史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

八雲 熊石

2013年11月09日 | 北海道
(関内港)
箱館戦争の第一期を榎本艦隊の上陸から箱館府の征圧までとすると、第一期は榎本軍の圧勝であった。対照的に道南の守備に就いていた松前藩軍の弱さは目を覆うばかりであった。ことに藩主一行の末路の悲惨さは、戊辰戦争を通じてほかに類を見ない。
松前城を追われた松前徳廣と松前藩軍は、藩領の北限である関内まで逃げ延び、そこから海路津軽を目指した。松前藩は、参勤交代の都度、この海峡を越えており、本来慣れた航路であるはずだが、厳寒の海は格別であった。熊石でやっとのことで調達した舟は、長栄丸といって通常であれば四~五人乗りの荷送用漁船であった。それに藩主以下七十人以上が乗り込んだ。浮力を得るために周囲に樽を巻きつけたというが、それでもこの小舟で海峡を渡るのは冒険というに等しかった。藩士たちは必死に海水を掻き出して、何とか津軽半島の平館に行き着くことができた。大時化の中、激しい船酔いと湿気のため、五歳の鋭姫が船中で息を引き取った。もともと結核を病んでいた藩主松前徳廣は瀕死の重態に陥った。結局、徳廣は平館到着後、八日目で病死している。わずかに二十五歳であった。徳廣の死は、敗戦の責を負った「自刃」と糊塗され、新政府に報告された。


関内港

 松前徳廣一行が出港した関内港である。今回の旅の渡島半島西海岸の北限である。

(門昌庵)


門昌庵

藩主を送りだした松前藩士らは、門昌庵で降伏した。幕末より時代は遡るが、この寺は松前藩で「門昌庵事件」と呼ばれる事件の舞台にもなった。大きな寺かと勝手に想像していたが、実際には拍子抜けするほど小さな寺院であった。

(熊石町歴史記念館)


熊石町歴史記念館

 箱館戦争に関する展示が充実していると聞いたので、熊石歴史記念館まで足を運んだ。せっかくここまできたというのに、無情にもお盆休み期間中は休館であった。

(無量寺)
無量寺の庫裡は館城の米蔵を移設したものと言われる。


無量寺

(妙選寺)


妙選寺

熊石まで逃れた松前徳廣以下松前藩兵は、明治元年(1868)十一月十七日、妙選寺に宿泊した。翌日、彼らはさらに関内まで北行した。

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乙部

2013年11月09日 | 北海道
(官軍上陸の地碑)


官軍上陸の地碑

箱館戦争は、榎本艦隊が鷲ノ木に接岸上陸した明治元年(1868)十月二十日に始まり、新政府軍に降伏した明治二年(1869)五月十七日までの約七か月で終息した。奥羽越列藩同盟の抵抗が五か月で止んだことを思えば、八か月という期間は長いと評価できるかもしれないが、新政府軍の本格的反攻は、冬が明けた明治二年(1869)四月九日の乙部上陸からであり、そこを起点とすると榎本軍が抵抗したのはほんの一か月余りということになる。結果的にはまったく呆気ない印象である。


官軍上陸通り

 現地には官軍上陸の碑が建てられ、国道から碑に向かう道は、「官軍上陸通り」と名付けられている。

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江差 Ⅱ

2013年11月09日 | 北海道
(佐々木病院)


長州藩宿所跡

 史跡を示すものは何も残っていないが、現在佐々木病院のある辺りに関川家という商家があり、長州藩整武隊が宿所としていた。品川弥二郎らもここを訪ねた記録が残っている。

(姥神大神宮)


姥神大神宮

 明治元年(1868)閏四月、江差を訪れた清水谷公考は、江差の鎮守である姥神大神宮を参拝した。

(横山家)
 明治二年(1869)新政府軍上陸の際、備前岡山藩の宿所として利用された。


横山家

(江差追分会館)
 開陽が座礁沈没したのが、現在江差追分会館のある場所の沖であった。開陽丸終焉之地を示す石碑が建てられている。
 明治元年(1868)十一月十五日夜半、江差の港に停泊していた開陽丸を烈風が襲った。本来、乗組員はいち早く蒸気を焚いて沖合に待機すべきであった。逃げ遅れた開陽は岩礁に乗り上げ動けなくなった。最後の手段として、大砲を放ちその反動で離礁しようと試みたが、浸水がひどくなり、やがて船体の中央部に亀裂が入ってしまった。


