透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

「ジヴェルニーの食卓」

2023-12-18 | A 読書日記

360
 前稿から内容的に続いている。

『ジヴェルニーの食卓』原田マハ(集英社文庫2015年6月30日第1刷、2022年11月6日第19刷)を読み始めた。**マティス、ピカソ、ドガ、セザンヌら印象派たちの、葛藤と作品への真摯な姿を描いた四つの物語**(カバー裏面の本書紹介文より)

原田マハさんのアート小説で読もうと思っているのは『ジヴェルニーの食卓』『常設展示室』と『風神雷神』、この3作品になった。今日18日、朝カフェ読書で『ジヴェルニーの食卓』(集英社文庫2015年6月30日第1刷、2022年11月6日第19刷)を読み始めた。今年はまだ2週間あるから、この作品は年内には読み終わる。だから年越し本にはならない。その後、続けて残り2作品を読むか。どっちを先に読んでも上下2巻の長編『風神雷神』が年越し本になるだろう。

それとも他の作家の小説を読むか・・・。いや新書? 決めるのはまだ先になる。


 


どうする年越し本

2023-12-18 | A 読書日記

 今日は18。今年も残すところあと2週間となった。そろそろ年末から年始にかけて読む「年越し本」を選ばなくてはいけない。文庫になっている小説にするか、新書にするか迷う。

ちなみに今までどんな本で年を越したのか、過去ログを辿ると・・・。

2022~2023『城郭考古学の冒険』千田嘉博(幻冬舎新書)
2021~2022『黄色いマンション 黒い猫』小泉今日子(新潮文庫)
2020~2021『復活の日』小松左京(ハルキ文庫)
2019~2020『「街道」で読み解く日本史の謎』安藤優一郎(PHP文庫)
2018~2019『江戸の都市力 地形と経済で読みとく』鈴木浩三(ちくま新書)
2017~2018『蒼天見ゆ』葉室 麟(角川文庫)
2016~2017『吾輩は猫である』夏目漱石(角川文庫)
2015~2016 ―(年末に読み始めて年始に読み終える年越し本は無かったようだ)
2014~2015『夜明け前』島崎藤村(新潮文庫)
2013~2014『空海の風景』司馬遼太郎(中公文庫)
・・・・・

年越し本は文庫が多い。「どうする年越し本」。


 


マンガ飯って何?(改稿)

2023-12-17 | D 新聞を読んで

 外出予定のない土曜日の午前中は塩尻のえんぱーくで新聞を読むことが多い。全国紙の書評面を読むが、読売と産経は書評が日曜日に掲載されるので、土曜日は毎日、朝日、日経、この3紙の書評面を読む。

朝日新聞の今日(16日)付 書評面で取り上げられていた本の中ではヴァンサン・ゾンカという美術評論家が著した『地衣類、ミニマルな抵抗』(宮林 寛訳 みすず書房)がおもしろそうだった。これは執筆図書を決める書評委員会で誰も手を挙げなかった本の中の一冊だという。評者の椹木野衣(さわらぎのい)さんは「地衣」が名前の「野衣」に似ているのが気になったとのこと。

地衣類の世界が極彩色で無限の広がりを持っていることに呆気に取られた、と椹木さんは書いている。椹木さんは著者と同じく美術評論家とのことだが、この本では**絵画にも多く言及している。**と文中にある。書評でこの本を読んでみたいと思った。だが4950円・・・。

さて、本題。

日本経済新聞の文化面に昨年の春(*1)に私の火の見櫓観察に関する記事が掲載されてから、この文化面を読むようになった。で、昨日(15日)付の文化面に掲載されていたのは「マンガ飯、味も見栄えも」という見出しの記事だった。

記事の女性は食卓のマンネリ化打破のためにマンガに出てくる料理、名付けて「マンガ飯」を作ろうと15年前に思い立ち、その数は既に600品にもなるとのこと。マンガならではの非現実的な描写のものも再現するというこだわり。すごい、すばらしい! マンガは読まないから分からないが、レシピまで載ることはまずないだろう。そんな時にはマンガの背景を調べることから始めるそうだ。

そうか、こんな趣味もあるのか・・・。まずこのことに驚いた。どんな趣味も入り込むと出口が見つからない世界が広がっているのだろう、きっとそうだ。


*1 2022年4月21日


 


作為

2023-12-17 | A 火の見櫓っておもしろい
 
(再)埴科郡坂城町上平にて 2015.05.20

 火の見櫓の姿かたちの印象って写真の撮り方によって変わりますね。2枚の写真を見比べてそう思いました。遠くから撮った写真の方が細身に見えます。

写真には「作為」の入り込む余地があるのでしょう。photographに写真という訳名がつけらていることに因り、誤解をしてしまうのではないかと思います。写真は真実を写すと。光画とでも直訳していたら、誤解はなかったのでは、と思います。


「フーテンのマハ」を読む

2023-12-16 | A 読書日記

320
『フーテンのマハ』原田マハ(集英社文庫2018年5月25日第1刷、2022年3月19日第9刷)

 原田マハさんの旅エッセイ『フーテンのマハ』を読んだ。マハさんの(今では原田さんと書いていたが、今回は親しみを込めてマハさんと書く)アートをテーマにした小説を何作か読んできた。この辺でちょっと中休みしようとこのエッセイ集を読んだ。

