史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

札幌 東区 Ⅱ

2015年11月20日 | 北海道
(札幌村郷土記念館)


札幌村郷土記念館

 大友亀太郎役宅跡に、札幌村郷土記念館が開設されている。ここでは大友亀太郎関係資料の展示のほか、玉ねぎの農耕具などが展示されている(入館無料)。


大友亀太郎役宅跡


大友亀太郎像

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札幌 中央区 Ⅱ

2015年11月20日 | 北海道
(創成川)


創成川


北海道里程元標

 北海道里程元標は、明治六年(1873)の太政官布告により、北海道の道路の起点であることを示すために、創成橋の東のたもとに置かれたものである。当時の標柱はヒノキまたはトドマツ製で、高さが一丈二尺(約三百六十三センチメートル)もあり、高層建物のなかった当時、遠方からでもその存在が確認できたという。


大友亀太郎像

 北海道里程元標の近くに大友亀太郎像がある。
 大友亀太郎は、天保五年(1834)、現在の神奈川県小田原市に生まれた。二宮尊徳の門で学び、安政五年(1858)に蝦夷に渡った。慶応二年(1866)、箱館奉行に蝦夷地開拓の計画書を提出するとともに、石狩地方開拓の命を受けた。札幌市東区(旧・元村)に土地を選んで開墾した。これが札幌の街づくりの発端となった。明治二年(1869)、これを開拓使に引き継ぎ、翌年、札幌を去った。札幌の中心部を流れる創成川は、亀太郎が掘った「大友堀」がその基となっている。

(資生館小学校)


資生館小学校

 資生館小学校に名前を留める資生館とは、札幌最古の教育機関である。資生館は、明治四年(1871)、開拓使によって創設された学校である。

(北海道知事公館)


村橋久成胸像「残響」

 前回(昨年の三月)に知事公館を訪ねたときは、正門が閉じられており近づくことができなかったが、今回は晴れて村橋久成の胸像の前に立つことができた。

(円山墓地)
 白野夏雲は、甲斐の都留郡白野村の今泉家の長男に生まれた。幼名は今泉耕作といった。二十三歳のとき、甲府徽典館の学頭、岩瀬忠震に教えを受け、学頭退任と同時に岩瀬に伴い江戸に出た。その頃、白野姓を名乗った。戊辰戦争が起こると、御伝番格御勘定所付御抱組取締から浅草御蔵警備に就くが、上野戦争が終結すると降伏、謹慎。戦後、徳川家に従って静岡に移住し、静岡勤番組頭支配となり、支配地となった北海道に渡った。ここで探索した状況を「十勝州略志説」にまとめ開拓使に提出した。判官岩村通俊は、その業績を認めて、明治五年(1872)夏雲を開拓使に採用した。夏雲は、札幌郡地図取調や石狩国以北物産取調などを担当した。さらに内務省に移って、全国を回り、鹿児島県に出向した後、農商務省を経て、明治十九年(1886)再び北海道庁に移った。明治二十三年(1890)には札幌神社(現・北海道神宮)の宮司に任じられた。明治三十二年(1899)、七十三歳にて死去。


故官幣大社札幌神社宮司従六位白野夏雲墓


阪本直寛之墓

 坂本龍馬自身は、北海道に一度も渡ったことはないが、函館には坂本龍馬記念館が開かれ、道内にはゆかりの史跡が点在している。龍馬が北方開拓と移住の計画をもっていたというのがその背景にあるが、現に龍馬の縁者が維新後北海道に移住している。
 坂本直寛は、高松順蔵の次男に生まれた。母は、龍馬の長姉千鶴であり、すなわち龍馬の甥に当たる。明治二年(1869)、坂本家の権平(龍馬の兄)の養子となって、坂本家を継いだ。ちなみに高松家の長男、太郎(直)は龍馬家を継いでいる。
 直寛は、明治九年(1876)、立志社に入り、自由民権運動に関わった。明治二十九年(1896)、北光社を設立して社長に就任し、移民を連れて浦臼に入植した。その後、聖園農場に移り、亡き兄、直の妻子を呼び寄せた。さらに伝道師から牧師になった。明治四十四年(1911)、五十九歳にて死去。

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札幌 豊平区 Ⅱ

2015年11月20日 | 北海道
(豊平橋)


豊平川

 札幌の黎明は、安政四年(1857)幕府役人の松浦武四郎が石狩を訪れ、石狩湾から札幌の西側を通って千歳に至るルートが日本海沿岸から太平洋側を結ぶ重要な路線になると報告した。これを受けて石狩役所調役の荒井金助が小樽、石狩、勇払の各場所請負人に開削工事を分担させ突貫工事で札幌越新道を完成させた。この開通により、漁民が西から内陸を通って東に移ることになった。以来、札幌を貫く豊平川の渡しが重要な仕事になったという。荒井金助は、志村鉄一を豊平川の渡し守、通行屋守に任命した。志村鉄一は、信州出身の剣客といわれるが、詳細は不明。維新後、島義勇が開拓使判官として赴任すると、率先して道案内し、札幌建設の陰の力となった。しかし、島が更迭されると、失意の中、酒浸りの日々を送ることになった。明治十二年(1879)、没。七十五歳。


豊平橋小史

 明治四年(1871)、豊平川に最初の木製の橋が架けられた。


札幌開祖志村鉄一碑


札幌開祖 志村鉄一翁居住之地跡

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札幌 南区

2015年11月20日 | 北海道
(みゆき公園)


明治大帝御巡幸之跡

明治十四年(1881)、明治天皇が真駒内牧牛場行幸の帰途、植山鼻渡船場に架設された仮橋を経て、西10丁目を通り、札幌へ向かった。昭和十一年(1936)、これを記念して藻岩村が建立した石碑である。その後、移設を繰り返し、現在のみゆき公園(西10南35条)に移されたものである。

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札幌 白石区 Ⅱ

2015年11月20日 | 北海道
(白石小学校)
 白石小学校の正門左手に佐藤孝郷の顕彰碑が置かれている。佐藤孝郷は、仙台藩白石の片倉家の家老の家に生まれた。戊辰戦争後、授産のために白石の士族を引き連れて、咸臨丸で北海道へ渡航し、最月寒(現・札幌市白石区)に入植した。このとき咸臨丸は木古内町更木岬沖で破船沈没した。最月寒における開拓は困難を極めたが、佐藤孝郷は一団をまとめて士気を鼓舞し続け、今日の札幌市白石区の礎を築いた。


佐藤孝郷顕彰碑

 白石村を開いた佐藤孝郷は、二十四歳の若さで第一副区長(当時、区長は不在で実質的に区長であった)に任じられ、開拓使の命を受けて、開拓長官黒田清隆の西南戦争出征や樺太視察に随行した。また、善俗堂学問所という学問所を建てた。現在の白石小学校である。
 その後、旧藩主が来住して区長に就くと、「心苦しい」として辞任し、札幌郵便取扱人となった。さらに明治十七年(1884)、東京に出て大蔵省に出仕。白石村との縁は切れた。

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札幌 清田区

2015年11月20日 | 北海道

(里塚霊園)
 今年の全社野球大会は、史上初めて北海道で開かれることになった。会場は岩内郡共和町といって、小樽から自動車で一時間、ニセコの近くであった。そのため前日有給休暇を取得して、小樽に前泊する必要があった。私は、朝一番のフライトで移動して、その日、札幌、小樽、余市の史跡を回ることにした。昨年の旅行で行けなかったリベンジというわけである。
 午前七時前に羽田空港を発つ飛行機に乗ろうとしたら、高尾駅始発に乗らなくては間に合わない。滅多なことで始発電車を体験できないが、朝からお酒をラッパ飲みしながら、大声で携帯電話をかけている傍若無人な人間がいることも、始発電車ならではの光景かもしれない。
 八王子からはこれ以上早く着けないという時間に羽田空港に着いたが、それでも航空会社のグランドスタッフのお姉さんは、「今頃何をやってんだ」といわんばかりであった。急かされるようにチェックインして、ほとんど待ち時間ゼロで機内に案内された。
 今朝は午前三時四十五分に起きたので、さすがに飛行機に乗っている間、熟睡することができた。
 空港でレンタカーを借りて、最初の目的地が里塚霊園である。札幌の霊園はどこも広大であるが、里塚霊園もとてつもなく広い。ここに新選組永倉新八や前野五郎の墓がある。

 永倉新八の墓である。表には単に「杉村家」とあるが、墓石の裏を見ると、「釋義潤 大正四年一月五日 (永倉新八改め)杉村義衛七十七歳」と記されているのを見い出すことができる。【1期3号762番】


杉村家(永倉新八の墓)


故前野五郎大人之墓

 前野五郎は弘化二年(1845)阿波徳島の生まれ。慶応二年(1866)新選組に入隊し、慶応三年(1867)十二月の天満屋事件では斎藤一とともに紀州藩の三浦休太郎の警護に当たったと伝わる。鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に帰還。三月の甲州勝沼での戦いに敗れたのち、靖共隊に参加し、北関東から会津まで転戦した末、降伏した。維新後、開拓判官岡本監輔に従い樺太に渡るが、病を得て帰国し、その後、札幌に移り住んだ。やがて薄野で貸座敷業(実態としては売春宿か)を営んで財を築いた。明治二十四年(1891)、岡本監輔と再会。岡本の千島開拓計画に共鳴し、自らも「千島共済組合」を設立した。明治二十五年(1892)、択捉島を探検中に誤って橋から転落し、その際所持していた猟銃が暴発して事故死した。【5期3号30番】


丸山抱石之墓

丸山抱石(まるやまほうこく)は、会津藩士。藩校日新館に学び、書画および詩を好み、武芸にも長じた。家禄五百石を継ぎ、学校奉行を務めた。藩主が京都守護職在任中は、京都常詰番頭を勤めた。戊辰戦争後は、大湊に移住し、さらに北海道に渡って、室蘭から札幌に移った。生涯、画技を愛した。明治三十年(1898)没。


陸軍中将従二位勲一等男爵永山武四郎之墓

 最終日、飛行機の出発時間まで少し時間があったので、北広島インターで降りて再度里塚霊園を訪ねた。初日に行き当たらなかった永山武四郎の墓に会うためである。管理事務所で尋ねると、親切にも地図をコピーしてくれて、丁寧に道順まで教えていただけた。この広大な霊園で直感だけを頼りに永山武四郎の墓を探し当てるのは所詮無理な話であった。今度は迷うことなく行き着くことができた。【5期1号522番】

 今回の北海道史跡旅行では、走行距離千八百キロメートル、撮影枚数は四百枚を越えた。走行距離の割に撮影枚数は少な目となったが、野球をしていた一日を除き、ずっとハンドルを握っていた気がする。それでも今回、予定していた史跡の九割は回ることができた。ついでにいうと、肝心の野球大会の方は、二試合を戦って、いずれも二桁失点の惨敗であった。個人的にはファーボール一つで今年もノーヒットであった。ほとんど活躍する場面もなく終わったため、おかげで筋肉痛や疲労を感じることもなかった。

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登別

2014年04月20日 | 北海道
 苫小牧から登別に向かう途中、雪は激しくなり、登別温泉周辺でも、あっという間に数センチの積雪があった。この分では翌日は雪に埋もれて自動車が動かせないのではないかと心配になったが、宿の人によればこの時期の雪はすぐに溶けるから心配は要らないという。確かに翌朝、道路にほとんど新雪はなく、自動車の走行にはまったく支障はなかった。

(湯沢神社)


湯沢神社

 翌日はチェックアウトぎりぎりまで部屋でくつろぎ、その後、温泉街を散歩した。
 登別温泉の歴史は古いが、本格的に温泉として開発されたのは、武蔵国の大工、滝本金蔵が登別に移住し、駅逓と漁場を経営していたことに始まる。滝本夫婦が皮膚病にかかり困ったとき、アイヌから温泉の効能を聞いて入浴したところ全快したため、出願して湯守となった。明治になって交通の便もよくなり、湯治客も増えたため、滝本は私財を投じて道路を開削し、宿を増改築し、今日の登別温泉の基礎を築いた。湯沢神社には、滝本金蔵を顕彰する石碑が建立されている。


滝本金蔵翁 栗林五朔翁 頌徳碑

(泉源公園)
 湯沢神社の向い側に、泉源公園がある。泉源公園内には間欠泉があり、約三時間おきに勢いよく熱湯が噴き出す。


泉源公園

 登別温泉街では至るところで鬼とか金棒を見ることができる。どうして鬼が温泉のキャラクターになったのか、その謂われは不明であるが、泉源公園で煮えたぎる泉源を見ていて、何となく鬼を連想するのは、おそらく私だけではあるまい。

(地獄谷)
 登別温泉を訪れた人が必ず観光するという地獄谷を歩いた。周囲は雪で覆われているが、地熱で温められている地獄谷は地肌がむき出しになっている。


地獄谷


薬師如来堂

地獄谷の薬師如来堂は、文久元年(1861)、地獄谷で火薬の原料である硫黄を採取していた南部藩士が、御堂の下から湧いている温泉で眼を洗ったところ、長年患っていた眼病が治ったことから、その御礼に寄進した石碑が祀られている。


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白老

2014年04月20日 | 北海道
(白老元陣屋資料館)
登別から千歳空港へ家族を送る途中、白老に寄り道した。白老にある陣屋跡は、安政三年(1856)蝦夷地の警備を命じられた仙台藩が築いたものである。
安政元年(1854)、アメリカ、ロシアと和親条約を結んだ幕府は、箱館を開港することになった。これを受けて蝦夷地を直轄地とし、翌年、仙台藩を始め、津軽、秋田、南部の東北諸藩と松前藩に警備を命じた。翌年には会津藩、庄内藩も同じように北方警備を命じられた。仙台藩の守備範囲は、白老から襟裳岬を経て、国後・択捉に及ぶ広範な地域であったため、仙台藩では白老に元陣屋を、広尾、厚岸、根室、国後、択捉に出張(でばり)陣屋を築いた。
白老の旧陣屋の広さは、六.六ヘクタールで、周囲に堀と土塁を巡らせ内曲輪と外曲輪を構成した。本陣、勘定所、穀蔵、兵具蔵、長屋といった建物のほか、少し離れた東西の丘陵に愛宕神社と塩竈神社を祀った。
元陣屋には百二十名程度の人が常駐し警備にあたっていたが、戊辰戦争が起こると撤収してその使命を終えた。この付近には仙台藩士の墓地などもあるらしいが、雪に覆われていたため断念した。
また、白老町の社台小学校には、慶応四年(1868)七月、最後の陣屋代官となった草刈運太郎の墓がある。草刈運太郎は、陣屋を新政府軍に手渡すために当地に残っていたが、箱館府より派遣されてきた官軍兵士の横暴を諌めようとして負傷し、社台の番屋に逃れてそこで自刃した。心残りであるが、草刈運太郎の墓の取材は、次の機会に持ち越しとなった。


白老元陣屋資料館


仙台藩白老陣屋跡


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苫小牧

2014年04月20日 | 北海道
(開拓史跡公園)
 北海道二泊目は登別温泉だったので、大倉山展望台を三時過ぎに出発すると、一路苫小牧を目指した。今回は家族旅行だったので、できるだけ家族の都合に合わせるようにしたが、苫小牧だけは我がままを言わせてもらい、立ち寄ることにした。苫小牧市勇払に着いたのは午後四時半で、既に夕暮が迫っていた。


八王子千人同心の墓

寛政十二年(1800)幕府の許可を得た八王子千人同心、原胤敦(半左衛門)とその実弟原新介は開拓のために八王子千人同心約百人を連れて蝦夷地に渡った。胤敦は白糠町に、新介は勇払に移住し、開拓に従事したが、北海道の自然の過酷さは、彼らの予想を越えるものであった。吉岡孝『八王子千人同心』によれば、入植した百三十二名中、三十二名が現地で命を落としたという。結局、八王子千人同心による蝦夷地開拓事業は四年で終止符を打つことになった。先人の縁で、現在、八王子市と苫小牧市は姉妹都市関係となっている。


河西祐助の妻・梅の墓

(勇武津波切不動堂)


勇武津波切不動堂

 波切不動堂は、享和三年(1803)、当地に来た武士や会所関係者の不安や動揺を取り除くため、幕府役人の高橋次太夫らによって建てられたものと言われる。

(勇払会所跡)


勇払会所之跡

 寛政十一年(1799)、幕府は東蝦夷地を直轄し、直接経営に乗り出した。それまで和人とアイヌの交易の拠点として運上所が置かれていたが、それが会所と改称され、幕府の役所としての機能も持つことになった。翌寛政十二年(1800)、八王子千人同心五十人が移住し、開拓と周辺の警備に従事した。
 会所には幕府の役人が詰め、支配人、通辞、番人ら二十九人を指揮した。文政四年(1821)には直轄を廃して松前藩に戻したが、安政二年(1855)、再び直轄に戻した。明治二年(1869)新政府が開拓使を置き、明治六年(1873)、出張所が苫細村(現・苫小牧市)に移されると、勇払の統治機能は解消した。

(市民会館)


八王子千人同心顕彰碑


河西祐助の妻・梅の像

苫小牧市中心部にある市民会館には、八王子千人同心を顕彰する大きな石碑(苫小牧開拓碑)がある。モニュメントの上部には、八王子千人同心の像。下部には赤ん坊を抱いた女性の像が置かれているが、これは河西祐助の妻・梅である。
河西祐助が詠んだ「哭家人」と題した漢詩が刻まれている。

哭家人
萬里游返功未成 阿妻一去旅魂驚
携兒慟哭穹廬下 難盡人間長別情


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小樽

2014年04月19日 | 北海道
(小樽運河)


小樽運河

小樽は札幌市内から約四十キロメートルの距離で、高速道路を使えば一時間足らずで行き着くことができる。小樽運河や明治・大正期の石造の建物群、ガラスやオルゴールの店やレストランが軒を並べ、道央の観光都市としても有名である。
永倉新八が晩年を過ごした町としても知られる。わずかな時間であるが、永倉新八の息遣いを感じる旅に出てみよう。

私が小樽に着いたのは午後六時を回っていた。せっかくだから夜の小樽の街を散策してみたが、気温は氷点下まで下がり想像を絶する寒さであった。歩道は完全に凍結しており、場所によっては歩くというより、滑りながら移動することになった。
有名な小樽運河を写真に収めておかなくてはならない。寒さの中、四苦八苦しながら撮影していると、いかにも関西から来たと思しきオバチャンに声をかけられた。
「これが小樽運河ですかいな?」
「そうです。」
「何が綺麗なんかいな?あの光っている(注・ライティングしている)のが良いのかな?」
「さぁ、建物ですかね。」
何が綺麗か綺麗でないかは人に質問することではなく、自分の目で見て判断すれば良いことだと思ったが、確かにオバチャンが不安に思うのももっともなくらい、それほど綺麗な風景というわけでもなかった。

(北のウォール街)


旧三井銀行小樽支店

「北のウォール街」と命名されている一角には、明治・大正期に建造さえた石造の建物や倉庫が並んでいる。古い建物が保存されていることに感銘を受けた。

(梁川通り)



駅前の商店街には榎本武揚の肖像が掲げられている。北海道と榎本武揚の所縁は深いが、実は小樽と榎本武揚の因縁も浅からぬものがある。明治五年(1872)、榎本武揚は小樽の稲穂町の払下げを受け、北垣国道とともに北辰社を立ち上げて小樽を開拓し、今日の小樽市の基礎を築いたと言われる。稲穂町には榎本武揚の雅号に因んで名付けられた梁川通りもある。

(龍宮神社)


龍宮神社

翌朝、幸いにして雪はやんだ。
龍宮神社は、小樽開拓に着手した榎本武揚が移民の安意や航海の安全を図るため、アイヌが祭場としていた御鎮座地に桓武天皇(榎本家の遠祖)を合祀し、「北海鎮護」を献額して建立したものである。
境内には「北海鎮護」の碑のほか、没後百年を記念して平成二十一年(2009)に建立された榎本武揚公之像などがある。榎本武揚が手にしているのは、「海律全書」と羅針盤である。


榎本武揚書「北海鎮護」


榎本武揚像

(永倉新八・山田音羽対面の地)


永倉新八・山田音羽対面の地

晩年を小樽で過ごした永倉新八は、現在小樽市役所のある辺りに住居を構えていた。
市役所下交差点付近に「永倉新八、山田音羽対面の地」を示す案内板が立てられている。大正二年(1913)五月、山田音羽(芸名・綱枝大夫)と名乗る一人の芸妓が永倉を訪ねてきた。音羽は近藤勇の娘を自称したが、本当に近藤勇の娘なのか、母は誰なのか、肝心なことは何一つ伝わっていないが、残っている肖像写真を見ると、なるほど近藤勇そっくりである。これが動かぬ証拠ということか。


(小樽市役所)


小樽市役所

永倉新八がこの付近に居住していたという小樽市役所である。小樽市役所は、昭和八年(1933)に建築された重厚な造りの市庁舎である。

(量徳寺)


量徳寺

量徳寺は、永倉新八の菩提寺として知られる。永倉新八の資料館なども併設しているらしいが、これも恐らく冬期は閉鎖されていると思われる。いずれせよ、私が訪れたのは例によって日の出直後であったので、資料館が開いているわけもない。

(水天宮)


水天宮

水天宮は小高い丘の上にある。永倉新八が孫を相手に剣術の稽古をしたといわれる場所である。
ナビを頼りに水天宮を目指していると、路地のような細い道に入り込んでしまった。表通りは除雪が行き届いているが、こうした裏通りは雪が残り、轍が深く、表面が氷と化している。ハンドルを取られる場面もあり、このまま自動車で水天宮に行くのは無謀と思えた。そこで海宝楼(温泉施設?)の駐車場に車を止め、そこから歩くことにした。途中、何度も足を滑らせながら何とか水天宮に行き着いた。境内は一面雪に覆われていた。

実はこのあと中央霊園で永倉新八の墓を訪ねる計画であったが、この分ではどうせ霊園は雪に埋もれているだろうから、諦めることにした。というより、一刻も早く小樽を脱出したいという気持ちの方が強かった。小樽はいずれ再挑戦(リベンジ)する必要がある。



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