開陽丸終焉之地碑

 箱館で開陽丸遭難の報を受け取った大鳥圭介は「全島の海陸軍これを聞き、胆を破り肝を寒し、切歯扼腕涙を堕すばかりなり」と『南柯紀行』に記している。
 旧幕軍にとって開陽を失ったことは致命的であった。開陽を保有していたことで海軍力において優位に立てていたのである。もちろん、開陽を失っていなければ箱館戦争に勝てたかといえば、もう少し戦争が長引いた可能性はあったとしても、それは難しかったであろう。

(旧桧山爾志郡役所)


旧桧山爾志郡役所

 旧桧山爾志郡役所の建物は、明治二十年(1887)に落成したという、瀟洒な洋風建築である。
 開陽丸沈没の様を見た土方歳三が、この松を拳で叩いて悔しがったという伝説の残る松である。ホントかどうか分からないが、松には瘤ができ、そこから曲がってしまったそうである。


土方歳三嘆きの松

(東本願寺別院)


東本願寺別院

東本願寺別院は、当時は順正寺という名称で、明治元年(1868)清水谷公考が宿所としていた。その後、江差を旧幕軍が占領すると、星恂太郎率いる額兵隊駐屯所が屯所とした。

(護国神社)


官修墓地 水戸藩

 松前の招魂場と同じく、訪れる人は少ない。道案内の標識も見当たらないが、手入れが行き届いているのが、せめてもの救いである。墓石は出身藩ごとにまとめられている。
 この中では、長州藩の駒井政五郎が一番のビックネームであろう。駒井の墓は、長州藩の墓域に置かれている。一際背が高いので、すぐにどれと目星がつく。


官修墓地 福山藩


長藩整武隊軍監駒井政五郎之墓

(法華寺)


法華寺

法華寺の山門は、かつて檜山奉行所の門として使われていたもの。明治二年(1869)の戦争では、松前藩の宿所として使われた。新政府軍により旧幕軍兵二十余名の首がこの山門に晒されたといわれる。

(慶喜の松)


慶喜の松

 五厘沢温泉の横に「慶喜の松」がある。松前藩家老蠣崎蔵人が、徳川慶喜から拝領した松を当地に移植したというもので、樹齢二百五十年と推定されている。


慶喜トンネル

 近くには慶喜トンネルまであるが、徳川慶喜自身が当地を訪ねた記録はない。



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江差 Ⅰ

2013年11月09日 | 北海道
 上ノ国町から海岸線を北上すると、やがて江差のシンボルというべき開陽丸が見えてくる。思わず「ヤッター!」と叫んでしまった。

 江差は江戸期ニシンの交易港として栄えた。戸数三千という当時でもこの周辺では大きな集落であった。箱館戦争では戦場となったが、当時の豪商が町を焼くことを自制するよう、新政府軍、旧幕軍双方に強く要請したおかげで今も江差には古い街並みがよく保存されている。

