡さんは1953年(昭和28年)北海道生まれ、高校の同級生。
この小説は雑誌「文藝」の1976年(昭和51年)12月号に掲載され、単行本になった。僕がこの小説を読んだのは翌1977年の1月だった。この頃読む本は大半が小説だったと思う。
講演を聴いたことを機に『北帰行』を再読した。実に46年ぶりで、内容を全く覚えておらず、初読同然だった。「漣」「纏める」「蕗の薹」・・・。講演で久間さんが話していたようにこの小説には難しい漢字がいくつも出てくる。文脈から判断して検索確認することが何回かあった。ちなみに例示した漢字は「さざなみ」「まとめる」「ふきのとう」。この小説では主人公の内面が丁寧に描かれているけれど、その表現もまた難しい。
主人公の二宮は父親が炭鉱の事故で亡くなったために、高校進学をあきらめて集団就職で北海道から上京する。鞄の中に啄木の歌集『一握の砂』を入れて。二宮は作者と同じ昭和28年生まれ。二宮がテレビ放送が開始された年の生まれであることが本文中に出ている(57頁)。東京では町工場で働き、寮で過ごす日々が続く・・・。ある日、喧嘩をして相手に怪我を負わせ、二宮も三本の指の骨が砕けるような怪我をする。職を失い、こころも傷ついた二宮は啄木の足跡を辿るように北帰行する。小説では二宮の心情が啄木の短歌や詩、日記を通して描かれる。
作者は次のように書いている。少し長くなるが引用したい。**私はいつも啄木という事件を目撃する者の興奮を覚え、と同時に、啄木像を最終的に決定するのは自分なのだという自負を責任さえも感じていたのだった。けれどもこうした思い上がりは、確かに歴史体験には必要なものだったに違いない。啄木像を彫琢することによって自分というものを彫琢しているのだという自負こそ、現在と過去を同じ重さとして捉え、その相互性において自由に行き来することを可能とさせるものなのだから。**(8,9頁)
この文章に二宮と啄木との関係やその扱い方が示されていると僕は理解する。作者は次のようにも書いている。**旅というものを考えるときに、何らかの形で啄木や父の姿を想わずにすますことができないような気がするのだった。**(113頁)
『北帰行』のテーマは何か、そこには何が描かれているのか、ひと言で述べよ。こう問われれば僕は「主人公の若者の復活、再生の旅」と答える。それから、これは僕好みの恋愛小説、とも。
この答えについては、2頁目(※手元の単行本で)に**暗闇から抜け出そうとする列車のように、私もまた暗い二十歳から抜け出そうとしている頃だった。**と出てくる。
また、恋愛小説だということについて簡単に。二宮が中学生の時、由紀という名前の少女が東京から転校してくる。二宮少年の初恋。転校生に恋するというのはよくあるパターン。15歳で上京して、5年後の北帰行。**「十一時に地下鉄の大通り駅の改札口に。来ていただけますか。」彼女はそう言った。**(197頁)変わらぬ白魚のような指にマニキュア。大人になった由紀との再会・・・。夜遅くに再会したふたり。翌朝札幌駅前のターミナルで待ち合わせ。由紀の指から指輪もマニキュアも消えていた・・・。
**「ありがとう、素敵な一日。あたし忘れなくってよ。きっといつまでも覚えているわ。なんだかあの頃のこと思い出して、ちょっとセンチになっちゃたみたい。ごめんなさいね。(後略)」**(210,211頁)**「あたし、子供ができるの。母親になるのよ。・・・・・・さようなら!」
これが恋愛小説でなくて何であろう・・・。
『北帰行』は文庫化されていて、今でも読むことができます。**文学史上に輝く青春小説の金字塔**