史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

札幌 北区

2014年04月05日 | 北海道
(北海道大学)
 北海道大学の正門前に「新選組隊士永倉新八来訪の地」と記された小さな説明板が置かれている。永倉新八は、維新後杉村義衛と名を改め、北大剣道場などで剣術指南をして過ごした。大正四年(1915)、小樽の自宅でその劇的な生涯を閉じた。享年七十七。


東北帝大農科大学内演武場跡

(清華亭跡)


清華亭

 開拓使判官に任じられた岩村通俊は、札幌市内の南に遊興地すすきのをつくる一方、北に偕楽園をつくった。偕楽園は札幌で初めての公園といわれる。現在、偕楽園は縮小して、わずかに付近にその面影を伝えるのみとなっているが、その中心に置かれたのが、清華亭であった。清華亭が建てられたのは、明治十三年(1880)のことで、明治十四年(1881)、明治天皇が札幌農学校を視察した際、小休所として利用された。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

札幌 中央区

2014年04月05日 | 北海道
当社には勤続三十年に達すると表彰され、副賞として旅行券がいただけるという有り難い制度がある。今年、受賞することは前々から分かっていたので、随分前からどこにしようか家族で話し合ってきた。個人的には長崎に行きたいと思っていたが、次女が修学旅行で訪れることになっているらしく、この案はあっという間に却下されてしまった。では外国はどうかと水を向けてみたが、誰も興味を示さない。嫁さんは温泉が良いというし、「鉄ちゃん」の息子は電車で北陸に行きたいというし、てんで話がまとまらない。因みに我が家は五人、全員の血液型がバラバラという、まとまりのない家族である(通常、血液型は四種類しかないので、五人家族であれば一組はダブりがでるものであるが、息子は高校二年にもなっているのに、未だ血液型不明であるため、現時点では五人バラバラとなっているのである)。
そういう中で浮上したのが、北海道である。私と息子は昨夏に道南を旅行したばかりであったが、長女と次女は北海道に行ったことがないし、嫁さんも温泉に行けるのであれば異存はないという。息子も寝台特急「カシオペア」利用することを条件に賛成したので、北海道行が決定した。


カシオペア号

 上野駅を午後四時二十分に出て、札幌到着は翌朝の九時三十二分である。実に十七時間もかかる。飛行機であれば千歳―羽田間は二時間足らずというのに…。昨今では、早割だの特割などがあって、さらにLCCなども参入し、飛行機も随分安くなった。時間とお金にゆとりのある人でないとなかなか「カシオペア」を利用しようという気になれないかもしれない。
ようやく札幌駅に到着した。早速市内散策に出かける。

(時計台)
 まずは定番の時計台である。建設当初、時計はなく、明治十四年(1881)、時の開拓長官黒田清隆の指示を受けて、設置されたものである。
 入場料は大人二百円。一階は展示スペース、二階は大ホール(旧・演武場)となっている。


時計台


「演武場」 従一位具視

 時計台正面に掲げられている「演武場」木額の文字は、岩倉具視の筆によるもの。

(札幌市役所)


島義勇像

 家族が時計台を見学している間に、時計台の向いにある市役所を訪ねる。ロビーに島義勇の像が置かれている。
 台座には、明治二年(1869)、開拓判官に任じられた島義勇が、意気込みをこめて詠った漢詩が刻まれている。

 河水遠流山峙隅 河水遠く流れ山隅に峙つ(そばだつ)
 平原千里地膏腴 平原千里の地膏腴(こうゆ)
 四通八達宜開府 四通八達宜しく府を開くべし
 他日五洲第一都 他日五洲第一の都

※膏腴=地味が肥えていること。その土地。

(市民ホール)


豊平館跡

 市民ホールの前に豊平館があったことを示す石碑がある。本来、石碑もあるはずだが、雪に埋もれていて、見ることができなかった。こういうこともあろうかと、実は園芸用のスコップを持参していたのだが、そもそも石碑のある場所に近づくことすらできないのでは、スコップが活躍する場面はなかった。
 豊平館は明治十三年(1880)に建設された、官営の洋風ホテルである。起工すると最初の来賓として明治天皇を迎えた。
 ホテルとしての役割を終えた豊平館は、永らく公会堂が併設されて利用されていたが、昭和三十三年(1958)年に中島公園内に移設された。

(住友生命札幌中央ビル)


クラーク博士居住地跡(開拓使本陣跡)