榎本武揚という人は、この時代にあって海外事情にも通じ、当代一流の知識人であったことは間違いないが、箱館戦争当時、まだ三十代の前半という若者であった。無論、現代の「三十代前半」と同列に論じられるものではないが、一軍の将として或いは箱館政権の総裁として十分な能力が備わっていたかと考えると、甚だ未熟だったと言わざるをえない。明治五年(1872)に、謹慎が解けると以後榎本は明治政府に重用され、外交官として活躍した。さらに外務大臣、農商務大臣、逓信大臣などの要職を長く務めたが、当人の才はむしろそちらにあったと見るべきかもしれない。
組織のトップというのは、人並み外れて心配性でなくてはならない。私はたまたま久しく会社のトップの近くで仕事をさせていただいた。時には何でそんなことを恐れるのかと呆れるような場面も多々あった。思えば組織というのは危ういものである。小さな破綻やリスクの発現から、会社という大きな組織が躓き、時には消滅してしまう畏れもある。何百何千という従業員とその家族の生活を預かる会社のトップたるもの、九十九%大丈夫であっても、一%のリスクがあればその手当をしておかなくてはならない。リスクマネジメントは組織のトップの重要な責務なのである。
そういう目で箱館戦争の榎本武揚の行動や判断を見ていくと、あまりにもリスク管理が杜撰である。もちろん、戦争はリスクの連続であるし、時には一か八かの博打を打たなくてはいけない場面もある。しかし、そこに行き着くまであらゆるリスクを想定し、様々な場面に応じた打ち手を考えておくのがトップの役割である。江差で開陽が座礁した場面を見ると、そもそも冬場の北海道の近海に出航するリスク、初めて接岸する港に関するリスク、座礁した場合にどうやって離礁するのか、等々事前に検討された形跡がない。開陽を失ったことは箱館政府にとって致命的であったが、単に不運では片づけられないトップマネジメントの不在がかいま見える。
宮古湾海戦における有名なアボルタージュ作戦についても、奇計ばかりが注目されているが、実行に際してあらゆる可能性を検討されたようには思えない。船脚の違う船団が途中でバラバラになってしまうリスクは十分に予見できたはずだし、甲鉄と回天の甲板の高さに差があることも予想できたことである。首尾よく甲鉄の乗っ取りに成功したとして、蒸気機関の立ち上げには数時間を要するという。どうやってその場を脱しようとしていたのか。残念ながら、箱館政府には榎本以上の人材がいなかったことが、究極の敗因だったように思えてならない。

(開陽丸青少年センター)


開陽丸

 開陽は、三本マストを備え、長さ約七十二・八メートル、幅一三・〇四メートル、排水量二千五百九十トン、機関四百馬力、最大速力十ノット(時速十八キロメートル)という当時では最新鋭の堂々たる戦艦であった。
 現在、江差町では開陽を原寸大に再現し、展示施設「開陽丸青少年センター」として公開している。内部には沈没した開陽から引き揚げられた遺物や「麦叢録」の写しなどが展示されている。


えさし海の駅 開陽丸青少年センター


「麦叢録」展示
江差奉行並小杉雅之進が残した「麦叢録」の写しが展示されている


大砲
12ポンドカノン砲(左)
16サンチクルップ砲


スクリューシャフトと上下装置
(真鍮製)
長さ、重量とも出土品の中では最大級


船体の一部


葵の御紋
受注したオランダでは「葵の御紋」が理解できずに「ハート」になってしまった


開陽丸


開陽丸船内会議室の様子

(鴎島)


鴎島

 鴎島は開陽丸のある浜辺から陸続きになっている。周囲約2.6キロメートル。島内には遊歩道が整備されており、見学スポットには説明が加えられている。開陽丸の開館が午前九時だったので、それまでの時間、鴎島を散策して時間を潰すことにした。一周四〇分ほどであったが、予想外に汗をかいた。


瓶子岩

 この高さ一〇メートルほどの頭でっかちの岩は、瓶子岩と呼ばれている。古来より漁民の守護神として尊崇を集めているそうである。

 鴎島には、松前藩により北西部(テカエシ台場)と南端(キネツカ台場)の二か所に台場が設けられた。


テカエシ台場跡


キネツカ台場跡

 キネツカ台場には、当時の塹壕の跡が残っている。松前藩は、南から進攻する旧幕軍をこの砲台から迎撃した。


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上ノ国

2013年11月09日 | 北海道
(大滝古戦場跡)


大滝の古戦場

 現在、大滝には高い橋脚をもつ大滝橋が渡されているが、当時は一旦谷底まで下りて、対岸の崖をよじ登るような難所であった。旧幕軍の北上を食い止めるため、松前藩はここに陣屋を設置し、軽野砲を数門置いて防御を固めた。
 土方歳三ら旧幕軍が攻撃をしかけたのは、明治元年(1868)十一月十四日の夜明けのことであった。攻め立てられた松前藩軍は、堪え切れずに午前九時頃には陣地を放棄して一斉に敗走した。