『フーテンのマハ』には旅好きなマハさんの旅にまつわるエッセイが32編収録されている。人生で失くしたら途方に暮れるものは旅、と最初のエッセイに書いている。旅が大好きなマハさんの旅エッセイを読んでいると、とても楽しい気持ちになる。

フーテンの寅さんに憧れてフーテンのハマと自称するようになったとのこと。小学二年生のとき、第一作目を父親と映画館で観て以来、寅さんに憧れているそうだ。マハさんは映画館の売店で寅さんのポスターを買ってもらったとのこと。寅さん映画が大好きで全50作(48作とするマニアも少なくない)を観た僕はこのことを知ってうれしくてマハさんに親しみも湧いた。

収録されているエッセイの多くは御八屋千鈴(おはちやちりん)さんと出かける二人旅について綴られたもの。御八屋千鈴(ニックネーム)さんはマハさんの大学時代の同窓生で、年に4,5回一緒に旅行する仲。十数年かけて、47都道府県を制覇してしまっていると、27番目の「ナポリでスパゲッティを」にある(203頁)。いいよね、こんな親しい友人がいるなんて。

**かくして持ち帰った「大統領御用達」のバゲットを食してみると・・・・・・。
んあ~~~っ! な、なんだこれは!? うンまあ~~いいッ!
と、ひとりのけぞってしまった。いや、ほんと、おおげさじゃなく**(79頁)

フランス滞在中の出来事を綴った「バゲットと米」にはこんな表現も。ここだけでなく、あちこちにでてくる。そうか、マハさんはこんな表現もするのか・・・。この本のカバーのイラストはマハさんが描いたもの。この本のあちこちにマハさんのイラストが載っているけれど、上手い。

だが、18編目の「睡蓮を独り占め」から25編目の「ゴッホのやすらぎ」までのアート小説のための取材旅行のエッセイにはこんなくだけた表現は全く使われていない。画家に対する敬意を感じる。

ここにはアート小説に取り組むマハさんの姿勢も書かれていて興味深い。例えば次の件。**「アートへの入口」となる小説を書くのであれば、責任をもってしっかりと下調べし、襟を正して書かなければ! と自分に言い聞かせている。**(「画家の原風景」174頁)

マハさんのデビュー作は『カフーを待ちわびて』というアートとは全く関係のないラブストーリーだが、このことについて次のように書いている。**しかし私は、アートからいちばん遠い内容の小説を書いて、小説家になった。なぜならば、いってみれば、アートは私にとっての最強の切り札。これをテーマにして小説を書けば、絶対に自分にしか書けない個性的なもの、おもしろい物語を書く自信があったからだ。**(「取材のための旅」161頁)マハさんの経歴を知ればこの自信に納得できる。

この本の最後に収録されている「フーテン旅よ、永遠に」にはマハさんの父親のことが綴られている。**父こそが私にフーテンの種を植えつけた張本人だったのだ。父もまた、生まれついてのフーテンだった。戦前、満州に生まれ、戦後は本のセールスマンとなって日本全国宇を旅して回った。**(236頁)

**私がアートに親しむようになったきっかけを作ってくれたのは父だった。**(237頁)ということも明かしている。ピカソが亡くなった時には、まだ寝ていたマハさんのところにきて、**「おい、起きろ」(中略)「ピカソが死んだぞ」**(238頁)と伝えたという。調べるとこの時マハさんは10歳(*1)。

この最後のエッセイには「砂の器」を観て号泣したことが書かれている。隣りの父親も男泣きしていたという。松本清張原作のこの映画を映画館で観て、ラスト近く、親子が全国を彷徨うシーンに僕も泣いたし、後年DVDで観た時も泣いた。過去ログ

「砂の器」を観て泣いたというマハさん。僕と同じだ。 本の最後でこのことを知り、ますます親しみを感じる。マハさんの読みたい小説をリストアップしていた。その中でまだ読んでいないのは『ジヴェルニーの食卓』『常設展示室』『風神雷神』の3作品だが、『フーテンのマハ』を読んで、アート小説だけでなく他の作品も読んでみたいと思うようになった。


 

*1 ピカソは1973年4月に死亡、原田マハさんか1962年7月生まれ



「北帰行」を読む

2023-12-14 | A 読書日記

■ 小説のタイトルの『明夜け前』は小説が描く時代の状況を、『雪国』は小説の舞台を、『金閣寺』は小説のモチーフをそれぞれ端的に表現している。そして『北帰行』は小説のテーマとも言える主人公の旅を表現している。

既に書いたが今月(12月)10日にえんぱーくで開催された講演会で久間十義さんは『北帰行』の著者である外岡秀俊さんを取り上げ、『北帰行』のことにも触れた。久間さんと外岡さんは1953年(昭和28年)北海道生まれ、高校の同級生。


この小説は雑誌「文藝」の1976年(昭和51年)12月号に掲載され、単行本になった。僕がこの小説を読んだのは翌1977年の1月だった。この頃読む本は大半が小説だったと思う。

