史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

雨竜

2014年04月12日 | 北海道
(雨竜史跡公園)


雨竜開拓の拠点 蜂須賀農場跡

新十津川町から国道275号線をさらに十キロメートルほど北上すると、雨竜町に着く。史跡公園は、雨竜開拓の起点となった蜂須賀農場跡である。蜂須賀茂韶は、明治二十二年(1889)、三条実美、菊亭修季らとともに雨竜郡に一億五千坪もの広大な土地の貸付を願い出て許された。彼らは華族組合雨竜農場を設立して開墾に着手したが、明治二十四年(1891)の三条の死により頓挫してしまう。そこで蜂須賀茂韶は、新たに六千町歩の官有地の貸し下げを受けて、蜂須賀農場を開いた。


史跡公園のアカマツ
史跡公園内の記念館は、やはり雪に閉ざされ行き着けず。周辺のアカマツは、蜂須賀茂韶が農場開設時に徳島の菩提寺から持ち込んで、自ら植樹したものという。


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新十津川

2014年04月12日 | 北海道
(新十津川町開拓記念館)


新十津川町開拓記念館

新十津川は、その名のとおり奈良県の十津川村の住民が拓いた町である。明治二十二年(1889)、豪雨に襲われた奈良県十津川村では死者百六十八名、家屋の全壊・流出四百二十六戸という甚大な被害を受けた。明治二十三年(1890)、約二千五百名もの住民が新天地を求めてこの地への移住を決断した。
開拓記念館は、この町の開拓の歴史を伝えるために昭和五十五年(1980)に開設されたものである。積雪のために近づくことすらできなかったが、遠目に見る限り、随分立派な建物である。

(新十津川町役場)


新十津川町役場

開拓記念館の写真すら撮れなかったので、代わりに新十津川町役場の写真を掲載しておく。


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月形

2014年04月12日 | 北海道
(月形樺戸博物館)


月形樺戸博物館

月形樺戸博物館は、樺戸集治監と呼ばれた監獄を紹介するもので、月形町役場に隣接している。この建物はかつて樺戸集治監の本庁舎として使用されていたもので、のちに月形町役場としても利用されたものである。月形という町名も、月形潔(福岡藩の勤王の志士、月形洗蔵の甥)という初代典獄の姓からとったものである。
明治十四年(1881)、相次ぐ内乱によって発生した国事犯を収監する監獄として、この地に樺戸集治監が置かれることになった。反政府分子を隔離すると同時に、囚人を北海道の原野開拓に従事させる意図でこの地が選定されのだという。
あの永倉新八も、剣術指導のため樺戸集治監を訪れている。
吉村昭の『赤い人』は、この樺戸集治監を舞台にした小説である。せっかく月形町を訪ねたので、旅行から戻ったら読んでみたい。



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当別

2014年04月12日 | 北海道
(当別伊達記念館)


伊達邸別館

小樽をあとにして向ったのが、石狩地方の当別、月形、新十津川、雨竜である。何度もいうようだが、この時期の北海道は史跡探訪には適していない。当別の伊達記念館、月形の樺戸博物館、新十津川の開拓記念館は、いずれも冬期閉館中であった。最後に訪れた雨竜の史跡公園では、壁のように積み上げられた雪を乗り越え公園内の撮影をすることになったが、やはり公園内に入ることはできなかった。
当別は、仙台藩主伊達家の一門岩出山伊達家の伊達邦直主従が開拓した町である。戊辰戦争後の処分により大幅減封処分を受けた伊達邦直は、家臣が路頭に迷うことを心配し、北海道開拓を志願した。明治四年(1871)を第一陣とする、岩出山伊達家の家臣団による移住は三回に及び、合わせて六百名を越える家臣団が当別に入植した。伊達主従の辛苦を偲び彼らの偉業に感謝するために開設されたのが伊達記念館である。
伊達記念館には明治十三年(1880)に建築された伊達邸別館が移築復元されている。小松宮彰仁親王のほか、萬里小路通房、米田虎雄侍従長、樺山資紀警視総監、岩村通俊検査長、黒田清隆開拓使長官、榎本武揚逓信大臣らがここに宿泊している。

(当別神社)


当別神社

伊達記念館の向かいにある当別神社は、当別の開拓に身を捧げた伊達邦直を祭神とする神社である。境内には伊達邦直の入植百年記念した御創祀壱年記念碑や鮎田塾碑などがある。


御創祀壱百年記念碑


鮎田塾碑

鮎田塾は、明治五年(1872)伊達邦直の命を受けて、岩出山伊達家の家老であった鮎田如牛が開いた塾である。



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江別

2014年04月12日 | 北海道
(榎本公園)


津石狩(対雁)番屋跡

次に訪れたがのが、江別市の榎本公園である。この場所はかつて対雁(津石狩)の番所が置かれたところで、鮭漁と内陸水路交通の要点として賑わったという。
慶応四年(1868)には、立花由松という人物が江別最初の和人としてこの地に定住し、それを皮切りに明治四年(1871)には宮城県から七十六名が入植し、同九年(1876)にはサハリン(樺太)から八百五十四人ものアイヌ人が移住させられている。周辺には製鉄所や学校ができ、殷賑を極めた。しかし、明治十五年(1882)鉄道が開通すると人の流れは江別・野幌に移り、さらに明治十九年~二十年にかけて流行したコレラのために三百人以上が病死する惨事に見舞われた。今では周囲には工業団地が広がっているだけの、どちらかというと人影の少ない場所となっている。
対雁番所跡地は、現在榎本公園となっているが、積雪のために公園内には一歩も入れない。榎本武揚の騎馬像を遠くに眺めることが精一杯であった。


