史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「アンコール王朝興亡史」 石澤良昭著 NHKブックス

2024年03月30日 | 書評

カンボジアのアンコール遺跡群を見学するにあたって、「もう一冊読んでおきたい」と思って入手したのが、この本である。我が国におけるアンコール遺跡研究の第一人者である上智大学教授石澤良昭先生の著作で、おそらく現在、書店などでもっとも入手しやすく、しかも最も網羅的にアンコール遺跡群について解説している本であろう。大きな書店でも一般向けにアンコール遺跡を分かりやすく解説した本はなかなか置いていないのが現状であり、そういう意味でとても貴重である。

アンコール遺跡を見ていると不思議に思うことが多々ある。たとえば、今から千年以上も前にどうやってこれほどの石造りの大建造物を築くことができたのか。その疑問に本書は的確に答えてくれる。

アンコール地方において、9世紀に王がバライと呼ばれる貯水池を建造し、さらに水路を整備することによって二期作、三期作の水稲耕作が可能となった。カンボジアは雨季(6月から10月)と乾季(11月から5月)の別がはっきりしており、この水利事業が遂行されるまで、雨季は洪水に悩まされ、乾季にはほとんど耕作物は取れなかった。バライの完成によりアンコールの大地は豊穣の沃野となったのである。バライ方式による農業生産は、歴代の王に引き継がれた。そのため今も各地に大小のバライが存在し、地域の灌漑施設として利用されている。

結果として食糧増産がもたらされ、扶養、人口の増加が進んだ。それ故、建寺に必要な莫大な労働力を確保でき、大寺院の建立が可能となったのである。

本書によれば、西暦1000年頃の世界の人口は、諸説あるが、コルトバ(現スペイン)約60万人、コンスタンチノーブル(現トルコ)約50万人、北宋の開封(現中国)約40万人に続き、アンコール地方は世界第四位の約25万人に達していたという(因みに平安時代の京都の人口は10万人程度といわれている)。その約百年後(12世紀初期~13世紀)、アンコール王朝は最盛期を迎え、約60万人から100万人近い人口が集中していたとされる。つまりこの百年ほどの間に三倍近い人口増加を実現していたということになる。

これほどの隆盛を誇ったアンコール王朝が、15世紀に入ると急速に衰退し滅亡したのは何故か。これも不思議極まりない疑問である。

本書によれば、当初フランス人研究者により、ジャヤヴァルマン七世によって成し遂げられた数多くの大規模な寺院建設が、アンコール王朝を破産させ、衰退に追い込んだという建寺疲労説が唱えられていた。しかし、13世紀末にアンコール・トム都城を訪れた中国人周達観の詳細な報告書にはアンコール地方の殷賑ぶりが活写されている。当時はまだアンコールの農業経済が維持されていたことが分かる。またジャヤヴァルマン八世(治世1243~1295)は52年に及ぶ長期安定政権を実現し、仏教からヒンドゥー寺院への再生工事を積極的に進めた。少なくともこの時期、衰退の兆候は見られない。これらの状況証拠から筆者は建寺衰退説には否定的である。

アンコール都城が陥落したのは、直接的には14世紀半ばから約80年に及ぶ前期アユタヤ朝との数次にわたる戦争に起因している。1431年頃、前期アユタヤ朝はアンコール・トム都城を包囲し、徹底した焦土作戦に出た。都城内の楼閣、王宮、倉庫、家宅はすべて放火され、前期アユタヤ朝の完全勝利となった。アンコール都城は灰燼に帰し、26代続いた王朝は終焉を迎えた。王族をはじめカンボジアの人々は、アンコールを放棄し、アンコールから遠く離れた南方を目指して逃亡した。そして二度とこの地が都に戻ることはなかった。シャム人はアンコール遺跡を略奪の対象とは見たが、ここに居住しようとは考えなかったようである。何故、せっかく攻め落としたアンコールにシャム人が住もうとは思わなかったのか、これも不思議である。

本書はこれからアンコール遺跡を見に行く人にはお勧めの一冊である。私は訪問前に一度読み、帰ってからもう一度目を通した。もちろん事前に知識を仕入れておくためにも有用であるし、一旦見学した後これを読むと「なるほど」と目を開かされることも多かった。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「絶滅する「墓」」 鵜飼秀徳著 NHK出版新書

2024年03月30日 | 書評

筆者は、京都嵯峨の正覚寺の住職で、「宗教と社会」をテーマに取材、執筆、講演活動を続けている。「仏教抹殺」「仏教の大東亜戦争」(文春新書)などの著書もある。

本書を読んで感心したのは、筆者の墓に対する執念である。私も約三十年にわたって幕末維新期に活躍した人物の墓を訪ね歩いてきたが、筆者は被葬者の名前よりもその墓に埋葬される人たち、或いは埋葬した人たちの思いとか、死生観等により強い興味を持っているのかもしれない。北は北海道のアイヌの墓から、沖縄の墓まで全国をきめ細かく取材しており、そのエネルギーに脱帽である。本書に紹介されている墓でいえば、私も沖縄の玉陵、高野山奥の院の膨大な数の墓石群、佐柳島(香川県)の埋め墓、新島の流罪人の墓などは実際に見てきたが、とても筆者の足もとに及ばない。

今や我が国における火葬率は99%に達しており、今後益々土葬は減っていくだろう。しかし、土葬にはそのようにする理由や背景があり、それを理解しないまま反対するのではなく共存の方法を考えられないか、というのが筆者の問題提起であろう。しかし、我が国では土葬に対する忌避感が強く、土葬が可能な墓地も非常に限られている。しかし海外に目を向けてみると意外と土葬を行っている国は多い。私が現在在住しているベトナムも土葬の国であるし、欧米でも土葬が主流である。衛生面の問題も生じるし、何よりも場所が不足してしまう。何千何万という死者のために場所を確保していては、やがて生活する場所がなくなってしまうだろう。多面的に考えて火葬というのは合理的な葬り方であるが、埋葬というのは合理性だけで判断できないところに難しさがある。

筆者は我が国で消えゆく土葬やその土地特有の葬送を「絶滅危惧墓」と呼んでいる。筆者の危機感は、本書末尾の「結びに代えて」に集約されている。

――― コストやつきあいの煩わしさを考えれば、「墓は無用」と考える人がいるのも分かる。ただ、先人が大切にし、祀り続けてきた墓を、効率重視でなくしてしまうのは、人類が受け継いできた智慧の放棄といわざるを得ない。

という主張には頷けるものがある。

私も自分の代で先祖から受け継がれてきた菩提寺の墓を整理しようとは思っていない。本書でも記載されているように、我が国では江戸時代に寺請制度が整備され、すべての人民はどこかの檀家に組み込まれた。寺では歴代檀家の戒名や俗名などを記した死者の帳簿「過去帳」を制作し、現代まで伝わっている場合が多い。これによって、我々はその気になれば家系図を江戸時代まで遡ることが可能となっている。

菩提寺に墓があることの重要性は理解しているつもりだが、私はどうしてもその墓に入ることに抵抗がある。そもそもお前は仏教をどれほど信仰しているのか。法事のたびに聞かされる読経は退屈なだけだし、意味も分からないし、有り難くも何ともない。むしろ苦痛なだけである。自分が墓に入ることで、子供や孫にその苦痛を強要するのは気が引ける。仏教の教えに共感もしていないし、仏教徒であるという自覚もない。「葬式仏教」という言葉があるが、普段何にも仏教徒らしいことをしていないくせに、葬式や法事のときだけご都合主義的に仏教徒になるというのも違和感がある。

自分はそもそも死後の世界とか輪廻転生など信じていないし、「死ねばそれっきり」だと思っているので、そんな人間がお寺に金を払ってお寺に弔ってもらう必要など毛頭感じない。これが全国津々浦々の墓を掃苔してきた私の結論である。

本書によれば、最近は納骨堂への永代供養や樹木葬、海洋散骨などが増えているという。エコ意識が進むアメリカでは、微生物によって遺体を分子レベルで分解してミネラルたっぷりの土壌を生成し、それを園芸用肥料に使ったり、自宅の庭に撒いたりという「コンポスト葬」なるものまで出現しているという。今後もさまざまな葬送の方法が考案されるだろう。個人的にはできるだけ手間のかからない方法で遺骨は処理して欲しい。といっても、現代の日本の法律によれば勝手に遺骨を自宅の庭に埋めたら、死体遺棄罪に問われるらしいので、邪魔だったら骨壺を段ボールにいれて屋根裏の納屋に放り込んでおいてもらっても結構。間違っても墓に入れないように、と願っている。

ただし、一方で筆者がいうように先祖から受け継がれてきた墓を自分の一存で「墓じまい」してしまうまでの決断はできない。面倒ではあるが、菩提寺の墓はそのまま維持しないといけないだろう、とぼんやり考えている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「近代日本暗殺史」 筒井清忠著 PHP新書

2024年02月24日 | 書評

年末に帰国した際に購入した一冊。あまりに面白くて休日にほぼ一日で読破してしまった。

本書で取り上げている事件は、①赤坂喰違門の変(明治七年)②紀尾井坂の変(明治十一年)③板垣退助岐阜遭難事件(明治十五年)④森有礼暗殺事件(明治二十二年)⑤大隈重信爆弾遭難事件(明治二十二年)⑥星亨暗殺事件(明治三十四年)⑦朝日平吾事件(安田善次郎暗殺事件)(大正十年)⑧原敬首相暗殺事件(大正十年)の八件。うち六件が明治期に起こった事件で、大正年間の事件は二件に過ぎないが、本書に占めるページ数でいえば、圧倒的に⑦と⑧の解説に比重が置かれていることが分かる。

こうして暗殺史を概観すると、いずれの事件も暗殺者はターゲットのことを良く調べもせず、世の中に流れている皮相的な情報のみで一方的に怒りを高じさせ、暗殺に及んでいるということに気が付く。

その典型例は森有礼を暗殺した西野文太郎である。西野は、森有礼が伊勢神宮の門扉の帳(とばり)をステッキで高く掲げたということを「東京新聞」が報じ、そのことが襲撃の直接的な動機となっている(「伊勢神宮不敬事件」)。

事件後、森家の遺族は「伊勢神宮不敬事件」の真否を随行員や石井邦猷(くにみち)三重県令に確認し、門扉が外宮第四の門で、参詣人が賽銭を投げ、最下級の神官が守るところであり、それほど重んじる場所ではないことなどが判明している。つまりほぼ誤解に基づいて森は暗殺されたことになる。

明治三十四年(1901)、星亨が心形刀流十代目伊庭想太郎(伊庭八郎の実弟)によって刺殺された。星は政治手法の強引さから「おしとおる」とも呼ばれ、政治資金をめぐる疑惑が絶えなかったが、彼の死により真相は分からないままとなってしまった。

事件当時、犯人伊庭想太郎は五十歳と、当時としては老人であったが、兄八郎が旧幕府に殉じて早逝した人であった。その青年剣士のイメージが想太郎に重なったことで、暗殺者に同情が集まったという。

朝日平吾に暗殺された安田善次郎は、両替商や金融商として成功をおさめ、安田銀行や帝国火災海上保険(のちの安田火災海上保険、現・損保ジャパン)を創設して、保険分野でも成功し、一代の金融王となった人物である。この人には生前から「吝嗇」(りんしょく)つまりケチというマイナス・イメージで語られることが多いが、実際には東大に安田講堂を寄附するなど社会貢献にも熱心であった。事件直後の読売新聞にも「世の人人からは、高利貸と罵られ、自己一身の私利を願う外他を顧みず、残忍酷薄な有財餓鬼として呪われ(略)」と報じられているように世間一般のイメージは相当悪かった。

朝日平吾という人物のことは本書で初めて知った。詳細は本書に譲るが、家出をして長崎の鎮西学院に入学したが、ほどなく退学して上京して早稲田商科、日本大学法科と中途退学を繰り返し、その後も第一八師団に属して看護兵として従軍した履歴もある。満州に渡って馬賊になろうとしたり、朝鮮や中国東北部を転々としていた時期も長い。その間、たびたび勤務先を変えており方向性が見えないが、一貫しているのは弱者救済や言論活動の実践であり、その方面への志向が強かく、文筆の才能があったのも事実であろう。

国内に戻ると父の経済的支援を得て福岡県戸畑にて旅行具店を開くことになる。当初は神妙に働いていたようだが、八幡製鉄所にて空前の大争議が発生すると、朝日は争議支援のため資産の全部を注ぎ込んでしまった。

その後、西岡竹次郎の青年改造連盟とともに九州一円を遊説する等、政治活動に傾倒していく。「武家専制の遺物たる、貴族的軍閥的の階級思想を固執して、自由平等たるべき陛下の赤子を窘迫し、民本思想を指して危険視する頑迷不霊の痴漢」「正義人道を無視し国利民福を侵すの輩」への攻撃を強めて行った。

いったん政治との関係を切って宗教に入ろうとしたが、その後、労働者向けの宿泊施設「労働ホテル」の建設を思い立ち、知名士を回って資金を集めたが、結局この事業は失敗。今でいう投資詐欺のような事件である。

朝日平吾の思想や活動履歴を評価する向きもあるかもしれないが、私の印象としては社会的不適合者である。このような人物に殺された安田善次郎はえらい災難だったというほかはない。

本書でもっともページを割いて詳しく紹介されているのが東京駅で原敬を暗殺した中岡艮一のことである。本書で興味深かったのが予審判事山崎佐(たすく)の記録である。予審制度というのは今は存在していないが、大陸法系の制度で、当時も地方裁判所と大審院の第一審のみに適用された。有罪か無罪かを決める刑事公判の前に、公判に付するかどうかをきめるために必要な事実を取り調べることが主な目的である。

山崎佐という人は大変有能な人だったようである。中岡が殻を固く守って一向に本心を吐露しようとしないのを見て、被告を怒らせて本心を引き出すことに成功している。また取調の最中に昼食に誘われると「この男は命がけで総理を暗殺したのだ。今それを調べているのだ。鰻飯の冷えることなど問題ではない。昼飯の一度や二度ぐらい喰わなくとも一向差支えない。僕は昼飯を食わないから、みんなにそういってくれ給え、もう催促に来ないでくれ給え。」と追い返してしまった。それを見た中岡は泣き崩れて一切を自白した。結局、中岡艮一の動機は、政治的関心がなかったわけではないが表面的なもので、その内奥を覆っていたのは恋愛・人間愛・映画・文学的作品執筆などであった。原敬は呆れるほど薄っぺらい理由から殺されたのである。

筆者は「結び」において、明治・大正期の暗殺を総括している。筆者によれば⑴判官びいき ⑵御霊信仰に由来する非業の死を遂げた若者への鎮魂文化 ⑶仇討ち・報復・復仇的文化 ⑷暗殺による革命・変革・世直しといった長期的・歴史的・文化的起源があって、暗殺者に同情的な文化的土壌があるとしている。「これは諸外国には見られない、かなり特異な日本の文化的特色」としている。

「なるほど」と思う一方で、現在私が在住しているベトナムでもテロリスト(Lý Tự Trọng・Võ Thị Sáu・Nguyễn Thị Lợiら)を礼賛する文化がある。暗殺者に同情的な文化がほかの国に存在していないのか、についてはもう少し検証が要るかもしれない。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「仇討ちはいかに禁止されたか?」 濱田浩一郎著 星海社新書

2024年02月24日 | 書評

「仇討ちはいかに禁止されたか?」という書名につられて購入した。我が国において仇討ちが禁止されたのは、明治六年(1873)二月のいわゆる「仇討ち禁止令」とされる。本書では仇討ち禁止令が布告された経緯や、その後の一時復活した「復讐の律」などを解説したものかと思って取り寄せたが、ページを捲って分かったのは、明治四年(1871)二月の「高野の仇討ち」の経緯を追ったもので、本題である「仇討ちはいかに禁止されたか?」に触れた部分は、本書の十分の一にも満たない。タイトルの付け方に疑念は残ったものの、「高野の仇討ち」について、ここまで詳述した書籍に初めて出会ったので、それはそれでとても楽しく読み通すことができた。

私が「高野の仇討ち」の舞台となった高野山や赤穂市を訪れたのは、今から十二年も前のことで、当時、どの書籍を読んでこの仇討のことを知ったのか、今となってはよく覚えていない。本書「あとがき」によれば、「歴史書として刊行されるのは(私家版・非売品の書物を除いて)戦後においては、これが初めでだと思われる」としており、おそらく当時の私もこの仇討ちについて詳細な情報を持ち合わせないまま現地を取材していたのであろう。本書を読むともう一度赤穂市や高野山を歩いて見たいという欲望がふつふつとわいてくる。

筆者は「村上方、赤穂十三士方、どちらにも偏らず、できるだけ客観的にその歴史を叙述したい」と記述している。確かに筆者の立ち位置は一貫して中立的で、決してどちらかに肩入れした態度はとらない。読者としては安心感がある。

高野山における仇討ちは、その九年前の文久二年(1862)、赤穂藩で起こった文久事件が発端であった。赤穂藩の文久事件というのは、文久二年(1862)十二月九日の夜、赤穂藩の参政であり、儒学者村上真輔が面会に訪れた尊攘派五~六名により斬殺された事件をいう。その日の夜、国家老の森主税も二の丸城外で暗殺されている。さらに村上真輔の二男で藩の要職にあった河原駱之輔にも凶刃が迫り、追い詰められた駱之輔は福泉寺にて自刃する。

こうした藩内抗争の裏側には、国元の守旧派と江戸の革新派、尊攘派と佐幕派の対立があるのが常であるが、赤穂藩の場合は殺された村上真輔も勤王派であり、襲撃した西川升吉らは薩摩や長州、土佐とも交わりを持つ尊攘過激派であった。西川らの行動を義挙とする立場からは「赤穂志士」と称されるが、一方で村上方の証言では「無頼の徒」「不逞の徒」とまで酷評されている。少なくとも執政森主税は彼らの行動を快く思っていなかったようで、事件前に升吉らを捕らえて入牢させている。

西川升吉には、一度召捕られたことに対する恨みがあり、それが不平を募らせていく原因になった可能性も否定できない。筆者は「赤穂藩の下級武士たちが、同藩の要職にある主税と真輔を斬殺した理由は、これまで見てきた通りだが、筆者にはその理由が牽牛付会なものに思えてならない」としている。彼らの残した斬奸状によれば森主税は大任の職にありながら日夜、宴遊に耽り、驕奢増長していたという。しかし、筆者は「非難されるほどの遊興をしたとの証拠はない」としている。さらに村上真輔の殺害趣意書に至っては「主税の奢りを取り押さえることもなく、下々の苦しみを救う処置をしていない」ことが理由となっており、真輔自身の悪行は一つも挙げられていない。

村上真輔は藩の財政悪化を認識し、それを改善しようと建白を行っている。筆者は「頑迷固陋な保守派ではない」としているが、実直な能吏だったのだろう。その父を一方的に斬殺されたのだから、遺子遺族の怒りは想像に余りある。

明治四年(1871)一月、赤穂藩は村上一族に村上家の家督相続と加増、そして故村上真輔の無罪を伝達した。その際、真輔を殺害した下手人に対して、恨みを保持し仇を討つようなことのないように説くことも忘れなかった。その時点で真輔を殺害した下手人は六人(八木源左衛門、山本隆也、西川邦治(升吉実弟)、吉田宗平、田川運六、山下鋭三郎)まで減っていたが、彼らには赤穂藩主森家の紀州高野山釈迦文院にある廟所を守護せよとの沙汰があった。六人を高野山に追ったのは、村上一族による仇討ちを避ける意図があったのだろう。赤穂藩は、双方を引き離して大騒動に発展することを避けたのである。

しかし、村上の遺族は引き下がらなかった。むしろ六士が高野山に派遣されることは、彼らの復讐の実行を決定的にしたといって良い。結論から見れば、遺族が仇討ちに走る背景には、藩による不公平な判決があった。このことは元禄時代の赤穂藩の仇討ち(いわゆる「忠臣蔵」)にも共通して言えることである。仇討ちという行為は、同時に藩(あるいは公権力)への抗議も意味している。

本書のクライマックスは、仇討ちシーンである。本書の記述は、当事者の一人村上四郎(村上真輔四男)の残した「速記録」や事件後司法省臨時出張所による村上行蔵(同五男)の取調記録「口書」に拠っているが、誰が誰を斃したと詳細に乱戦の模様が記録されている。村上四郎は目から耳の下にかけて斬り付けられ、傷口が割れて肉がはみ出し、味方にも判別がつかないほど人相が変わっていたそうだ。そのため、あわや同士討ち寸前だったところを、目印としていた白襷に気が付き辛うじて討ち取られるのを逃れたと乱戦の現実を伝えている。助太刀として参加した水谷嘉三郎は、のちに「幾ら深傷を負っても急所でない限りは、容易に倒れるものではない」と証言しているが、実戦を経験した者だけが発言できるものであろう。

忠臣蔵の影にかくれて「高野山の仇討ち」は今日ほとんど忘れられた事件となっているが、当時は世間の話題になった。事件直後から仇討ちを伝える絵入り瓦版が複数出版され、明治時代には「高野の仇討絵葉書」が発行された。「赤穂藩士讐討略記」という小冊子が現場近くの観音茶屋で定価五銭で販売されていた。その後も絵馬に描かれたり、小説や芝居になったこともある。やはり日本人は仇討ちが大好きなのである。得てして小説や芝居で美化されがちであるが、仇討ちのリアルは、困難に満ちて、しかも最後は命を懸けた壮絶な斬り合いなのである。そのことを実感できる大変価値ある一冊である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アンコール遺跡とカンボジアの歴史 フーオッ・タット著 今川幸雄編訳 めこん

2024年01月27日 | 書評

来月、テト(旧正月)休暇を利用してカンボジアを旅行することになった。これを機にアンコールワット遺跡とカンボジアの歴史を学習しておきたいと思い書籍を探していたところ、まさにぴったりの書籍名の本をみつけたので早速取り寄せた。本書は前半がアンコールワット等の遺跡の解説、後半がカンボジアの歴史に関する記述となっている。

本書によれば、カンボジアに初めて国家が成立したのが西暦68年。インドからきた一人のブラフマン(カースト制でいう最高位の貴族)がこの地で挙兵し、コークトロークに侵攻して征服した(成立の経緯については諸説あり)。コークトローク(Kouk Thlok)は、プノンペンの100キロメートルほど南、ベトナムとの国境の街である。

その後、現代に至るまで何人もの王が立ったが、いずれも強い政権とはならず、興廃を繰り返した。振り返ればアンコールワットに遺跡群を残したいわゆるアンコール王朝(802~1431頃)がもっともカンボジアが隆盛を誇った時代であった。この時期、クメール民族は世界最大級の文化遺産を建立したというだけではなく、チャム(チャンパ)人の侵攻を幾度となく退け、軍事的にも強大であった。しかし13世紀初頭、クメールの西でシャム族が統一王朝を樹立する(スコータイ王朝)と、その軍事的圧迫を受け衰退した。その後、西はシャム、東はベトナムからの圧力を受けて、政治的には安定せずほとんど国家の体をなさない状態が続いた。カンボジアの暗黒時代といわれる。

それにしても隣国カンボジアから見ると、ベトナムというのは非常に好戦的で煩わしい存在であった。ベトナム人は紀元前から中国の歴代王朝からの干渉を受け、彼らの「中国嫌い」は骨の髄まで染みついている。これと全く同じことがベトナムとカンボジア間の関係にも言えるのではなかろうか。ベトナムは、今度は加害者に立場を変えることになるが、それほどカンボジアに対して罪の意識を感じていないかもしれない。カンボジア人がベトナムに対してどのような感情を抱いているのか、直接聞いてみたいものである。

カンボジアの悲惨な歴史は、アンコール王朝の滅亡から始まっているが、我々がこの国に抱いている強烈な負のイメージは、戦後の歴史に起因している。ベトナムがインドシナ戦争やベトナム戦争を経てようやく独立を獲得したのに対し、ノロドム・シハヌーク国王は粘り強く独立運動を展開し、国際世論にも訴えた結果、血を流すことなく1953年に独立を成し遂げた。しかし1970年、親米派のロン・ノル(当時国防相)がシハヌークの外遊中を狙ってクーデターを起こし、クメール共和国の樹立を宣言。ロン・ノルは激しい反ベトナム(反共産)キャンペーンを展開し、南ベトナム民族解放戦線(NLF=ベトコンと呼ばれることが多い)を敵視し、カンボジアに住むベトナム系住民を迫害・虐殺した。さらにアメリカ軍や南ベトナムに要請して、自国を空爆させるといった無茶苦茶なことをやりだした。当時アメリカが「反ベトナム、反共産主義」というだけでロン・ノル政権を支持していたことも理解に苦しむ。

ベトナム戦争が終結し米軍がインドシナ半島から撤退すると、後ろ盾を失ったロン・ノル政権も追い詰められ、1975年にクメール共和国は崩壊した。ロン・ノルに代わってプノンペンに入城したのが、ポル・ポトを首魁とするクメール・ルージュである。彼らは極端な原始共産主義への回帰を標榜し、都市の富裕層や知識階級、留学生などを次々と虐殺した。このとき百万を超える国民が虐殺されたといわれる。今もカンボジアの各地でポル・ポトによる虐殺の跡(キリング・フィールド=大虐殺が行われた刑場跡)を見ることができる。やがてクメール・ルージュに反発したベトナムとカンボジアとは戦争状態となるが、1979年、ベトナムのプノンペン攻略によってクメール・ルージュは掃討された。その後もカンボジア内戦は泥沼化が続き、1993年、シハヌークが国王に復し、現代に続くカンボジア王国が誕生し、ようやくカンボジアに平和が訪れた。我々外国人がアンコールワット遺跡を自由に見学できるようになったのも、この時期以降のことである。

こうしてカンボジアの歴史を概観すると、その国を率いるリーダーの資質がいかに国民の生活や平和に大きく影響するかという当たり前のことを実感する。我が国の歴史を見れば、昭和初期(戦前の20年)の常軌を逸した時期を除けば、国のリーダーは(完璧とはいわないまでも)比較的真っ当だったといえる。特に明治維新から日露戦争に至るまでの国家の黎明期ともいえる重要な時期、大久保利通や伊藤博文といったリーダーは、国家の行く末を真剣に考えていたという点で優秀であった。これは我が国にとって本当に幸いであったと思う。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「洋装の日本史」 刑部芳則著 インターナショナル新書

2023年12月30日 | 書評

「日本から持参した書籍は全部読んでしまった」と思い込んでいたが、よくよく探してみるとまだ手を着けていない本が一冊残っていた。それが「洋装の日本史」である。「近代服飾史」という馴染みの薄い分野に関する本であったが、意外と興味深くあっというまに読み通すことができた。

筆者刑部芳則氏は、「三条実美」や「京都に残った公家たち 華族の近代」(いずれも吉川弘文館)などの著書がある近代日本史を専攻する気鋭の学者だが、一方で服飾史や歌謡史にも造詣が深い。本書は歴史学の手法で服飾史に切り込み、従来の近代服飾史の欺瞞に鋭くメスを入れる一冊となっている。

日本の女性の洋装化に影響を与えたのは、大正十二年(1923)の関東大震災であるとか、女性が下着を穿くようになったのは昭和七年(1932)の白木屋百貨店の火災がきっかけだったといわれている。これらは一種の都市伝説なのだが、家政学の服飾史研究家が書いた書籍や論文の中には、こういった虚説をあたかも実像のように描いているものが数知れず存在しているという。この問題に警鐘を鳴らすというのが、本書の執筆動機となっている。

「白木屋火災の神話にお墨付を与える服飾史研究家」という項では、筆者の論調はヒートアップする。「テレビやラジオで家政学の服飾史研究者がいい加減な解説をしていることが少なくない。それは随分昔から行われてきた」として、その典型例として平成十六年(2004)一月十四日に「トリビアの泉」という番組で、青木英夫氏(故人)が「白木屋火災によって女性は下着を穿くようになった」ことにお墨付きを与えたと批判する。

青木氏は自著「下着の文化史」にて「この火事があって以来、ズロースをはく人が増加してきた。といっても、せいぜい一パーセントぐらいだった」「ズロースは、白木屋の火事で騒がれたほど、下着の発達に対しては大きな役割を果たしたとは思われない」と明記している。筆者によれば「せいぜい一パーセントぐらい」という根拠も明確ではないようだが、いずれにせよ、根拠薄弱な都市伝説をあたかも事実のようにマスコミで話したとすれば罪は重い。

もっとも青木氏がテレビでどのように話をしたのかが本書では語られておらず、ひょっとしたら青木氏の発言をテレビ番組用に切り貼りして、面白おかしく放送した可能性もある。だとすれば青木氏を責めるより、そのように編輯して放送したテレビ局の方に責任があるのかもしれない。

本書は、どちらかというと女性の洋装化の歴史を追っている。確かに男性は明治二十年(1887)頃には、公務員の仕事着はほぼ洋服となり、学校でも洋風の制服(詰襟の学生服)が採用されるようになった。男性の洋装化の流れはこの頃にはほぼ方向性が固まったといえる。これに比べると女性の洋装化には時間がかかった。何よりも女性が洋装することは世間から奇異の目で見られた。洋装した女性は、「じゃじゃ馬」「お行儀がよくない」「不良学生」などと、常に批判の目で見られたのである。

明治十年代後半には鹿鳴館を象徴とするような欧化政策によって洋服熱が過熱したが、当時の女性の洋服にはいくつもの問題があった。①非常に高価 ②コルセットで締め付ける洋服は窮屈で着心地が悪く、健康面にも良くない ③活動的ではない等々。

これらの問題を解決するため、「衣服改良運動」が展開された。様々な識者が意見を戦わせ、実際に改良服を提案したケースもあった。本書にもイラスト入りで婦人改良服が紹介されているが、いずれもぱっとしない。今風にいえば「カワイイ」とは言い難い。やはり女性に採用されるには、値段や着心地、活動のし易さに加えて、何時の時代も見た目がおしゃれで可愛くないといけない。

第一次世界大戦が終結した大正八年(1919)以降、「服装改善活動」なる新たな動きが本格化した。第一次世界大戦後、欧米では職業婦人が増えていた。日本でも女性の社会進出が社会現象化していた時代である。この時期に児童や女子学生に洋服が浸透した。現代にも続くセーラー服が登場したのもこの時代である。しかし、女子学生は卒業すると和装に戻ってしまった。まだ洋装している女性は「モダンガール」と見られて、世間から冷たい視線を受ける時代であった。

明治以来、長い時間をかけて少しずつ女性の洋装化は浸透してきた。日中戦争後、国家総動員法が施行され、服装にも統制が加えられた。それでもスカートは女性たちの人気を集めていた。戦争が激化し、空襲が現実のものになってくるとそれが一時停滞した。女性はモンペやズボンを積極的に穿いたわけではない。戦後、モンペやズボンから解放されると、女性たちは競って魅力的なスカートを求めるようになる。筆者は「女性の洋装化は、戦前・戦中・戦後と連続しており、若い女性たちを中心に徐々に洋服着用者が右肩上がりに増えていった」と力説する。

では、戦後一気に洋装化が進んだのか、というと必ずしもそうではない。本書278ページには和服と洋服の市場規模の推移が掲載されているが、両者の市場規模が逆転したのはようやく昭和49年(1974)前後なのである(なお年間の売上金額は同等であっても一着当たりの単価差を考えれば、実際に和服を着る人数はもっと早くに逆転していたとみるべきであろう)。

本書では漫画「サザエさん」や「いじわるばあさん」に注目して、何時頃日常生活において和服姿が消えてしまったのかを推定している。筆者に推定によれば「サザエさん」に登場する磯野フネは明治二十九年(1896)前後の生まれ。フネは高女時代には着物に袴姿で通学している。「いじわるばあさん」の主人公伊知割石も、女学校時代着物に袴姿に下駄というスタイルで、フネと同世代と思われる。

フネも石も、外出着では洋服を着ている姿もあるが、基本的に日常生活では着物を着ている。両者は生まれながらにして洋服を着る機会がなく終戦を迎えた。高度経済成長期に突入しても、戦前までの服装観で生活を続けていた。日常生活で洋服に袖を通すよりも、着物の方が楽だったのだろう、としている。筆者によれば、昭和五十年(1975)頃を境に和服姿が日常生活から消えて行ったという。言われてみれば、私の父方の祖母は、フネや石と同世代だが、普段は和服であった。アルバムを見返してみてもいつも和服である。私の祖母の世代を最後として日常的な和服世代は退場したということかもしれない。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「長州歴史散歩」 古川薫著 創元社

2023年11月25日 | 書評

昭和四十三年(1968)、つまり明治百年の年に初版が刊行され、それから三十年を経た平成十年(1998)に同じ創元社より再刊された書籍である。筆者古川薫氏(故人。平成三十年(2018)没)が「増刷のためのあとがき」にて「私は改訂の必要は感じなかった。三十年前の若書きに手を入れたい気持ちもなくはないが、「明治百年」を迎えたあのころの高揚した筆のあとをこのまま残しておこうと思う」と触れているように、今から五十年も前に書かれたものなのに、さほど陳腐化は感じられなかった。

著者古川薫氏は、昭和四十一年(1966)、パリに立ち寄った際、アンバリッド廃兵院で元治元年(1864)にフランス軍が長州から戦利品として持ち帰った青銅製の大砲を発見したことで知られる。古川氏はこのことを下関市に知らせ、下関市は直ちに外務省を通じてフランス当局と交渉するよう要請した。本書にも当時の経緯が詳述されているが、「大砲は返還不能」というところで本書は終わっている。その後、フランスから無期限貸与という形で返還を受け、この大砲は長府博物館(現・下関市立歴史博物館)に展示されている。五十年の歳月が流れ、明らかに更新が必要なのはこの「パリの大砲」の章くらいだろう。

「維新に尽くした藩のうちでも、そのために藩論を二分して、しかも内乱の血を流したというのは、長州だけである」(141ページ)という記載には違和感を覚えた。幕末において藩論が割れなかった藩はなく、そのために血が流れたという事例は枚挙に暇ない。その際たる例が水戸藩である。外から見れば一枚岩に見える庄内藩においてさえ内紛・粛清はあったのである。

「歴史は勝者によって作られる」というが、長州藩は歴史の勝者であり、この本で紹介されている長州藩の歴史はまさに勝者の歴史である。文久三年(1863)の外国商船への砲撃などは、本来無茶な戦争というべきだろうが、勝者に語らせれば武勇譚になってしまう。

このとき中島名左衛門という一人の砲術家が攘夷の無謀を説いたが、それがもとで暗殺されている。同年五月二十九日の夜のことであった。その後の経過を見れば中島名左衛門のいうとおり、西洋の圧倒的な軍事力の前に長州藩の砲台は瞬時に沈黙させられる。この後の戦争において長州藩にとって名左衛門は重要な人物だったはずだが、激徒は聞く耳を持たなかった。戦争を前にいきりたつ人々に耳障りなことを(しかも正しいことを)発言したというだけで抹殺された名左衛門は哀れというほかはない。しかも、外国艦隊が報復のために下関に近づいており、とても犯人の追及まで手が回らなかった。名左衛門暗殺は未解決のままうやむやにされてしまったのである。

同じく文久三年(1863)七月、幕府が派遣した一隻の軍艦朝陽丸が下関に到着した。幕臣中根一之丞は外国商戦を砲撃した長州藩に対して詰責書を携えて長州へ乗り込んできた。これが気に入らない奇兵隊士は、船で脱出した中根を執拗に追い、佐波郡中ノ関沖でこれを斬って海に捨てた。筆者によれば「奇兵隊の暴走事件は、このほかにも何件かを数えることができる」という。奇兵隊は百姓や町人などを集めた集団であり、彼らに規律とかモラルを求めても詮無い話かもしれないが、「維新に功があった」とされる奇兵隊は、結成当初から統制の効かない集団であったことは記憶しておくべきであろう。

奇兵隊三代総督赤禰武人は攘夷戦で武功があった人だが、武力で俗論政府を倒すという高杉晋作の方針に反対であった。赤禰は「正義派、俗論派が対立して争うときではない。そのようなことに藩内で血を流しているところへ、幕府軍が攻め込んできたら長州藩は滅亡してしまう。よろしく正俗話し合って藩を一つにまとめるべし」と主張し、和解工作に動いた。筆者は「俗論、正論の折衷をとなえて、藩論統一をはかろうとした赤禰は、所詮革命的な時代を担うにふさわしい人物とはいえないだろう。彼は一個のインテリゲンチャにすぎない。それにひきかえ、高杉の士族的なドグマは、赤禰などよりは素朴だが、事態に対する反応はきわめて鋭敏である。世紀末の動乱の時代は、やはり高杉のように直線的で強靭な思考と、熱狂的な行動力の持ち主を必要としたのである」と赤禰の処刑を支持している。もし、自分が幕末動乱の長州に身を置いていたら…と考える。果たして高杉晋作の過激な路線に同調し得ただろうか。私には過激に走る高杉よりも、赤禰の考え方の方が中庸を得ているように思えて、彼が処刑されるほどの俗説を主張したとは到底思えないのである(おまえには革命家の素質がないといわれれば、そのとおりです)。しかし、彼の主張は諸隊に理解されず、慶応二年(1866)一月、斬首された。父の松崎三宅は狂死し、赤禰の妻マキもそのあとを追ったという。

少年公卿中山忠光が豊北町田耕(たすき)の山中で暗殺されたのも、長州藩の闇の歴史の一つである。中山忠光は、大納言中山忠能の第五子で、姉の慶子が孝明天皇に仕え明治天皇を産んだ関係で、のちの天皇とは叔父甥の関係であった。幼少時の明治天皇(当時は祐宮)の遊び相手をつとめた。忠光は過激な攘夷派公卿として知られ、天誅組の変では首領にかつがれた。天誅組が幕府に鎮圧されると、大阪を経て海路長州へ逃れ、そこで匿われた。長州藩の実権を俗論派が握ると、お尋ね者の忠光を持て余した。元治元年(1864)十一月の夜、潜居先から連れ出された忠光は、白滝川上流の人目のない場所で密に暗殺された。その後、長州藩では厳しい緘口令をしいたため、忠光暗殺の詳しい状況はほとんど伝わっていない。長府藩の記録でも忠光は病死として処理されている。明治天皇の叔父である忠光の暗殺は、明治、大正、そして昭和に入ってからも長州にとって癒え難い傷となり、汚点として尾をひいたという。山口県のタブーとして、あらゆる記録から忠光暗殺の項が削り取られた。大正十五年(1926)には「忠光は病死した」ということを強調した本を書いた野竹散人(山口県出身の陸軍軍人林錬作のペンネーム)なる人物まで現れた。

こうして長州藩の歴史を追うと、当時の行動規範や道徳観念に照らしても、かなり悪辣なことをやってきたことが分かる。それでも、このような強烈なエネルギーを有していたからこそ長州藩は倒幕という偉業を成し遂げることができたのも事実である。それは否定できないが、その偉業の陰に多くの罪なき犠牲を伴っていたことを忘れてはならない。

本書は、いつ実現するか分からない長州の史跡探訪の旅のために古本市で手に入れたものである。これで赴任時に日本から持参した書籍は全部読んでしまった。来月の一時帰国の際にはまた何冊か入手して持ち帰らないといけない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「教育勅語と御真影」 小野雅章著 講談社現代新書

2023年10月28日 | 書評

この本を読み終えるのにほぼ二カ月を要してしまった。言い訳としては、「近代教育史」という、個人的にはあまり馴染みのない分野の書籍であり、読み解くのに時間を要してしまった。我が国において天皇や天皇制について考えることは、自ずと個人のイデオロギーに密接に関わる問題である。自分では中庸だと思っていても、左側の人から見れば右寄りに見えるだろうし、自分では「やや右側かな」と思っても右側に居る人からみれば、左寄りに見えてしまう。一々「自分はどうか」と自問しながら読み進めていると、時間がかかってしょうがない。

教育勅語は、明治二十三年(1890)十月三十日に公布された全文三百十五文字の極めて短い文書である。この勅語の成立過程も本書に紹介されているが、とても興味深い。

教育勅語の実質的起草者は、井上毅である。井上毅は伊藤博文のブレーンとして大日本帝国憲法の起草に深く関わった人物である。近代立憲国家の原則からすれば、国民の良心や信仰の自由から大きく逸脱した文部省の草案「徳育の大旨」には批判的であった。彼は教育勅語の発布そのものに無理があるという立場であった。ところが、時の総理大臣山県有朋に促されて、それを拒否できないまま勅語起草を自ら行うことになった。従って、勅語そのものは、井上の強い意向により「君主は国民の内心の自由には介入しない」という近代立憲国家の大原則を堅持するものであった。彼は公布方法についてもできるだけ政治性の低い方法を推していたが、保守派の工作により天皇からの下賜という政治性を帯びたものになってしまった。

その後も近代化を推進するリベラルな理念と国体論にもとづく復古的理念の間で、我が国の教育理念は常に揺れ動いた。筆者によれば、それは現代まで続いているという。

日露戦争後、日比谷焼討事件にみられる民衆の不満が顕在化し、国家への明確な批判をこめた労働運動、社会主義運動が台頭すると、当時の政府は戊申勅書なるものを発布した。この勅書は全文三百六文字、つまり教育勅語より短いものであった。戊申勅書は、「教育勅語をして、時代を超えた普遍性を主張する「古典」の位置に昇格させ、新たな状況に対応すべき教育理念は、その都度その時々の天皇の名により示される」という方式を志向したものであった。

日本が「天皇制ファシズム」に転換し、いわゆる戦時体制に突入すると、天皇機関説が批判の対象となり、天皇を神格化する動きが加速する。昭和十年(1935)には「青少年学徒ニ賜リタル勅語」が発布され、やがて四大節(一月一日、紀元節、天長節、明治節)の学校儀式が強制されるようになっていった。単なる写真に過ぎない御真影が神格化され、奉安殿を建ててそこに保管することなどが定められた。空襲の激化に備え、御真影の集団疎開が実施され、疎開先では各校の校長が輪番で宿直し、奉護するという極めて厳格なものであった。戦時下では神格化された御真影が人命より尊重されていたのである。

その頃にはすべての高等教育機関において、学校儀式が挙行され、その中で勅語の奉唱、宮城遥拝、神棚への拝礼、国旗掲揚、国歌斉唱などが強制された。これは教育というより「洗脳」と呼んだ方が正確である。本書では、当時各都道府県で展開された様子が紹介されている。個人的には、当時日本の統治下にあった朝鮮や台湾ではどうだったのか、興味のあるところである。

本書では、教育勅語全文、さらに現代語訳も紹介されている。以下、現代語訳の抜粋。

「日本国民は父母に孝行し、兄弟姉妹は仲良くし、夫婦は互いに睦みあい、友人はともに信じあい、他人に対しては礼節を守り、自分自身には慎み深くし、慈愛を広げ、学問を修めて実業を習い、それにより知識を広め道徳性を高め、進んで公共の利益を拡大して、世の中に必要な事業を興し、常に憲法を尊重して法律をよく守り…」

と続く。

終戦から七十八年が経った今でも「教育勅語部分的肯定論」が浮上する背景には、教育勅語のこの部分を取り上げて「今日でも通用する普遍的内容を含んでいる」という考え方がある。それは否定できないが、この内容を徳目教育しようというのであれば、何も教育勅語を持ち出す必要はないだろう。是非、保守派といわれている政治家が、どういう意図で部分的肯定論を主張しているのか、聞いてみたいものである。

本書によれば、海後宗臣「教育勅語成立史の研究」、稲田正次「教育勅語成立過程の研究」などの実証的な研究により、「教育勅語に示されている徳目は、そのすべてが国家に万が一のことがある場合は、一身を投げ出し「天壌無窮の皇運」(永遠に続く天皇・皇室の運命)を助けるためのものであるという国体論に立脚したものであり、それを部分的に解釈することは不可能であるということが明らかにされている。確かにそうだろうと思う。

私は周囲から時々「おまえは右に寄っている」といわれるが、教育勅語を教育の場に復活させようという保守派の人たちと比べれば、まだ随分と真ん中にいることが確認できた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「幕府海軍」 金澤裕之著 中公新書

2023年10月28日 | 書評

筆者は歴史研究者であると同時に現役の海上自衛官である。本書は単なる歴史的叙述にとどまらず、現代の軍事専門家としての視点で幕府海軍を解析したものである。

例えば第二次幕長戦争における大島口の戦闘に関する解説。

――― 異なる軍種が協同して行う作戦を統合作戦という。大島口の戦いにおける幕府軍の作戦行動は日本の近代軍事史上はじめて統合作戦が試みられた事例になるが、幕府軍はこれを成功させるために必要不可欠な要素を欠いていた。統合指揮官である。四国方面の幕府軍を指揮する京極高富は大島から約五〇キロメートル離れた松山にあり、刻々と変わる戦況を把握できる状況になかった。陸海軍双方にまたがる将がいない大島では、陸軍の先任指揮官河野(伊予守通和=歩兵奉行)と海軍の先任船将肥田(浜五郎為義)が協議して作戦を決めたが、お互い相手へ指揮権が及ばないなか、作戦行動の統一性を保つのはそもそも無理な話だったのである。

 

この時点の幕府海軍は、戦況が変わると船将が短艇で僚艦に集まり、都度以降の行動を協議していた。これでは刻々と変化する戦況に対応するフリート・アクション(Fleet action=艦隊行動)を行い得る段階から「数歩手前」という状況であった。

なお、この戦闘において、高杉晋作が丙寅丸で停泊する幕府軍艦に夜襲をかけて大混乱に陥れたことが、これまでハイライトとして語られてきたが、本書では「十三日未明に高杉晋作の指揮する長州藩船「丙寅丸」(九四トン、スクリュー)が「旭日丸」「八雲丸一番」へ砲撃を加えてただちに逃走する一撃離脱の奇襲をしかけたほか戦況に動きはなかった」と淡々と触れているに過ぎない。軍事専門家の目から見ると、高杉晋作の奇襲は戦況を変えるほど大きな事件ではないのであろう。

鳥羽伏見の戦争の後、幕府は政権運営を放棄していたような印象が強いが、筆者が「慶應四年二月人事」と呼んでいる人事改革が一気に進んでいる。文久の改革以来、漸進的に進められてきた「個人の能力に基づく士官任用」の流れが一気に加速したのである。少なくとも幕府海軍はこの時点で戦意を失っていなかった。筆者は、「日本の近代海軍建設過程の画期」「このときをもって日本に本当の意味での近代海軍が成立した」とまで評している。しかし、一方で幕府海軍はその歴史的使命を終えようとしていた。

本書では所謂箱館戦争についてほぼ一章を割いて解説を加えている。箱館戦争は、それまで艦船の集団に過ぎなかった海軍が艦隊として戦った我が国初めての戦争であった。

榎本武揚は慶應四年(1868)八月、二ケタの艦船を指揮下に収め、軍艦「開陽」以下の八隻を率いて奥羽越列藩同盟の盟主となっていた仙台藩へ向かうとともに、物資輸送のため「順道丸」を越後へ、庄内藩支援のため「長崎丸二番」を出羽へ派遣。これとは別に「大江丸」と「鳳凰丸」を仙台藩に貸与していた。筆者はこれを「榎本艦隊」と呼んでいる。つまり、「榎本麾下の艦船は統一された意思の下に整然と行動」しており、榎本艦隊は単なる艦船群ではなく「艦隊」になりつつあるということなのである。