講演を聴いたことを機に『北帰行』を再読した。実に46年ぶりで、内容を全く覚えておらず、初読同然だった。「漣」「纏める」「蕗の薹」・・・。講演で久間さんが話していたようにこの小説には難しい漢字がいくつも出てくる。文脈から判断して検索確認することが何回かあった。ちなみに例示した漢字は「さざなみ」「まとめる」「ふきのとう」。この小説では主人公の内面が丁寧に描かれているけれど、その表現もまた難しい。

主人公の二宮は父親が炭鉱の事故で亡くなったために、高校進学をあきらめて集団就職で北海道から上京する。鞄の中に啄木の歌集『一握の砂』を入れて。二宮は作者と同じ昭和28年生まれ。二宮がテレビ放送が開始された年の生まれであることが本文中に出ている(57頁)。東京では町工場で働き、寮で過ごす日々が続く・・・。ある日、喧嘩をして相手に怪我を負わせ、二宮も三本の指の骨が砕けるような怪我をする。職を失い、こころも傷ついた二宮は啄木の足跡を辿るように北帰行する。小説では二宮の心情が啄木の短歌や詩、日記を通して描かれる。

作者は次のように書いている。少し長くなるが引用したい。**私はいつも啄木という事件を目撃する者の興奮を覚え、と同時に、啄木像を最終的に決定するのは自分なのだという自負を責任さえも感じていたのだった。けれどもこうした思い上がりは、確かに歴史体験には必要なものだったに違いない。啄木像を彫琢することによって自分というものを彫琢しているのだという自負こそ、現在と過去を同じ重さとして捉え、その相互性において自由に行き来することを可能とさせるものなのだから。**(8,9頁)

この文章に二宮と啄木との関係やその扱い方が示されていると僕は理解する。作者は次のようにも書いている。**旅というものを考えるときに、何らかの形で啄木や父の姿を想わずにすますことができないような気がするのだった。**(113頁)

『北帰行』のテーマは何か、そこには何が描かれているのか、ひと言で述べよ。こう問われれば僕は「主人公の若者の復活、再生の旅」と答える。それから、これは僕好みの恋愛小説、とも。

この答えについては、2頁目(※手元の単行本で)に**暗闇から抜け出そうとする列車のように、私もまた暗い二十歳から抜け出そうとしている頃だった。**と出てくる。

また、恋愛小説だということについて簡単に。二宮が中学生の時、由紀という名前の少女が東京から転校してくる。二宮少年の初恋。転校生に恋するというのはよくあるパターン。15歳で上京して、5年後の北帰行。**「十一時に地下鉄の大通り駅の改札口に。来ていただけますか。」彼女はそう言った。**(197頁)変わらぬ白魚のような指にマニキュア。大人になった由紀との再会・・・。夜遅くに再会したふたり。翌朝札幌駅前のターミナルで待ち合わせ。由紀の指から指輪もマニキュアも消えていた・・・。

**「ありがとう、素敵な一日。あたし忘れなくってよ。きっといつまでも覚えているわ。なんだかあの頃のこと思い出して、ちょっとセンチになっちゃたみたい。ごめんなさいね。(後略)」**(210,211頁)**「あたし、子供ができるの。母親になるのよ。・・・・・・さようなら!」

これが恋愛小説でなくて何であろう・・・。

『北帰行』は文庫化されていて、今でも読むことができます。**文学史上に輝く青春小説の金字塔**


 


つまりこういう建築

2023-12-13 | D 新聞を読んで


 12日付 信濃毎日新聞の文化面「火曜アート 美術人をたずねて」に安曇野市在住の彫刻家、濱田卓二さんが紹介されていた。記事には長野県朝日村の朝日美術館で10月から11月下旬にかけて開催された濱田さんの個展「土たちの詩話」が取り上げられ、上掲した角柱が並び立つ陶彫の写真が掲載されていた。朝日村の土を用いた作品だ。濱田さんの作品について書かれた解説文に**抽象的ながらも有機的な造形**という件(くだり)があった。

未来の建築のアナロジーとして

ところで、拙ブログの前稿では『日本の建築』隈 研吾(岩波新書2023年)を取り上げ、次の件を引いた。**円柱形という純粋な幾何学的形態だけを組み合わせた抽象的な形はモダンであったが、欅の質感が暖かく感じられて、モダンデザイン特有の冷たさ、硬さはなかった。**(3頁)

幾何学的で抽象的な形態を鉄とガラスに代表される無機的な素材で成立させているモダニズム建築。隈さんは形態はそのままで素材を有機的な木に替えると冷たさも硬さも感じない建築が出現するということをブルーノ・タウトの木の円柱を引き合いに出して示した。タウトの小さな木の円柱を建築に見立てたのだ。

隈さんの『日本の建築』を読んでいたからだろうか、新聞に掲載されていた濱田さんの土の角柱(写真)が未来のモダニズム建築の姿に見えた。この作品を建築のアナロジーとして捉えたのだ。

モダニズム建築はその姿かたちの特徴からホワイト・キューブ(白い金属パネルとガラスの箱)と呼ばれるけれど、そう遠くない未来に隈さんが紹介したタウトの木の円柱や濱田さんの作品のような建築が出現するかもしれない。人はそれを何と呼ぶだろう・・・。

