史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

鵡川

2015年11月28日 | 北海道
(鵡川大漁地蔵尊)
 今回も八王子千人同心関連史跡を訪ねることにした。その一つが鵡川の大漁地蔵尊にある、八王子千人同志追悼碑である。
 鵡川といえば、シシャモくらいしか思い浮かばないが、二百年ほど前、幕府の命を受けた八王子千人同心原新介ほか四十九人は、鵡川の警備と農漁業の開拓のため、寛政十二年(1800)に入地した。これが鵡川開拓の先駆である。享和二年(1802)に市川彦大夫と交代した。厳しい自然環境と食糧の欠乏により、病人死人が続出し、帰郷する者もあとを絶たなかった。入地以来、八年が経過した文化五年(1808)、鵡川を放棄するに至った。この八年の間に当地で命を落とした市川彦大夫ら七名の同心の名前を刻み、昭和六十年(1985)、追悼の碑が鵡川大漁地蔵尊境内に建てられた。これも北海道の凄まじい歴史を語る史跡というべきである。


鵡川大漁地蔵尊

 市川彦大夫以外の六名については、苗字の無い名前だけが刻まれている。


八王子千人同心追悼之碑

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白老 Ⅱ

2015年11月28日 | 北海道
(白老元陣屋資料館)


仙台藩白老元陣屋資料館

 一年半前の来訪時には、閉館のため見学できなかった白老の仙台藩元陣屋資料館を再訪した。
 幕末、蝦夷地の警備を命じられたのは、仙台藩のほか、弘前藩、庄内藩、秋田藩、盛岡藩、会津藩の東北六藩であった。中でも仙台藩は白老から道東の広尾、厚岸、根室、さらに千島列島に至る広大な範囲を任じられることになった。当初、幕府からは勇払(現・苫小牧市)に元陣屋を置くように命じられたが、仙台藩の重役三好監物は現地を調査した結果、「勇払は湿地帯であり陣屋を建てにくい上に波が荒く船の出入に適していない。それより自然の地形をそのまま利用できる白老に置いた方がよい」と判断し、ここに元陣屋を置くことになった。


白老の地を視察する三好監物(右)ら

 元陣屋には、概ね百二十人の藩士が交替で詰めた。日常的には、弓や剣術の稽古のほか、火縄銃や大砲の訓練に励んだといわれる。


仙台藩白老元陣屋資料館の展示

(仙台藩士の墓)
 仙台藩士の墓を含め、陣屋跡は維新後しばらく住民の記憶から消えていたが、明治三十九年(1906)、雑草の中に倒れていた藩士の墓石が発見されたことから、地元住民が中心となり、塩釜神社の建て直しや藩士の供養に力を注いだ。




仙台藩士之墓

 仙台藩が白老を拠点として蝦夷地を警衛していた安政三年(1856)から慶應四年(1868)までの十二年間における地没者は、判明しているだけでも二十三名に達している。内訳としては男十九、女四となっている。その中には代官草刈運太郎の名も見える。

(社台小学校)


社台小学校

 社台小学校の正門を入って右側に草刈運太郎の墓がある。




草刈運太郎墓

 仙台藩が白老に元陣屋を築いたのは安政三年(1856)のことで、その三年後の安政六年(1859)には代官が置かれることになり、その三代目代官として草刈運太郎が着任した。慶応四年(1868)一月、戊辰戦争が起こり、東北諸藩と同盟を結んだ仙台藩は敗れ、白老の陣屋にも政府軍が迫った。元陣屋の藩士は全員白老を撤退したが、運太郎は藩の民政責任者として当地に残った。その時、進軍してきた政府軍が狼藉を働いたため、これに抗議して争いとなり、深手を負って社台の漁家相木林蔵の番屋に逃れた。しかし、傷は癒えず、同年八月二十五日、前浜で自害して四十九歳の生涯を閉じた。この墓碑は明治十六年(1883)、旧仙台藩士で画家の茂庭竹泉が同地を訪れた際、その死を悼んで建立したものである。今も供養のため地域住民の手により墓前祭が行われているという。