大滝橋

 今も海岸沿いには難路であった旧道が走っている。ただし、雑草が茂り、橋の上からだと分かりにくい。


大滝橋より旧道を望む

(愛宕神社)


愛宕神社

 明治二年(1869)の戦争でのこと。官軍と幕軍の武士が遭遇し、たちまち斬り合いとなったが、一方が「個人的な恨みはないが、無益な殺生は止めよう」と道のかたわらの若松の頭をチョン切り鎧音もさわやかに刀を納めて、悠々と立ち去ったという。


芯止ノ松

(道の駅もんじゅ)
 薩摩藩が建造し、幕府に献上された軍艦昇平丸は、その後明治政府に引き継がれ、物資輸送船として利用された。明治三年(1870)一月、小樽に向かう途中、暴風雨に遭い木ノ子村に漂着し、高波で海岸に叩き付けられて沈没した。このとき乗組員五名が落命している。


「道の駅もんじゅ」から

 道の駅もんじゅには昇平丸の模型が展示されている。


昇平丸模型

(木ノ子)


日本初の洋式軍艦
昇平丸最終の地 霊追善供養之塔

 道南では、昇平丸のほか、咸臨丸、開陽丸が最後を迎えた。幕末史を飾る艦船がいずれも道南で遭難したのは単なる偶然ではあるまい。この事実は、北の海の苛烈さを端的に表わしている。



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松前 Ⅱ

2013年11月09日 | 北海道
(松前藩屋敷)


松前藩屋敷

 かつて日本最北の城下町として賑わった松前の街並みを再現したものである。松前の街は、明治元年(1868)と明治二年(1869)の二度にわたる戦火で壊滅的被害を受けた。

 松前藩屋敷まで来たところで、さすがの暑さに売店で休憩をとることにした。ソフトクリームを頼んだところ、売店のオバサンが「クリームが爆発してしまったので、お金は結構です」というので、無料でソフトクリームを頂戴してしまった。ソフトクリームは、少し変形していたようだが、「爆発」というほど大袈裟なものではなく、そもそもいったい「爆発」とはどういう現象だったのかよく分からないまま、「だけどタダなら良いか」ということで有り難くいただいた。

(法幢寺)


法幢寺 山門


松前藩主墓地


松前徳廣墓

先年、松前徳廣の墓が、弘前の長勝寺で発見され、ちょっとした話題になった。徳廣の墓は明治初年に松前に改装されたため、長勝寺の墓は空墓であったが、弘前藩では、他藩に亡命してそこで命を落とした悲劇の藩主を手厚く葬ったことが伺い知れるものであった。


松前崇廣墓

 松前崇廣は、文政十二年(1829)、松前藩九代藩主章廣の六男に生まれた。西洋事情や西洋の文物を勉強し、電気機器や写真、理化学に興味を持った。嘉永二年(1849)、十一代藩主昌廣の隠居に伴い、幼少の徳廣に代わって家督を相続して十二代藩主に就いた。幕府より北方警備強化のために松前城築城を命じられ、松前城は嘉永六年(1853)に完成した。これをもって松前藩主は陣屋住まいから城主となった。文久三年(1863)、幕府は西洋通で知られる崇廣を寺社奉行に登用し、元治元年(1864)には外様大名としては異例の老中に抜擢した。しかし、老中阿部正外と崇廣は、勅許を得ずに独断で兵庫を開港した咎により、両閣老とも免職の上、国許で蟄居を命じられた。慶応二年(1866)一月、崇廣は松前に帰還したが、同年四月病を得て、失意のうちに世を去った。三十八歳であった。
 法幢寺の境内は厚い苔で覆われている。先日、京都の苔寺を参観したばかりであるが、法幢寺の苔は、それに勝るとも劣らないものである。松前藩主の墓域には、歴代藩主やその夫人、子供の墓が並ぶ静かな空間である。途切れることのない蝉しぐれだけがBGMとなっている。