ここで誤解されないように注釈。濱田さんの作品を建築に見立てたのだが、これを高層ビルが立ち並ぶ様(さま)に見たわけではなく、ひとつの建築として見たのだ。東京ではガラスの超高層ビルが今尚建ち続けている。一体いつまで経済最優先建築の建設を続けるつもりなんだろう・・・。

この記事と関係する過去の記事はこちら


 


「日本の建築」を読む

2023-12-12 | A 読書日記

360
朝カフェ読書@スタバ 2023.12.10

 『日本の建築』隈 研吾(岩波新書2023年)読了。建築について書かれた本はできるだけ読もうと思う。新書に限定するわけではないが、建築関連の単行本は高くて・・・。

一昨日(10日)スタバで朝カフェ読書。『日本の建築』隈 研吾(岩波新書2023年)をメモをとりながら読み始めた。で、昨日(11日)は朝からずっと読み続け、夕方に読み終えた。メモは9頁にもなっていた。

先日読んだ『教養としての建築入門』坂牛 卓(中公新書2023年)について、**論理的なものの考え方から導き出された構成、そして文章。文章に冗長なところは無く、読んでいて海図なき航海を強いられていると全く感じない。目的港に最短コースで進んでいく。それ故、読んでいて物足りなさを感じないわけでもない。勝手なものだ。**とブログに書いた(過去ログ)。

『日本の建築』は明治から今日まで日本の建築が辿ってきた道程を鍵となる建築家の活動や作品を通じて論じているが、読み物としてなかなかおもしろかった。

「物語」は隈さんが父親から見せてもらった小さな木箱の話から始まる。デザインしたのはブルーノ・タウト。ヒトラー政権から危険視され、収監を恐れて日本に逃れてきたタウト。このドイツの建築家は桂離宮を絶賛し、日光東照宮を悪趣味だと批判したことで知られている。隈さんが物語に最初に登場させたのはこのブルーノ・タウトだった。

それから何人もの建築家を登場させている。伊東忠太、ライト、コルビュジエ、ミース、藤井厚二、堀口捨巳、吉田五十八、村野藤吾、レーモンド、前川国男、吉村順三、丹下健三、磯崎 新、黒川紀章・・・。

隈さんは最後に一体誰を登場させているんだろう・・・。物語の結末を早く知りたくて最終第Ⅳ章の途中からはメモを取らずに速読した。

**学生は自分のデザインをパネルを使って数分間で説明し、教授たちがそれに対して意見を述べる。**(210頁)物語の最終章で語られる隈さんが学生時代のこと。隈さんの作品に対していつも最も批判的で手厳しいコメントを浴びせかけていた二人の教授。**「君は使い手のことを考えたことがあるのか!」(中略)「これどうやって作るの?」**(211頁)隈さんが物語の最後に登場させたのは建築計画学の鈴木成文教授と建築構法学の内田祥哉教授だった。隈さんは自分の作品をいつも酷評した二人を天敵と感じていたと告白している。

だが、世の中に出て仕事を始めていくと・・・。**建築計画学と建築構法学の中にこそ、日本の建築が直面する様々な分断を解決する鍵が潜んでいるように感じ始めたのである**(211頁)と書いている。そして建築構法学についてかなり頁を割いて解説している。

物語の最後に、バブルがはじけて東京での仕事が無くなった時に高知県の梼原町(*1)に出かけた隈さんがそこで木造建築と出会い、木造建築の設計を通じて学んだというエピソードが書かれている。そのエピソードにぼくは感動した。

ぼくはこの本を読むまで隈さんが内田研のOBだということを知らなかった。隈さんが建築構法学のことを最後に取り上げて「物語」を終わらせたことがうれしかった。内田研OBの教授の研究室で建築構法学についてあれこれ考えていたという私的な事情で。

親和性

モダニズム建築は場所(具体的に挙げるなら場所が持つ自然環境、社会的環境、歴史、文化)との関係を断ち切ることで成立していた。そうでなければ世界中にモダニズム建築が出現することはあり得ない。だが、今また場所の文脈と繋がる建築が求められる時代になってきている。きのこは生育環境が整っている場所にしか生えてこないし、育たない。建築もそうあるべきではないか、と。

建築関連の新書を3冊続けて読んでこんなことを考え、場所との親和性ということばが建築のあり様を示す概念として浮かんだ。要は建築が場所と仲良く繋がっているかどうか、ということだ。下の写真の民家のように・・・。


高知県梼原町にて 1980.03  

**円柱形という純粋な幾何学的形態だけを組み合わせた抽象的な形はモダンであったが、欅の質感が暖かく感じられて、モダンデザイン特有の冷たさ、硬さはなかった。**(3頁) 隈さんが物語のはじめのエピソードで紹介したタウトがデザインしたという木箱は、モダニズム建築の今後のありようを示しているように思う。


*1 梼原町には1980年に行ったことがある。過去ログ


「北帰行」

2023-12-10 | A 読書日記
 今日(10日)の午後、塩尻のえんぱーくで久間十義さんの講演を聴いた。久間さんの講演なら聴いてみたいと、テーマの確認もしないで申し込んでいた。「新聞記者と小説家の間で」という演題で話されたのは外岡秀俊さんのことだった。リーフレットを読むとふたりは北海道出身で道内の高校の同級生。

講演に先立ち、外岡さんの小説『北帰行』を読んでいる方、と挙手を求めた久間さん。そのとき、なんとなく読んだような気がするけどな・・・、と浮かんだのは「水色」。本のカバーに水色が使われていたような気がするなあ、という朧げな画像記憶。スマホで画像検索すると、記憶とは全く違っていた。記憶違いか、じゃあ読んでいないのかもと挙手しなかった。

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講演が終わって帰宅。で、自室の書棚を探した。手前の並ぶ新書本の後ろにあった。記憶通りカバーに水色が使われていた。本に書いたメモから1977年の1月に読んだことが分かった。今から46年前だ。

後年カバーデザインが変わり、それがスマホの画面に表示されたのだろう。我が劣化脳にも朧げな画像が辛うじて残っていた。 ただし小説の内容を脳内検索しても全く何もヒットしない。


本の帯には大きく文藝賞受賞作とあり、野間宏と江藤淳の選評が載っている。このふたりの名前からも相当昔の作品だということが分かる。再読してみようかな。
 

「リボルバー」を読む

2023-12-09 | A 読書日記

320
スクロール操作を考えるとこんな写真もありかなと思う(ないか)。

 師走、12月。今週は朝カフェ読書、巣ごもり読書。で、先日丸善で買い求めた6冊の本を読み終えてしまった。

『リボルバー』原田マハ(幻冬舎文庫2023年)。この本の帯に**「ゴッホの死」。アート史上最大の謎に迫る、著者渾身の傑作ミステリ。**とある。ピストル自殺したゴッホの死に謎があるのか。知らなかった・・・。

ネットで調べて、ゴッホの死は一般には自殺とされているが、他殺説もあることを知った。原田マハさんは両説の間に上手く入りこむストーリーをつくった。

物語の主人公はパリの小規模なオークション会社で働く高遠 冴。パリ大学で美術史を研究して修士号を取得、〈ポスト印象主義における芸術的交流:ファン・ゴッホとゴーギャンを中心に〉というテーマで博士論文に挑戦するつもりの女性だと紹介されている(18頁)。

美術史を研究し、キュレーターの経験もある原田さんだからこそできる設定だろう。既に読んだアート小説にもこの小説にも原田さんの美術史に関する知識が活かされているし、また、本作でゴッホの〈ひまわり〉を15本のひまわりではなく、15人の個性的な人に見立てて、笑い、歌い、喜び、くつろぎ、・・・と評するなど絵画の鑑賞眼も発揮されている(*1)。

この小説に出てくる作品をネットで画象検索しながら読み進めた。ゴッホの〈鳥の飛ぶ麦畑〉って、こんな絵なんだ。ゴーギャンの「黄色いキリスト」ってこの絵か・・・、というように。

**「すみません。・・・・・・あの、ちょっと見ていただきたいものがあって・・・・・・」**(36頁)

冴の働くオークション会社を訪ねてきた50代と思しき女性がトートバックの中から取り出した紙袋、その中から出てきたのは錆びついた一丁のリボルバー(拳銃)だった・・・。ここからゴッホの死を巡って、虚実織り交ぜたストーリーが展開していくけれど、それが実に上手い。

**「作り話もたいがいにしてくださいよ、社長。それをやっていいのは小説家くらいですから」**(146頁)などと冴に言わせるあたり、原田さん自身が愉しんでいることが分かる。

物語のあらすじの紹介はしない。ゴッホの死の場面が終盤に出てくる。そうか、これが真相なんだ、と思わせるリアリティ。えっ! 他の作品と同様、ラストには驚かされた。


*1 『デトロイト美術館の奇跡』ではセザンヌの〈マダム・セザンヌ(画家の婦人)〉が重要な意味というか役割を持って出てくるけれど、原田さんはこの絵の鑑賞文に1頁割いている。


「源氏物語の教え」を読む

2023-12-08 | A 読書日記

 大塚ひかりさんは中学生の時から「源氏物語」に親しんでいたそうだ。「源氏物語」の個人全訳(ちくま文庫)も手掛けているし、源氏関連本も何冊か出している。先日『やばい源氏物語』(ポプラ新書2023年)を読んだばかりだが、今度は『源氏物語の教え』(ちくまプリマ―新書2018年)を読んだ。

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大塚さんの頭には「源氏物語」の見取り図がきっちり入っているに違いない。ズームイン、ズームアウト、『源氏物語の教え』は見取り図に自在にアクセスして書かれているから。

紫式部は結婚後数年でシングルマザーになってしまったが、人並み外れた学才で、漢文の素養があったために道長の娘・彰子の家庭教師に起用された。で、大塚さんはもし紫式部があなたの家庭教師だったらという設定で本書を書いている。家庭教師の紫式部は読者のあなたにどのような助言をしているか・・・。

**女子が壁にぶつかった折に生きる指針となり得ることばの数々が詰まっているという意味でも「実用的」なのだ。**(12頁)の女性ではなく女子ということばと各章の扉のセーラー服姿の女子生徒が描かれたイラストから分かるけれど、大塚さんが「源氏物語」から紫式部のメッセージを読み解き、伝える相手は女子中高生たち。だが、別におじさんが読んじゃいけないというわけではない。

1000年前も今も変わらぬ人生訓

『源氏物語』の最後、浮舟が登場する「宇治十帖」については文体がそれまでの帖とは異なる印象を受けること、和歌の数が少ないことなどから作者が違うのではないか、という見解が昔からあるそうだが(過去ログ)、紫式部がより強くメッセージを発するために今まで以上に気合を入れて書いた、という気がする。大塚さんも「宇治十帖」を取り上げた本書『源氏物語の教え』の最後に力を入れていることを読んでいてなんとなく感じた。

大塚さんは宇治川に身を投げたものの、助かってからの浮舟の生き方から次のような重要なメッセージを引き出している。それは自分を大切に、自分の人生を生きよ というメッセージ。「源氏物語」から受け取る紫式部のメッセージは人それぞれだろうが、確かにこのメッセージは1000年前も今も変わらぬ人生訓だ。


 


「人類と建築の歴史」を読む

2023-12-07 | A 読書日記

 岩波ジュニア新書とちくまプリマ―新書。どちらもおもしろい。なぜか。

難しいことを分かりやすく書くという難しいハードルを越えた本だから。難しいことが難しく書かれた一般書とは違い、どちらも中高生向けの新書だから難しいことが分かりやすく書かれている。

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『人類と建築の歴史』藤森照信(ちくまプリマ―新書 2005年初版第1刷、2021年初版第6刷)を読んだ。この本も分かりやすく、おもしろかった。藤森さんの本はどれもおもしろいけれど。

実証するのは困難、いや到底無理と思われるようなことでも藤森さんの書いた文章を読むと、なるほど、と納得してしまう。例えば本書では農業のはじまりに関する次のような件。なるほど。

**旧石器時代にスタートする地母信仰は、獲物の絵を描いたりヴィーナス像を作ったりすることで信仰を表現していたが、新石器時代に入ると、さらに加えて、生殖と生命という地母信仰の本質を野生の米や麦の〝種を播く〟という形で表現するようになったのかもしれない。地母信仰の宗教表現として、最初の農業が生み出された可能性だってある。**(28頁)

その一方で実験考古学的な手法によって得た知見によって、次のような指摘もしている。

縄文時代の竪穴住居の構造材(柱や梁)に栗材が使われていたことについて、**クリは一番腐りにくいからだろうか。**(80頁)と、一般的な見解を示して即、**ちがう。**と断じている。**理由は、樹を伐る道具の方にあった。磨製石器の石斧ではクリが一番伐りやすいのである。桧に代表される柔らかい針葉樹とクリに代表される硬い広葉樹をくらべると、柔らかい針葉樹の方が伐りやすいと頭では考えがちだが、実際に石斧を振って試してみると、針葉樹には弾力性があって、石斧の刃をはね返してしまう。(中略)石斧のそうシャープとはいえない刃先も、硬い広葉樹の肌なら伐り込むことができる。**(80頁)。 

弥生時代から古墳時代になって鉄器が出現、**薄く弾性のある鉄の刃先のおかげではじめてクリに代り桧、杉、松といった針葉樹が自由に加工できるようになった。**(103頁)

また、縄文時代の茅葺屋根について、次のように指摘している。やはり実験考古学的な手法によって得られた知見。石器では茅を刈り取ることはできないし、屋根の表面を美しん整えることも無理だと。で、草や樹皮の上に土を載せた土葺きだった、と。(過去ログ

藤森さんの超建築史概論

藤森さんはこの本で1万年にも及ぶ建物の歴史をざっくりと1ページで次のようにまとめてしまう(165頁の記述を箇条書きに改めた)。こんなこと、藤森さんをおいて他に誰ができよう。

一歩目「世界は一つ」世界のどこでも共通で、円形の家に住み、柱を立てて祈っていた。
二歩目「青銅器の時代」四大文明で世界はいくつかに分かれて、巾を持つようになる。
三歩目「四大宗教の時代」世界各地で多様な建築文化が花開いた。
四歩目「大航海時代」アフリカとアメリカの個有(記載のまま)な建築文化は亡び、世界の多様性は傾いた。
五歩目「産業革命の時代」アフリカとアメリカに続いてアジアのほとんどの国で固有性が衰退する。
六歩目「二十世紀モダニズム」ヨーロッパも固有性を喪い、世界は一つになった。

藤森さんはこの様を次のように表現している。**人類の建築の歴史は面白い姿をしていることに気づく。細長いアメ玉を紙で包んで両端をねじったような形なのである。**(165頁) すばらしい! こういう超ざっくりな捉え方、大好き。 この時、藤森さんの視点場は全体を見通すとてつもなく高いところにある。

また、上掲の引用文で分かるように、時にとんでもなく低く近いところにある。これは建築家として活動を始めたことによって得られた視点場だろう。

この本のボリュームはおよそ170頁。で、130頁を過ぎてようやく第五章の青銅器時代から産業革命まで が始まり、この章で青銅器時代から産業革命までを述べている。そして、最終第六章の二十世紀モダニズムはわずか17頁(内2頁は図版)だ。このアンバランスさに藤森さんの建築史観が反映されている(と言い切る)。

本書の最後に藤森さんは、人間が身体から離れることができないように、建築も物体性から離れることはできないとして、この先ガラスを多用してより抽象性の高い建築を極めようとするだろうが、ゼロに向かう漸近線のような状態に立ち入るだろうと書いている。

で、最後の一文。**二十一世紀の建築は、より軽くより透明を目指す一団が世界の中心にあり、その周りには物としての存在感の回復を夢想する、バラバラでクセの強い少数者が散らばって叫んでいる、そんな光景になるのかもしれない。**(168頁)

藤森さんは「もの」としての建築の実在性を求める建築家を赤派と、抽象性を求める建築家を白派、このように明快に建築家を二派に分けてみせた。上掲の文章は、白派と赤派の状況予想。

奥付によると本書の出版は2005年、この年から既に18年経っている。藤森さんのこの予想はどうだろう・・・。

建築設計界が円から楕円に変形して、物としての存在感の回復を意図した建築家たち、即ち赤派が楕円の一方の中心にあるような状況になってきたのではないか。その中の主要な人物はもちろん藤森さんだ。


 
低過庵(2017年) 竪穴式住居な茶室


空飛ぶ泥舟(2010年)これは浮かぶ竪穴式住居的茶室!? 

約一万年で建物の歴史はまた振り出しに戻ったと言う藤森さん。一見、縄文時代の竪穴式住居のような茶室を出身地の茅野市宮川につくっている。


 


「教養としての建築入門」を読む

2023-12-06 | A 読書日記

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『教養としての建築入門』坂牛 卓(中公新書2023年)を読んだ。

明快な構成 明快な文章

本書は建築を「観賞」「設計」「社会」という3つの視点から包括的に捉え、この3つの視点に対応させて、第一部が観賞論 ― 建築の見方、第二部が設計論 ― 建築の作り方、第三部が社会論 ― 建築の活かし方 と大枠を明快に設定している。そして各部の章立も明快。建築の総体、全体像を分かりやすく説くために全体構成がきっちり練られていることが分かる。そして文章も簡潔、明快だ。

多面的な建築を実に効率よく案内してもらっている気分だ。要するにこういうことなんだと、ものごとの本質を簡潔に綴るのは難しいと思うけれど、著者はそれをしている。

本書では例えば「用・強・美」のような並列的な概念や「主体性と他者性」というような対概念を示して建築を説いている。また、建築を服や料理のアナロジーとして捉えて説いてもいる。なるほどな記述。

論理的なものの考え方から導き出された構成、そして文章。文章に冗長なところは無く、読んでいて海図なき航海を強いられていると全く感じない。目的港に最短コースで進んでいく。それ故、読んでいて物足りなさを感じないわけでもない。勝手なものだ。

本書の具体的な内容については全く触れなかったが、建築の総体の概要を知るのに有用な本だと思う。

**ありがとうございます。Amazonの購入ボタンを押しました!** ラインで本書をすすめた友人からの返信。


以下、まったく余談というわけではないが、まあ余談のような内容。

第一部は機能の器、美の器、アナロジーと言う章題の3つの章で構成されているが、第2章 美の器 に次のような記述があった。**幼少の頃を思い出すと、絵を教える先生には二とおりいた。輪郭線を描く先生と描かない先生だ。(中略)この描き方の差は歴史をさかのぼると、線描を重視するフィレンツェ派と、色を重視するベネチア派の差に見いだせよう。(後略)**(40頁)この後も興味深い記述が続く。

ここを読んで、そうか、ぼくはフィレンツェ派なのか、NSさんはベネチア派なんだ、思った。というのも、10月に開催したスケッチ展に来てくれたNSさんと次のような話をしたから。

以下、10月22日の記事(過去ログ)からの引用。**色と形は描画対象のものの主要な属性、そのどちらに先に意識が向くのかは人によって違う。ぼくの描画対象は風景だが、風景を構成している要素の形にまず注目する。だからまず線描で形を捉え、その後にその形に色を付けるという手順になるのだろう。自己分析から得た答えだ。NSさんは逆ではないか。SNSに投稿されるNSさんの絵を見て、そう思っていた。描画対象の形より色にまず注目して、先に着色し、その後で補助的に線描して対象に確定的な形を与えているのではないだろうか・・・。** NSさんにこのようなことを話すと、答えはYESだった。


先日、丸善で6冊まとめ買いして、『やばい源氏物語』大塚ひかり(ポプラ新書)『バーナード・リーチ日本絵日記』(講談社学術文庫)、そしてこの『教養としての建築入門』坂牛 卓(中公新書)と続けて読んできた。残り3冊、次は『人類と建築の歴史』藤森照信(ちくまプリマ―新書)を読もう。


 


松本でリーチが描いた風景

2023-12-05 | A あれこれ

『バーナード・リーチ日本絵日記』(講談社学術文庫)にはリーチが描いた人物画や風景画が何枚も掲載されている。

第六章 山国の旅――松本 には「美しヶ原」(本書の表記)や「朝刊を読む河井寛次郎」「松本の女鳥羽川」等々の絵が掲載されている。それらの中の「松本平」は松本平が俯瞰的に描かれた絵だが、背景の山はその山容から鉢盛山だと思われる。

左から1,2,3,4と番号を付けたがリーチの絵と写真とが符合する。左端の1は烏帽岳で右端の4が鉢盛山だ。この山の優しくおおらかな姿は陶器や織物などの民藝のイメージとよく合っていると思う。北アルプスの急峻な峰々とは違うなだらかな山の連なり。リーチもこのような理由で鉢盛山を描いたのかもしれない、と想像する。

「松本平」(部分 197頁)


松本駅西口から望む鉢盛山(4)2023.12.04


 


「バーナード・リーチ日本絵日記」を読む

2023-12-04 | A 読書日記

360
『バーナード・リーチ日本絵日記』(講談社学術文庫2022年第20刷)
いつもの朝カフェで読了 2023.12.04

 『バーナード・リーチ日本絵日記』という本があることは知っていた。今まで読む機会はなかったが、原田マハさんの『リーチ先生』(集英社文庫)を読んで、この本も読んでみようと思った。幸い松本の丸善にあったので買い求めて読んだ。

リーチはたびたび来日し、というような紹介文を目にするが、具体的には何回来日したのだろう・・・。幸い、この本の巻末にリーチの詳しい年譜が掲載されている。それによると1909年(明治42年)4月、22歳の時に初来日し、1974年(昭和49年)の10月、87歳の時に11回目の来日をしている。

『バーナード・リーチ日本絵日記』は1953年(昭和28年)の2月、66歳の時に3回目の来日をして、翌1954年の11月に帰国するまでのおよそ1年10カ月の間に全国各地を巡った時の様子や芸術等に関する論評を綴った日記をベースにまとめられた本。

読み始めて次の件(くだり)を読んで驚いた。**今日はまた思いがけないことに亀ちゃん(森 亀之助)の従妹が私を訪ねてくれた。**(45頁) 『リーチ先生』に亀ちゃん(沖 亀乃介)というリーチの助手が登場するけれど、この架空の人物は実在したこの亀ちゃんに想を得たのかもしれない。

1953年の3回目の来日は2回目(1934年~1935年)から18年経過していて、リーチは日本がすっかり変わってしまっていることについて、次のように書いている。**善であり、真であり、美であった多くのものが消え失せ、いまやその反対のものが存在している。(中略)混合は大規模に行われ、変遷は非常な早さで進み、風雅なおもむきなどが珍しくなってしまった。外から見た大都市は醜く喧騒で卑俗だ。**(94頁) 2回目の来日は戦前、3回目は戦後だが、やはり戦争がこの国に大きな影響を及ぼしたのだろう。

このように嘆き、悲しむ一方、次のようにも書いている。長くなるが引用する。**田舎は都市と比較にならないほど美しい。旅で、信じられぬほど我慢強い畑地と農夫たち、ひたむきな愛情と労苦に色どられた激しい手仕事に出会い、私は驚嘆する。
日本は真の藝術の国だ。(中略)この感受性、魂を養う五官を通じての感得、味わい、色彩、秘められた魅力。それは長い洗練の歴史を通じて生み出されたものであり、ここでは藝術が、外国の藝術すらもが、生活の一部として適切な位置に存在している。**(94頁) 

ここでは藝術が云々という最後の件はリーチが捉え得た限られた範囲での日本の姿と解しておきたい。

**時間の余裕がなかったため、多くの事柄を省略したし、またそれ以上に書こうとしなかったこともたくさんある。**(308頁)と断りの文章も書いているが、リーチが、東北、北陸、中部、山陽、山陰、四国、九州と全国各地を巡り、綴った日記を読み、リーチが描いた素描を観た。どちらも興味深かった。リーチが松本で描いた素描については稿を改めて書きたい。

まず驚くのは66、7歳という高齢(*1)のリーチが全国をかなりハードなスケジュールで巡り、講演をし、制作をし、展覧会を開催し、書物の執筆もしていること。そして日記も書いている。また、各地での歓待もすごい。陶芸家としてリーチの知名度は高かった、ということが分かる。

10の章から成る本章の第十章 むすびそしてお別れ でリーチは次のように鋭く洞察する。**日本人は、しばしば東と西、内と外、旧と新の間で混乱させられたように私には思われる。**続けて、**日本人は、深く、無意識的に、長らく禁じられていた、非常に新しく力のある西洋世界への参入を望み、自分たちのためになると考える故に彼らの文化遺産を捨ててしまうことを望んだ。**(313頁)

これに続く文章でリーチは濱田庄司と濱田の作品を激賞するが、ここでは省略する。

リーチが日本に滞在していた時、なにかと世話をしていた柳 宗悦はリーチについて**その日々は実に勤勉で、ほとんど無駄に時間を過ごしているのを見たことがない。**(18頁)と書いている。

年譜を見ても分かるし、『リーチ先生』を読んだ時も思ったけれど、バーナード・リーチの人生は実に充実していたが、陶芸家としてのリーチの人生を決したのはリーチが20歳のときロンドンの美術学校で高村光太郎と出会ったことだった。

やはり人生を決するのは人との出会いか・・・。


*1 ネットで調べて、1950~55年のイギリス人の平均寿命は男が66.7歳ということが分かった。