史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「長州歴史散歩」 古川薫著 創元社

2023年11月25日 | 書評

昭和四十三年(1968)、つまり明治百年の年に初版が刊行され、それから三十年を経た平成十年(1998)に同じ創元社より再刊された書籍である。筆者古川薫氏(故人。平成三十年(2018)没)が「増刷のためのあとがき」にて「私は改訂の必要は感じなかった。三十年前の若書きに手を入れたい気持ちもなくはないが、「明治百年」を迎えたあのころの高揚した筆のあとをこのまま残しておこうと思う」と触れているように、今から五十年も前に書かれたものなのに、さほど陳腐化は感じられなかった。

著者古川薫氏は、昭和四十一年(1966)、パリに立ち寄った際、アンバリッド廃兵院で元治元年(1864)にフランス軍が長州から戦利品として持ち帰った青銅製の大砲を発見したことで知られる。古川氏はこのことを下関市に知らせ、下関市は直ちに外務省を通じてフランス当局と交渉するよう要請した。本書にも当時の経緯が詳述されているが、「大砲は返還不能」というところで本書は終わっている。その後、フランスから無期限貸与という形で返還を受け、この大砲は長府博物館(現・下関市立歴史博物館)に展示されている。五十年の歳月が流れ、明らかに更新が必要なのはこの「パリの大砲」の章くらいだろう。

「維新に尽くした藩のうちでも、そのために藩論を二分して、しかも内乱の血を流したというのは、長州だけである」(141ページ)という記載には違和感を覚えた。幕末において藩論が割れなかった藩はなく、そのために血が流れたという事例は枚挙に暇ない。その際たる例が水戸藩である。外から見れば一枚岩に見える庄内藩においてさえ内紛・粛清はあったのである。

「歴史は勝者によって作られる」というが、長州藩は歴史の勝者であり、この本で紹介されている長州藩の歴史はまさに勝者の歴史である。文久三年(1863)の外国商船への砲撃などは、本来無茶な戦争というべきだろうが、勝者に語らせれば武勇譚になってしまう。

このとき中島名左衛門という一人の砲術家が攘夷の無謀を説いたが、それがもとで暗殺されている。同年五月二十九日の夜のことであった。その後の経過を見れば中島名左衛門のいうとおり、西洋の圧倒的な軍事力の前に長州藩の砲台は瞬時に沈黙させられる。この後の戦争において長州藩にとって名左衛門は重要な人物だったはずだが、激徒は聞く耳を持たなかった。戦争を前にいきりたつ人々に耳障りなことを(しかも正しいことを)発言したというだけで抹殺された名左衛門は哀れというほかはない。しかも、外国艦隊が報復のために下関に近づいており、とても犯人の追及まで手が回らなかった。名左衛門暗殺は未解決のままうやむやにされてしまったのである。

同じく文久三年(1863)七月、幕府が派遣した一隻の軍艦朝陽丸が下関に到着した。幕臣中根一之丞は外国商戦を砲撃した長州藩に対して詰責書を携えて長州へ乗り込んできた。これが気に入らない奇兵隊士は、船で脱出した中根を執拗に追い、佐波郡中ノ関沖でこれを斬って海に捨てた。筆者によれば「奇兵隊の暴走事件は、このほかにも何件かを数えることができる」という。奇兵隊は百姓や町人などを集めた集団であり、彼らに規律とかモラルを求めても詮無い話かもしれないが、「維新に功があった」とされる奇兵隊は、結成当初から統制の効かない集団であったことは記憶しておくべきであろう。

奇兵隊三代総督赤禰武人は攘夷戦で武功があった人だが、武力で俗論政府を倒すという高杉晋作の方針に反対であった。赤禰は「正義派、俗論派が対立して争うときではない。そのようなことに藩内で血を流しているところへ、幕府軍が攻め込んできたら長州藩は滅亡してしまう。よろしく正俗話し合って藩を一つにまとめるべし」と主張し、和解工作に動いた。筆者は「俗論、正論の折衷をとなえて、藩論統一をはかろうとした赤禰は、所詮革命的な時代を担うにふさわしい人物とはいえないだろう。彼は一個のインテリゲンチャにすぎない。それにひきかえ、高杉の士族的なドグマは、赤禰などよりは素朴だが、事態に対する反応はきわめて鋭敏である。世紀末の動乱の時代は、やはり高杉のように直線的で強靭な思考と、熱狂的な行動力の持ち主を必要としたのである」と赤禰の処刑を支持している。もし、自分が幕末動乱の長州に身を置いていたら…と考える。果たして高杉晋作の過激な路線に同調し得ただろうか。私には過激に走る高杉よりも、赤禰の考え方の方が中庸を得ているように思えて、彼が処刑されるほどの俗説を主張したとは到底思えないのである(おまえには革命家の素質がないといわれれば、そのとおりです)。しかし、彼の主張は諸隊に理解されず、慶応二年(1866)一月、斬首された。父の松崎三宅は狂死し、赤禰の妻マキもそのあとを追ったという。

少年公卿中山忠光が豊北町田耕(たすき)の山中で暗殺されたのも、長州藩の闇の歴史の一つである。中山忠光は、大納言中山忠能の第五子で、姉の慶子が孝明天皇に仕え明治天皇を産んだ関係で、のちの天皇とは叔父甥の関係であった。幼少時の明治天皇(当時は祐宮)の遊び相手をつとめた。忠光は過激な攘夷派公卿として知られ、天誅組の変では首領にかつがれた。天誅組が幕府に鎮圧されると、大阪を経て海路長州へ逃れ、そこで匿われた。長州藩の実権を俗論派が握ると、お尋ね者の忠光を持て余した。元治元年(1864)十一月の夜、潜居先から連れ出された忠光は、白滝川上流の人目のない場所で密に暗殺された。その後、長州藩では厳しい緘口令をしいたため、忠光暗殺の詳しい状況はほとんど伝わっていない。長府藩の記録でも忠光は病死として処理されている。明治天皇の叔父である忠光の暗殺は、明治、大正、そして昭和に入ってからも長州にとって癒え難い傷となり、汚点として尾をひいたという。山口県のタブーとして、あらゆる記録から忠光暗殺の項が削り取られた。大正十五年(1926)には「忠光は病死した」ということを強調した本を書いた野竹散人(山口県出身の陸軍軍人林錬作のペンネーム)なる人物まで現れた。

こうして長州藩の歴史を追うと、当時の行動規範や道徳観念に照らしても、かなり悪辣なことをやってきたことが分かる。それでも、このような強烈なエネルギーを有していたからこそ長州藩は倒幕という偉業を成し遂げることができたのも事実である。それは否定できないが、その偉業の陰に多くの罪なき犠牲を伴っていたことを忘れてはならない。

本書は、いつ実現するか分からない長州の史跡探訪の旅のために古本市で手に入れたものである。これで赴任時に日本から持参した書籍は全部読んでしまった。来月の一時帰国の際にはまた何冊か入手して持ち帰らないといけない。

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「教育勅語と御真影」 小野雅章著 講談社現代新書

2023年10月28日 | 書評

この本を読み終えるのにほぼ二カ月を要してしまった。言い訳としては、「近代教育史」という、個人的にはあまり馴染みのない分野の書籍であり、読み解くのに時間を要してしまった。我が国において天皇や天皇制について考えることは、自ずと個人のイデオロギーに密接に関わる問題である。自分では中庸だと思っていても、左側の人から見れば右寄りに見えるだろうし、自分では「やや右側かな」と思っても右側に居る人からみれば、左寄りに見えてしまう。一々「自分はどうか」と自問しながら読み進めていると、時間がかかってしょうがない。

教育勅語は、明治二十三年(1890)十月三十日に公布された全文三百十五文字の極めて短い文書である。この勅語の成立過程も本書に紹介されているが、とても興味深い。

教育勅語の実質的起草者は、井上毅である。井上毅は伊藤博文のブレーンとして大日本帝国憲法の起草に深く関わった人物である。近代立憲国家の原則からすれば、国民の良心や信仰の自由から大きく逸脱した文部省の草案「徳育の大旨」には批判的であった。彼は教育勅語の発布そのものに無理があるという立場であった。ところが、時の総理大臣山県有朋に促されて、それを拒否できないまま勅語起草を自ら行うことになった。従って、勅語そのものは、井上の強い意向により「君主は国民の内心の自由には介入しない」という近代立憲国家の大原則を堅持するものであった。彼は公布方法についてもできるだけ政治性の低い方法を推していたが、保守派の工作により天皇からの下賜という政治性を帯びたものになってしまった。

その後も近代化を推進するリベラルな理念と国体論にもとづく復古的理念の間で、我が国の教育理念は常に揺れ動いた。筆者によれば、それは現代まで続いているという。

日露戦争後、日比谷焼討事件にみられる民衆の不満が顕在化し、国家への明確な批判をこめた労働運動、社会主義運動が台頭すると、当時の政府は戊申勅書なるものを発布した。この勅書は全文三百六文字、つまり教育勅語より短いものであった。戊申勅書は、「教育勅語をして、時代を超えた普遍性を主張する「古典」の位置に昇格させ、新たな状況に対応すべき教育理念は、その都度その時々の天皇の名により示される」という方式を志向したものであった。

日本が「天皇制ファシズム」に転換し、いわゆる戦時体制に突入すると、天皇機関説が批判の対象となり、天皇を神格化する動きが加速する。昭和十年(1935)には「青少年学徒ニ賜リタル勅語」が発布され、やがて四大節(一月一日、紀元節、天長節、明治節)の学校儀式が強制されるようになっていった。単なる写真に過ぎない御真影が神格化され、奉安殿を建ててそこに保管することなどが定められた。空襲の激化に備え、御真影の集団疎開が実施され、疎開先では各校の校長が輪番で宿直し、奉護するという極めて厳格なものであった。戦時下では神格化された御真影が人命より尊重されていたのである。

その頃にはすべての高等教育機関において、学校儀式が挙行され、その中で勅語の奉唱、宮城遥拝、神棚への拝礼、国旗掲揚、国歌斉唱などが強制された。これは教育というより「洗脳」と呼んだ方が正確である。本書では、当時各都道府県で展開された様子が紹介されている。個人的には、当時日本の統治下にあった朝鮮や台湾ではどうだったのか、興味のあるところである。

本書では、教育勅語全文、さらに現代語訳も紹介されている。以下、現代語訳の抜粋。

「日本国民は父母に孝行し、兄弟姉妹は仲良くし、夫婦は互いに睦みあい、友人はともに信じあい、他人に対しては礼節を守り、自分自身には慎み深くし、慈愛を広げ、学問を修めて実業を習い、それにより知識を広め道徳性を高め、進んで公共の利益を拡大して、世の中に必要な事業を興し、常に憲法を尊重して法律をよく守り…」

と続く。

終戦から七十八年が経った今でも「教育勅語部分的肯定論」が浮上する背景には、教育勅語のこの部分を取り上げて「今日でも通用する普遍的内容を含んでいる」という考え方がある。それは否定できないが、この内容を徳目教育しようというのであれば、何も教育勅語を持ち出す必要はないだろう。是非、保守派といわれている政治家が、どういう意図で部分的肯定論を主張しているのか、聞いてみたいものである。

本書によれば、海後宗臣「教育勅語成立史の研究」、稲田正次「教育勅語成立過程の研究」などの実証的な研究により、「教育勅語に示されている徳目は、そのすべてが国家に万が一のことがある場合は、一身を投げ出し「天壌無窮の皇運」(永遠に続く天皇・皇室の運命)を助けるためのものであるという国体論に立脚したものであり、それを部分的に解釈することは不可能であるということが明らかにされている。確かにそうだろうと思う。

私は周囲から時々「おまえは右に寄っている」といわれるが、教育勅語を教育の場に復活させようという保守派の人たちと比べれば、まだ随分と真ん中にいることが確認できた。

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「幕府海軍」 金澤裕之著 中公新書

2023年10月28日 | 書評

筆者は歴史研究者であると同時に現役の海上自衛官である。本書は単なる歴史的叙述にとどまらず、現代の軍事専門家としての視点で幕府海軍を解析したものである。

例えば第二次幕長戦争における大島口の戦闘に関する解説。

――― 異なる軍種が協同して行う作戦を統合作戦という。大島口の戦いにおける幕府軍の作戦行動は日本の近代軍事史上はじめて統合作戦が試みられた事例になるが、幕府軍はこれを成功させるために必要不可欠な要素を欠いていた。統合指揮官である。四国方面の幕府軍を指揮する京極高富は大島から約五〇キロメートル離れた松山にあり、刻々と変わる戦況を把握できる状況になかった。陸海軍双方にまたがる将がいない大島では、陸軍の先任指揮官河野(伊予守通和=歩兵奉行)と海軍の先任船将肥田(浜五郎為義)が協議して作戦を決めたが、お互い相手へ指揮権が及ばないなか、作戦行動の統一性を保つのはそもそも無理な話だったのである。

 

この時点の幕府海軍は、戦況が変わると船将が短艇で僚艦に集まり、都度以降の行動を協議していた。これでは刻々と変化する戦況に対応するフリート・アクション(Fleet action=艦隊行動)を行い得る段階から「数歩手前」という状況であった。

なお、この戦闘において、高杉晋作が丙寅丸で停泊する幕府軍艦に夜襲をかけて大混乱に陥れたことが、これまでハイライトとして語られてきたが、本書では「十三日未明に高杉晋作の指揮する長州藩船「丙寅丸」(九四トン、スクリュー)が「旭日丸」「八雲丸一番」へ砲撃を加えてただちに逃走する一撃離脱の奇襲をしかけたほか戦況に動きはなかった」と淡々と触れているに過ぎない。軍事専門家の目から見ると、高杉晋作の奇襲は戦況を変えるほど大きな事件ではないのであろう。

鳥羽伏見の戦争の後、幕府は政権運営を放棄していたような印象が強いが、筆者が「慶應四年二月人事」と呼んでいる人事改革が一気に進んでいる。文久の改革以来、漸進的に進められてきた「個人の能力に基づく士官任用」の流れが一気に加速したのである。少なくとも幕府海軍はこの時点で戦意を失っていなかった。筆者は、「日本の近代海軍建設過程の画期」「このときをもって日本に本当の意味での近代海軍が成立した」とまで評している。しかし、一方で幕府海軍はその歴史的使命を終えようとしていた。

本書では所謂箱館戦争についてほぼ一章を割いて解説を加えている。箱館戦争は、それまで艦船の集団に過ぎなかった海軍が艦隊として戦った我が国初めての戦争であった。

榎本武揚は慶應四年(1868)八月、二ケタの艦船を指揮下に収め、軍艦「開陽」以下の八隻を率いて奥羽越列藩同盟の盟主となっていた仙台藩へ向かうとともに、物資輸送のため「順道丸」を越後へ、庄内藩支援のため「長崎丸二番」を出羽へ派遣。これとは別に「大江丸」と「鳳凰丸」を仙台藩に貸与していた。筆者はこれを「榎本艦隊」と呼んでいる。つまり、「榎本麾下の艦船は統一された意思の下に整然と行動」しており、榎本艦隊は単なる艦船群ではなく「艦隊」になりつつあるということなのである。

一方、新政府軍も「艦隊」と呼ぶに値する組織に成長していた。この戦いに参加した薩摩藩船「春日」の船将赤塚源六は日記に備忘のためさまざまな旗旈を記している。各艦が航行しながらこれを用いて僚艦と意思疎通を図っていたのである。艦隊とフリート・アクションが生まれつつある証左である。

さらに榎本軍が「甲鉄」を奪うため奇襲をかけた宮古湾海戦のように「三隻を一つの戦術単位として有機的に用いて戦闘を試みたのは、日本の近代海軍史上」はじめてのことで、「日本の海軍は明らかに新たな段階を迎えつつあった」としている。

本章末尾で「榎本が敗者となったのは果たして歴史の必然だったのか」と問いかける。筆者によれば、榎本にはA・徳川家の「恭順方針」を遵守するか否か B・奥羽越列藩同盟へ合流するか否か C・蝦夷地で自立を目指すか否か という三つの選択肢があった。しかし、榎本は「主家の行く末を見届け」「奥羽越列藩同盟の要請に応える」という政治的判断に引きずられ軍事的判断を誤った。つまり筆者は、徳川家の処分が決まる前に、仙台に拠らずに一直線に蝦夷を目指し、拠点を確保し、開拓を進め、蝦夷地を整備するのが最善の策とする。「いくつかの選択肢が混然とした行動となり結局どの利点も生かせなかったとする筆者の結論は、やはり神の視点になってしまうだろうか。」と本章を締めくくる。そもそも江戸を脱走した時点、あるいはその前の時点で榎本の頭の中に蝦夷地で独立政権を樹立する構想が選択肢にあったのだろうか。そこは榎本当人に聞いてみないと、何ともいえないのである。

 

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「大塩平八郎の乱」 薮田貫著 中公新書

2023年08月19日 | 書評

教科書に必ず載っている大塩平八郎の乱だが、意外とその実態は知られていない。本書は大塩平八郎の乱を最新の研究成果を踏まえて詳述したものである。

本書の末尾には六ページに渡って大塩平八郎の檄文現代語訳が掲載されている。大塩は第一に「上に立つ者が贅沢を極め、大切な政治に携わる諸役人が公然と賄賂を授受あるいは贈答し」「縁故を利用して卑しい身分の者が出世し」「おのが一家のみを肥す工夫のみに頭を使い」「民百姓の負担は増えるばかりで世界全体が困窮し、人々が公儀を怨まざるを得ないありさま」と政情を痛烈に批判する。

彼の怒りに火を着けたのは「大阪の米不足をよそに江戸に米を回し、天皇の御在所である京都には回さないばかりか、近郷から五升一斗ほどの少量の米を市中に買い出しに来た者を逮捕するなどしている」事実である。これは東町奉行跡部良弼(老中水野忠邦の実弟)が、西組与力の内山彦次郎と結託して行ったものである。

さらに大塩の批判の矛先は、大阪の金持ちに向かう。彼らは諸大名に貸し付けた金銀の利殖と扶持米の支給で莫大な利益を得ている。「町人身分のまま大名の家来、用人格などに採用され」「この時節、天災・天罰を見ても畏れもせず、餓死した貧窮者や物乞いする民を救おうともせず」「美食を常とし、妾宅などへも入り込み」「遊里の揚屋、茶屋へ大名の家来を招き、高価な酒を湯水のように飲」んでいる。

大塩の反乱は、民百姓を悩まし苦しめている諸役人(具体的には跡部と内山)を誅伐し、大阪市内の金持ち町人どもを誅殺することが目的であった。

筆者の見立てによれば、東町奉行の跡部良弼が、西組の与力内山彦次郎を使って江戸回米を企てたことによる「私憤」が乱の背後にあるという。さらには、奉行所の東西対立があり、いつの間にか西が優勢で東が劣勢に回っていた。大塩の主催する洗人洞の門人の多くは東組に所属しており、大塩はその利益代表になっていたというのである。

高邁な理想に裏付けられた檄文は人家の多い神社の殿舎などに貼り付けられて、民衆に広く読まれた。この檄文が奏功したのか、民衆の間で平八郎の人気は高かった。焼け出された者でも少しも怨まず、「大塩様」と尊敬した。戦後、市中に潜伏した大塩平八郎を捕らえれば「銀百枚の褒美が下される」との触れが出たが、「たとえ銀の百枚が千枚になろうとも、大塩さんを訴人されようか」と言っていた。

檄文は周到に用意されたように見える。これに反して乱に加担したのはわずかに総人数三百とされる。相次ぐ密訴によって決起の予定が八時間以上早められることになったという誤算もあったであろう。相蘇一弘氏の研究によれば、初動の人数は七十五人前後、最盛期でも一五〇人から二〇〇人程度としている(「大塩の乱関係者一覧とその考察」。幕府を震撼させた大事変にしては、拍子抜けするほどである。

戦闘は天保八年(1837)二月十九日の早朝に始まり、その日の午後四時頃に終結した。半日程度で鎮圧されてしまったのである。しかし、大塩平八郎をはじめ主な人物は、その後も逃亡を続けた。首謀者である大塩平八郎に至っては一か月以上潜伏を続けた。大塩は敗走後早々同志たちに「自死する」と言いながら、いったん大和への逃走を試み、単独行となったところで、縁戚の美吉屋五郎兵衛宅に駆け込んでいる。

大塩の逃避行の裏には、密かに江戸に送った「建議書」があった。建議書は老中への建策でありながら、水戸斉昭の存在が前提となっていると同時に、学問所総裁である林述斎への諫言となっている。

実は大塩平八郎は、佐藤一斎を介して大阪から水戸に米を送ることで水戸藩とは強い繋がりを有していた。また林述斎にも金銭を融資して、分割返済を受けるという関係にあった。

建議書において、大塩は現職老中の過去の汚職と、勘定奉行内藤矩佳、西町奉行矢部定謙、そして与力内山彦次郎の悪行を訴えている。林述斎と水戸斉昭が動いてくれるのを、大塩は大阪で潜伏しながら期待していたのである。

しかし、建議書は斉昭の側近藤田東湖には渡ったが、東湖はそれを斉昭には渡していない。江川英龍の上司である内藤矩佳が手を回したと推測されている。

大塩がいわば命かけで告発した「侫人」は、皮肉にもそれぞれ栄達を遂げている。

矢部定謙はその後江戸南町奉行に昇進したが、老中水野忠邦と対立し罷免。それを不服として絶食し、天保十三年(1842)、死去した。

跡部良弼はその後も江戸南町奉行や講武所総裁、江戸北町奉行などの重職を歴任。最後は若年寄まで昇ったが、明治元年(1868)、七十歳で死去。

内山彦次郎は与力の最上位職である諸御用調役を務め、さらに譜代御家人まで取り立てられた。しかし元治元年(1864)五月、大阪天神橋にて何者かに暗殺された。犯人は新選組説、攘夷志士による天誅説があるが、今も真相は闇の中である。

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「近代日本外交史」 佐々木雄一著 中公新書

2023年07月29日 | 書評

ペリー来航から太平洋戦争に至る約九十年にわたる日本外交の歩みをわずか二百ページ余りに凝縮した一冊。

明治日本にとって大きな外交問題は条約改正であった。条約改正とは具体的には法権回復(領事裁判権の撤廃)と関税問題(関税自主権の回復もしくは関税の引き上げ)である。改正事業にはさまざまな取り組みが模索された。

その代表例の一つが井上馨外務卿の推進した文明開化路線である。悪名高い鹿鳴館でダンスパーティを開いた井上だが、外国人に内地解放をする代わりに法権を回復し、文明国に相応しい法・政治制度を備えることで条約改正を実現しようという戦略であった。

井上の跡を継いだ大隈重信は、外国人の裁判官任用といった妥協的内容を提示しながら領事裁判撤廃を目指した。しかし、外交担当者が是とした内容であっても、日本国内を納得させることはできなかった。結局、大隈自身が爆弾テロを受けて重傷を負ったことを機に大隈路線は頓挫してしまう。

青木周蔵外相、榎本武揚外相の時代も政府内の合意形成に躓き、成果を上げることはできなかった。次いで第二次伊藤博文内閣で外相に就いたのが陸奥宗光である。陸奥は前任者の失敗から学び、国内および政府内で合意を形成することに意を配った。この頃には憲法や裁判所構成法が公布・施行され、帝国議会も開設されており、これも陸奥外交の追い風となった。

またこの頃、外務大臣・外務本省・在外公館の総合的体制で外交を行う体制が完成した。それまで外交で必要とされる社交を優先して、裕福な華族から公使を起用するような人事が普通に行われていたが、ようやく外交の専門性や組織的取り組みの重要性がクローズアップされるようになったのである。

明治二十七年(1894)七月、我が国は悲願であった新条約締結にこぎつけた(日英通商航海条約)。新条約では、日本は内地を開放し、領事裁判が撤廃され、最恵国待遇も双務的となった。関税についても部分的に改正された。ただし、条約の発効は五年後であった。完全な税権回復は果たされていないし、批判される余地は多々あったが、折しも日清戦争が始まり、その結果、新条約に対する日本国内の批判は高まることはなかった。

この成功体験を通じて、日本の外交担当者は西洋諸国を中心とする国際秩序に公正さを認め、それに積極的に適合していくことで日本が十分に発展していけるという自信を得た。一方で条約改正にとどまらず日露戦争の講和を巡って、あるいは第一次世界大戦後のパリ講和会議における人種差別撤廃問題にしても、外交当局者とそれ以外の人たちとの感覚のずれは覆い難いものがあった。先回りして言ってしまうと、その乖離が最後には太平洋戦争へと繋がるほころびであった。

時代は帝国主義の時代を迎えていた。帝国主義というと弱肉強食の世界というイメージが強い。確かにそういう側面も否定できないが、外交上の主張や行動には一定の正当性が求められた。列強はお互いに牽制し、警戒し、協調しながら、他国が認める形で勢力を伸ばしたいのであって、日本もその規範の中にあった。むしろ非西欧国だったから、余計にほかの列強からどう見られるか、ほかの列強がどう反応するかということに神経を使い、外交担当者は正当性や公平性を強く意識していた。ただし、それは飽くまで列強間の論理であって、日本の従属下に置かれた台湾や朝鮮にしてみれば、全く公平でも正当でもないという点には注意を要する。

このような帝国主義的規範意識をもって外交を担っていたのは、大国で公使を経験した有力外交官たち(青木周蔵、陸奥宗光、西徳二郎、加藤高明、小村寿太郎、林董、内田康哉、牧野伸顕、石井菊次郎、本野一郎ら)、つまり「外交のプロ」であった。本書によればこの流れに連なる存在が、伊集院彦吉、松井慶四郎、幣原喜重郎であり、「幣原は日本外交の嫡流」だという。彼らは既存の国際秩序の中で十分日本は発展することができると信じ、「目の前に利益を得ること、少なくとも損はしないこと」に注力した。ここでいう「利益」とは「領土、利権、経済的利得、将来的な主張の根拠」などをいう。

ところが第一世界大戦を経て、外交のあり方が大きく変容することになる。日本も対外膨張策に傾き、従来の外交のプロが担った外交の自律性は、特に世論との関係、あるいは閣内、政府内との整合という観点でも転換期を迎えることになる。

第一次世界大戦後のパリ講和会議において、日本は国際連盟規約に各国民平等、差別撤廃の文言を入れようとしたが失敗に帰した。日本は人種差別問題に関する日本の主張を記録に残すことで折り合いをつけたが、これに対して国内世論は強く反発した。これを契機に日本政府、外交担当者とそれ以外の人々との温度差が次第に顕著となり、日本外交において深刻な意味を持つようになる。

第一次世界大戦を経て世界的に反帝国主義の考えが広がる。列強が共同で中国を抑圧していることが批判的に捉えられるようになってきた。そういう中で国際連盟が設立され、民族自決が唱えられ、従来の帝国主義は批判を受けた。軍縮が叫ばれ、戦争違法化の流れができていく。日本も伝統的な日本外交に回帰しようとした。即ち大勢順応である。ほかの大国が中国から手を引けば日本もそうする。日本だけが不利益を被ることがないようにバランスをとろうとした。

一方、この頃、「満蒙は日本の生命線」というスローガンが唱えられるようになる。日本政府も言論人も、様々な人が様々な場で「満蒙権益は日本の国防ならびに国民の経済的生存に関わるものである」と主張し、これが一因となって日本は国際社会との対決に向かってしまう。現代人の目から見れば妄言でしかないが、朝鮮半島を自国に組み入れた当時の日本人にしてみれば国を挙げて「満蒙は日本の生命線」と信じる根拠があったのであろう。

二〇年代の憲政党・民政党内閣期に外務大臣を務めたのが「外交のプロ」である幣原喜重郎であった。ところが、幣原の対中政策は日本国内で軟弱外交と批判されるようになっていた。

一九二〇年代から三〇年代は、政党内閣が次々と成立し、メディア・ジャーナリズムが勃興した時期である。日本外交も、国内のマグマに煽られるように方向転換を余儀なくされる。「外交のプロ」が国際秩序に配慮しながら自国の利益を追求する従来型の外交に飽き足らず、日本にとって不利な国際秩序を作り変えようという、今から見ればかなり無茶な「正義」を希求することになる。

国際連盟を脱退し、日中戦争を始めた日本は国際的に孤立を深めていく。外交という切り口で見ても、三〇年代は大きな転換点であった。その時代をリアルタイムで生きている人には見えないが、あとから振り返ると画期となる変わり目がある。筆者は「秩序の変動期でなおかつ日本外交が指導力を伴って軌道修正されていた原内閣期は、満州・満蒙についてもより柔軟な政策選択に道を開く好機だった」と指摘しているが、もちろんそれは「後々の展開を知ったうえでの後知恵」であることは否定できない。リアルタイムで生きている人の中にそのことに気が付き、ブレーキを踏んだり方向転換できる人がいたとしたら、それは真のヒーローであろう。いや、もはや神の領域かもしれないが、国家の進路を握るものは一歩でもそれに近づく努力をしなければならない。

 

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「天誅組の変」 舟久保藍著 中公新書

2023年06月26日 | 書評

天誅組研究の第一人者舟久保藍氏の中公新書デビュー作。これまで地方出版社での著作が多かった舟久保氏の、言わばメジャー・デビューといったところである。

本書の特徴は、天誅組の変のみならず、文久二年(1862)の寺田屋事件、天誅組の変に続いて文久三年(1863)に勃発した生野の変に至る事変を取り上げていることである。この三つの事変に共通するのは、いずれも討幕志向が強いものだったということである。

その背景には、一連の事変を久留米の真木和泉が思想的に主導したことがある。真木和泉は生涯多くの論文を残したが、その代表的なものとして「大夢記」(安政五年(1858))が挙げられる。ここに彼の討幕構想が述べられている。

要約すると、九州諸藩や長州藩を糾合して東征の途につき、伊勢神宮、熱田神宮を拝し、箱根に行在所を定め、そこに大老らを呼び出して朝廷に背き、国を売った罪を問う。これに先んじて江戸城、大阪城を押さえ、将軍(家茂)を甲斐・駿河に封じる ――― というもので、思えば鳥羽伏見戦争から始まる戊辰戦争に近似している。

真木和泉の著作でもう一つ注目すべきものが「義挙三策」(文久元年(1861))である。討幕・王政復古の兵を挙げるには九千の兵が必要であり、それは諸侯でなければできない兵力である。従って、大藩が挙国一致して挙兵するのを上策とする。

義徒、すなわち浪人や下級武士たちが事を挙げるのは下策。彼らは勇はあっても物資も武器もなく孤弱である。諸侯が兵を挙げるのと比べれば五倍十倍の人数を集めなくてはならない。この場合は比叡山、金剛山を足掛りにして大阪城を落とし、天皇の行幸を賜り、詔書檄文を奉じて諸侯を味方につける。「ただし、下策は危ういので用いるべからず」としている。

事を成すには義徒ではなく諸侯が立ち上がらなくてはならないという考え方は、真木和泉のみならず平野国臣にも共通したものであった。にもかかわらず、真木も平野もそして五条代官を襲った天誅組も、諸侯が起つという見込みもないまま兵を挙げてしまった。伏見挙兵では薩摩藩を後ろ盾にしようとしたが失敗。天誅組も長州藩主の出馬を請うたがこれも実現しなかった。これが最大の判断ミスであった。

生野の変の直前、平野国臣は七卿の出馬と長州藩の後押しを願ったが、結局これも叶わなかった。実現したのは七卿の一人、沢宣嘉の担ぎ出しのみである。沢は破陣直前に脱出し、生野の変の最期は敗戦というより自滅に近かった。

舟久保氏は、「彼らの討幕運動は節義そのものであり、高杉(晋作)をはじめその後の人々に引き継がれた」「天誅組隊士たちは刑場に消えたが、明治新政府発足の四年前にその形を示した画期的な試みであり、大藩を討幕に導いた一大事件であったといえよう」と一連の討幕運動を最大限に評価しているが、冷静に見てこれらの事変、さらには天狗党の乱にしても、「討幕の魁」と称するにはいささかお粗末であり、彼らの死は犬死に近かったのではないか。結局、討幕運動が実質的に動き出したのは、薩摩藩が公武合体の限界を知り討幕に舵を切るまで待たなくてはいけなかった。伏見義挙や天誅組の変、生野の変が、薩摩藩(究極的には島津久光)の政策転換にさほど重大な影響を与えているように私には思えないのである。

巻末に一連の事件に関与した人たちの名簿が掲載されている。カウントしたわけではないが、九割以上は戦死、刑死、自刃。明治以降、生き延びたのは北垣国道や原六郎(進藤俊三郎)、平岡鳩平、木曽源太郎ら、ごくわずかである。この時期に挙兵した人たちは、半ば死に場所を求めていた感が強い。彼らの死は、歴史を動かしたかという観点でいえばさほど大きな意味はなかったかもしれないが、自らの節義に従って散った生き様は現代に生きる人間の目から見ると、凄く鮮烈である。

「あとがき」によれば、筆者が東吉野の吉村寅太郎の墓を初めて掃苔したのは、十八、九の時だったという。「学校で年号と出来事の暗記しかしてこなかった私が、これまで習った歴史が実際に起こったものであり人々が生きていて今に繋がっていると初めて実感した」と告白しているが、これこそがまさに歴史を知る醍醐味であり、現地を訪ねる楽しみでもある。本書でも生野の変の現場まで足を運んで調査し、それが記述にも生かされている。天誅組にとどまらず益々研究の対象を広げていかれることを期待したい。

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「阿部正弘」 後藤敦史著 戎光祥出版

2023年05月27日 | 書評

嘉永六年(1853)六月のペリー来航は、日本史の画期となる事件であった。その時、老中首座(現代風にいえば内閣総理大臣)という地位にあって難局に当たったのが本書の主人公阿部正弘である。

正弘については、ペリー来航時に幕府がその事情を朝廷に報告し、かつ全大名にアメリカ大統領の親書を示し、意見を求めた。福地桜痴(源一郎)はこれで幕府の倒壊が早まったと明確に正弘を批判している。

一方で、正弘がもっと長生きしていれば、幕府の倒壊はなかったという説もある。阿部は安政四年(1857)に三十九歳(満三十七歳)で病死したが、彼がもっと長く生きていれば幕府と薩摩が敵対することもなく、幕府の倒壊も避けられたのではないかというのである。

いずれにせよ、正弘はこの時期の幕府の鍵を握る存在であったことは間違いない。これまであまり阿部正弘というキーパーソンの事績を詳しく論じた本を読んだことがなかったので、非常に興味深く読み進めることができた。

そもそも阿部正弘はどのような思想をもった政治家だったのだろう。有名な人物でありながら、案外我々はこの人物について良く知らないのである。

阿部正弘は開国派だったのか。鎖国派だったのか。旧幕臣の大久保忠寛(一翁)は「ペリー来航の時点で開国論を唱えていた老中は、正弘と松平忠優(忠固)であった(明治二十一年(1888))」と語っている。しかし、本書によれば、当時の史料からわかるのは鎖国祖法の維持に苦慮し、日米和親条約締結後は鎖国の立て直しを目指している正弘の姿である。正弘が鎖国祖法の限界を認識するようになったのは、安政二年(1855)末頃である。

正弘は天保十一年(1840)、二十二歳の若さで寺社奉行に就いた。寺社奉行というのは、勘定奉行、江戸町奉行と並ぶ三奉行の一つ。三奉行の中でも最上位にあたる。二十二歳での就任は、それ以前の寺社奉行の中ではもっとも若いという。

寺社奉行であった天保十二年(1841)、正弘のその後のキャリアにも影響を与えた「中山法華寺一件」と呼ばれる大事件が発生した。阿部は前将軍家斉、現将軍家慶の権威を守りつつ、女性と密通した日啓という問題人物を排除するという形で決着をつけた。この事件の処理で正弘は株を上げた。将軍の信任を得たことで、それまでの歴代老中の中でも最も若い年齢(二十五歳)での老中就任へと繋がった。正弘が老中に就任した直後、天保の改革を推進した水野忠邦が罷免された。従って、この時正弘が同僚として水野と顔を合わせることはなかった。

その後、弘化元年(1844)、水野忠邦が再び老中に任じられると、忠邦の登用に反対した正弘は登城をボイコット。登城を再開した正弘は、牧野忠雅と連携し、水野と水野一派(その代表格が鳥居忠耀であった)の排除に動いた。翌年二月、水野忠邦が辞任すると、その翌月正弘はついに老中首座となった。

水野忠邦の強権的な政治を間近に見ていた正弘は、合議を経て慎重に判断を下すという手法に徹した。彼のこの政治手法は生涯を通じて一貫している。のちにペリー来航時に全大名に諮問した政治手法もこの延長線上にあると言って良いだろう。

阿部正弘は島津斉彬や伊達宗城、松平春嶽といった開明的大名と親交を結んでいた。その事実だけを切り取ると、彼自身も開明的な思想を持っていたようなイメージがあるが、本書を読む限り、思想的にはどちらかというと保守的である。

弘化年間、異国船が日本近海に出没するようになると、正弘は無二念打払令の復活を画策した。そういう意味では正弘は、思想的にはむしろ徳川斉昭に近い。正弘は一貫して斉昭を政権に取り込もうと意を砕いているが、政治的に保守派、攘夷派に配慮したという側面もあるかもしれないが、心情的に斉昭の考えに同調していたのである。とはいえ、斉昭がヒステリックに主張するような「何が何でも夷人を打ち払え」という極端な攘夷ではなく、その点ではバランスの取れた思想を有していた。時代が下るにつれ、斉昭とは距離を置くようになっていったのである。

正弘は本音では打払令を即刻復活させたかったようだが、決して我を押し通そうということはしない。何度も評定所一座、勘定方や海防掛の意見を聴取し、彼らのコンセンサスを得るように努め、最終的には合意が得られないと見ると、穏健な外国船対応に落ち着いた。この辺りが「現実的政治家」である阿部正弘の真骨頂であり、決して無茶苦茶をしないという意味で長期に渡って多くの関係者の支持を得られた理由であろう。

「現実的政治家」としての正弘の本領が現れたのが安政年間、ペリー来航後の対応である。対外的強硬策の限界を認識した正弘は突如老中首座を退き、その立場を「蘭癖」「西洋かぶれ」とも称される開明派の堀田正睦に引き継いだ。この交代劇は外交方針の転換という意味合いが強い。この時点で正弘は外国との通信・通商は避けられないことを悟ったのだろう。こういった時勢を感知する能力、時勢に応じて対応を変える柔軟性が、阿部正弘という政治家の最大の特徴である。人間は己の思想信条とかイデオロギーからなかなか脱却できないものである。正弘は、いとも簡単に思想的な転換を見せる。

安政四年(1857)、正弘は満年齢で三十七歳という若さで死を迎える。舟橋聖一は「花の生涯」で正弘の死因を「腎虚」としているが、実際に「やり過ぎ」で命を落とすことはないのではないか。状況から見て肝臓癌で亡くなったとするのが自然である。

もともとお酒が好きだった上にストレスも加わり酒量は相当増えていた。ペリー来航という難局を老中首座として対応したその心労は、想像を絶するものがあったと思われる。幕末の動乱が本格化する前に退場してしまったために阿部正弘の評価は必ずしも高くないが、実は非常に重要な役回りを果たした人物なのである。

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「殉死の構造」 山本博文著 角川新書

2023年05月27日 | 書評

本書は、平成六年(1994)に刊行され、平成二十年(2008)に講談社学術文庫から文庫化されたものを、十五年振りに新書として復刊したものである。帯に「画期的な名著が復刊!」と赤い文字で大仰に書かれているが、その宣伝文句が大袈裟と思えないほど「名著」というに相応しい一冊である。

著者はあとがきにおいて「その(殉死の)背後にある武士の気風とか心性(メンタリティ)を明らかにする」ことが「あこがれのテーマ」であり、本書によって「かなりクリアになったのではないか」「まずはその出発点に立ち、全体の見通しをつけた」としている。「気風とか心性」といったつかみどころのない対象を明らかにすることなど、直感的にはかなりムリじゃないかと思ってしまうが、本書を通読するとある程度の納得感がある。

本書は、武士の殉死をテーマとした、森鴎外の有名な歴史小説「阿部一族」が史実に反していることから書き起こす。「阿部一族」は、明治天皇に殉死した乃木希典大将の事件をきっかけに書かれたものである。殉死という前時代的な行為でありながら、明治の人たちの心の底には微妙な共感・賞賛もあった。著者の解釈によると、鴎外が「阿部一族」を創作したのは、乃木の殉死を賛美する一方で死に後れた侍医や側近への心理的圧力があったためという。鴎外は世間の圧力によって人が死ぬような悲劇を繰り返してはいけないと主張したのである。

鴎外は、阿部弥一右衛門の殉死が「周囲から強制された死」であったという描き方をしている。著者は、鴎外が依拠した「阿部茶事談」や「綿考輯録」に潤色が多く、一次史料としては使えないことを明示した上で、弥一右衛門の死の真相を明らかにする。史料の限り、弥一右衛門は細川忠利の葬儀の前、ほかの殉死者と同じ日に殉死している。つまり、鴎外が小説で描いたように弥一右衛門が他より死に遅れたとか、殉死しないからといって他人から非難を受けた事実はないのである。

著者が綿密に調査した結果、小説の阿部弥一右衛門のように周囲から強要されていやいや追腹を切るというパターンはほとんど確認できず、我が国の近世の殉死者は基本的に心からそれを望み、さまざまな圧力を受けながらもそれをはねのけて追腹を切った。しかし、殉死がいかに美風とされた時代とはいえ、誰もが腹を切ったわけではなく、主君から格別な恩寵を受けたとか、破格の待遇を受けたという一定の基準があった。著者は殉死者の多くが主君との男色関係にあったとするが、これは状況証拠から類推するしかないところで、なかなか実証が難しいものである。

将軍秀忠や家光が亡くなったときに重臣(老中や年寄経験者)が殉死した例はあるが、それはむしろ例外であり、殉死者には軽輩や下級家臣が圧倒的に多い。彼らは客観的に見ても「栄達」といわれるような破格の待遇を受けたわけではないし、殉死によって子供が引き立てられたという事実もない。主君とのほんのわずかな接点 ――― たとえば主君が居宅に立ち寄り縁側に腰をかけ、そこで親しく声をかけられたとか ――― そうしたご厚恩に感激し、追腹を切ったという例が実に多い。

我々の感覚では、殉死とは忠義心の発露のように考えられているが、案外そういう例は少なく、実は忠誠心とは少し離れた、主君への愛情であるとか、或いはもっと非合理的で衝動的な行動であった。現代人から見ればありそうに思える、打算的な殉死の例(つまり自分が殉死することで子供が加増されるような「商腹」)はそもそも存在していない。

下級家臣には、到底現代人には共感できないささいなことで殉死する者が少なからず存在した。彼らは主君への愛情とか忠誠心ではなく、「死にゆく者の美学」だけで腹を切ったのである。十七世紀後半には我先にと殉死を願う風潮は一種の流行のようになった。ほかの大名家の殉死者の数に負けないようにという対抗意識もあったのかもしれない。こうした独自の美学にこだわり、その美学のために簡単に命を擲ってしまう下級武士のことを、著者は「かぶき者」と称している。

かぶき者というのは、もともと「傾く」からきており、偏った異様な風俗(服装や髪型)や行動をとるものを指している。かぶき者の気風を代表する気質は、当時「奴気質(やっこかたぎ)」と呼ばれていた。

好色を好み、「侍道」の勇気を重んじ、人のために命を惜しまず、親方・老人を大切にし、自分の命を捨てて他人を救い、徳を重んじ、人のできないことをやり、敵対したものを許さない…

これが当時の奴(やっこ)の代表的な人物像だという。殉死した下級家臣はれっきとした武士ではあったが、ほとんど彼らの心性や行動原理は無頼の徒と変わらない。

もともと武士という集団は、戦場という舞台で最大限のパフォーマンスを上げるため、秩序を度外視し、いざとなれば生命を投げ捨てる心性をもった勇者であった。戦いの時代が去り、そのような戦闘集団は活躍の場を失うが、新しい時代に適応できない者は非合理的な心性を純化して受け継いだ。本書で「かぶき者はこの側面が極端に肥大したもの」という高木昭作氏の言葉を引用している。彼らが競って殉死したのは、自らの美学とか、それを通り越して単なる「自己陶酔」「自己主張」のためである。彼らのメンタリティを、忠誠や打算といった現代的な尺度で理解することはできない。

著者はさらに論を進め、忠臣蔵で有名な赤穂浪士の討ち入りにも「かぶき者」的な心性が見られるとか、「死ぬことと見つけたり」で有名な「葉隠」は没我的忠誠を強制しているのではなく武士の自己防衛のための教訓を説いているのだとか、とてもユニークで興味深い議論を展開している。

著者山本博文先生の著述については、忠臣蔵関係の記述は史実と異なる、信憑性に疑問が残るといった批判もある。本書では難解なテーマに取り組み、多種多様な史料に当たりながら、非常に平易で明快。令和二年(2020)に六十三歳で逝去されたが、まだまだこれからという年齢だっただけに惜しまれる。

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「台湾を築いた明治の日本人」 渡辺利夫著 産経NF文庫

2023年04月22日 | 書評

台湾の人がほかに類を見ないくらい親日的であることは広く知られている。90年代(つまり今から三十年も前に)高雄市に駐在した経験のある私も、台湾の熱烈な親日を身をもって体験した一人である。

現代まで続く台湾人の親日熱の源流を遡ると、戦前の日本統治時代に行き着く。日清戦争に勝利した日本は、清から台湾の割譲を受け、以来五十年に渡って台湾を統治した。初代の台湾総督は樺山資紀(薩摩)。その後、長州の桂太郎、乃木希典、児玉源太郎と続く。歴代の台湾総督に当代一流の人物を送ったのは、台湾総督に絶大な権限が与えられているからにほかならない。台湾は本土の憲法やさまざまな法律の及ぶところではなく、帝国議会からも多分に独立した存在であった。当初「内地延長主義」と呼ばれるように本土と同様の制度を台湾にも適用すべきという議論もあったが、「六三法」(台湾に施行すべき法律)によって本土とは別の法域となった。つまり台湾は総督の発する律令と呼ばれる独自の法律が支配する地域だったのである。絶大な権限を有する台湾総督におかしな人物を充てるわけにはいかなかったであろう。

同時期、欧米列強は圧倒的武力を背景にアジア各地を植民地化した。彼らも、日本が台湾で行ったように、植民地に鉄道を敷設し、港湾を整備し、道路網を広げた。日本が台湾で行ったこともその延長線上にあるといってよい。しかし、本書を読めばわかるように「日本による台湾統治は、経済社会の文明化の観点からみて、欧米列強の支配下におかれていた往時のほかの植民地に比べて圧倒的な成功例」であった。「日本の台湾統治は列強の植民地支配のような搾取や収奪を目的としたものではない。日本の文明化のモデルの台湾への移植であり、これをもって帝国日本のありようを世界に顕示しようという精神に貫かれていた」という指摘は核心をついている。

私が今勤務しているベトナムも、かつては長くフランスの統治下にあった。今もハノイ市内を散策すれば、フランス統治時代に建設された建造物を見ることができる。ベトナムを縦断する鉄道も仏領インドシナ時代の遺産だし、我々の製品が船積みされて輸出されるハイフォン港もフランス統治時代に整備されたものである。ハノイ市内に目を向ければ、旧市街の端にハンダウ給水塔と呼ばれる上水道施設がある。これは1894年に造られたものである。当時のベトナムでは生活用水として井戸水、雨水、川や湖の水が利用されており、衛生状態が劣悪で、疫病が蔓延していた。1886年にはトンキン・アンナン理事長官ポール・ベルが赤痢によって亡くなった。これを受けて、在住フランス人の間で水道システムの整備を求める声が高まった。以後、この給水塔からハノイ城周辺やフランス政府関係者、軍関係者の居住地域、旧市街へ水を供給したのである。

つまりフランスが植民地に対して整備したのは、自分たちの生活・生命を守るためのインフラにとどまっていたのに対し、日本が台湾で手掛けたインフラは、本書で紹介されているように烏山頭(うさんとう)にダムを築き、貯水した水を十五万ヘクタールに及ぶ嘉南平原に流す。なお不足する貯水量を得るために烏山嶺に全長三千メートルを超える隧道を掘削。ダムから放たれた水が地球を半周するほどの総延長となる用水路に流され、荒涼たる平野が広大な緑の絨毯と変じるという壮大なものであった。この水利灌漑施設の整備を構想し、実現に向けて粉骨砕身の働きをみせたのが八田與一である。今でも烏山頭ダムの一隅に八田與一の銅像と八田夫妻の墓が建てられている。台湾の人々は八田與一を恩人として感謝し続けており、毎年八田の命日には墓前祭が開かれている。

しかし、言うまでもなく烏山頭ダムと嘉南平野の水利事業は八田一人の尽力によって実現したのではなく、特に資金面では日本政府の後押しなく実行できるものではなかった。当時の八田の直接の上司である山形要助(総督府土木局長)、民政長官下村宏、当時の総督明石元二郎らの許諾を受けた上で、初めて実現に向けて動き出せたのである。

当時の日本が台湾におけるこの大プロジェクトを決断した背景には、日露戦争を眼前に控え、内地の米不足が深刻化しており、明治二十三年(1890)には全国各地で米騒動と呼ばれる暴動が頻発している状況があった。日本国内の米生産だけでは一方的に増大する需要を賄うことは不可能であり、台湾からの米供給が不可欠の命題だったのである。即ち台湾における水利灌漑事業は国家的命題でもあった。決して日本が慈善事業として大プロジェクトを遂行したわけではない。そのことを良く注意して本書を読み進める必要があるだろう。

日本が台湾で推進したのは、内地種「蓬莱米」の育成であった。蓬莱米の開発や「緑の革命」と呼ばれる台湾農業の単収の飛躍的増加にも、磯永吉ら日本人技術者の血のにじむような物語があった。

本書でもっとも印象に残ったのは、第四代総督児玉源太郎のもとで辣腕をふるった後藤新平である。後藤はもともと医師であり、その経験を通じて「生物学の原理」を心奉していた。後藤によれば、ある地域で育った生物を他の地域に移植しようとしても、それは生物学的に無理があるという。台湾に古くから存在している慣行(旧慣)を考究して、それを尊重して旧慣に合った政策を採用することが後藤のとった方策であった。それまで台湾において土匪と呼ばれる抗日勢力がゲリラ活動を展開し、歴代総督はその掃討に手を焼いていたが、後藤は旧来より台湾にある自治機構をもって土匪招降策を推進した。ほかにも「生蕃」即ち高砂族対策を、「保甲」と呼ばれる自治的近隣組織を再編して進めたり、社会問題となっていた阿片常習者の撲滅にも漸進策をもって効果を上げた。

後藤新平の「生物学の原理」というのは「人間はその生理的円満をもって人生の目的とする存在」と定義する。人間は精神主義とか善悪正邪といった倫理で動いているのではなく、生理的円満のみを求めて人生を紡ぐ存在とみなすのである。これは今でも海外において仕事をする上でも通じる考え方ではないだろうか。

海外で仕事をしていると、「どうして(日本では当たり前に行われているのに)このような簡単なことができないのか」と苛だつことも多いし、有無を言わさず日本流・本社流を押し付けてしまいがちであるが、ここは一呼吸おいて「どうしてここではこのようにやられているのか」を観察し、多少時間がかかっても現地の人の考え方に沿ったやり方を導入することが肝要なのかもしれない。

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「徳川斉昭と水戸弘道館」 大石学編著 戎光祥出版

2023年04月22日 | 書評

本書の執筆者として名を連ねる大石学先生(東京学芸大学名誉教授)、鈴木瑛一先生(茨城大学名誉教授)、関口慶久氏(水戸市教育委員会歴史文化財課課長補佐)、小圷のり子氏(茨城県水戸土木事務所偕楽園公園課弘道館事務所主任研究員)は、水戸弘道館の震災からの復旧に尽力し、さらに日本遺産認定、そして世界遺産登録を目指して、情熱をもって取り組んでおられる方々である。

水戸弘道館が平成二十三年(2011)三月十一日の東日本大震災で甚大な被害を受けたことは本書にも記載されている通りである。この時、「壁が落ちて近づけない大変な状況」で「これでもう世界遺産はダメになってしまうのではないか」という有り様だったが、その後関係者の努力で往時の姿を取り戻したのも周知のとおりである。私も震災の前と後に弘道館を訪ねたが、今では震災による深刻な被害があったことに全く気付かないほど、完璧に修復されている。改めて我が国における文化財修復技術の高さを実感することができる。

水戸市が弘道館・偕楽園の世界遺産登録を目指して動き出したのは平成十九年(2007)のことであるが、その活動の結果、平成二十七年(2015)には、「近世日本の教育遺産群」として弘道館・偕楽園のある水戸市は、足利学校のある栃木県足利市、閑谷学校のある岡山県備前市、咸宜園のある大分県日田市とともに日本遺産に認定されている。世界遺産と比べると日本遺産の知名度は落ちるが、この時十八件が同時に登録を受けている(その数は令和三年(2021)末現在で一〇四件に達している)。世界遺産のように文化財の学術的価値はそれほど求められず、むしろ対象の遺産のもつ特徴が、観光面でPR力を持つかどうか(ストーリー性)が重視されるという。

水戸市は当初単独での世界遺産登録を目指したが、平成二十年(2008)に文化庁の審査に落選し、以降足利市、備前市、日田市との連携へと舵を切った。足利学校は日本最古の学校ともいわれ、その歴史は奈良時代まで遡るともいわれる。江戸時代には教育機関としての機能は失ったものの、我が国における学問の伝統を語るときに欠かせない存在である。閑谷学校は郷学という農村の子弟のための学校の一つで、我が国で一番古い、なおかつ代表的な郷学である。咸宜園は江戸時代後期を代表する私塾で、塾生四千人もしくは五千人を数え、当時の社会に絶大な影響を及ぼした。いずれも近世日本の教育を語るには欠かせない存在である。

足利学校、閑谷学校、咸宜園に加えて、藩校を選定することにも異論はないだろう。江戸末期には二百以上の藩校があったとされるが、その藩校を代表する存在として水戸の弘道館が適切なのだろうか。もっとも古いという観点では岡山藩藩学の方が歴史はあるし、会津の日新館や長州の明倫館など現在まで建造物が維持保存されている例は他にもある。(これは藩校とは違うが)幕府の開いた昌平黌も果たした役割の大きさからすれば無視できない。本書では弘道館の教育のユニークさやスケールの大きさを強調するが、ほかの藩校でも言い分はあるに違いない。

もう一つの難点は、弘道館の玄関にかかる松延年書「尊攘」の掛け軸である。本書に掲載されているシンポジウムで大石先生が述べられているように「はたして、尊王攘夷の思想・世界観は世界遺産にふさわしいか」という観点でみると、世界遺産登録への大きな障害と思われる。水戸発信の攘夷思想が昭和まで受け継がれ、我が国が戦争に突入する精神的思想的な役割を思うと、世界遺産登録には大きな壁になると言わざるを得ない。昔はここにこの掛け軸はなかったようだが、平成十年(1998)の大河ドラマ「徳川慶喜」の撮影時にここに掛けられ、今では「尊攘の間」と呼ばれるほど定着してしまっている。

本書では、斉昭の顕彰とともに彼が目指した「尊攘」は単なる外国を打ち払うということではなく、日本が世界の国々と対等に渡り合うことが究極の目的だったことを強調しているが、水戸の弘道館、水戸学、斉昭や藤田東湖の思想と聞いて、残念ながら我々が連想する「尊攘」は狭い意味での攘夷である。狂信的でヒステリックですらあり、国を滅ぼしてでも夷狄を討つという尊攘思想は、一般に連想される水戸学、徳川斉昭のイメージと抜き差しならいほど密接になっており、今や取り外したくても外せない状況になっている。鈴木先生はシンポジウムの中で「私は外して欲しいと思っていますが、現在の場所におさまってしまっていますから難しいようで困っています」と苦しい胸のうちを吐露している。本書の執筆者の皆さんは口々に「誤解」とされているが、実は同時代の人でさえ斉昭の思想を本書で解説されているような平等思想だと理解していた者は少数だった。長州藩をまるごと無謀な攘夷戦争に駆り立てた攘夷思想も水戸が発信源であったし、天狗党が実現を目指した攘夷も、狭い意味での攘夷、つまり外国人を追い払えという極めて原始的な攘夷思想であった。

本気で「近世日本の教育遺産群」の世界遺産登録を目指すのであれば、弘道館にとらわれずに明治維新の時点で全国に二百以上存在していた藩校全体を対象にして、その一つの例として弘道館を位置づけたらどうかと考える。遺産というからには今も文化財として存続していないといけないのだろうから、鶴岡の致道館とか、萩の明倫館などと一緒に申請するわけにいかないものだろうか。本書にも記載されているように、近世日本は世界有数の文字社会であり、人々の勉学熱に応えるために多くの学校が開かれた。黒船が来航し「徳川の平和」が終わりを告げようという時期、やはり教育が求められた。ほぼ全国全藩に渡って藩校が開かれ人材を育成していたことは、我が国において維新後近代教育への切り替えが比較的スムーズに進んだ大きな原動力となった。そのような歴史的背景も含めて藩校群の遺産としての価値は高いはずである。

本音をいえば個人的にはあまり世界遺産に関する興味関心はなく、どっちでも良いと思っている。むしろ、世界遺産に登録された途端に観光客が押し寄せ、それまでの静かな空気が損なわれることに嫌悪感を覚えている。関口氏の言にある「登録されたら成功、されなかったら失敗、というのではなくプロセスを大切にした登録推薦」という姿勢には賛成である。この活動を通じて、弘道館や斉昭や水戸の学問への理解が深まることを期待してやまない。

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