松前修廣墓

 松前修廣(ながひろ)は、松前藩十三代藩主徳廣の長男。津軽における父徳廣の急死を受けて、十四代藩主に就いた。箱館戦争当時四歳の幼児であったが、戦後、戦功を評価され章典禄二万石を下賜され、藩知事に就任した。明治三十八年(1905)、四十一歳にて死去。

(法源寺)


法源寺 山門

 法源寺は、箱館戦争の際、本堂などの全ての建物を消失したが、山門のみ戦火を逃れた。室町時代の建築で、現存する北海道最古の寺社建築といわれる。


旧津軽藩将卒二百八十七名之墓

 法源寺山門脇。箱館、利尻、宗谷などで蝦夷市警備にあたり、現地で病死した弘前藩士の慰霊碑である。建立は大正十二年(1923)。

(正行寺)
 熊石で降伏した松前藩士は、松前まで護送され、焼け残っていた法華寺と正行寺の二寺に監禁された。捕虜となった松前藩士に対して旧幕軍は、一、藩主を慕って津軽へ渡海 二、帰農工商 三、旧幕軍への参加という三つの選択肢を提示した。松前藩士の多くは藩主に従って津軽に渡ることを希望した。彼らは翌年の松前城奪還戦では旧幕軍に向けて銃火を浴びせることになった。


正行寺

(神止山招魂場)


神止山招魂場


烈女川内美岐の墓


川内美岐顕彰碑
「烈女」の「烈」という文字のみ、辛うじて読み取れる

 神止山招魂場へは、特に案内表示があるわけでなく、ここに行き着くまで結構難渋した。浄水場が目印である。しかし、浄水場から招魂場に至る道は、未舗装道路の上、雨で表層が流出していて、とても安全に自動車が走行できるように思えない。一応、安全を見て、自動車を乗り捨てて徒歩で招魂場に向かうことにした。すると今度は虫の集中攻撃を受けることになった。虫の攻撃は、招魂場に入るとさらに勢いを増し、長時間ここに滞在するにはかなりの忍耐力を要する。しかも招魂場はほとんど手入れされておらず、雑草が伸び放題である。足に草の蔓がからまって何度もこけそうになった。この有り様には辟易したが、各墓の横に埋葬者の名前が記載されている配慮には大いに助けられた。鳥居に一番近い場所に「烈女」川内美岐の墓がある。墓の横には、横倒しになった川内美岐の顕彰碑が放置されている。

(永倉新八旧居跡)
 新選組の永倉新八が維新後移り住んだ場所である。永倉新八は松前藩の出身である。松前中学校の南の民家の前に、木製の札が建てられている。


永倉新八旧居跡
(沖の口役所跡)


沖口役所


沖口役所(松前藩屋敷)

 出入りする船舶や積荷、旅人を検査して規定の税を徴収したのが沖口役所である。現在、沖口役所跡は、小さな公園となっているが、その脇をとおる“沖口坂”は、参勤交代で往来する藩主や家臣たち、さらには本州と松前を行き来する幕吏や商人、出稼ぎ人が通った道である。

(道の駅 北前船 松前)


海に向かって波止が伸びている


道の駅 北前船 松前
波止はこのように利用されていたのだろう

 道の駅北前船松前の前の海岸線に伸びる波止は、明治に入ってから取り壊された松前城の石積みの一部の石を再利用したもの。

(及部川)
 松前城は、攻守が逆転して明治元年(1868)と同二年の二回落城したことになる。明治二年(1869)の落城の際、新政府軍は江差方面、すなわち西側から進攻した。一方、旧幕軍は東側(知内方面)より攻め立てたため、松前藩では城下から東に1・5キロメートルの及部川を防御線として抵抗した。


及部川
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松前 Ⅰ

2013年11月09日 | 北海道
(松前福山城址)