一方、新政府軍も「艦隊」と呼ぶに値する組織に成長していた。この戦いに参加した薩摩藩船「春日」の船将赤塚源六は日記に備忘のためさまざまな旗旈を記している。各艦が航行しながらこれを用いて僚艦と意思疎通を図っていたのである。艦隊とフリート・アクションが生まれつつある証左である。

さらに榎本軍が「甲鉄」を奪うため奇襲をかけた宮古湾海戦のように「三隻を一つの戦術単位として有機的に用いて戦闘を試みたのは、日本の近代海軍史上」はじめてのことで、「日本の海軍は明らかに新たな段階を迎えつつあった」としている。

本章末尾で「榎本が敗者となったのは果たして歴史の必然だったのか」と問いかける。筆者によれば、榎本にはA・徳川家の「恭順方針」を遵守するか否か B・奥羽越列藩同盟へ合流するか否か C・蝦夷地で自立を目指すか否か という三つの選択肢があった。しかし、榎本は「主家の行く末を見届け」「奥羽越列藩同盟の要請に応える」という政治的判断に引きずられ軍事的判断を誤った。つまり筆者は、徳川家の処分が決まる前に、仙台に拠らずに一直線に蝦夷を目指し、拠点を確保し、開拓を進め、蝦夷地を整備するのが最善の策とする。「いくつかの選択肢が混然とした行動となり結局どの利点も生かせなかったとする筆者の結論は、やはり神の視点になってしまうだろうか。」と本章を締めくくる。そもそも江戸を脱走した時点、あるいはその前の時点で榎本の頭の中に蝦夷地で独立政権を樹立する構想が選択肢にあったのだろうか。そこは榎本当人に聞いてみないと、何ともいえないのである。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「大塩平八郎の乱」 薮田貫著 中公新書

2023年08月19日 | 書評

教科書に必ず載っている大塩平八郎の乱だが、意外とその実態は知られていない。本書は大塩平八郎の乱を最新の研究成果を踏まえて詳述したものである。

本書の末尾には六ページに渡って大塩平八郎の檄文現代語訳が掲載されている。大塩は第一に「上に立つ者が贅沢を極め、大切な政治に携わる諸役人が公然と賄賂を授受あるいは贈答し」「縁故を利用して卑しい身分の者が出世し」「おのが一家のみを肥す工夫のみに頭を使い」「民百姓の負担は増えるばかりで世界全体が困窮し、人々が公儀を怨まざるを得ないありさま」と政情を痛烈に批判する。

彼の怒りに火を着けたのは「大阪の米不足をよそに江戸に米を回し、天皇の御在所である京都には回さないばかりか、近郷から五升一斗ほどの少量の米を市中に買い出しに来た者を逮捕するなどしている」事実である。これは東町奉行跡部良弼(老中水野忠邦の実弟)が、西組与力の内山彦次郎と結託して行ったものである。

さらに大塩の批判の矛先は、大阪の金持ちに向かう。彼らは諸大名に貸し付けた金銀の利殖と扶持米の支給で莫大な利益を得ている。「町人身分のまま大名の家来、用人格などに採用され」「この時節、天災・天罰を見ても畏れもせず、餓死した貧窮者や物乞いする民を救おうともせず」「美食を常とし、妾宅などへも入り込み」「遊里の揚屋、茶屋へ大名の家来を招き、高価な酒を湯水のように飲」んでいる。

大塩の反乱は、民百姓を悩まし苦しめている諸役人(具体的には跡部と内山)を誅伐し、大阪市内の金持ち町人どもを誅殺することが目的であった。

筆者の見立てによれば、東町奉行の跡部良弼が、西組の与力内山彦次郎を使って江戸回米を企てたことによる「私憤」が乱の背後にあるという。さらには、奉行所の東西対立があり、いつの間にか西が優勢で東が劣勢に回っていた。大塩の主催する洗人洞の門人の多くは東組に所属しており、大塩はその利益代表になっていたというのである。

高邁な理想に裏付けられた檄文は人家の多い神社の殿舎などに貼り付けられて、民衆に広く読まれた。この檄文が奏功したのか、民衆の間で平八郎の人気は高かった。焼け出された者でも少しも怨まず、「大塩様」と尊敬した。戦後、市中に潜伏した大塩平八郎を捕らえれば「銀百枚の褒美が下される」との触れが出たが、「たとえ銀の百枚が千枚になろうとも、大塩さんを訴人されようか」と言っていた。

檄文は周到に用意されたように見える。これに反して乱に加担したのはわずかに総人数三百とされる。相次ぐ密訴によって決起の予定が八時間以上早められることになったという誤算もあったであろう。相蘇一弘氏の研究によれば、初動の人数は七十五人前後、最盛期でも一五〇人から二〇〇人程度としている(「大塩の乱関係者一覧とその考察」。幕府を震撼させた大事変にしては、拍子抜けするほどである。

戦闘は天保八年(1837)二月十九日の早朝に始まり、その日の午後四時頃に終結した。半日程度で鎮圧されてしまったのである。しかし、大塩平八郎をはじめ主な人物は、その後も逃亡を続けた。首謀者である大塩平八郎に至っては一か月以上潜伏を続けた。大塩は敗走後早々同志たちに「自死する」と言いながら、いったん大和への逃走を試み、単独行となったところで、縁戚の美吉屋五郎兵衛宅に駆け込んでいる。

大塩の逃避行の裏には、密かに江戸に送った「建議書」があった。建議書は老中への建策でありながら、水戸斉昭の存在が前提となっていると同時に、学問所総裁である林述斎への諫言となっている。

実は大塩平八郎は、佐藤一斎を介して大阪から水戸に米を送ることで水戸藩とは強い繋がりを有していた。また林述斎にも金銭を融資して、分割返済を受けるという関係にあった。

建議書において、大塩は現職老中の過去の汚職と、勘定奉行内藤矩佳、西町奉行矢部定謙、そして与力内山彦次郎の悪行を訴えている。林述斎と水戸斉昭が動いてくれるのを、大塩は大阪で潜伏しながら期待していたのである。

しかし、建議書は斉昭の側近藤田東湖には渡ったが、東湖はそれを斉昭には渡していない。江川英龍の上司である内藤矩佳が手を回したと推測されている。

大塩がいわば命かけで告発した「侫人」は、皮肉にもそれぞれ栄達を遂げている。

矢部定謙はその後江戸南町奉行に昇進したが、老中水野忠邦と対立し罷免。それを不服として絶食し、天保十三年(1842)、死去した。

跡部良弼はその後も江戸南町奉行や講武所総裁、江戸北町奉行などの重職を歴任。最後は若年寄まで昇ったが、明治元年(1868)、七十歳で死去。

内山彦次郎は与力の最上位職である諸御用調役を務め、さらに譜代御家人まで取り立てられた。しかし元治元年(1864)五月、大阪天神橋にて何者かに暗殺された。犯人は新選組説、攘夷志士による天誅説があるが、今も真相は闇の中である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする