札幌村郷土記念館
大友亀太郎役宅跡に、札幌村郷土記念館が開設されている。ここでは大友亀太郎関係資料の展示のほか、玉ねぎの農耕具などが展示されている(入館無料)。
大友亀太郎役宅跡
大友亀太郎像
(里塚霊園)
今年の全社野球大会は、史上初めて北海道で開かれることになった。会場は岩内郡共和町といって、小樽から自動車で一時間、ニセコの近くであった。そのため前日有給休暇を取得して、小樽に前泊する必要があった。私は、朝一番のフライトで移動して、その日、札幌、小樽、余市の史跡を回ることにした。昨年の旅行で行けなかったリベンジというわけである。
午前七時前に羽田空港を発つ飛行機に乗ろうとしたら、高尾駅始発に乗らなくては間に合わない。滅多なことで始発電車を体験できないが、朝からお酒をラッパ飲みしながら、大声で携帯電話をかけている傍若無人な人間がいることも、始発電車ならではの光景かもしれない。
八王子からはこれ以上早く着けないという時間に羽田空港に着いたが、それでも航空会社のグランドスタッフのお姉さんは、「今頃何をやってんだ」といわんばかりであった。急かされるようにチェックインして、ほとんど待ち時間ゼロで機内に案内された。
今朝は午前三時四十五分に起きたので、さすがに飛行機に乗っている間、熟睡することができた。
空港でレンタカーを借りて、最初の目的地が里塚霊園である。札幌の霊園はどこも広大であるが、里塚霊園もとてつもなく広い。ここに新選組永倉新八や前野五郎の墓がある。
永倉新八の墓である。表には単に「杉村家」とあるが、墓石の裏を見ると、「釋義潤 大正四年一月五日 (永倉新八改め)杉村義衛七十七歳」と記されているのを見い出すことができる。【1期3号762番】
杉村家(永倉新八の墓)
故前野五郎大人之墓
前野五郎は弘化二年(1845)阿波徳島の生まれ。慶応二年(1866)新選組に入隊し、慶応三年(1867)十二月の天満屋事件では斎藤一とともに紀州藩の三浦休太郎の警護に当たったと伝わる。鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に帰還。三月の甲州勝沼での戦いに敗れたのち、靖共隊に参加し、北関東から会津まで転戦した末、降伏した。維新後、開拓判官岡本監輔に従い樺太に渡るが、病を得て帰国し、その後、札幌に移り住んだ。やがて薄野で貸座敷業(実態としては売春宿か)を営んで財を築いた。明治二十四年(1891)、岡本監輔と再会。岡本の千島開拓計画に共鳴し、自らも「千島共済組合」を設立した。明治二十五年(1892)、択捉島を探検中に誤って橋から転落し、その際所持していた猟銃が暴発して事故死した。【5期3号30番】
丸山抱石之墓
丸山抱石(まるやまほうこく)は、会津藩士。藩校日新館に学び、書画および詩を好み、武芸にも長じた。家禄五百石を継ぎ、学校奉行を務めた。藩主が京都守護職在任中は、京都常詰番頭を勤めた。戊辰戦争後は、大湊に移住し、さらに北海道に渡って、室蘭から札幌に移った。生涯、画技を愛した。明治三十年(1898)没。
陸軍中将従二位勲一等男爵永山武四郎之墓
最終日、飛行機の出発時間まで少し時間があったので、北広島インターで降りて再度里塚霊園を訪ねた。初日に行き当たらなかった永山武四郎の墓に会うためである。管理事務所で尋ねると、親切にも地図をコピーしてくれて、丁寧に道順まで教えていただけた。この広大な霊園で直感だけを頼りに永山武四郎の墓を探し当てるのは所詮無理な話であった。今度は迷うことなく行き着くことができた。【5期1号522番】
今回の北海道史跡旅行では、走行距離千八百キロメートル、撮影枚数は四百枚を越えた。走行距離の割に撮影枚数は少な目となったが、野球をしていた一日を除き、ずっとハンドルを握っていた気がする。それでも今回、予定していた史跡の九割は回ることができた。ついでにいうと、肝心の野球大会の方は、二試合を戦って、いずれも二桁失点の惨敗であった。個人的にはファーボール一つで今年もノーヒットであった。ほとんど活躍する場面もなく終わったため、おかげで筋肉痛や疲労を感じることもなかった。