 当所の計画では、札幌駅で初日の昼食を取ることにしていたが、計画を変更して二条市場にて海鮮丼を食べることにした。テレビ塔から二条市場に向かう途中、住友生命札幌中央ビルの前にクラーク博士住居跡碑が置かれている。
 クラーク博士は、明治九年(1876)、明治政府の招きにより、札幌農学校初代教頭として着任した。宿舎は開拓使本陣と呼ばれる建物で、明治十年(1877)に帰国するまで、ここで起居した。
開拓使本陣は、明治五年(1872)に竣工したもので、木造平屋建て建造物としては当時最大のものであった。

(北海道神宮)


北海道神宮

 家族が円山動物園を楽しんでいる間に、一旦動物園を出て、向いにある北海道神宮を訪ねた。
 北海道神宮は、明治二年(1869)に創建されたものである。境内には島義勇の像がある。


島義勇像

 島の北海道開拓使判官としての任期はわずかに三か月余りであったが、北海道開拓の父として市民に慕われている。
島義勇は、文政五年(1822)佐賀城下に生れた。通称を団右衛門といった。藩校弘道館で学び、天保十五年(1844)からは諸国を遊学して、佐藤一斎、藤田東湖、林桜園らに学んだ。安政三年(1856)には藩主鍋島直正(閑叟)の命を受けて、箱館奉行堀利熙の近習として、蝦夷地と樺太を二年間に渡って巡検した。明治二年(1869)閑叟が蝦夷開拓督務に任じられると、蝦夷地を調査した実績が買われ開拓使判官に就任する。京都のような碁盤の目状の整然とした街並みを目指して札幌の街の建設に着手した。しかし、厳寒で雪の多い札幌での工事は計画通り進捗せず、多額の想定外の出費を要したため、明治三年(1870)解任された。その後、侍従、秋田権令などを歴任したが、明治七年(1874)、佐賀憂国党の党首に担がれ、江藤新平とともに佐賀の乱を起こした。佐賀の反乱は短期間で鎮圧され、島は斬罪に処された。

(円山公園)


岩村通俊像

 二日目の朝、息子とともに五時半過ぎにホテルを出た。息子は札幌駅で電車の写真撮影をするという。私は朝食までの時間の許す限り、市内の史跡を訪ねることにした。

 前日尋ねた円山動物園に隣接する円山公園には、岩村通俊像や島判官紀功碑がある。園内は雪が厚く残っており、やっとの思いで岩村通俊像に近づくことができた。
岩村通俊は天保十一年(1840)、岩村英俊の長男として土佐国宿毛に生れた。次弟は林有造、三弟は岩村高俊という三兄弟である。酒井南嶺の下で学問を修め、岡田以蔵に剣術を学んだ。明治四年(1871)島義勇のあとを受けて開拓使判官に就任し、札幌の開発を進めた。明治六年(1873)には佐賀県令に転じた。明治十年(1877)西南戦争のさなか、鹿児島県令として赴任した。その後も元老院議官、会計検査院長、沖縄県令、司法大輔、農商務大臣、宮中顧問官、貴族院議員などを歴任した。大正四年(1915)七十四歳にて死去した。


島判官紀功碑

(北海道知事公館)


村橋久成胸像

 今回の旅の目的の一つが、北海道知事公舎にある村橋久成像を訪ねることにあった。しかし、残念なことに、知事公舎は、冬期は閉鎖されていた。門から覗くと、すぐそこに村橋の胸像が見える。木の枝が邪魔をして、像の顔が見えない。胸像には「残響」という、田中和夫氏が村橋を主人公として描いた小説のタイトルが付けられている。
 村橋久成胸像を訪ねるのは、次の機会に持ち越しすることになった。

(札幌第一ホテル)


飯沼貞吉ゆかりの地

 札幌第一ホテルの駐車場の一角に、会津藩白虎隊の生き残り隊士、飯沼貞吉ゆかりの地と刻まれた三角形の石碑が置かれている。
 飯沼貞吉は、戊辰戦争後、通信技師として生計を立てた。飯沼貞吉が逓信省の札幌郵便局工務課長として来道したのは、明治三十八年(1905)のことである。飯沼は、札幌、旭川、小樽、室蘭など、道内の主要都市の通信網整備に尽力した。石碑のあるこの場所は、飯沼貞吉が居を構えたところである。

(護国神社)


護国神社

中島公園に隣接する札幌護国神社は、西南戦争に従軍して戦病死した屯田兵の霊を慰めるために創建されたものである。境内には多数の石碑があるが、一番奥まったところに屯田兵招魂碑が建立されている。屯田兵の西南戦争における戦死者は七名、戦病死者は二十名、負傷者は二十名といわれる。


屯田兵招魂之碑

(郵政研修所)


前島密胸像

郵政研修所の前に前島密の胸像がある。
郵政研修所には鍵がかけられており、構内に進入することはできなかった。やむ無く望遠レンズで撮影したが、ご覧のとおり、頭から雪をかぶった、ちょっと滑稽な風貌になってしまった。

(山鼻小学校)


明治天皇御駐輦之地碑

明治十四年(1881)、札幌行幸中の明治天皇が山鼻兵村を訪れたことを記念した石碑である。当時、山鼻には屯田兵が駐屯しており、山鼻小学校のある辺りは練兵場として利用されていたそうである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

森 砂原

2013年11月16日 | 北海道
(砂原陣屋跡)


史跡 砂原南部藩屯所跡


砂原陣屋跡

 砂原陣屋には盛岡藩が五十人を駐屯させていたが、奥羽、北越での戦争が激しさを増すと、建物を破壊して早々に引き揚げた。土方隊がこの地を通過したとき、土塁しか残っていない状態であった。
 砂原は、明治二年(1868)四月、箱館戦争を通じて旧幕軍にとって唯一の援軍となった仙台藩見国隊(隊長二関源治)三百五十が上陸した地でもある。

 函館からの帰路は、寝台特急「北斗星」である。夕方に函館を出れば、その日のうちに自宅に帰り着くことは可能であるし、四国出張時に何度も寝台特急を利用した経験のある私としては特に「北斗星」にこだわる理由はなかったが、鉄研の息子としては必須であった。「北斗星」は、午後九時四十八分に函館を出発する。「北斗星」がホームに入ってくると、鉄ちゃんが群がり一斉に写真撮影が始まる。鉄ちゃんをかきわけるようにして「北斗星」に乗り込む。
ときどきガタンと大きく揺れるので、決して寝心地の良い乗り物とは言えない。十分睡眠が取れないまま、朝を迎えた。大宮到着は、朝九時十分であるが、五分くらい遅延した。
 帰宅した翌日、何気なくテレビのニュースを見ていると、貨物列車の脱線事故のため函館本線が不通となっていた。出発前日の記録的大雨といい、結果からみれば絶妙のタイミングで北海道まで往復できたといえる。今回の旅行におけるレンタカーの走行距離は千キロメートルを越え、撮影した画像も千枚を越えた。まさに史跡三昧であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

森 鷲ノ木

2013年11月16日 | 北海道
(鷲ノ木史跡公園)


鷲ノ木浜から駒ヶ岳を望む

 明治元年(1868)榎本艦隊が上陸したのが、現・森町鷲ノ木である。遠く駒が岳を望むことができる。まさに箱館戦争はここから始まったのである。


旧幕軍榎本武揚土方歳三之上陸地碑

 明治元年(1868)十月二十日(新暦では十二月初旬に相当する)、榎本武揚率いる艦隊が、鷲ノ木浜に上陸した。箱館戦争の幕開けである。この日、北西の風が強く、海は荒れ、波は高く、積雪は三十センチになった。上陸時に海に転落したり、舟に挟まり事故死したのは十六名にも上る。
 榎本艦隊は、回天、開陽、蟠龍、長鯨、神速、鳳凰、回春、大江の八艦。榎本武揚、松平太郎、大鳥圭介、土方歳三、古屋佐久左衛門ら二千人以上を運んできた。土地勘のある榎本が鷲ノ木浜を上陸地に選んだのは、何の防備もなく無血上陸が可能だという確信があったからである。鷲ノ木には小さいながら集落が形成されており(当時の戸数八十戸)、二千人以上もの兵を冬の北海道に露営させずに済むという計算もあったであろう。


史跡 箱館戦争榎本軍鷲ノ木上陸地碑

(霊鷲院)
 霊鷲院は現在国道で分断されている。山本泰次郎や戦没者之碑は、本堂とは反対側の海側に置かれている。


霊鷲院


山本泰次郎墓

 明治元年(1868)十月二十三日の峠下での戦いで、榎本軍最初の戦死者となったのが、山本泰次郎である。山本泰次郎は伝習隊士。この戦いで重傷を負い、鷲ノ木に後送されたが、十一月九日に死去。十九歳という。


箱館戦争鷲ノ木戦没者之碑

 上陸時に事故死した十六人を葬った慰霊碑である。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八雲

2013年11月16日 | 北海道
(箱館戦争陣地跡)


箱館戦争陣地跡

 八雲町入沢地区に残る旧幕軍の構築した土塁の跡である。この地が旧幕軍の守備範囲の北限であった。明治二年(1869)五月四日、新政府軍の一隊がここに出現したとき、既に旧幕軍の守備兵は退却した後であった。

(箱館戦争戦没者之墓)


箱館戦争戦没者之墓

戦病死した新政府軍の槇孝次郎、藤原与右衛門の名が刻まれている。
この墓を探し当てるのには、ちょっと苦労した。位置は、先に紹介した陣地跡からさらに北に四キロメートルほど行ったところ。特に標識や案内板があるわけではなく、ひたすらそれらしい場所を走り回るしかない。結果からいうと、近くにこれといった目印になるようなものはなく、強いて言えば泉沢橋という橋くらいのものである。この橋から周囲を見渡すと少し離れた木立の中に見つけることができる。

(八雲町役場)


八雲開拓記念碑

 尾張徳川家では、士族授産のため北海道開拓に乗り出すことになった。明治十年(1877)七月、徳川慶勝は旧藩士族の吉田知行、角田弘業、片桐助作を北海道に派遣し、移住・開墾地として最適地を探索させた。一行の報告を受けて、慶勝は開拓使長官黒田清隆に対し遊落部(ユーラップ)の無償払い下げを願い出た。明治十一年(1878)には第一回の移住が開始された。このときの移住者は家族十五戸、単身者十名であった。その後、第三回移住まで含めると人口四十七戸、二百六十余名まで増加した。
 明治十四年(1881)、遊落部が分離独立したことを機に「八雲村」と名付けられた。この名前は、尾張とゆかりの深い熱田神宮に祀られている素盞鳴尊(スサノオノミコト)が詠んだといわれる「八雲たつ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」から引用されたものである。


八雲たつ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

(開拓移住者上陸記念碑)


開拓移住者上陸記念碑

旧尾張藩主徳川慶勝は、北海道の開拓と旧藩士の授産のために、開拓使に輸送船の派遣を要請したところ、時の開拓使長官黒田清隆はこれを喜び、汽船玄武丸を派遣してこれを援助することとした。移住者は、尾張を出て、途中東京で下船して徳川家に挨拶を済ませ、函館港で開拓使汽船ケプロン丸に乗り換えて、明治十一年(1878)十月十二日、当地より上陸した。その後も数次に渡って移住者がこの場所から上陸した。まさに八雲開拓の起点となった場所である。


(八雲神社)


八雲神社

 徳川慶勝が死去したのは、明治十六年(1883)八月一日である。明治十九年(1886)に八雲神社が創建されると、全国で唯一の熱田神宮の分社となった。明治二十六年(1893)には慶勝を守護神として祀ることが願い出された。現在も、慶勝の命日の八月一日には祭祀が行われている。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長万部

2013年11月16日 | 北海道
(飯生神社)


飯生神社


史跡ヲシャマンベ陣屋跡

 幕府は、箱館開港にともない箱館奉行所を設置し、安政二年(1855)には、松前藩一藩では無理との判断から蝦夷地直轄を決めた。
幕府は、東北五藩に分担で蝦夷の警備を命じた。南部藩は、箱館から幌別までの海岸一帯の警備を命ぜられた。
現地調査にあたった上山半右衛門、新渡戸十次郎(新渡戸稲造の父)は、仮想敵国ロシアは港から侵攻すると想定して陣を敷いた。津軽海峡を守る箱根元陣屋に主力を置き、室蘭市に出張陣屋、長万部に屯所を、砂原には分屯所を設けた。
ヲシャマンベ陣屋は室蘭の陣屋と同じく安政三年(1856)に構築されたが、安政四年(1857)月長万部沿岸が砂原遠浅で、外国船が容易に近づけないことが分かり、南部藩は自藩に引き上げた。
現在、陣屋跡地には飯生(いいなり)神社があるが、近くを散策してみると、当時の土塁らしきものが残されている。


土塁跡

 長万部が今回の旅の最北限であった。陣屋跡を見て、来た道を引き返した。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

七飯

2013年11月16日 | 北海道
(峠下)


箱館戦争戦死者墓碑群

この地に葬られているのは、明治元年(1868)十月二十三日の峠下における戦闘で戦死した新政府軍弘前藩金寅太郎ら五名である。
墓に向かい合うように「峠下戊辰役勃発之地」と記された小さな石碑がある。


峠下戦跡戊辰役勃発之地碑

 先遣部隊である人見隊は雪中を行軍して峠下で宿営した。峠下は江差方面への分岐点であり、宿場町であった。一方、箱館府でも松前藩、弘前藩兵三百余を派遣し、峠下に向かった。彼らが遭遇したのは、十月二十二日の深夜であった。この地で箱館戦争における最初の砲声が響いた。
 人見隊は巧みに移動しながら側面攻撃を加え、そこに大鳥隊も到着したため、夜を徹した銃撃戦は旧幕軍の勝利に終わった。装備の差に加え、旧幕軍は関東、奥羽、会津と転戦してきた歴戦の兵士であり、箱館府兵の敵う相手ではなかった。


庚申塚


一行院跡


平山(金十郎)先生之墓

 峠下の戦死者を葬ったのが、一行院という寺であるが、今は廃寺となっている。
 平山先生というのは、この地で私塾を開いていた平山金十郎という人物である。慶応四年(1868)七月、清水谷公考知事を誘拐して箱館府の転覆を企んだが、計画は事前に露見して逃亡した。明治七年(1874)峠下に戻って、塾を再開した。

(宝琳寺)


宝琳寺


官修墓

 備後福山藩赤松岩太郎ら七人を葬った官修墳墓である。


石地蔵

 宝琳寺には、八王子同心ゆかりの史跡や墓がある。遠く北海道まで来て、地元八王子出身者の墓に出会うとは、感に堪えない。

 この石地蔵は、八王子同心飯田甚兵衛が寄進したものである。ガラスケースに保管されており、写真にはクリアに写らなかった。


八王子同心秋山幸太郎の墓

 秋山幸太郎は、新政府軍の大砲方伍長として出陣し、明治元年(1868)十月二十四日の戦闘で戦死した。


荒井信五郎の墓

 荒井信五郎は、鷲ノ木に駐在していた箱館府の兵士である。榎本艦隊が鷲ノ木沖に出現したという情報を箱館府に急報したのが荒井信五郎であった。

(一本栗地主神社)


一本栗地主神社


一本栗

 樹齢六百年とも言われる大きな栗の木が御神木という神社である。この栗の木の下には箱館戦争における戦死者が埋葬されたといわれる。

(男爵芋発祥の地碑)


男爵芋発祥の地碑

 明治三十九年(1906)、函館ドック取締役として函館に赴任した川田隆吉男爵が、趣味の園芸研究のために当地に清香園農場を開いた。さすがに男爵ともなると、趣味といってもスケールが違う。明治四十一年(1908)には外国商会を通じて数十種類の種苗を輸入し、試作実験を行った結果、優良品種「男爵イモ」が誕生した。「男爵イモ」の命名は七飯村農会によるものという。

(七重小学校)
 明治三年(1870)、明治政府は当地に七飯開墾場を開き、いち早く畜力農業機械や西洋種作物、家畜を取り入れ、様式農法による近代農法の導入基地として、北海道の開拓に重要な役割を果たした。七飯小学校前に残る約二百二十メートルにわたる石垣は七飯開墾場の名残である。この場所が七飯開墾場の中心地に当たり、主要施設が置かれていた。


七飯開墾場事務所跡


七飯官園事務所跡石垣


明治九年御駐蹕之地碑


赤松街道

 この辺りの赤松並木は見事である。函館の松は、幕末に箱館奉行組頭栗本瀬兵衛(鋤雲)が、佐渡から赤松の種子を取り寄せ苗木にしたものを五稜郭周辺に植樹したのが始まりで、明治初年の明治天皇巡幸に際して移植されたものという。

(ガルトネルのブナ林)


ガルトネルのブナ林

 ガルトネルは、プロシアの貿易商である。七飯の三百万坪という広大な土地を開墾地として九十九年間租借するという契約を榎本政権と結んだ。ガルトネルは祖国から苗木を輸入し、西洋農法の導入を試みた。箱館戦争後、この契約が問題となり、明治新政府はこの解決に追われた。結局、明治新政府はガルトネルに多額の賠償金を支払って、開墾地を取り戻すことになった。
 ガルトネルの開墾地租借の背景には、英仏に遅れをとったプロシアの対日進出政策があったとも言われる。一方、ガルトネルが七飯で試験した西洋農法は、今日の北海道における農業の礎になったと再評価する向きもある。
七飯町に残るブナ林は、ガルトネルが故郷を懐かしんで植樹したもので、樹齢百年を超える人工植栽によるブナ林は全国的にも珍しいそうである。

(蓴菜沼)
 蓴菜沼は、明治五年(1872)、開拓次官黒田清隆が当地を訪れた際に命名したものである。


蓴菜沼


明治天皇蓴菜沼御小休所

 蓴菜沼も八王子同心ゆかりの場所である。
 明治五年(1872)、蓴菜沼湖畔を通る街道が開通すると、七飯村に入植していた八王子同心出身の宮崎重兵衛はここに旅館を建てた。因みに宮崎重兵衛は、箱館府兵として箱館戦争にも参加した人物である。やがて蓴菜沼は名勝地として知られることになり、旅館も大繁盛した。明治十四年(1881)九月、明治天皇の北海道巡幸の際、宮崎旅館は小休所に指定され、重兵衛はコイや蓴菜を天覧に供したという。明治三十六年(1903)鉄道の開通とともに観光客は大沼に移り、蓴菜沼の旅館群も消滅してしまった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北斗 大野 Ⅱ

2013年11月16日 | 北海道
(市渡小学校)


市渡小学校

 市渡小学校には、大きな栗の木が二本ある。この栗の木は、箱館戦争で市渡稲荷神社が旧幕軍の作戦本部に充てられたとき、榎本武揚の命で地元の鈴木駒蔵が植樹したものといわれる。


栗の木

(野戦病院跡)


野戦病院跡

 旧吉田文三宅は、箱館戦争当時、旧幕軍が野戦病院を置いた場所である。例によって「大野 文保研」が標識を立てている。半ば雑草に覆われており、なかなか夏場にこれを発見するのは骨が折れる。
 場所は、国道227号線と道道756号線の交差点(南西角にガソリンスタンドがある)を二百メートルほど大野市街地側に行ったところである。

(意富比神社)


意富比神社

「意富比」と書いて「おおひ」と読む。
 明治元年(1868)十月二十四日、風雪の中、峠下から箱館に向かう大鳥圭介率いる旧幕軍本体と、それを阻もうとする新政府軍が市渡で遭遇し、意富比神社境内で白兵戦となった。戦闘に慣れた旧幕軍は新政府軍を圧倒し、約一時間の戦闘で決着した。このとき旧幕軍の放った砲弾が付近の住宅に当たって燃え上がり、折からの強風にあおられて十数軒が焼失した。


弾痕のあるイチイ

(光明寺)


光明寺


新政府軍の墓

 新政府軍の墓は、福山藩、越前大野藩、松前藩のものである。


永井蠖伸斎墓「蠖伸斎永穏誠忠居士」

 衝鋒隊の永井蠖伸斎の墓である。額兵隊の網代清四郎と合葬されている。両名とも明治二年(1868)四月二十九日の戦死。

(焔硝倉跡地)
 やはり箱館戦争当時の焔硝倉跡地である。国道227号線沿いにある。近くを走行していて、偶然文保研作成の看板を発見した。


焔硝倉跡地

(箱館戦争と無縁墓地)


箱館戦争と無縁墓地

 明治元年(1868)十月二十四日、大野における福山藩の戦死者二名(千賀猪三郎と松本喜多治)の墓である。福山藩は老中阿部正弘を出した幕府寄りの藩であり、新政府に帰順したものの、命じられるままに奥羽から道南に藩兵を派遣せざるを得なかった。

(北海道水田発祥之地)
 碑文によれば、元禄五年に作右衛門なる農民がこの地(文月)を開拓して米十俵を収穫した。しかし、作右衛門の水田は数年で廃止され、その後も失敗と成功を繰り返した。嘉永三年(1850)大野村の高田松五郎、万次郎の父子が苦心の末、米の収穫に成功すると、これ以降ようやく米作りは安定した。ここを起点に道内に米作が広がったため、当地が北海道水田発祥の地とされた。


北海道水田発祥之地

 この日は、木古内を出て、上ノ国、江差、乙部、熊石、厚沢部を経て大野に至る計画で、今回の旅程中もっともタフな一日になることが予想された。もちろん昼食など食べている時間もなく、ひたすら走り回った結果、日没までにほぼ予定の史跡を見て回ることができた。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北斗 大野 Ⅰ

2013年11月16日 | 北海道
(二股口)
この日の登山?に備えて、事前に熊除け用の鈴を購入した。登山グッズを売る店に行って、一番高いものを(といっても千円くらいのものであるが)購入した。鈴を振ると澄んだ音がする。これで万全であろう。


二股口古戦場入口

国道227号線沿いに建てられている二股口古戦場入口を(熊除け鈴を鳴らしながら)入ると、鬱蒼とした森に至る。チェーンが張られ進入禁止の表示があるが、気にせずそれを乗り越えて坂道を上る。途中倒木があったりして甚だ歩きづらいが、十五分も歩くと土方歳三が陣を構えた二股口に行き着く。
 乙部に上陸した新政府軍は三方に分かれて進撃を開始した。一つは海岸線沿いに南下して江差を経て松前を攻める経路。もう一つは上ノ国から山を越えて木古内に出るルート。そしてもう一つが厚沢部から二股口を経て箱館に至るルートである。直線距離では二股口ルートが最短となる。


二股口古戦場


塹壕跡

 二股口には土方歳三が十六カ所の陣地を構えており、新政府軍はここを容易に突破することができなかった。土方歳三の無敗神話が生まれたのはこの地であった。「新解 函館戦争」の兵頭二十八氏は、二股口で旧幕軍が優勢であったのは、土方歳三の用兵や指揮が卓越していたためではなく、単に弾薬の補給力に差があり、新政府軍の弾薬が早く切れてしまっただけだという見解を開陳している。案外それが正鵠を得ているのかもしれない。
 新政府軍の箱館攻撃部隊が中山峠を越えたのは、明治二年(1868)四月十三日である。土方隊三百に対し、新政府軍は六百という兵力。戦闘は深夜に及んだが、新政府軍の戦死者は二人、土方隊はわずかに一人という結果であった。翌日、新政府軍は稲倉石まで退却し、そのまま攻勢に出ることはなかった。
 同年四月二十三日夕刻、再び両軍が衝突した。またしても戦闘は夜に入ったが、翌日二十四日の午前十時頃、旧幕軍滝川充太郎隊が抜刀して敵陣に斬り込み、たまらず新政府軍は逃走した。長州藩の軍監駒井政五郎は、松下村塾に学んだ人物で、新政府軍参謀の山田市之允(維新後、顕義)とは同窓であった。このときの戦闘で銃弾を受けて駒井は戦死した。駒井の遺体は、江差まで後送され、官修墓地に埋葬された。
二股口古戦場入口を一旦通り越して右手が新政府軍側の陣屋跡である。ここに薩摩藩軍夫佐藤安之助の墓が一基だけ建てられている。佐藤安之助は津軽の人。津軽岩木山付近で徴発された農民で、四十二歳であった。佐藤という姓も、薩摩藩があとからつけた可能性もあるという(兵頭二十八著「新解 函館戦争」P.258)。


佐藤安之助墓


土方軍戦死者之御霊

(台場山)


台場山
新政府軍陣地側から望む


二股口古戦場から少し上に行ったところに、生々しく塹壕跡が残っている。本来、ここから台場山に上る道が続くはずであったが、残念ながら道がよく分からない。本気で台場山をアタックするのであれば、単独行動は避けた方がよい。この山中で迷ったら生還は覚束ない。身の危険を感じた私はここで引き返すことにした。

(松前藩番所跡)


松前藩番所跡・毛無山山道入口

 国道沿いの中山峠に近い場所に、やはり大野 文保研の建てた看板がある。松前藩の番所跡・毛無山山道入口である。ここから百メートルほど脇道を進むと、入口がある。この入口付近に松前藩の番所があり、さらに五百メートルほど行くと自然石の道祖神(墓?)が残っているそうだが、見た感じではかなり道は険しそうである。私は入口で引き返してしまいました。この番所は、江差山道を往来する旅人の事故やオオカミの襲来、熊の出現に備えたものらしい。

(無名戦士の墓)


無名戦士の墓

 北斗市大野地区における史跡訪問では、「大野 文保研」という組織が建てた史跡説明板が大いに役に立った。インターネットで調べたところ、「大野 文保研」とは、大野文化財保護研究会の略称で、その名のとおり旧大野町内の文化財の保護や郷土史の研究を主目的にした組織だそうである。地道な活動に頭が下がる思いである。
 向野(小川地区)の澤村家の水田の畦道にある無名戦士の墓も、国道から脇道に入る非常に分かりづらい場所にある。要所に文保研が標識を立ててくれているので、迷わずに行き着くことができる。ただし、これは夏に限ったことかもしれないが、畦道は深いラフのような状態で、墓石はそれに埋もれているので、近くまで行かないと発見できない。
 自然石の墓石に葬られている犠牲者が、旧幕軍なのか新政府軍なのかも不明であるが、澤村家では毎年供養を欠かしていないそうである。

(焔硝倉の沢)
 旧幕軍が焔硝倉(火薬庫)を置いたとされる場所である。江差と函館を結ぶ国道227号線沿いにある見通しの良い場所である。そういった地理的条件を考慮して場所を選定したものと思われる。この周辺には、散兵濠や方形台場もあるらしいが、そこまで分からず。


焔硝倉の沢

(市渡稲荷神社)


市渡稲荷神社

 市渡小学校に隣接する市渡稲荷神社には、箱館戦争において旧幕軍が作戦本部を置いたという。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

厚沢部

2013年11月16日 | 北海道
(鶉ダム)
 明治元年(1868)十一月十日、館城攻略のため箱館五稜郭を出陣した旧幕府軍一聯隊(松岡四郎次郎)と松前藩軍との戦闘が行われた戦場である。古戦場は湖底に沈んでいるが、
大凡現在の鶉ダム築堤付近と推定される。ダム建設地に選定されたことからも明らかなように、急峻な岩山からなる地峡である。ここを旧幕府軍に突破されると、その背後には平野が拡がり、館城まで遮るものが少ないため、旧幕府軍の進撃を許すことになる。松前藩としては稲倉石の守備は必須であった。松前藩では道路を封鎖し、小口径砲数門を装備した陣地を築いていた。しかし、旧幕府軍によって左右の岩山から狙撃されると、支えきれずに陣地を捨てて潰走した。


稲倉石古戦場
(現・鶉ダム)


碧血碑

 松前藩の記録によれば、稲倉石の戦闘が最激戦だったということになっている。客観的には、松前城攻防戦や二日間にわたった館城攻防戦の方が激戦というに相応しいような感じがするが、何か特別な事情があったのだろうか。
 榎本武揚と大鳥圭介が函館山麓に建立した碧血碑は有名であるが、実は稲倉石に第二の碧血碑がある。大正八年(1919)七月に松前藩ゆかりの人たちによって建立されたものである。

(鶉村古戦場跡)
 稲倉石で松前藩を撃破した旧幕府軍は、明治元年(1868)十一月十三日、鶉村に進軍しここに宿陣した。翌十四日、二小隊を偵察のために館村に派遣したところ、松前藩兵が鶉村本陣を襲撃し、戦闘となった。旧幕府軍はこれを撃退している。


鶉村古戦場跡

(丸山古戦場跡)

 十一月十四日、丸山において、旧幕府軍の偵察隊と館城から派遣された松前藩偵察隊との小競り合いがあった。この戦闘では旧幕府軍の吹き鳴らすラッパの音に驚き、松前藩が敗走した。


丸山古戦場跡

(館城跡)


館城跡


館城跡
土塁が残る

 館城は、松前藩が明治元年(1868)九月からほぼ一か月で完成させた要塞である。もちろん松前藩は、松前城を居城としていたが、この城は海岸線に近く、艦砲射撃に極めて弱いという弱点があった。そこで鶉村の館に急造の城郭を建築し、行政府ごとそこに移転するという計画が立案されたのである。


三上超順力試之石


俎板を片手に奮戦する三上超順
(五稜郭タワー)

 三上超順は松前藩の正義派幹部の一人で、松前法華寺の僧侶である。舘城攻防戦で奮戦した。伝えられるところでは、超順は右手に太刀、左手に楯代わりにまな板(鍋)を持って暴れ回ったという。乱戦の中、超順は斬死した。舘城址公園には、「三上超順力試之石」が置かれている。

(官軍の沢)


官軍の沢

 明治二年(1869)、新政府軍の進撃路となった沢で、それに因んだ地名となっている。やはりここも雑草が生い茂り、とても沢を見ることも、実際に近くまで見に行くこともできない。沢を見たければ、秋か冬に訪れた方が良いだろう。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする