透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

明治時代に撮影された火の見櫓の写真

2024-03-25 | A 火の見櫓っておもしろい


東筑摩郡山形村下竹田の火の見櫓(火の見梯子) 撮影1909年(明治42年)
山形村史談会会報167号15頁より転載

 長野県立歴史博物館の特別館長・笹本正治氏の「激突する権力の狭間で ~武田氏滅亡後の信濃~」と題した講演会が昨日(24日)の午後、山形村であった。本稿はこの講演に関するのもではないので、以下に私なりに理解した講演の趣旨を記すにとどめたい。

戦国時代は戦乱の世。戦国武将が勇敢に戦うというようなイメージとはだいぶ違う。民衆もまき込む戦禍、多くの女性や子どもたちも犠牲になった。また捕らえられた足弱は売られた。山形村にも複数ある山城は民衆の避難所として整備されたと考えられる。戦争といる愚行の様相はウクライナでもガザでも変わらない。人類はいつまで戦争を続けるのか・・・。歴史を研究する意義、それは歴史を学ばずに未来づくりはあり得ないから。

*****

令和6年は山形村150周年、史談会創立50周年の記念の年とのことで、講演会の主催は山形村教育委員会と山形村史談会だった。受付で配布されたのは講演で使われるパワポを出力したシートと史談会の会報(167号)だった。

史談会の会報に「村で最初の「下竹田消防組」=明治42・43年の写真=山形村消防団前身の組織に」というタイトルの記事があり、①私設下竹田消防組発会式記念 M42.4.3、②私設下竹田消防組発会式記念 M42.4.3 (上掲写真)、③公設山形村消防組発会式記念 M44.4.3 以上の3枚の写真が掲載されていた。①と③は消防団員の集合写真だが、上掲した写真②は発会式の何か催しの様子を撮影したものだろか、かなり背の高い火の見梯子が写っている! 旭日旗を目にすると私は平和な時代をイメージできない・・・。明治42年(1909年)というと日露戦争(1904~1905)の4年後だ。

講演会終了後に史談会の会長に②の写真のSNSへの転載をお願いして、了承していただいた。今までに大正時代に写された火の見櫓の写真は見たことはあったが、明治時代の写真を見るのは初めて。

火の見梯子には消防団員が10人以上も登っている。団員の身長などから推測するに梯子桟の間隔は50cm以上あるだろう。火の見梯子の高さは優に20mは越えていると推測される。

控え柱は無さそうだ。残念ながら支柱の固定方法は写真からは確認できない。梯子の中間に双盤型の半鐘を吊り下げてある。屋根付きだが、このような様子はその後も変わっていない。

キッチリ火の見梯子のてっぺんまで写っている。これは貴重な写真だ。



東筑摩郡朝日村の火の見櫓 撮影1925年(大正14年)


 


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (ひのみ)
2024-03-25 16:55:48
すごーい
貴重な写真ですね☺
写真見るだけで怖い高さですが、、
返信する
ひのみさん (U1)
2024-03-25 20:25:51
コメントありがとうございます。
この火の見梯子のてっぺんは6階建ての
ビルの屋上くらいの高さがあるでしょう。
めっちゃ怖いと思います。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。