史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

北斗 当別

2013年11月09日 | 北海道
(川田男爵資料館)


川田男爵資料館

 当別には川田男爵資料館がある。川田龍吉男爵は、土佐藩の川田小一郎の長男である。川田小一郎は岩崎弥太郎を助けて草創期の三菱の経営に尽力した。のちに第三代日銀総裁を務め、男爵を授けられた。龍吉は、スコットランドに留学して船舶機械技術を学んで帰国すると、実業界で活躍した。明治三十六年(1903)横浜船渠会社社長退任をすると、請われて函館船渠会社の経営に携わるため北海道に渡った。函館船渠を退社後も北海道に留まり、余生を農業に近代化に捧げた。川田龍吉は長生きした人で、昭和二十六年(1951)に九十五歳で世を去った。川田男爵資料館は、川田農場の跡地に昭和五十八年(1983)に開設されたものである。

 北海道といえば、特産物が数えきれないほど多い。ジャガイモもその一つである。「男爵いも」と呼ばれる品種は、川田龍吉男爵が留学先のイギリスで食べたジャガイモの味が忘れ難く、日本に持ち込んだものである。川田男爵の留学には悲恋の物語があった。詳しくは川田男爵資料館HPを参照願いたい。

 明治元年(1868)十月二十七日、松前攻略を目指す旧幕軍は、當別に宿陣した。

(トラピスト修道院)


トラピスト修道院

 有名なトラピスト修道院である。トラピスト修道院は、明治二十九年(1896)にフランスから数名のシトー会の修道士が来道し、ここに白ペンキ塗りの建物を建てたのが始まりである。
ここでお土産のトラピスト・クッキーとバター飴を購入した。


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北斗 上磯

2013年11月09日 | 北海道
(JR清川口駅北側)

 北斗市は、平成十八年(2006)に上磯町と大野町が合併して誕生した市である。まず函館市に近い旧上磯町から回る。


官修墳墓


隊長 黒澤博之丞

 七重浜で戦死した弘前藩士十名と箱館府兵四名の墓である。中央の一番大きな墓石正面に「隊長 黒澤博之丞」とあるが、墓に葬られているのは側面に名前の刻まれている四名である。墓を移設した際に向きを間違えたらしい。

この官修墳墓を撮影したあと江差線の踏切を越えて矢不来方面に向かおうとしたとき、ふと清川口駅を見ると、そこに我が息子を発見した。待ち合わせしたわけではないというのに、この広い北海道で息子と再会するとは何という偶然であろう。こちらが少々興奮していると、息子は「じゃあ、これを頼むわ」といって手にしていた衣類の詰まったバックをこちらに渡した。結果的にまるで息子の大きな荷物を預かるために落ち合ったようなものであった。

(有川大神宮)


有川大神宮

 有川村は、北前船が出入りするほど近在では大きな港町であった。明治二年(1869)四月二十九日、海岸沿いに撤退を続けた旧幕軍はこの地で踏みとどまり、激戦となった。この戦闘で衝鋒隊最高幹部永井蠖伸斎が戦死している。守備兵は持ち場を捨てて北方へ潰走した。現地で指揮していた大鳥圭介も味方の崩壊を止めることができず、敗走することになった。
 官修墳墓は、当初有川大神宮の境内にあったが、大正三年(1914)に現在地である清川駅北側に移された。

(種田家)


種田家

 種田家は代々有川大神宮の宮司を継ぐ家系で、本家八代目種田金十郎は漁業で財を成し、戸切地陣屋の造営や、箱館戦争でも松前藩の会計方として深く関わった。

(東浜)


東浜 古戦場跡

 この松林は、文久二年(1862)、箱館奉行支配組頭栗林瑞見が、松苗を植樹したもので、その一部が現在も松林となって残っている。箱館戦争ではこの付近でも激戦となった。

(矢不来台場跡)


矢不来台場跡

 JR江差線茂辺地トンネル上付近で、国道228号線を茂辺地から旧街道を入ると矢不来台場跡である。現在、「やふらい」と読まれているが、当時は「やぎない」と呼ばれていたそうである。箱館奉行時代、この辺りに当初盛岡藩が台場を築き、その後松前藩が引き継いで警護していた。旧幕軍でもここを箱館の防御拠点として重視し、土塁や火薬庫を置いて陣地としていた。
 旧道を入って数百メートル進むと、北斗市教育委員会が建てた説明がある。この背後に土塁などが保存よく残されているらしいが、かなり雑草が生い茂っており、この中に足を踏み入れるのは躊躇われた。

(矢不来天満宮)


矢不来天満宮

 旧幕軍は茂別館から矢不来天満宮にかけて無数の塹壕を掘って、攻撃に備えた。しかし、新政府軍は艦砲射撃によって旧幕軍の陣地を攻撃したため、この時すでに開陽を失い制海権を奪われていた旧幕軍は海岸部から崩壊した。その日の夕刻には矢不来天満宮は新政府軍に占拠された。旧幕軍五百名のうち衝鋒隊を率いる天野新太郎ほか百六十人が戦死し、七十~八十人が負傷した。会津遊撃隊の諏訪常吉も重傷を負って、箱館病院に運ばれている。
 矢不来を破った新政府軍は、一気に箱館に迫った。


史跡 茂別館跡

(富川八幡宮)
 富川八幡宮の石段を登ると神社の本殿がある。その裏手一帯が箱館戦争の戦跡である。今も土塁や砲座跡が残っているそうだが、特定できなかった。


富川八幡宮

(松前藩戸切地陣屋跡)


松前藩戸切地陣屋跡

蝦夷地の防衛を強化する目的で幕府は安政二年(1855)に松前藩に命じて戸切地(へぎりち)陣屋を構築させた。その四稜郭状の陣屋内には十七棟の建物があり、約百二十人が守備にあたっていた。明治元年(1868)の箱館戦争のとき、旧幕軍に陣屋を利用されないよう松前藩は自ら火を放って建物を焼き払った。


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函館 川汲町

2013年10月20日 | 北海道
(川汲温泉ホテル)


川汲温泉


箱館戦争川汲戦戦死者慰霊碑

 川汲(かっくみ)温泉ホテルに慰霊碑が建てられている。この地における箱館府兵の戦死者は七名であった。
 鷲ノ木に上陸した旧幕軍は、人見勝太郎率いる遊撃隊と本多幸七郎の伝習歩兵隊三十人とともに先行させ、それを追うように大鳥圭介指揮の五百二十人(伝習士官隊、遊撃隊、新選組、砲兵隊)が続いた。これとは別に土方歳三は別働隊(額兵隊、陸軍隊、衝鋒隊)を率いて佐原、川汲を経て箱館を目指した。
 土方隊が川汲に到着したのが、明治元年(1868)十月二十四日。土方隊は峠に布陣していた箱館府の守備兵を撃退すると、川汲に戻って温泉を楽しんだと伝えられる。疲れを癒した後、翌朝五稜郭に向けて進発した。

 実は川汲峠付近に、二股口の台場山とは別の、もう一つの台場山がある。標高は485メートル。山頂には土方隊が築いた砲台跡があるというが、登山口が分からなかった。


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函館 上湯川町

2013年10月20日 | 北海道
(トラピスチヌ修道院)


トラピスチヌ修道院

 トラピスチヌ修道院は、明治三十一年(1898)にフランスの修道院から八人の修道女が来たのが起源である。現在の建物は、昭和二年(1927)の再建。

 ほぼ五日間で予定の史跡を回ってしまった私は、最終日、せっかくだから少し人並みの観光スポットも行っておこうか、という気になり、当初の予定にはなかったが、有名なトラピスチヌ修道院を訪ねてみることにした。
 トラピスチヌ修道院へは、市電で函館駅前から終点湯の川まで約三十分。さらに函館バスに乗り換えて十五分ほど。トラピスチヌ入口で下車する。ここから五分も坂道を上ると到着する。市電+バス共通の一日乗車券を千円で売っているので、これを入手するとよい。


函館市電


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函館 湯川町

2013年10月20日 | 北海道
(湯倉神社)


湯倉神社

 川汲峠を越えて箱館に入った土方軍は、湯の川に宿泊して、ここでも温泉で疲れを癒した。五稜郭に入って、翌日には松前攻略のために出動したが、大鳥隊と比べればほとんど戦闘らしい戦闘は経験しておらず、温泉三昧だった土方隊はすぐに動ける状態であった。


湯川温泉発祥之地碑

湯倉神社境内に、湯川温泉発症之地碑が建てられている。
旧幕軍は湯の川温泉の東に療養所を置いた。

 函館駅前から市電で湯の川終点まで約三十分。夕食を済ませて息子と温泉に行った。炎天下を歩き回って汗だくの毎日だったので、非常に気持ち良かった。


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函館 日乃出町

2013年10月20日 | 北海道
(土方啄木浪漫館)


土方啄木浪漫館

 土方啄木浪漫館は、平成十五年(2003)に開館したもので、二階にはやはり函館に所縁の深い詩人石川啄木関係の資料が展示されている。ここでは、土方歳三はまるで少女マンガの主人公のような扱いで、オジサンにはちょっとついていけない雰囲気であった。


土方啄木浪漫館の壁面写真

 六名の写真が壁面に掲示されている。誰だか分かりますか?

(答え)
左上から榎本武揚、大鳥圭介、中島三郎助。下段、左から甲賀源吾、ジュール・ブリュネ、高松凌雲


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函館 陣川町

2013年10月20日 | 北海道
(四稜郭)


四稜郭

 四稜郭は、五稜郭の背後を固めるため、旧幕軍によって急造された西洋式要塞である。五稜郭と同じように、周囲に土塁と空堀を巡らし、四隅に砲座を置いた。五稜郭と比べると規模はかなり小さいが、上空から見ると蝶が羽を広げたような形をしているらしい。
 地元の言い伝えによると、旧幕軍は士卒約二百名と付近の住民約百名を動員して、昼夜兼行で数日のうちにこの稜堡を完成したという。
 明治二年(1869)五月十一日、新政府軍は四稜郭に総攻撃を仕掛けた。松岡四郎次郎率いる旧幕軍は必死に防御に努めたが、長州藩兵が四稜郭と五稜郭の間に位置する権現台場を攻め落としたため、孤立することを恐れた旧幕軍は五稜郭へ敗走した。
 四稜郭は長らく荒廃するに任されていたが、昭和九年(1920)に史跡に指定されて以降、地元の人や市民の手厚い保護を受けて、今日まで往事の原型を復元保存することに成功した。
 五稜郭には観光バスが横付けし、連日多くの観光客で賑わっているが、四稜郭の方はというと、訪問客は疎らである。


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函館 神山町

2013年10月20日 | 北海道
(大円寺)


大円寺

 大円寺も、土方歳三の遺体が最初に埋葬されたとされる寺院の一つである。箱館戦争における新政府軍戦死者の墓がある。


旧官修墓地


無縁塚

 大円寺の無縁塚は、五稜郭の築造工事のとき、病気や怪我で死亡した人たちを供養する塚で、碑の裏面には建立された年月日(文久四年甲子春)と「棟梁喜三郎一同」と刻まれている。喜三郎とは、備前の石工井上喜三郎のことで、五稜郭のほか弁天台場などの石造りを担当した。


箱館奉行役宅墓所 杉浦誠の娘の墓

 杉浦誠は、幕府が任命した最後の箱館奉行である。杉浦誠は、文政九年(1826)江戸の生まれ。誠は諱で、雅号を梅潭と称した。壮年時代は武を好み、剣道をよくした。大橋訥庵に文学を学び、横山湖山、大沼枕山に詩を学んだ。文久二年(1862)目付に任じられ、文久三年(1863)新番頭格に転じ、慶応二年(1865)二月、箱館奉行に補された。維新後は静岡藩公議人を経て、明治二年(1868)外務省出仕。ついで開拓権判事として再び函館に勤務することになった。資性温厚、人望もあり、函館支庁において交通商業等の発展に力を尽くした。明治十年(1877)に職を辞したあとは、東京に住んで詩作を楽しんだ。明治三十三年(1900)、七十五歳で死去。
 新潟などの遠国奉行の多くが、戊辰戦争勃発とともに業務を放棄して逃亡したが、杉浦は職務を全うした。幕末を代表する能吏の一人である。

(神山稲荷神社=旧東照宮)


神山稲荷神社


手水石

 五稜郭を占拠した旧幕軍幹部は、そろって東照宮を訪れ、参拝した。
 手水石には、箱館戦争当時の弾痕が残っているという。この手水石の写真を撮り忘れていたことに気付き、途中から引き返した。ところが、どういう事情かしれないが、手水石にはシートがかけられ、念の入ったことにロープで縛られていた。勿論、弾痕は確認できず。

(権現台場跡)


権現台場跡

 権現台場は、四稜郭とともに箱館の北方防御の拠点であった。

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函館 吉川町

2013年10月20日 | 北海道
(極楽寺)


極楽寺

 吉川町の極楽寺には、明治十年(1877)頃、地元吉川、亀田両村の寄進者十名により建立された諸国戦死供養塔がある。建立時期から、箱館戦争における新政府軍、旧幕軍の戦死者の菩提を弔った灯篭と推測されている。


諸国戦死供養塔


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函館 八幡町

2013年10月20日 | 北海道
(亀田八幡宮)


亀田八幡宮

 明治二年(1868)五月十七日、亀田八幡宮で降伏の誓約式が執り行われた。降伏の前夜、榎本は自刃しようとしたが、介錯を命じられた大塚靍之丞(彰義隊改役)に押しとどめられ、翻意して余兵の助命を乞うて総督府に嘆願することにした。このとき大塚は短刀に触れて指三本を失っている。
 東京に護送された榎本は在獄三年ののち明治五年(1872)、赦されて自由の身となった。明治二十年(1887)には子爵を授けられている。
 亀田八幡宮の神與殿の前には、「箱館戦争降伏之地碑」が建てられている。


旧拝殿の弾痕

 亀田八幡宮付近も激戦となった。拝殿の位置は、往時の場所から変わっているが、古い板材をそのまま使った拝殿には弾痕が残されている。

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