(関内港)
箱館戦争の第一期を榎本艦隊の上陸から箱館府の征圧までとすると、第一期は榎本軍の圧勝であった。対照的に道南の守備に就いていた松前藩軍の弱さは目を覆うばかりであった。ことに藩主一行の末路の悲惨さは、戊辰戦争を通じてほかに類を見ない。
松前城を追われた松前徳廣と松前藩軍は、藩領の北限である関内まで逃げ延び、そこから海路津軽を目指した。松前藩は、参勤交代の都度、この海峡を越えており、本来慣れた航路であるはずだが、厳寒の海は格別であった。熊石でやっとのことで調達した舟は、長栄丸といって通常であれば四~五人乗りの荷送用漁船であった。それに藩主以下七十人以上が乗り込んだ。浮力を得るために周囲に樽を巻きつけたというが、それでもこの小舟で海峡を渡るのは冒険というに等しかった。藩士たちは必死に海水を掻き出して、何とか津軽半島の平館に行き着くことができた。大時化の中、激しい船酔いと湿気のため、五歳の鋭姫が船中で息を引き取った。もともと結核を病んでいた藩主松前徳廣は瀕死の重態に陥った。結局、徳廣は平館到着後、八日目で病死している。わずかに二十五歳であった。徳廣の死は、敗戦の責を負った「自刃」と糊塗され、新政府に報告された。
関内港
松前徳廣一行が出港した関内港である。今回の旅の渡島半島西海岸の北限である。
(門昌庵)
門昌庵
藩主を送りだした松前藩士らは、門昌庵で降伏した。幕末より時代は遡るが、この寺は松前藩で「門昌庵事件」と呼ばれる事件の舞台にもなった。大きな寺かと勝手に想像していたが、実際には拍子抜けするほど小さな寺院であった。
(熊石町歴史記念館)
熊石町歴史記念館
箱館戦争に関する展示が充実していると聞いたので、熊石歴史記念館まで足を運んだ。せっかくここまできたというのに、無情にもお盆休み期間中は休館であった。
(無量寺)
無量寺の庫裡は館城の米蔵を移設したものと言われる。
無量寺
(妙選寺)
妙選寺
熊石まで逃れた松前徳廣以下松前藩兵は、明治元年(1868)十一月十七日、妙選寺に宿泊した。翌日、彼らはさらに関内まで北行した。
箱館戦争の第一期を榎本艦隊の上陸から箱館府の征圧までとすると、第一期は榎本軍の圧勝であった。対照的に道南の守備に就いていた松前藩軍の弱さは目を覆うばかりであった。ことに藩主一行の末路の悲惨さは、戊辰戦争を通じてほかに類を見ない。
松前城を追われた松前徳廣と松前藩軍は、藩領の北限である関内まで逃げ延び、そこから海路津軽を目指した。松前藩は、参勤交代の都度、この海峡を越えており、本来慣れた航路であるはずだが、厳寒の海は格別であった。熊石でやっとのことで調達した舟は、長栄丸といって通常であれば四~五人乗りの荷送用漁船であった。それに藩主以下七十人以上が乗り込んだ。浮力を得るために周囲に樽を巻きつけたというが、それでもこの小舟で海峡を渡るのは冒険というに等しかった。藩士たちは必死に海水を掻き出して、何とか津軽半島の平館に行き着くことができた。大時化の中、激しい船酔いと湿気のため、五歳の鋭姫が船中で息を引き取った。もともと結核を病んでいた藩主松前徳廣は瀕死の重態に陥った。結局、徳廣は平館到着後、八日目で病死している。わずかに二十五歳であった。徳廣の死は、敗戦の責を負った「自刃」と糊塗され、新政府に報告された。
関内港
松前徳廣一行が出港した関内港である。今回の旅の渡島半島西海岸の北限である。
(門昌庵)
門昌庵
藩主を送りだした松前藩士らは、門昌庵で降伏した。幕末より時代は遡るが、この寺は松前藩で「門昌庵事件」と呼ばれる事件の舞台にもなった。大きな寺かと勝手に想像していたが、実際には拍子抜けするほど小さな寺院であった。
(熊石町歴史記念館)
熊石町歴史記念館
箱館戦争に関する展示が充実していると聞いたので、熊石歴史記念館まで足を運んだ。せっかくここまできたというのに、無情にもお盆休み期間中は休館であった。
(無量寺)
無量寺の庫裡は館城の米蔵を移設したものと言われる。
無量寺
(妙選寺)
妙選寺
熊石まで逃れた松前徳廣以下松前藩兵は、明治元年(1868)十一月十七日、妙選寺に宿泊した。翌日、彼らはさらに関内まで北行した。