松前城址

 幕末には全国どの藩でも大なり小なり勤王vs佐幕の争いが見られたが、松前藩もその例外でなかった。先代藩主の松前崇廣は、地方の外様にしては珍しく幕府老中に任じられるなど中央政界で活躍したが、勅許を得ず開港を決した責任を問われ、阿部正外とともに官位を奪われ、老中を解任された。慶応二年(1866)正月、失意のうちに藩領において謹慎することになり、同年四月、三十八歳で病没した。
 崇廣の跡を継いだ徳廣(のりひろ)は多病で、藩主として執務するのができない状態だったという。そのため藩政は実質的に家老松前勘解由が握っていた。勘解由はペリーの箱館来航時に応接した老獪な政治家であったが、本質的には佐幕派であった。これに不満を抱いた藩の若手は正義隊を結成し、クーデターを起こして勘解由一派を謹慎蟄居処分とした。さらに正義派は、勘解由ら藩の重臣四名の屋敷を急襲した。このとき勘解由は自刃。ほかの重臣も暗殺されるか、自刃、逃亡したため、松前藩は新政府軍に加担することになった。
 松前藩が藩内抗争に明け暮れている頃、榎本武揚らは箱館五稜郭を占拠し、そこにいた松前藩士を拘束した。土方歳三は彼らを説得して、松前藩との和平交渉の使者として送りだした。ところが松前藩では、彼らを裏切り者として惨殺してしまう。これを知った榎本武揚は、松前攻撃軍の派遣を決した。

 松前城は別名福島城とも呼ばれ、嘉永二年(1849)に幕府に築城を命じられて、安政元年(1854)に完成した「最後の城」である。


松前城御三階櫓(右)
本丸御門

 御三階櫓の南側の石垣には、箱館戦争当時の砲撃による弾痕が残る。本丸御門は、唯一戦火を逃れ、築城当時の姿をとどめている。

 松前藩では高崎藩の軍学者市川一学を招いて城の設計を依頼した。市川一学は、海岸に近い立地に難色を示したが、利便性を重視する松前藩幹部の意向は固く、立地はそのままとして、その代り海に向かって砲座を置くこととなった。
 明治元年(1868)十一月一日、旧幕軍の蟠龍の砲弾は天守閣や本丸御門に命中した。松前藩でも城から反撃したが、旧式の大砲だったため砲弾は敵艦には届かなかった。
 土方歳三率いる松前攻撃軍(彰義隊、額兵隊、陸軍隊)が城下に突入したのは、明治元年(1868)十一月五日であった。松前城は一日で落城し、城兵は城の内外に火を放って逃走した。この火事で城下の四分の三が焼失したという。
 このとき城内にいた足軽銃士北島幸次郎の妻川内美岐はハサミで喉を突いて自殺した。神止山招魂場には、“烈女”として祀られている。
 松前城の正面は堅固であったが、裏手の守備は脆弱であった。土方歳三は裏手(馬門か)から梯子で塀を乗り越えた。これを機に松前城守備兵は総崩れとなった。

 松前の町は、翌年の四月、新政府軍の反攻によって再び戦火に見舞われた。新政府軍が松前総攻撃を実行したのは、四月十七日である。軍艦春日の艦砲射撃を合図に猛攻をしかけたが、旧幕軍も譲らず、戦闘は五時間にも及んだ。この日の戦闘における旧幕軍の戦死者六十。箱館戦争を通じて最も激しい戦闘の一つであった。

 箱館戦争には上野戦争で敗れた彰義隊の生き残りも参加している。彼らは彰義隊から分裂した振武軍の渋沢成一郎(渋沢栄一の従兄。維新後、喜作と改名)を首領と仰いでいたが、松島城攻防戦のさなか、渋沢が金蔵にあった天保銭に目をつけ、荷車で運び出しているうちに、額兵隊との先陣争いに敗れてしまった。これに憤った連中は、渋沢の指揮下で働くことを潔しとせず、再び彰義隊は渋沢派と反渋沢派との二派に分裂した。

(松前神社)


松前神社


田崎東の碑

 田崎東(あずま)は、松前藩正義派(勤王派)の藩士。矢不来の戦闘にて二十七歳で戦死した。この碑は遺族によって建立されたものである。

(松前町役場)


史蹟 松前奉行所趾

 現在、松前町役場となっている場所に松前奉行所があった。建物は明治三年(1870)の火災で焼失したが、その後松前右京邸を移設して、開拓使分署、松前郡役所を経て、松前町役場として使用された。その建物も昭和二十四年(1949)の火災で失われた。

(折戸浜)


折戸浜古戦場跡


砲台跡

 旧幕軍は、折戸浜と建石野に砲台を築いた。新政府軍は五隻の軍艦を松前に派遣し、建石野の砲台に砲弾を集中させた。戦闘は五時間以上に及んだというが、北側の山地に出現した新政府軍によって防御線が破られた。
 折戸浜には、古戦場碑と砲台跡の標柱が立てられている。ただし、文字はほとんど読み取れない。

(法華寺)
 法華寺の山門は、松前城の搦手門が移設されたものである。見てのとおり、屋根瓦の五分の一程度は崩落しており、ロープを張って近づけない状態になっている。貴重な史跡は大切に保存してもらいたいものである。
 法華寺には、旧幕軍の戦死者がまとめて埋葬されている。埋葬場所が発見されたのは、昭和五十四年(1979)のことである。その場所には、「合葬塚」と記された札が立てられている。


法華寺 山門


旧幕府軍合葬塚


徳川陸軍隊士官隊の墓碑

 側面から裏面に七名の戒名が刻まれているが、残念ながら俗名が書かれていないため、人物を特定できない。


官軍伊州藩の墓石


会津藩士墓

 向かって左が会津藩士大庭久輔と水戸藩士関清輔の墓で、右の背の低い墓は会津藩士赤羽音吉の墓で、いずれも旧幕軍戦死者である。大庭久輔と関清輔は法華寺に逃げ込んで、ここで切腹して果てたと伝わる。
 赤羽音吉の墓には、「義進院勇岳日英居士」という戒名が刻まれている。赤羽は大庭の義弟だそうで、大庭と関は赤羽の墓前で割腹したという。


法華寺境内から松前城を望む

 法華寺から松前城までは、直線距離にして約三百メートル。旧幕軍は法華寺境内に大砲を据えて、松前城を攻撃したと伝えられる。

(龍雲院)
 龍雲院は、松前の寺院の中でも最も古い本堂を持つ。山門、本堂とも箱館戦争の戦火を逃れた。


龍雲院 山門


本堂


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福島

2013年11月09日 | 北海道
 福島は「横綱の里」として知られている。千代の山、千代の富士という二人の横綱を輩出したからである。その後、兄弟で横綱になったり、モンゴルから三人もの横綱が誕生したものだから、福島町の偉業は霞んでしまったが、この人口五千人にも満たない小さい町から二人の横綱が生まれたということは、本当は凄いことなのである。因みに横綱は日馬富士まで七十人を数えるが、この数字は歴代総理大臣の数より少ないのである(安倍現総理大臣は九十六代目。ただし、一人で複数回就任している人もいるので、総理経験者となると人数はずっと少なくなる)。
 福島町には、両横綱の記念館もあるが、今回はパス。滞在中のローカルニュースによれば、元千代の富士の九重親方が福島で合宿を張っているということであった。運が良ければ、九重親方に会えたかも…

(法界寺)


法界寺 山門

 明治元年(1868)十一月二日、土方歳三率いる旧幕軍は、市の渡を突破し、福島に進出した。鈴木織太郎を隊長とする松前軍は、福島町の法界寺に本陣を置いた。その背後の福島大神宮の境内に大砲を据えて、土方隊を迎え撃った。


毛利秀吉の墓

 彰義隊士毛利秀吉は、法界寺に騎馬で突入して、銃弾に倒れた。箱館戦争における彰義隊初めての戦死者である。

(福島大神宮)


福島大神宮

 松前藩では、福島神宮の境内に大砲を置いて、旧幕軍を迎え撃った。境内に福島砲台跡の木標が建てられている。


福島砲台跡



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知内

2013年11月09日 | 北海道
(建有川寨門跡)


建有川寨門跡

 木古内町と知内町の境界に建有川寨門(さいもん)があった。ここが松前藩領の東の境界となる。

(武揚松)


武揚松

 箱館戦争時に、榎本武揚が植えたといわれる黒松がある。碑文によれば、「(石碑より)北方の中ノ川沿いの黒松」がそれだというのだが、黒松は意外とあちこちに生えていて、どれが武揚松なのか特定できなかった。

(萩茶里橋)
 明治元年(1868)十一月一日、旧幕軍(彰義隊、額兵隊、陸軍隊)は、一ノ渡から萩茶里にかけて大雪の中、露営した。
 その日、夜になって松前藩兵五十が奇襲攻撃をしかけた。夜襲は成功したかのように見えたが、松前藩兵は家屋に手当たり次第に放火し、そこから発砲を続けたため、旧幕軍の標的となってしまい反撃を許してしまった。松前藩では五名の死体を遺棄して山林に逃げ込んだ。旧幕軍側に戦死者は無かった。


萩茶里橋

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木古内

2013年11月09日 | 北海道
 二日目の宿泊は、息子の要望により木古内であった。木古内は特急が止まる駅であるが、駅舎を見る限りそれほど大きな駅に到底思えない。駅前には食堂もコンビニもない鄙びた土地である。

(更木岬)


咸臨丸終焉の地


咸臨丸


咸臨丸終焉の碑

 明治四年(1871)、九月二十七日、北海道開拓使所属となっていた咸臨丸は、北海道に移住する旧仙台藩士四百人余を乗せて、函館から小樽に向かっている途中、更木岬沖で座礁した。救助船が出て、乗客、乗組員全員が救助されたが、咸臨丸はこの地で沈没した。


木古内町で見かけたマンホールも咸臨丸

 この地で咸臨丸が最後を迎えたというのは、あまり知られていない事実であるが、木古内では、咸臨丸祭なるものも毎年開催されており、咸臨丸を観光の目玉にしている。

(木古内古戦場跡)


木古内古戦場跡

 かつて木古内古戦場には、それを示す標柱があったらしいが、いくら探しても見当たらない。一応、木古内町の観光パンフレットに古戦場跡で記載されている辺りを撮影した。

 北海道には豊かな自然が残されている。同時に貴重な史跡や文化財もよく保存されている方だと思うが、それでも残念なことに、少しずつ史跡を示す標柱などが消滅している。こういう実態に触れると切に何とかして欲しいと望む。

(薬師山)


霊場 薬師山 標高七十三・九m

 薬師山は、木古内の北に位置する小高い山である。木古内での戦闘では、大鳥圭介は薬師山山頂から白馬にまたがって指揮を奮ったといわれる。

(山形庄内藩士上陸之地)
中央公民館近くにあるという山形庄内藩士上陸の地碑を探して、付近を捜しまわった。今回の旅でもっとも発見に苦労した史跡の一つである。


山形庄内藩士上陸之地

一旦諦めて木古内駅まで息子を迎えに行く。その夜、息子と宿の湯船につかっていると、息子が渡島鶴岡駅の近くで山形庄内藩士上陸之地碑を見たと教えてくれた。早速、翌朝、鶴岡駅に直行した。
この碑は中央公民館の近くにあったのだが、新幹線工事に伴って鶴岡に移設されたのだそうである。
なお、地名の鶴岡は、この地に入植した鶴岡藩士に因んだもので、山形県鶴岡市とは姉妹提携をしている。
明治十八年~十九年(1885~86)、旧庄内藩から百五戸が木古内に入植し、現在の木古内町を開拓したという。

(禅燈寺)


禅燈寺

 禅燈寺は、境内を鉄道(江差線)が横断しているという、全国でも珍しい寺院である。息子によれば、業界では結構有名なお寺らしい。


松本十郎の碑

 禅燈寺山門脇に庄内藩の松本十郎の碑がある。松本十郎は、戊辰戦争では、酒井了恒(玄蕃)の指揮する二番大隊の幕僚として活躍し、降伏後は、東京に赴き黒田清隆ら新政府の首脳と交友を深めて藩の戦後工作に奔走した。明治二年(1869)、黒田の推挙により北海道開拓判官に任じられた。しかし、アイヌの人権擁護を主張する松本十郎は、開拓長官黒田と意見が合わず、明治九年(1876)、三十八歳のとき官を辞して鶴岡に帰った。大正五年(1916)、七十八歳にて死去。

コメント (1)
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