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室蘭

2015年11月28日 | 北海道
 壮瞥町の北の湖記念館のあとは、室蘭市石川町を訪ねる。伊達市から市境を越えれば、そこが石川町である。ここは北の湖の弟弟子で、大関となった北天佑の出身地である。北天佑も若くして大関に昇進し、いずれ横綱と期待されたが、結局上位には強いが、下位にもろい、ムラッ気が最後まで改善されず、横綱にはなれなかった。故に「未完の大器」といわれた。引退後は二十山親方として後進の指導にあたったが、平成十七年(2006)、肝臓癌により逝去。四十五歳という若さであった。北天佑と同じ年である私にとって、彼の死は衝撃的であった。

(仙海寺)


仙海寺

 仙海寺の前の急な坂は、室蘭の語源となったモルエランの坂という。その途中に、崖にへばりつくようにして仙海寺がたたずんでいる。仙海寺の墓地は、そこからさらに数分坂を上らなくてはならない。


石川光親之墓

 石川光親は、仙台角田藩主石川家三十七代石川義光の子で、最期の領主邦光の弟。明治六年(1873)十三歳のとき、室蘭に移住した。その後、慶應義塾に学ぶため一時室蘭を離れたが、旧家臣からの懇請もあり、明治十四年(1881)再び室蘭に移住した。室蘭開拓に大きく貢献し、のちに藍綬褒章を受勲した。


救療院偏譽周甫居士(野村周甫墓)

 野村周甫の墓は、半ば草木に埋もれるように、目立たぬ場所に置かれている。
 野村周甫は、南部藩の医師であったが、奉行の命令を受けて、安政三年(1856)室蘭に赴任した。医療院を開き、和人、アイヌの別なく治療をした。貧しいアイヌ人からは治療費を受け取らなかったといわれる。文久三年(1863)五月、八十三歳で死去。人々はその死を悼み嘆いた。墓の台座には、室蘭市衛生会による遺徳を偲ぶ文章が刻まれている。

(東蝦夷地南部藩ムロラン陣屋跡)


史跡 東蝦夷地南部藩陣屋跡
モロラン陣屋跡


陣屋跡の配置 鉄砲武者など

 幕末、南部藩は箱館から幌別にかけての東蝦夷地警備を幕府に命じられ、湾内を望むベケレオタ(白い砂浜の意)の地に、方形で二重の土塁と濠からなる出張陣屋を築き、防衛に当たった。この陣屋には、安政三年(1856)に築かれ、慶応四年(1868)に廃棄されるまでの十三年間、南部藩士が常駐した。内陣には、藩士の詰所や長屋などの建物があった。発掘調査では、建物の礎石や石畳の通路が発見されている。内陣の後背には火薬庫が設けられ、今も残る杉林も、藩士の手により当時植えられたものである。

(満冏寺)
 満冏寺の本堂前に、箱館戦争における会津藩士の戦死者を弔うために明治十四年(1881)に建てられた碑がある。この碑の側面には、戦死者の名前がぎっしりと刻まれている。ただ、ここに刻まれた名前の中で「幕末維新全殉難者名鑑」と合致したものを見出せない。


満冏寺


吊魂碑

(室蘭文化センター)


本多新翁碑

 室蘭文化センターの一角に本多新の顕彰碑が建てられている。
 本多新は、出羽(現・山形県)十日町の出身で、農家の長男に生まれた。本多新は家業を弟に譲り、妊娠中の妻と三歳になる息子を捨てて、江戸に出て安井息軒に入門した。ここで新は自由民権への目を開かれた。明治五年(1872)、札幌本道開削工事の測量担当として函館を経て、室蘭に入った。政府に対して「国会開設建白書」など数々の建言書を提出している。明治十四年(1881)の自由党結成大会には、北海道からただ一人参加。また北海道民に選挙権がないことを怒り、明治二十二年(1889)には「本道より国会議員選出するの義建言」を黒田清隆総理に送った。晩年はリウマチ、心臓病に悩んだ。大正三年(1914)、七十二歳にて死去。

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伊達

2015年11月28日 | 北海道
(伊達開拓記念館)
伊達市は、その名のとおり明治三年(1870)、仙台藩の亘理領主伊達邦成とその家臣団が集団移住して、開拓したという歴史を持つ。
街の中心部に開拓記念館があり、開祖伊達邦成ゆかりの史料や書画、美術工芸品などが展示されている。
私が訪れた日、「だて食のフェスティバル」と呼ばれるイベントが開かれており、たくさんの家族連れが集まっていたが、幸いにして開拓記念館の方はさほど人気はなく、落ち着いて見学することができた。
伊達保子ら歴代の姫様が持参した雛人形四十五体など、展示品の数々に目を奪われた。


