ペリー来航から太平洋戦争に至る約九十年にわたる日本外交の歩みをわずか二百ページ余りに凝縮した一冊。
明治日本にとって大きな外交問題は条約改正であった。条約改正とは具体的には法権回復(領事裁判権の撤廃)と関税問題(関税自主権の回復もしくは関税の引き上げ)である。改正事業にはさまざまな取り組みが模索された。
その代表例の一つが井上馨外務卿の推進した文明開化路線である。悪名高い鹿鳴館でダンスパーティを開いた井上だが、外国人に内地解放をする代わりに法権を回復し、文明国に相応しい法・政治制度を備えることで条約改正を実現しようという戦略であった。
井上の跡を継いだ大隈重信は、外国人の裁判官任用といった妥協的内容を提示しながら領事裁判撤廃を目指した。しかし、外交担当者が是とした内容であっても、日本国内を納得させることはできなかった。結局、大隈自身が爆弾テロを受けて重傷を負ったことを機に大隈路線は頓挫してしまう。
青木周蔵外相、榎本武揚外相の時代も政府内の合意形成に躓き、成果を上げることはできなかった。次いで第二次伊藤博文内閣で外相に就いたのが陸奥宗光である。陸奥は前任者の失敗から学び、国内および政府内で合意を形成することに意を配った。この頃には憲法や裁判所構成法が公布・施行され、帝国議会も開設されており、これも陸奥外交の追い風となった。
またこの頃、外務大臣・外務本省・在外公館の総合的体制で外交を行う体制が完成した。それまで外交で必要とされる社交を優先して、裕福な華族から公使を起用するような人事が普通に行われていたが、ようやく外交の専門性や組織的取り組みの重要性がクローズアップされるようになったのである。
明治二十七年(1894)七月、我が国は悲願であった新条約締結にこぎつけた(日英通商航海条約)。新条約では、日本は内地を開放し、領事裁判が撤廃され、最恵国待遇も双務的となった。関税についても部分的に改正された。ただし、条約の発効は五年後であった。完全な税権回復は果たされていないし、批判される余地は多々あったが、折しも日清戦争が始まり、その結果、新条約に対する日本国内の批判は高まることはなかった。
この成功体験を通じて、日本の外交担当者は西洋諸国を中心とする国際秩序に公正さを認め、それに積極的に適合していくことで日本が十分に発展していけるという自信を得た。一方で条約改正にとどまらず日露戦争の講和を巡って、あるいは第一次世界大戦後のパリ講和会議における人種差別撤廃問題にしても、外交当局者とそれ以外の人たちとの感覚のずれは覆い難いものがあった。先回りして言ってしまうと、その乖離が最後には太平洋戦争へと繋がるほころびであった。
時代は帝国主義の時代を迎えていた。帝国主義というと弱肉強食の世界というイメージが強い。確かにそういう側面も否定できないが、外交上の主張や行動には一定の正当性が求められた。列強はお互いに牽制し、警戒し、協調しながら、他国が認める形で勢力を伸ばしたいのであって、日本もその規範の中にあった。むしろ非西欧国だったから、余計にほかの列強からどう見られるか、ほかの列強がどう反応するかということに神経を使い、外交担当者は正当性や公平性を強く意識していた。ただし、それは飽くまで列強間の論理であって、日本の従属下に置かれた台湾や朝鮮にしてみれば、全く公平でも正当でもないという点には注意を要する。
このような帝国主義的規範意識をもって外交を担っていたのは、大国で公使を経験した有力外交官たち(青木周蔵、陸奥宗光、西徳二郎、加藤高明、小村寿太郎、林董、内田康哉、牧野伸顕、石井菊次郎、本野一郎ら)、つまり「外交のプロ」であった。本書によればこの流れに連なる存在が、伊集院彦吉、松井慶四郎、幣原喜重郎であり、「幣原は日本外交の嫡流」だという。彼らは既存の国際秩序の中で十分日本は発展することができると信じ、「目の前に利益を得ること、少なくとも損はしないこと」に注力した。ここでいう「利益」とは「領土、利権、経済的利得、将来的な主張の根拠」などをいう。
ところが第一世界大戦を経て、外交のあり方が大きく変容することになる。日本も対外膨張策に傾き、従来の外交のプロが担った外交の自律性は、特に世論との関係、あるいは閣内、政府内との整合という観点でも転換期を迎えることになる。
第一次世界大戦後のパリ講和会議において、日本は国際連盟規約に各国民平等、差別撤廃の文言を入れようとしたが失敗に帰した。日本は人種差別問題に関する日本の主張を記録に残すことで折り合いをつけたが、これに対して国内世論は強く反発した。これを契機に日本政府、外交担当者とそれ以外の人々との温度差が次第に顕著となり、日本外交において深刻な意味を持つようになる。
第一次世界大戦を経て世界的に反帝国主義の考えが広がる。列強が共同で中国を抑圧していることが批判的に捉えられるようになってきた。そういう中で国際連盟が設立され、民族自決が唱えられ、従来の帝国主義は批判を受けた。軍縮が叫ばれ、戦争違法化の流れができていく。日本も伝統的な日本外交に回帰しようとした。即ち大勢順応である。ほかの大国が中国から手を引けば日本もそうする。日本だけが不利益を被ることがないようにバランスをとろうとした。
一方、この頃、「満蒙は日本の生命線」というスローガンが唱えられるようになる。日本政府も言論人も、様々な人が様々な場で「満蒙権益は日本の国防ならびに国民の経済的生存に関わるものである」と主張し、これが一因となって日本は国際社会との対決に向かってしまう。現代人の目から見れば妄言でしかないが、朝鮮半島を自国に組み入れた当時の日本人にしてみれば国を挙げて「満蒙は日本の生命線」と信じる根拠があったのであろう。
二〇年代の憲政党・民政党内閣期に外務大臣を務めたのが「外交のプロ」である幣原喜重郎であった。ところが、幣原の対中政策は日本国内で軟弱外交と批判されるようになっていた。
一九二〇年代から三〇年代は、政党内閣が次々と成立し、メディア・ジャーナリズムが勃興した時期である。日本外交も、国内のマグマに煽られるように方向転換を余儀なくされる。「外交のプロ」が国際秩序に配慮しながら自国の利益を追求する従来型の外交に飽き足らず、日本にとって不利な国際秩序を作り変えようという、今から見ればかなり無茶な「正義」を希求することになる。
国際連盟を脱退し、日中戦争を始めた日本は国際的に孤立を深めていく。外交という切り口で見ても、三〇年代は大きな転換点であった。その時代をリアルタイムで生きている人には見えないが、あとから振り返ると画期となる変わり目がある。筆者は「秩序の変動期でなおかつ日本外交が指導力を伴って軌道修正されていた原内閣期は、満州・満蒙についてもより柔軟な政策選択に道を開く好機だった」と指摘しているが、もちろんそれは「後々の展開を知ったうえでの後知恵」であることは否定できない。リアルタイムで生きている人の中にそのことに気が付き、ブレーキを踏んだり方向転換できる人がいたとしたら、それは真のヒーローであろう。いや、もはや神の領域かもしれないが、国家の進路を握るものは一歩でもそれに近づく努力をしなければならない。