当社には勤続三十年に達すると表彰され、副賞として旅行券がいただけるという有り難い制度がある。今年、受賞することは前々から分かっていたので、随分前からどこにしようか家族で話し合ってきた。個人的には長崎に行きたいと思っていたが、次女が修学旅行で訪れることになっているらしく、この案はあっという間に却下されてしまった。では外国はどうかと水を向けてみたが、誰も興味を示さない。嫁さんは温泉が良いというし、「鉄ちゃん」の息子は電車で北陸に行きたいというし、てんで話がまとまらない。因みに我が家は五人、全員の血液型がバラバラという、まとまりのない家族である(通常、血液型は四種類しかないので、五人家族であれば一組はダブりがでるものであるが、息子は高校二年にもなっているのに、未だ血液型不明であるため、現時点では五人バラバラとなっているのである)。
そういう中で浮上したのが、北海道である。私と息子は昨夏に道南を旅行したばかりであったが、長女と次女は北海道に行ったことがないし、嫁さんも温泉に行けるのであれば異存はないという。息子も寝台特急「カシオペア」利用することを条件に賛成したので、北海道行が決定した。
カシオペア号
上野駅を午後四時二十分に出て、札幌到着は翌朝の九時三十二分である。実に十七時間もかかる。飛行機であれば千歳―羽田間は二時間足らずというのに…。昨今では、早割だの特割などがあって、さらにLCCなども参入し、飛行機も随分安くなった。時間とお金にゆとりのある人でないとなかなか「カシオペア」を利用しようという気になれないかもしれない。
ようやく札幌駅に到着した。早速市内散策に出かける。
(時計台)
まずは定番の時計台である。建設当初、時計はなく、明治十四年(1881)、時の開拓長官黒田清隆の指示を受けて、設置されたものである。
入場料は大人二百円。一階は展示スペース、二階は大ホール(旧・演武場)となっている。
時計台
「演武場」 従一位具視
時計台正面に掲げられている「演武場」木額の文字は、岩倉具視の筆によるもの。
(札幌市役所)
島義勇像
家族が時計台を見学している間に、時計台の向いにある市役所を訪ねる。ロビーに島義勇の像が置かれている。
台座には、明治二年(1869)、開拓判官に任じられた島義勇が、意気込みをこめて詠った漢詩が刻まれている。
河水遠流山峙隅 河水遠く流れ山隅に峙つ(そばだつ)
平原千里地膏腴 平原千里の地膏腴(こうゆ)
四通八達宜開府 四通八達宜しく府を開くべし
他日五洲第一都 他日五洲第一の都
※膏腴=地味が肥えていること。その土地。
(市民ホール)
豊平館跡
市民ホールの前に豊平館があったことを示す石碑がある。本来、石碑もあるはずだが、雪に埋もれていて、見ることができなかった。こういうこともあろうかと、実は園芸用のスコップを持参していたのだが、そもそも石碑のある場所に近づくことすらできないのでは、スコップが活躍する場面はなかった。
豊平館は明治十三年(1880)に建設された、官営の洋風ホテルである。起工すると最初の来賓として明治天皇を迎えた。
ホテルとしての役割を終えた豊平館は、永らく公会堂が併設されて利用されていたが、昭和三十三年(1958)年に中島公園内に移設された。
(住友生命札幌中央ビル)
クラーク博士居住地跡(開拓使本陣跡)
当所の計画では、札幌駅で初日の昼食を取ることにしていたが、計画を変更して二条市場にて海鮮丼を食べることにした。テレビ塔から二条市場に向かう途中、住友生命札幌中央ビルの前にクラーク博士住居跡碑が置かれている。
クラーク博士は、明治九年(1876)、明治政府の招きにより、札幌農学校初代教頭として着任した。宿舎は開拓使本陣と呼ばれる建物で、明治十年(1877)に帰国するまで、ここで起居した。
開拓使本陣は、明治五年(1872)に竣工したもので、木造平屋建て建造物としては当時最大のものであった。
(北海道神宮)
北海道神宮
家族が円山動物園を楽しんでいる間に、一旦動物園を出て、向いにある北海道神宮を訪ねた。
北海道神宮は、明治二年(1869)に創建されたものである。境内には島義勇の像がある。
島義勇像
島の北海道開拓使判官としての任期はわずかに三か月余りであったが、北海道開拓の父として市民に慕われている。
島義勇は、文政五年(1822)佐賀城下に生れた。通称を団右衛門といった。藩校弘道館で学び、天保十五年(1844)からは諸国を遊学して、佐藤一斎、藤田東湖、林桜園らに学んだ。安政三年(1856)には藩主鍋島直正(閑叟)の命を受けて、箱館奉行堀利熙の近習として、蝦夷地と樺太を二年間に渡って巡検した。明治二年(1869)閑叟が蝦夷開拓督務に任じられると、蝦夷地を調査した実績が買われ開拓使判官に就任する。京都のような碁盤の目状の整然とした街並みを目指して札幌の街の建設に着手した。しかし、厳寒で雪の多い札幌での工事は計画通り進捗せず、多額の想定外の出費を要したため、明治三年(1870)解任された。その後、侍従、秋田権令などを歴任したが、明治七年(1874)、佐賀憂国党の党首に担がれ、江藤新平とともに佐賀の乱を起こした。佐賀の反乱は短期間で鎮圧され、島は斬罪に処された。
(円山公園)
岩村通俊像
二日目の朝、息子とともに五時半過ぎにホテルを出た。息子は札幌駅で電車の写真撮影をするという。私は朝食までの時間の許す限り、市内の史跡を訪ねることにした。
前日尋ねた円山動物園に隣接する円山公園には、岩村通俊像や島判官紀功碑がある。園内は雪が厚く残っており、やっとの思いで岩村通俊像に近づくことができた。
岩村通俊は天保十一年(1840)、岩村英俊の長男として土佐国宿毛に生れた。次弟は林有造、三弟は岩村高俊という三兄弟である。酒井南嶺の下で学問を修め、岡田以蔵に剣術を学んだ。明治四年(1871)島義勇のあとを受けて開拓使判官に就任し、札幌の開発を進めた。明治六年(1873)には佐賀県令に転じた。明治十年(1877)西南戦争のさなか、鹿児島県令として赴任した。その後も元老院議官、会計検査院長、沖縄県令、司法大輔、農商務大臣、宮中顧問官、貴族院議員などを歴任した。大正四年(1915)七十四歳にて死去した。
島判官紀功碑
(北海道知事公館)
村橋久成胸像
今回の旅の目的の一つが、北海道知事公舎にある村橋久成像を訪ねることにあった。しかし、残念なことに、知事公舎は、冬期は閉鎖されていた。門から覗くと、すぐそこに村橋の胸像が見える。木の枝が邪魔をして、像の顔が見えない。胸像には「残響」という、田中和夫氏が村橋を主人公として描いた小説のタイトルが付けられている。
村橋久成胸像を訪ねるのは、次の機会に持ち越しすることになった。
(札幌第一ホテル)
飯沼貞吉ゆかりの地
札幌第一ホテルの駐車場の一角に、会津藩白虎隊の生き残り隊士、飯沼貞吉ゆかりの地と刻まれた三角形の石碑が置かれている。
飯沼貞吉は、戊辰戦争後、通信技師として生計を立てた。飯沼貞吉が逓信省の札幌郵便局工務課長として来道したのは、明治三十八年(1905)のことである。飯沼は、札幌、旭川、小樽、室蘭など、道内の主要都市の通信網整備に尽力した。石碑のあるこの場所は、飯沼貞吉が居を構えたところである。
(護国神社)
護国神社
中島公園に隣接する札幌護国神社は、西南戦争に従軍して戦病死した屯田兵の霊を慰めるために創建されたものである。境内には多数の石碑があるが、一番奥まったところに屯田兵招魂碑が建立されている。屯田兵の西南戦争における戦死者は七名、戦病死者は二十名、負傷者は二十名といわれる。
屯田兵招魂之碑
(郵政研修所)
前島密胸像
郵政研修所の前に前島密の胸像がある。
郵政研修所には鍵がかけられており、構内に進入することはできなかった。やむ無く望遠レンズで撮影したが、ご覧のとおり、頭から雪をかぶった、ちょっと滑稽な風貌になってしまった。
(山鼻小学校)
明治天皇御駐輦之地碑
明治十四年(1881)、札幌行幸中の明治天皇が山鼻兵村を訪れたことを記念した石碑である。当時、山鼻には屯田兵が駐屯しており、山鼻小学校のある辺りは練兵場として利用されていたそうである。