伊達開拓記念館


瓶子

 梨地蒔絵瓶子は、江戸初期の作品である。


雛人形

 迎賓館は、仙台の伊達邸を建てた大工田中長吉を棟梁とし、明治二十五年(1892)に開拓者の総力を集めて建てられたもので、洋風(公の場)と和風(私の場)を配した数寄屋風の書院造りとなっている。当時、開拓状況を視察した政府高官や開拓使などの接待のために利用され、昭和十年(1935)から昭和三十年(1950)までは伊達家の居所として利用された。その後、敷地とともに伊達市に寄付された。


迎賓館


開拓記功碑

 迎賓館の近くには、伊達邦成像や田村顕允像、開拓記功碑、伊達町百年記念碑などが建てられている。


伊達邦成公像

伊達邦成(くにしげ)は、第十四代亘理領主。岩出山伊達氏の出で、亘理伊達氏に婿養子に入った。当別の開拓に当たった伊達邦直は実兄である。戊辰戦争における仙台藩の降伏後、石高を二万三千石からわずか五十八石に減らされたため、家老田村顕允の進言を容れ、明治三年(1870)、北海道への移住を決意。明治二十五年(1892)、開拓の功により勲四等瑞宝章を受勲、男爵に叙せられた。


田村顕允翁像

(伊達市霊園)
伊達市営墓地は、道央自動車道伊達ICの直ぐ近く、日当たりの良い斜面に設けられている。墓地の一番下の一番奥に伊達家の墓域があり、そこに伊達邦成夫妻、そしてそれを見守るかのように伊達保子(貞操院)の墓がある。そこから少し離れたところに、家老田村顕允の墓もある。


後大雄寺殿天山慈照大居士(伊達邦成墓)


伊達邦成肖像(伊達開拓記念館蔵)


貞操院殿眞顔淳榮大姉(伊達保子墓)


伊達保子肖像(伊達開拓記念館蔵)

伊達保子(やすこ)は、第十一代仙台藩主伊達斉義の娘に生れた。藩主伊達慶邦の妹である。天保十五年(1844)、亘理領主伊達邦実に嫁いだ。安政六年(1858)夫と死別し、邦成を養子に迎える。維新後、邦成の北海道移住計画に協力して、明治四年(1871)自らも北海道に移住した。移住には動揺する家臣も多かったが、保子の存在は家臣団の精神的支柱となったという。現地では自ら養蚕に着手するなど、伊達市における養蚕の基礎を築いたといわれる。明治三十七年(1904)、七十三歳にて死去。


正六位勲六等田村顕允之墓

田村顕允(あきまさ)は、旧名を常盤新九郎といった。邦成に対し北海道有珠郡への移住を進言し、自ら牧畜を進め、農社の結成などを図り、今日の伊達市の基礎を築いた。大正二年(1913)、八十二歳にて死去。

(有珠善光寺)


有珠善光寺


河西祐助・うめの墓

有珠善光寺は、十代将軍家斉によって蝦夷三官寺の一つに指定され、住職が鎌倉五山から送られたという由緒正しい寺院である。
八王子千人同心河西祐助・うめ夫婦の墓を参るため有珠善光寺を訪ねた。境内を2周したが、それらしい墓が見つけられない。そこで本堂に入ってそこにいた女性に尋ねたところ、彼女は副住職を呼んでくれた。副住職も女性の方であったが、分かり易くその場所を教えてくださった。
河西祐助夫妻の墓は、阿弥陀堂裏の道をひたすら真っ直ぐ行けばよい。左に曲がれば展望台、右に折れれば石割桜という辻があるが、そこを直新すると、墓地がある。墓地入口付近に古い墓石が並べられているが、その中央辺りにある「男 河西稿太郎建之」と書かれた墓石がそれである。