榎本武揚像



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札幌 厚別区

2014年04月05日 | 北海道
(北海道開拓記念館)
結論からいうと、この時期の北海道は史跡訪問には適していない。三月下旬とはいえ、関東でいえば真冬に匹敵する。北海道は自動車社会であり、主要な道路は除雪が進んでいる。除雪されないと死活問題だからである。その点では、少し雪が積もったら公共交通機関が麻痺し、あちこちで自動車が立ち往生してしまう関東地方とは格段の違いがある。しかし、一歩脇道に入れば雪は残っているし、残った雪は人や車に踏み固められてスケートリンクのようにツルツルだし(私は二回転倒しました)、公園や資料館の多くは除雪が行き届かずとても中に入れる状態ではないし、地方の資料館は基本的に冬期休業であるし、石碑や墓地も雪に埋もれているし、それに何よりも寒い。朝夕は氷点下まで冷え込むが、日中でも二~三度くらいしか温度が上がらない。泣き言になってしまうが、やっぱり九州の方が良かったと後悔することになった。

里塚霊園の永倉新八、前野五郎(ともに元新選組隊士)の墓を目指した。さすがにこの天候では、いかにお彼岸とはいえ、墓参りに来ている人の姿もない。しかも墓石はすっかり雪に埋もれており、とてもでないが目当ての墓を探すことはできる状態ではなかった。


北海道開拓記念館

仕方なく次の目的地である北海道開拓記念館を目指した。しかし、こちらも改修のため来年(2015)まで閉館中ということで、建物を見るに留まった。この記念館は北海道開道百年を記念して、昭和四十六年(1971)に開設されたものである。


北海道開拓の村

北海道開拓記念館には開拓の村という一種のテーマパークが隣接している。こちらは営業していたが、入場料六百八十円(因みに夏期は八百円)を惜しんで見送った。
園内には明治から昭和初期にかけて北海道各地に建築された建造物五十二棟を移築展示している。時間に余裕があれば、一見の価値はあると思う。


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札幌 白石区

2014年04月05日 | 北海道
(白石神社)
札幌市白石区は、その名のとおり、戊辰戦争で敗れた白石城主片倉小十郎とその家臣が移住したことから始まる。彼らは明治四年(1871)九月、咸臨丸と庚午丸に分乗して北海道を目指し、途中咸臨丸が木古内沖で座礁沈没する不運に見舞われながら上陸し、うち佐藤孝郷以下六十七名が現在の白石区中央付近に入植した。時の開拓使判官岩村通俊によって白石村と名付けられた。


白石神社

明治四十四年(1911)、白石開村碑が白石神社内に建立された。白石神社の本殿の裏手に立てられており、分厚い雪により近づくことができない。雪に足を取られつつ、やっとの思いでこの写真を撮影した。ほかに白石開基百年碑や開村五十年碑などもあるはずだが、靴の中まで雪まみれになってしまい、ここで撤退するほかはなかった。


白石開村碑


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札幌 豊平区

2014年04月05日 | 北海道
(羊ケ丘展望台)
 二日目の午前中は、羊ケ丘展望台で過ごした。有名なクラーク博士の「少年よ、大志を抱け」の像がある場所である。
 本来、クラーク博士像の向う側には、牧草地が拡がるが、この日は見渡す限りの雪原であった。


クラーク博士像


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札幌 西区

2014年04月05日 | 北海道
(琴似神社)


琴似神社

琴似周辺(現在、琴似神社のある辺り)も、多くの屯田兵が入植したところで、琴似神社境内には屯田兵屋が保存されているらしいが、どういうわけだか見つけられなかった。路面はツルツルに凍っており、私はものの見事にひっくり返って背中から落ちた。


琴似屯田兵屋



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札幌 東区

2014年04月05日 | 北海道
(サッポロガーデンパーク)


麦とホップを製すればビイルとゆふ酒になる

 「麦とホップを製すればビイルとゆふ酒になる」という文言は、明治九年(1876)、開拓使醸造所開業式の際、ビール樽に記されたものと同じものである。

 初日の夕食は、サッポロビール園でジンギスカンである。ジンギスカンが好物というわけではないが、サッポロビール園にはこだわった。厳密にいえば、サッポロビール博物館が個人的には見逃せないスポットであった。


サッポロビール博物館

 サッポロビール博物館では、サッポロビールの歴史を学ぶことができる。いきなり最初のコーナーで、黒田清隆と並んで、村橋久成や中川清兵衛といったサッポロビール創業に関わった人物を紹介している。ロンドン大学で村橋久成の名の刻まれた石碑を実見し、与板(現・新潟県長岡市)で中川清兵衛の生誕地を訪ねた私としては、感涙ものの展示であった。
 村橋久成は、天保十三年(1842)、薩摩の名門、加治木島津家の分家に生まれた。慶応元年(1865)、藩の密留学生の一員に選ばれ、ロンドンに渡航した。帰国して戊辰戦争では官軍に加わった。明治四年(1871)、黒田清隆が次官を務める北海道開拓使に採用され、やがて麦酒醸造所建設の事業責任者となった。村橋は麦酒醸造所の立地について、一旦東京に決定したのを、北海道に変更することを強く主張し、結局村橋の主張が容れられ、札幌における開拓使麦酒醸造所建設が決定された。サッポロビール生みの親と称される所以である。
 明治十五年(1882)、村橋は突然官を辞し、行方をくらました。彼の存在が報じられたのは、その十年後の明治二十五年(1892)であった。神戸で、行き倒れ同然の死を迎えたのである。このとき彼は雲水姿をしていたという。この十年間、彼がどういう生活を送っていたのか、誰にも分からない。維新後、我が世の春を謳歌した薩摩人は多いが、村橋にもその権利は充分あったはずである。どうしてその権利を放棄したのか。村橋久成の人生は謎に満ちている。


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