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壮瞥

2015年11月20日 | 北海道
(北の湖記念館)
 共和町での野球大会を終えて、岩内のホテルに宿泊した。翌朝、伊達、室蘭、白老方面の史跡を訪ねるにあたって、どうしても立ち寄りたかったのが、壮瞥町の北の湖記念館であった。岩内から真っ直ぐ壮瞥町を目指す。途中、洞爺湖や昭和新山を見ながら、約一時間四十分のドライブで北の湖記念館に到着する。
北の湖と幕末の関係は皆無である。強いて共通点を挙げれば、両方とも私のお気に入りだというだけである。
 第五十五代横綱北の湖は、最年少十両昇進を皮切りに、最年少での幕内昇進、最年少三役、最年少横綱昇進などの記録を次々と塗り替え、「怪童」と称された。その後、この記録はのちにほとんど貴乃花(二代目)に破られたが、当時は圧倒的な強さを誇った。北の湖を形容するときよく「憎らしいほどの強さ」といわれたが、当時、輪島、貴ノ花(初代)や若乃花(二代目)らの人気力士に対する敵役(ヒール)としての側面もあったかもしれない。肩をゆすって歩く姿が「偉そうだ」と批判されたこともある。土俵下に落ちた力士に手を貸さないことで、傲慢との謗りを受けたこともあった。しかし、北の湖はいかなる批判にも一切言い訳をせず、最後まで大衆やマスコミに媚びる姿勢を見せなかった。そこに私は北の湖の美学を見た。
 北の湖が活躍した当時、私は中学生から大学生という年頃であったが、以来、私にとってこの横綱を越える力士は現れていない。


北の湖敏満像


横綱北の湖記念館

 北の湖記念館に入ると、いきなり土俵入りをする北の湖の人形が出迎えてくれる。展示室には、ずらりと優勝額が並ぶが、ここに一枚として笑顔の北の湖の肖像はない。いかにも北の湖らしい。
 平成二十七年(2015)十一月二十日、六十二歳の若さで北の湖理事長は逝った。私としては、司馬遼太郎先生が急逝して以来のショックである。
かつて高見盛の土俵上のパフォーマンスに苦言を呈し、つい先日は白鵬の猫だましに嫌悪感を露わにした。いずれも北の湖の美学には合わないものだったのは間違いない。
 理事長としてまだやり残したことも多かったであろう。私も残念でならない。ただただご冥福を祈りたい。合掌。


雲竜型北の湖土俵入り


北の湖記念館の展示
優勝額など



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岩内

2015年11月20日 | 北海道
(岩内場所運上屋本陣跡)


岩内場所運上屋本陣跡

 運上屋とは、蝦夷地の統治を命じられた松前藩の家臣が、割り当てられた土地の知行主として管理を現地に常駐する商人に委託し、その利益の一部を運上金として徴収した。この商人のことを場所請負人と呼び、場所請負人が経営の拠点としたのが運上屋である。運上屋は、取引の拠点、役人の宿泊、公文書の管理など幅広く使われた。今も北海道の各地に運上屋跡地を示す石碑が残されている。
 岩内の運上屋跡もその一つで、維新後は駅逓として引き継がれた。

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仁木

2015年11月20日 | 北海道
(稲穂峠)


島義勇詩碑

 余市から共和町に入る手前にある峠を稲穂峠という。現在、峠には一キロメートルを超える長いトンネルが穿たれているが、その手前に二つの石碑が置かれている。
 その一つが島義勇の詩碑である。明治二年(1869)十月八日、開拓使判官島義勇は、部下四十余名を引き連れて石狩本府建設のため札幌に向かう途中、稲穂峠にさしかかり、その剣路と風雪に大いに難渋した。夜に入り、困り果てていた矢先、樺皮を携え、迎えに来た里人の炬火に大いに元気づけられた。詩は、この時の喜びと里人への感謝を現したものである。

行盡一山還一山
風寒日暮尚躋攀
隔渓忽聞豹狼吠
峰上?然月一彎
渓雲蔵月暗前程
脚下亦聽怒水聲
忽喜人携樺皮到
炬光千点照我行


松浦武四郎歌碑

 松浦武四郎が、稲穂峠を越えたのは、安政四年(1857)五月十四日のことで、岩内領から山の上の新道稲穂峠の出来栄えを感じて、和歌一首を残した。

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余市

2015年11月20日 | 北海道
(ニッカウヰスキー余市工場)


開村記念碑

 JR余市駅の西側にニッカウヰスキー余市工場が広がる。近頃、朝ドラの放送で俄かにニッカウヰスキーの人気が高まり注目を集めることになった。噂によれば、現在ニッカウヰスキーは品薄で入手が困難になっているという。
 明治四年(1871)、余市の街に上陸したのは会津藩士約二百五十であった。彼らの入植五十年を記念して、大正九年(1920)この碑が建てられた。当時この辺りには、教学所や藩士幹部の住居などがあった。


顕彰碑

 会津藩士萱野権兵衛の顕彰碑である。ちょうど開村記念碑の道を挟んで向かい側にある。昭和十二年(1937)の建立。撰文は陸軍大将柴五郎。

(美園霊園)


会津藩士之墓

 美園霊園の一番高い場所近くに会津藩士之墓がある。この墓碑は、明治二十一年(1889)にこの地に入植した旧会津藩士鈴木兼友の発案で建立されたものである。

(旧下ヨイチ運上家)


旧下ヨイチ運上家

 旧下ヨイチ運上家は、嘉永六年(1853)に建てられたものを復元したものである。幕末、西蝦夷に四十三、東蝦夷に四十五の運上所が設けられた。余市には、上ヨイチと下ヨイチの二か所にあった。下ヨイチ運上所は、場所請負人林長左衛門が建てたもので、林家文書には安政元年(1854)に目付堀利煕と吟味役村垣範正が北蝦夷地に向かう途中、二百五十人の兵とともにここに宿泊したことが記録されている。入場料三百円を払えば中の見学も可能であるが、私がここを訪れたのは、開館時間をとっくに過ぎていた。

(よいち水産博物館)


よいち水産博物館

 よいち水産博物館では、余市を開拓した会津藩士の資料などを展示している。本当は見ていきたかったが、やはり訪問時間が遅すぎた。

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札幌 西区 Ⅱ

2015年11月20日 | 北海道
(手稲霊園)


故陸軍屯田兵大尉正六位勲七等三澤毅之墓

三澤毅は、弘化元年(1844)、会津若松城下に生れる。戊辰戦争では進撃隊の甲長として奮戦した。戦後、斗南に移住したが、明治八年(1875)、屯田兵として琴似に入植し、明治十年(1877)の西南戦争には屯田兵を率いて戦功を上げた。明治二十年(1888)には新琴似屯田兵の初代中隊長に任じられた。旧会津藩出身では異例の出世を遂げ、大尉まで昇進した。明治二十四年(1891)死去。四十七歳。
手稲霊園もとてつもなく広いが、三澤の墓のような自然石の墓石は多くない。目を皿のようにして探せば見つけられるだろう。

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札幌 北区 Ⅱ

2015年11月20日 | 北海道
(龍雲寺)
 北区篠路の龍雲寺に荒井金助と早山清太郎という、札幌の開拓に身を捧げた二人の墓が並んで建てられている。


龍雲寺

 幕臣荒井金助は、安政四年(1857)、箱館奉行支配並に任じられ、箱館に着任した。継いで石狩役所調役を命じられ、現地に赴任した。石狩は交通の要衝であり、鮭が豊富な石狩川を擁し、背後に石狩平野を持つ有望な土地であった。金助は周辺を巡視して、開墾地を調査し、産油地や石炭山を探索した。金助が開墾した村は、篠路(現・札幌市北区)と望来(現・石狩市厚田区)の二村であった。この頃、琴似に入植していた早山清太郎は、篠路に移って金助の片腕となって働いた。慶応二年(1866)、金助は箱館奉行に転勤となる。その頃から体調を崩し、同年十一月、病床を抜け出し行方が分からなくなった。捜査の結果、五稜郭の堀で遺体が発見された。


荒井金助直盈之墓


故早山清太郎墓

(篠路)


シノロ開村発祥地

 篠路に最初に定着した和人は、荒井金助と早山清太郎であった。安政二年(1855)、ロシアの南下政策に対抗するために、それまで西蝦夷地を管理していた松前藩にその能力がないことが明らかになり、幕府が直接管理することになった。そこで派遣されたのが、箱館奉行配下石狩調役荒井金助であった。金助は早山清太郎に入植適地を探索させ、その結果、シノロ・プト界隈が選ばれた。平成二十六年(2014)、開拓功労者の偉功を偲ぶためこの場所(篠路8‐7の交差点の西側)に記念碑が建てられた。

(篠路神社)
 篠路神社は、安政四年(1857)、荒井金助が篠路の氏神として造営したものである。


篠路神社

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