史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「近代日本外交史」 佐々木雄一著 中公新書

2023年07月29日 | 書評

ペリー来航から太平洋戦争に至る約九十年にわたる日本外交の歩みをわずか二百ページ余りに凝縮した一冊。

明治日本にとって大きな外交問題は条約改正であった。条約改正とは具体的には法権回復(領事裁判権の撤廃)と関税問題(関税自主権の回復もしくは関税の引き上げ)である。改正事業にはさまざまな取り組みが模索された。

その代表例の一つが井上馨外務卿の推進した文明開化路線である。悪名高い鹿鳴館でダンスパーティを開いた井上だが、外国人に内地解放をする代わりに法権を回復し、文明国に相応しい法・政治制度を備えることで条約改正を実現しようという戦略であった。

井上の跡を継いだ大隈重信は、外国人の裁判官任用といった妥協的内容を提示しながら領事裁判撤廃を目指した。しかし、外交担当者が是とした内容であっても、日本国内を納得させることはできなかった。結局、大隈自身が爆弾テロを受けて重傷を負ったことを機に大隈路線は頓挫してしまう。

青木周蔵外相、榎本武揚外相の時代も政府内の合意形成に躓き、成果を上げることはできなかった。次いで第二次伊藤博文内閣で外相に就いたのが陸奥宗光である。陸奥は前任者の失敗から学び、国内および政府内で合意を形成することに意を配った。この頃には憲法や裁判所構成法が公布・施行され、帝国議会も開設されており、これも陸奥外交の追い風となった。

またこの頃、外務大臣・外務本省・在外公館の総合的体制で外交を行う体制が完成した。それまで外交で必要とされる社交を優先して、裕福な華族から公使を起用するような人事が普通に行われていたが、ようやく外交の専門性や組織的取り組みの重要性がクローズアップされるようになったのである。

明治二十七年(1894)七月、我が国は悲願であった新条約締結にこぎつけた(日英通商航海条約)。新条約では、日本は内地を開放し、領事裁判が撤廃され、最恵国待遇も双務的となった。関税についても部分的に改正された。ただし、条約の発効は五年後であった。完全な税権回復は果たされていないし、批判される余地は多々あったが、折しも日清戦争が始まり、その結果、新条約に対する日本国内の批判は高まることはなかった。

この成功体験を通じて、日本の外交担当者は西洋諸国を中心とする国際秩序に公正さを認め、それに積極的に適合していくことで日本が十分に発展していけるという自信を得た。一方で条約改正にとどまらず日露戦争の講和を巡って、あるいは第一次世界大戦後のパリ講和会議における人種差別撤廃問題にしても、外交当局者とそれ以外の人たちとの感覚のずれは覆い難いものがあった。先回りして言ってしまうと、その乖離が最後には太平洋戦争へと繋がるほころびであった。

時代は帝国主義の時代を迎えていた。帝国主義というと弱肉強食の世界というイメージが強い。確かにそういう側面も否定できないが、外交上の主張や行動には一定の正当性が求められた。列強はお互いに牽制し、警戒し、協調しながら、他国が認める形で勢力を伸ばしたいのであって、日本もその規範の中にあった。むしろ非西欧国だったから、余計にほかの列強からどう見られるか、ほかの列強がどう反応するかということに神経を使い、外交担当者は正当性や公平性を強く意識していた。ただし、それは飽くまで列強間の論理であって、日本の従属下に置かれた台湾や朝鮮にしてみれば、全く公平でも正当でもないという点には注意を要する。

このような帝国主義的規範意識をもって外交を担っていたのは、大国で公使を経験した有力外交官たち(青木周蔵、陸奥宗光、西徳二郎、加藤高明、小村寿太郎、林董、内田康哉、牧野伸顕、石井菊次郎、本野一郎ら)、つまり「外交のプロ」であった。本書によればこの流れに連なる存在が、伊集院彦吉、松井慶四郎、幣原喜重郎であり、「幣原は日本外交の嫡流」だという。彼らは既存の国際秩序の中で十分日本は発展することができると信じ、「目の前に利益を得ること、少なくとも損はしないこと」に注力した。ここでいう「利益」とは「領土、利権、経済的利得、将来的な主張の根拠」などをいう。

ところが第一世界大戦を経て、外交のあり方が大きく変容することになる。日本も対外膨張策に傾き、従来の外交のプロが担った外交の自律性は、特に世論との関係、あるいは閣内、政府内との整合という観点でも転換期を迎えることになる。

第一次世界大戦後のパリ講和会議において、日本は国際連盟規約に各国民平等、差別撤廃の文言を入れようとしたが失敗に帰した。日本は人種差別問題に関する日本の主張を記録に残すことで折り合いをつけたが、これに対して国内世論は強く反発した。これを契機に日本政府、外交担当者とそれ以外の人々との温度差が次第に顕著となり、日本外交において深刻な意味を持つようになる。

第一次世界大戦を経て世界的に反帝国主義の考えが広がる。列強が共同で中国を抑圧していることが批判的に捉えられるようになってきた。そういう中で国際連盟が設立され、民族自決が唱えられ、従来の帝国主義は批判を受けた。軍縮が叫ばれ、戦争違法化の流れができていく。日本も伝統的な日本外交に回帰しようとした。即ち大勢順応である。ほかの大国が中国から手を引けば日本もそうする。日本だけが不利益を被ることがないようにバランスをとろうとした。

一方、この頃、「満蒙は日本の生命線」というスローガンが唱えられるようになる。日本政府も言論人も、様々な人が様々な場で「満蒙権益は日本の国防ならびに国民の経済的生存に関わるものである」と主張し、これが一因となって日本は国際社会との対決に向かってしまう。現代人の目から見れば妄言でしかないが、朝鮮半島を自国に組み入れた当時の日本人にしてみれば国を挙げて「満蒙は日本の生命線」と信じる根拠があったのであろう。

二〇年代の憲政党・民政党内閣期に外務大臣を務めたのが「外交のプロ」である幣原喜重郎であった。ところが、幣原の対中政策は日本国内で軟弱外交と批判されるようになっていた。

一九二〇年代から三〇年代は、政党内閣が次々と成立し、メディア・ジャーナリズムが勃興した時期である。日本外交も、国内のマグマに煽られるように方向転換を余儀なくされる。「外交のプロ」が国際秩序に配慮しながら自国の利益を追求する従来型の外交に飽き足らず、日本にとって不利な国際秩序を作り変えようという、今から見ればかなり無茶な「正義」を希求することになる。

国際連盟を脱退し、日中戦争を始めた日本は国際的に孤立を深めていく。外交という切り口で見ても、三〇年代は大きな転換点であった。その時代をリアルタイムで生きている人には見えないが、あとから振り返ると画期となる変わり目がある。筆者は「秩序の変動期でなおかつ日本外交が指導力を伴って軌道修正されていた原内閣期は、満州・満蒙についてもより柔軟な政策選択に道を開く好機だった」と指摘しているが、もちろんそれは「後々の展開を知ったうえでの後知恵」であることは否定できない。リアルタイムで生きている人の中にそのことに気が付き、ブレーキを踏んだり方向転換できる人がいたとしたら、それは真のヒーローであろう。いや、もはや神の領域かもしれないが、国家の進路を握るものは一歩でもそれに近づく努力をしなければならない。

 

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「天誅組の変」 舟久保藍著 中公新書

2023年06月26日 | 書評

天誅組研究の第一人者舟久保藍氏の中公新書デビュー作。これまで地方出版社での著作が多かった舟久保氏の、言わばメジャー・デビューといったところである。

本書の特徴は、天誅組の変のみならず、文久二年(1862)の寺田屋事件、天誅組の変に続いて文久三年(1863)に勃発した生野の変に至る事変を取り上げていることである。この三つの事変に共通するのは、いずれも討幕志向が強いものだったということである。

その背景には、一連の事変を久留米の真木和泉が思想的に主導したことがある。真木和泉は生涯多くの論文を残したが、その代表的なものとして「大夢記」(安政五年(1858))が挙げられる。ここに彼の討幕構想が述べられている。

要約すると、九州諸藩や長州藩を糾合して東征の途につき、伊勢神宮、熱田神宮を拝し、箱根に行在所を定め、そこに大老らを呼び出して朝廷に背き、国を売った罪を問う。これに先んじて江戸城、大阪城を押さえ、将軍(家茂)を甲斐・駿河に封じる ――― というもので、思えば鳥羽伏見戦争から始まる戊辰戦争に近似している。

真木和泉の著作でもう一つ注目すべきものが「義挙三策」(文久元年(1861))である。討幕・王政復古の兵を挙げるには九千の兵が必要であり、それは諸侯でなければできない兵力である。従って、大藩が挙国一致して挙兵するのを上策とする。

義徒、すなわち浪人や下級武士たちが事を挙げるのは下策。彼らは勇はあっても物資も武器もなく孤弱である。諸侯が兵を挙げるのと比べれば五倍十倍の人数を集めなくてはならない。この場合は比叡山、金剛山を足掛りにして大阪城を落とし、天皇の行幸を賜り、詔書檄文を奉じて諸侯を味方につける。「ただし、下策は危ういので用いるべからず」としている。

事を成すには義徒ではなく諸侯が立ち上がらなくてはならないという考え方は、真木和泉のみならず平野国臣にも共通したものであった。にもかかわらず、真木も平野もそして五条代官を襲った天誅組も、諸侯が起つという見込みもないまま兵を挙げてしまった。伏見挙兵では薩摩藩を後ろ盾にしようとしたが失敗。天誅組も長州藩主の出馬を請うたがこれも実現しなかった。これが最大の判断ミスであった。

生野の変の直前、平野国臣は七卿の出馬と長州藩の後押しを願ったが、結局これも叶わなかった。実現したのは七卿の一人、沢宣嘉の担ぎ出しのみである。沢は破陣直前に脱出し、生野の変の最期は敗戦というより自滅に近かった。

舟久保氏は、「彼らの討幕運動は節義そのものであり、高杉(晋作)をはじめその後の人々に引き継がれた」「天誅組隊士たちは刑場に消えたが、明治新政府発足の四年前にその形を示した画期的な試みであり、大藩を討幕に導いた一大事件であったといえよう」と一連の討幕運動を最大限に評価しているが、冷静に見てこれらの事変、さらには天狗党の乱にしても、「討幕の魁」と称するにはいささかお粗末であり、彼らの死は犬死に近かったのではないか。結局、討幕運動が実質的に動き出したのは、薩摩藩が公武合体の限界を知り討幕に舵を切るまで待たなくてはいけなかった。伏見義挙や天誅組の変、生野の変が、薩摩藩(究極的には島津久光)の政策転換にさほど重大な影響を与えているように私には思えないのである。

巻末に一連の事件に関与した人たちの名簿が掲載されている。カウントしたわけではないが、九割以上は戦死、刑死、自刃。明治以降、生き延びたのは北垣国道や原六郎(進藤俊三郎)、平岡鳩平、木曽源太郎ら、ごくわずかである。この時期に挙兵した人たちは、半ば死に場所を求めていた感が強い。彼らの死は、歴史を動かしたかという観点でいえばさほど大きな意味はなかったかもしれないが、自らの節義に従って散った生き様は現代に生きる人間の目から見ると、凄く鮮烈である。

「あとがき」によれば、筆者が東吉野の吉村寅太郎の墓を初めて掃苔したのは、十八、九の時だったという。「学校で年号と出来事の暗記しかしてこなかった私が、これまで習った歴史が実際に起こったものであり人々が生きていて今に繋がっていると初めて実感した」と告白しているが、これこそがまさに歴史を知る醍醐味であり、現地を訪ねる楽しみでもある。本書でも生野の変の現場まで足を運んで調査し、それが記述にも生かされている。天誅組にとどまらず益々研究の対象を広げていかれることを期待したい。

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「阿部正弘」 後藤敦史著 戎光祥出版

2023年05月27日 | 書評

嘉永六年(1853)六月のペリー来航は、日本史の画期となる事件であった。その時、老中首座(現代風にいえば内閣総理大臣)という地位にあって難局に当たったのが本書の主人公阿部正弘である。

正弘については、ペリー来航時に幕府がその事情を朝廷に報告し、かつ全大名にアメリカ大統領の親書を示し、意見を求めた。福地桜痴(源一郎)はこれで幕府の倒壊が早まったと明確に正弘を批判している。

一方で、正弘がもっと長生きしていれば、幕府の倒壊はなかったという説もある。阿部は安政四年(1857)に三十九歳(満三十七歳)で病死したが、彼がもっと長く生きていれば幕府と薩摩が敵対することもなく、幕府の倒壊も避けられたのではないかというのである。

いずれにせよ、正弘はこの時期の幕府の鍵を握る存在であったことは間違いない。これまであまり阿部正弘というキーパーソンの事績を詳しく論じた本を読んだことがなかったので、非常に興味深く読み進めることができた。

そもそも阿部正弘はどのような思想をもった政治家だったのだろう。有名な人物でありながら、案外我々はこの人物について良く知らないのである。

阿部正弘は開国派だったのか。鎖国派だったのか。旧幕臣の大久保忠寛(一翁)は「ペリー来航の時点で開国論を唱えていた老中は、正弘と松平忠優(忠固)であった(明治二十一年(1888))」と語っている。しかし、本書によれば、当時の史料からわかるのは鎖国祖法の維持に苦慮し、日米和親条約締結後は鎖国の立て直しを目指している正弘の姿である。正弘が鎖国祖法の限界を認識するようになったのは、安政二年(1855)末頃である。

正弘は天保十一年(1840)、二十二歳の若さで寺社奉行に就いた。寺社奉行というのは、勘定奉行、江戸町奉行と並ぶ三奉行の一つ。三奉行の中でも最上位にあたる。二十二歳での就任は、それ以前の寺社奉行の中ではもっとも若いという。

寺社奉行であった天保十二年(1841)、正弘のその後のキャリアにも影響を与えた「中山法華寺一件」と呼ばれる大事件が発生した。阿部は前将軍家斉、現将軍家慶の権威を守りつつ、女性と密通した日啓という問題人物を排除するという形で決着をつけた。この事件の処理で正弘は株を上げた。将軍の信任を得たことで、それまでの歴代老中の中でも最も若い年齢(二十五歳)での老中就任へと繋がった。正弘が老中に就任した直後、天保の改革を推進した水野忠邦が罷免された。従って、この時正弘が同僚として水野と顔を合わせることはなかった。

その後、弘化元年(1844)、水野忠邦が再び老中に任じられると、忠邦の登用に反対した正弘は登城をボイコット。登城を再開した正弘は、牧野忠雅と連携し、水野と水野一派(その代表格が鳥居忠耀であった)の排除に動いた。翌年二月、水野忠邦が辞任すると、その翌月正弘はついに老中首座となった。

水野忠邦の強権的な政治を間近に見ていた正弘は、合議を経て慎重に判断を下すという手法に徹した。彼のこの政治手法は生涯を通じて一貫している。のちにペリー来航時に全大名に諮問した政治手法もこの延長線上にあると言って良いだろう。

阿部正弘は島津斉彬や伊達宗城、松平春嶽といった開明的大名と親交を結んでいた。その事実だけを切り取ると、彼自身も開明的な思想を持っていたようなイメージがあるが、本書を読む限り、思想的にはどちらかというと保守的である。

弘化年間、異国船が日本近海に出没するようになると、正弘は無二念打払令の復活を画策した。そういう意味では正弘は、思想的にはむしろ徳川斉昭に近い。正弘は一貫して斉昭を政権に取り込もうと意を砕いているが、政治的に保守派、攘夷派に配慮したという側面もあるかもしれないが、心情的に斉昭の考えに同調していたのである。とはいえ、斉昭がヒステリックに主張するような「何が何でも夷人を打ち払え」という極端な攘夷ではなく、その点ではバランスの取れた思想を有していた。時代が下るにつれ、斉昭とは距離を置くようになっていったのである。

正弘は本音では打払令を即刻復活させたかったようだが、決して我を押し通そうということはしない。何度も評定所一座、勘定方や海防掛の意見を聴取し、彼らのコンセンサスを得るように努め、最終的には合意が得られないと見ると、穏健な外国船対応に落ち着いた。この辺りが「現実的政治家」である阿部正弘の真骨頂であり、決して無茶苦茶をしないという意味で長期に渡って多くの関係者の支持を得られた理由であろう。

「現実的政治家」としての正弘の本領が現れたのが安政年間、ペリー来航後の対応である。対外的強硬策の限界を認識した正弘は突如老中首座を退き、その立場を「蘭癖」「西洋かぶれ」とも称される開明派の堀田正睦に引き継いだ。この交代劇は外交方針の転換という意味合いが強い。この時点で正弘は外国との通信・通商は避けられないことを悟ったのだろう。こういった時勢を感知する能力、時勢に応じて対応を変える柔軟性が、阿部正弘という政治家の最大の特徴である。人間は己の思想信条とかイデオロギーからなかなか脱却できないものである。正弘は、いとも簡単に思想的な転換を見せる。

安政四年(1857)、正弘は満年齢で三十七歳という若さで死を迎える。舟橋聖一は「花の生涯」で正弘の死因を「腎虚」としているが、実際に「やり過ぎ」で命を落とすことはないのではないか。状況から見て肝臓癌で亡くなったとするのが自然である。

もともとお酒が好きだった上にストレスも加わり酒量は相当増えていた。ペリー来航という難局を老中首座として対応したその心労は、想像を絶するものがあったと思われる。幕末の動乱が本格化する前に退場してしまったために阿部正弘の評価は必ずしも高くないが、実は非常に重要な役回りを果たした人物なのである。

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「殉死の構造」 山本博文著 角川新書

2023年05月27日 | 書評

本書は、平成六年(1994)に刊行され、平成二十年(2008)に講談社学術文庫から文庫化されたものを、十五年振りに新書として復刊したものである。帯に「画期的な名著が復刊!」と赤い文字で大仰に書かれているが、その宣伝文句が大袈裟と思えないほど「名著」というに相応しい一冊である。

著者はあとがきにおいて「その(殉死の)背後にある武士の気風とか心性(メンタリティ)を明らかにする」ことが「あこがれのテーマ」であり、本書によって「かなりクリアになったのではないか」「まずはその出発点に立ち、全体の見通しをつけた」としている。「気風とか心性」といったつかみどころのない対象を明らかにすることなど、直感的にはかなりムリじゃないかと思ってしまうが、本書を通読するとある程度の納得感がある。

本書は、武士の殉死をテーマとした、森鴎外の有名な歴史小説「阿部一族」が史実に反していることから書き起こす。「阿部一族」は、明治天皇に殉死した乃木希典大将の事件をきっかけに書かれたものである。殉死という前時代的な行為でありながら、明治の人たちの心の底には微妙な共感・賞賛もあった。著者の解釈によると、鴎外が「阿部一族」を創作したのは、乃木の殉死を賛美する一方で死に後れた侍医や側近への心理的圧力があったためという。鴎外は世間の圧力によって人が死ぬような悲劇を繰り返してはいけないと主張したのである。

鴎外は、阿部弥一右衛門の殉死が「周囲から強制された死」であったという描き方をしている。著者は、鴎外が依拠した「阿部茶事談」や「綿考輯録」に潤色が多く、一次史料としては使えないことを明示した上で、弥一右衛門の死の真相を明らかにする。史料の限り、弥一右衛門は細川忠利の葬儀の前、ほかの殉死者と同じ日に殉死している。つまり、鴎外が小説で描いたように弥一右衛門が他より死に遅れたとか、殉死しないからといって他人から非難を受けた事実はないのである。

著者が綿密に調査した結果、小説の阿部弥一右衛門のように周囲から強要されていやいや追腹を切るというパターンはほとんど確認できず、我が国の近世の殉死者は基本的に心からそれを望み、さまざまな圧力を受けながらもそれをはねのけて追腹を切った。しかし、殉死がいかに美風とされた時代とはいえ、誰もが腹を切ったわけではなく、主君から格別な恩寵を受けたとか、破格の待遇を受けたという一定の基準があった。著者は殉死者の多くが主君との男色関係にあったとするが、これは状況証拠から類推するしかないところで、なかなか実証が難しいものである。

将軍秀忠や家光が亡くなったときに重臣(老中や年寄経験者)が殉死した例はあるが、それはむしろ例外であり、殉死者には軽輩や下級家臣が圧倒的に多い。彼らは客観的に見ても「栄達」といわれるような破格の待遇を受けたわけではないし、殉死によって子供が引き立てられたという事実もない。主君とのほんのわずかな接点 ――― たとえば主君が居宅に立ち寄り縁側に腰をかけ、そこで親しく声をかけられたとか ――― そうしたご厚恩に感激し、追腹を切ったという例が実に多い。

我々の感覚では、殉死とは忠義心の発露のように考えられているが、案外そういう例は少なく、実は忠誠心とは少し離れた、主君への愛情であるとか、或いはもっと非合理的で衝動的な行動であった。現代人から見ればありそうに思える、打算的な殉死の例(つまり自分が殉死することで子供が加増されるような「商腹」)はそもそも存在していない。

下級家臣には、到底現代人には共感できないささいなことで殉死する者が少なからず存在した。彼らは主君への愛情とか忠誠心ではなく、「死にゆく者の美学」だけで腹を切ったのである。十七世紀後半には我先にと殉死を願う風潮は一種の流行のようになった。ほかの大名家の殉死者の数に負けないようにという対抗意識もあったのかもしれない。こうした独自の美学にこだわり、その美学のために簡単に命を擲ってしまう下級武士のことを、著者は「かぶき者」と称している。

かぶき者というのは、もともと「傾く」からきており、偏った異様な風俗(服装や髪型)や行動をとるものを指している。かぶき者の気風を代表する気質は、当時「奴気質(やっこかたぎ)」と呼ばれていた。

好色を好み、「侍道」の勇気を重んじ、人のために命を惜しまず、親方・老人を大切にし、自分の命を捨てて他人を救い、徳を重んじ、人のできないことをやり、敵対したものを許さない…

これが当時の奴(やっこ)の代表的な人物像だという。殉死した下級家臣はれっきとした武士ではあったが、ほとんど彼らの心性や行動原理は無頼の徒と変わらない。

もともと武士という集団は、戦場という舞台で最大限のパフォーマンスを上げるため、秩序を度外視し、いざとなれば生命を投げ捨てる心性をもった勇者であった。戦いの時代が去り、そのような戦闘集団は活躍の場を失うが、新しい時代に適応できない者は非合理的な心性を純化して受け継いだ。本書で「かぶき者はこの側面が極端に肥大したもの」という高木昭作氏の言葉を引用している。彼らが競って殉死したのは、自らの美学とか、それを通り越して単なる「自己陶酔」「自己主張」のためである。彼らのメンタリティを、忠誠や打算といった現代的な尺度で理解することはできない。

著者はさらに論を進め、忠臣蔵で有名な赤穂浪士の討ち入りにも「かぶき者」的な心性が見られるとか、「死ぬことと見つけたり」で有名な「葉隠」は没我的忠誠を強制しているのではなく武士の自己防衛のための教訓を説いているのだとか、とてもユニークで興味深い議論を展開している。

著者山本博文先生の著述については、忠臣蔵関係の記述は史実と異なる、信憑性に疑問が残るといった批判もある。本書では難解なテーマに取り組み、多種多様な史料に当たりながら、非常に平易で明快。令和二年(2020)に六十三歳で逝去されたが、まだまだこれからという年齢だっただけに惜しまれる。

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「台湾を築いた明治の日本人」 渡辺利夫著 産経NF文庫

2023年04月22日 | 書評

台湾の人がほかに類を見ないくらい親日的であることは広く知られている。90年代(つまり今から三十年も前に)高雄市に駐在した経験のある私も、台湾の熱烈な親日を身をもって体験した一人である。

現代まで続く台湾人の親日熱の源流を遡ると、戦前の日本統治時代に行き着く。日清戦争に勝利した日本は、清から台湾の割譲を受け、以来五十年に渡って台湾を統治した。初代の台湾総督は樺山資紀(薩摩)。その後、長州の桂太郎、乃木希典、児玉源太郎と続く。歴代の台湾総督に当代一流の人物を送ったのは、台湾総督に絶大な権限が与えられているからにほかならない。台湾は本土の憲法やさまざまな法律の及ぶところではなく、帝国議会からも多分に独立した存在であった。当初「内地延長主義」と呼ばれるように本土と同様の制度を台湾にも適用すべきという議論もあったが、「六三法」(台湾に施行すべき法律)によって本土とは別の法域となった。つまり台湾は総督の発する律令と呼ばれる独自の法律が支配する地域だったのである。絶大な権限を有する台湾総督におかしな人物を充てるわけにはいかなかったであろう。

同時期、欧米列強は圧倒的武力を背景にアジア各地を植民地化した。彼らも、日本が台湾で行ったように、植民地に鉄道を敷設し、港湾を整備し、道路網を広げた。日本が台湾で行ったこともその延長線上にあるといってよい。しかし、本書を読めばわかるように「日本による台湾統治は、経済社会の文明化の観点からみて、欧米列強の支配下におかれていた往時のほかの植民地に比べて圧倒的な成功例」であった。「日本の台湾統治は列強の植民地支配のような搾取や収奪を目的としたものではない。日本の文明化のモデルの台湾への移植であり、これをもって帝国日本のありようを世界に顕示しようという精神に貫かれていた」という指摘は核心をついている。

私が今勤務しているベトナムも、かつては長くフランスの統治下にあった。今もハノイ市内を散策すれば、フランス統治時代に建設された建造物を見ることができる。ベトナムを縦断する鉄道も仏領インドシナ時代の遺産だし、我々の製品が船積みされて輸出されるハイフォン港もフランス統治時代に整備されたものである。ハノイ市内に目を向ければ、旧市街の端にハンダウ給水塔と呼ばれる上水道施設がある。これは1894年に造られたものである。当時のベトナムでは生活用水として井戸水、雨水、川や湖の水が利用されており、衛生状態が劣悪で、疫病が蔓延していた。1886年にはトンキン・アンナン理事長官ポール・ベルが赤痢によって亡くなった。これを受けて、在住フランス人の間で水道システムの整備を求める声が高まった。以後、この給水塔からハノイ城周辺やフランス政府関係者、軍関係者の居住地域、旧市街へ水を供給したのである。

つまりフランスが植民地に対して整備したのは、自分たちの生活・生命を守るためのインフラにとどまっていたのに対し、日本が台湾で手掛けたインフラは、本書で紹介されているように烏山頭(うさんとう)にダムを築き、貯水した水を十五万ヘクタールに及ぶ嘉南平原に流す。なお不足する貯水量を得るために烏山嶺に全長三千メートルを超える隧道を掘削。ダムから放たれた水が地球を半周するほどの総延長となる用水路に流され、荒涼たる平野が広大な緑の絨毯と変じるという壮大なものであった。この水利灌漑施設の整備を構想し、実現に向けて粉骨砕身の働きをみせたのが八田與一である。今でも烏山頭ダムの一隅に八田與一の銅像と八田夫妻の墓が建てられている。台湾の人々は八田與一を恩人として感謝し続けており、毎年八田の命日には墓前祭が開かれている。

しかし、言うまでもなく烏山頭ダムと嘉南平野の水利事業は八田一人の尽力によって実現したのではなく、特に資金面では日本政府の後押しなく実行できるものではなかった。当時の八田の直接の上司である山形要助(総督府土木局長)、民政長官下村宏、当時の総督明石元二郎らの許諾を受けた上で、初めて実現に向けて動き出せたのである。

当時の日本が台湾におけるこの大プロジェクトを決断した背景には、日露戦争を眼前に控え、内地の米不足が深刻化しており、明治二十三年(1890)には全国各地で米騒動と呼ばれる暴動が頻発している状況があった。日本国内の米生産だけでは一方的に増大する需要を賄うことは不可能であり、台湾からの米供給が不可欠の命題だったのである。即ち台湾における水利灌漑事業は国家的命題でもあった。決して日本が慈善事業として大プロジェクトを遂行したわけではない。そのことを良く注意して本書を読み進める必要があるだろう。

日本が台湾で推進したのは、内地種「蓬莱米」の育成であった。蓬莱米の開発や「緑の革命」と呼ばれる台湾農業の単収の飛躍的増加にも、磯永吉ら日本人技術者の血のにじむような物語があった。

本書でもっとも印象に残ったのは、第四代総督児玉源太郎のもとで辣腕をふるった後藤新平である。後藤はもともと医師であり、その経験を通じて「生物学の原理」を心奉していた。後藤によれば、ある地域で育った生物を他の地域に移植しようとしても、それは生物学的に無理があるという。台湾に古くから存在している慣行(旧慣)を考究して、それを尊重して旧慣に合った政策を採用することが後藤のとった方策であった。それまで台湾において土匪と呼ばれる抗日勢力がゲリラ活動を展開し、歴代総督はその掃討に手を焼いていたが、後藤は旧来より台湾にある自治機構をもって土匪招降策を推進した。ほかにも「生蕃」即ち高砂族対策を、「保甲」と呼ばれる自治的近隣組織を再編して進めたり、社会問題となっていた阿片常習者の撲滅にも漸進策をもって効果を上げた。

後藤新平の「生物学の原理」というのは「人間はその生理的円満をもって人生の目的とする存在」と定義する。人間は精神主義とか善悪正邪といった倫理で動いているのではなく、生理的円満のみを求めて人生を紡ぐ存在とみなすのである。これは今でも海外において仕事をする上でも通じる考え方ではないだろうか。

海外で仕事をしていると、「どうして(日本では当たり前に行われているのに)このような簡単なことができないのか」と苛だつことも多いし、有無を言わさず日本流・本社流を押し付けてしまいがちであるが、ここは一呼吸おいて「どうしてここではこのようにやられているのか」を観察し、多少時間がかかっても現地の人の考え方に沿ったやり方を導入することが肝要なのかもしれない。

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「徳川斉昭と水戸弘道館」 大石学編著 戎光祥出版

2023年04月22日 | 書評

本書の執筆者として名を連ねる大石学先生(東京学芸大学名誉教授)、鈴木瑛一先生(茨城大学名誉教授)、関口慶久氏(水戸市教育委員会歴史文化財課課長補佐)、小圷のり子氏(茨城県水戸土木事務所偕楽園公園課弘道館事務所主任研究員)は、水戸弘道館の震災からの復旧に尽力し、さらに日本遺産認定、そして世界遺産登録を目指して、情熱をもって取り組んでおられる方々である。

水戸弘道館が平成二十三年(2011)三月十一日の東日本大震災で甚大な被害を受けたことは本書にも記載されている通りである。この時、「壁が落ちて近づけない大変な状況」で「これでもう世界遺産はダメになってしまうのではないか」という有り様だったが、その後関係者の努力で往時の姿を取り戻したのも周知のとおりである。私も震災の前と後に弘道館を訪ねたが、今では震災による深刻な被害があったことに全く気付かないほど、完璧に修復されている。改めて我が国における文化財修復技術の高さを実感することができる。

水戸市が弘道館・偕楽園の世界遺産登録を目指して動き出したのは平成十九年(2007)のことであるが、その活動の結果、平成二十七年(2015)には、「近世日本の教育遺産群」として弘道館・偕楽園のある水戸市は、足利学校のある栃木県足利市、閑谷学校のある岡山県備前市、咸宜園のある大分県日田市とともに日本遺産に認定されている。世界遺産と比べると日本遺産の知名度は落ちるが、この時十八件が同時に登録を受けている(その数は令和三年(2021)末現在で一〇四件に達している)。世界遺産のように文化財の学術的価値はそれほど求められず、むしろ対象の遺産のもつ特徴が、観光面でPR力を持つかどうか(ストーリー性)が重視されるという。

水戸市は当初単独での世界遺産登録を目指したが、平成二十年(2008)に文化庁の審査に落選し、以降足利市、備前市、日田市との連携へと舵を切った。足利学校は日本最古の学校ともいわれ、その歴史は奈良時代まで遡るともいわれる。江戸時代には教育機関としての機能は失ったものの、我が国における学問の伝統を語るときに欠かせない存在である。閑谷学校は郷学という農村の子弟のための学校の一つで、我が国で一番古い、なおかつ代表的な郷学である。咸宜園は江戸時代後期を代表する私塾で、塾生四千人もしくは五千人を数え、当時の社会に絶大な影響を及ぼした。いずれも近世日本の教育を語るには欠かせない存在である。

足利学校、閑谷学校、咸宜園に加えて、藩校を選定することにも異論はないだろう。江戸末期には二百以上の藩校があったとされるが、その藩校を代表する存在として水戸の弘道館が適切なのだろうか。もっとも古いという観点では岡山藩藩学の方が歴史はあるし、会津の日新館や長州の明倫館など現在まで建造物が維持保存されている例は他にもある。(これは藩校とは違うが)幕府の開いた昌平黌も果たした役割の大きさからすれば無視できない。本書では弘道館の教育のユニークさやスケールの大きさを強調するが、ほかの藩校でも言い分はあるに違いない。

もう一つの難点は、弘道館の玄関にかかる松延年書「尊攘」の掛け軸である。本書に掲載されているシンポジウムで大石先生が述べられているように「はたして、尊王攘夷の思想・世界観は世界遺産にふさわしいか」という観点でみると、世界遺産登録への大きな障害と思われる。水戸発信の攘夷思想が昭和まで受け継がれ、我が国が戦争に突入する精神的思想的な役割を思うと、世界遺産登録には大きな壁になると言わざるを得ない。昔はここにこの掛け軸はなかったようだが、平成十年(1998)の大河ドラマ「徳川慶喜」の撮影時にここに掛けられ、今では「尊攘の間」と呼ばれるほど定着してしまっている。

本書では、斉昭の顕彰とともに彼が目指した「尊攘」は単なる外国を打ち払うということではなく、日本が世界の国々と対等に渡り合うことが究極の目的だったことを強調しているが、水戸の弘道館、水戸学、斉昭や藤田東湖の思想と聞いて、残念ながら我々が連想する「尊攘」は狭い意味での攘夷である。狂信的でヒステリックですらあり、国を滅ぼしてでも夷狄を討つという尊攘思想は、一般に連想される水戸学、徳川斉昭のイメージと抜き差しならいほど密接になっており、今や取り外したくても外せない状況になっている。鈴木先生はシンポジウムの中で「私は外して欲しいと思っていますが、現在の場所におさまってしまっていますから難しいようで困っています」と苦しい胸のうちを吐露している。本書の執筆者の皆さんは口々に「誤解」とされているが、実は同時代の人でさえ斉昭の思想を本書で解説されているような平等思想だと理解していた者は少数だった。長州藩をまるごと無謀な攘夷戦争に駆り立てた攘夷思想も水戸が発信源であったし、天狗党が実現を目指した攘夷も、狭い意味での攘夷、つまり外国人を追い払えという極めて原始的な攘夷思想であった。

本気で「近世日本の教育遺産群」の世界遺産登録を目指すのであれば、弘道館にとらわれずに明治維新の時点で全国に二百以上存在していた藩校全体を対象にして、その一つの例として弘道館を位置づけたらどうかと考える。遺産というからには今も文化財として存続していないといけないのだろうから、鶴岡の致道館とか、萩の明倫館などと一緒に申請するわけにいかないものだろうか。本書にも記載されているように、近世日本は世界有数の文字社会であり、人々の勉学熱に応えるために多くの学校が開かれた。黒船が来航し「徳川の平和」が終わりを告げようという時期、やはり教育が求められた。ほぼ全国全藩に渡って藩校が開かれ人材を育成していたことは、我が国において維新後近代教育への切り替えが比較的スムーズに進んだ大きな原動力となった。そのような歴史的背景も含めて藩校群の遺産としての価値は高いはずである。

本音をいえば個人的にはあまり世界遺産に関する興味関心はなく、どっちでも良いと思っている。むしろ、世界遺産に登録された途端に観光客が押し寄せ、それまでの静かな空気が損なわれることに嫌悪感を覚えている。関口氏の言にある「登録されたら成功、されなかったら失敗、というのではなくプロセスを大切にした登録推薦」という姿勢には賛成である。この活動を通じて、弘道館や斉昭や水戸の学問への理解が深まることを期待してやまない。

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「幕末勤王志士と神葬」 村上繁樹 編著 ミネルヴァ書房

2023年03月25日 | 書評

編著者である村上繁樹氏は、山口県萩市出身。洛東の霊明社の八世神主である。霊明社は、幕末からいわゆる勤王志士の神葬地となり、維新直後に次々と西南各藩により招魂社を建立された。明治元年(1868)五月には「今般東山之佳域ニ祠宇ヲ設ケ」「此度東山ニ於テ新ニ一社ヲ御建立」という太政官布告により霊山招魂社が設けられ、祭祀を行うことになった。今日の霊山護国神社の端緒である。木戸孝允や坂本龍馬、中岡慎太郎らが眠る聖地となっている。

霊明社は、志士の墳墓と霊山歴史博物館の間の「維新の道」をさらに南下し、正法寺の向かう国阿坂(最近「幕末の志士葬送の道」と呼ばれている)の途中にある。小さな祠なのでうっかりすると見逃してしまいそうになるが、この霊明社は初世村上日向目源都愷(くにやす)が正法寺の塔頭の一つ清林庵より用地を買い受け創建したものである。村上都愷は、彦根藩士の子として宝暦二年(1752)に生まれ、建仁寺の西、博多町に住む長谷川半兵衛夫妻の養子となり京都に移った。長じるにつれ尊王思想をもって神道を世に広めようと諸国を巡り門人を集めたという。神職となって名声も高くなり朝廷に召し出され、主殿寮史生、日向目(さかん)に任じられた。

霊明社は二世村上美平(よしひら)。三世村上都平(くにひら)、と引き継がれ、その間神葬地を広げていった。

幕末、最初に志士がこの地に埋葬されたのは、文久二年(1862)、長州藩の松浦亀太郎(松洞)とされる。松浦亀太郎は航海遠略説を唱えた長井雅楽を暗殺しようとしたが果たせず、粟田山上にて屠腹して果てた人物である。松下村塾に学び、吉田松陰の肖像画を描いたことでも知られる。筆者は、久坂玄瑞が「霊明社を弔祭の地としたのは、公に扱うことが憚られ、ひっそりと弔祭出来る地として選ばれたのだろうか」としている。

続いて、この地で招魂祭が開かれたのは、長州清末藩の船越清蔵である。船越清蔵という人物はあまり知られていないが、当時の京都では勤王有志の士として名を知られた存在であった。

清蔵は文化二年(1805)に清末藩岡枝村(現・下関市菊川町)に生まれた。京都では一時小出勝雄という変名を用いたとされる。藩校育英館に学び、その後は豊後に遊学して、帆足万里や広瀬淡窓の門で学んだ。文政十一年(1828)、二十四歳の時に諸国遊歴に旅立ち、長崎で西洋医学を修め、豊後で毛利空桑の塾で学んだ後、江戸に出て奥州や蝦夷の探索を開始した。天保十四年(1843)頃には京都に移り、塾を開いて子弟を教える傍ら、蝦夷、山陰、近畿、北陸などを遊歴した。やがて国事に関する建言書をいくつも書き上げ、朝廷から注目される存在となる。安政元年(1854)には建言書が三条実万の目にとまり、以後三条実万、中山忠能、岩倉具視といった公家、さらには上京してきた久坂玄瑞、入江九一、中谷正亮といった長州藩士たちも教えを乞うた。当時京都において梁川星巌、梅田雲浜、頼三樹三郎らと並ぶ雄として重きをなした。

安政の大獄が始まると、清蔵の身にも危険が及び、京都を退去して萩へくだった。長州では吉田松陰とも交わったとされる。藩政改革や海防強化について清末藩校育英館や長州藩校明倫館で講義を行った。

文久二年(1862)四月、伏見義挙に参加しようとしたが、寺田屋事件により再び萩へ退去を余儀なくされた。萩に戻った清蔵は、藩主毛利敬親に講義を行うなど精力的に活動したが、その講義の帰途突然倒れて死亡した。一説には藩主の前で藩祖大江広元を批判したことを不敬として毒殺されたともいわれるが、その真相は謎に包まれている。

当時在京中であった久坂玄瑞は船越清蔵の死を悼み建墓を発起した。これが国事殉難志士の霊山における招魂の嚆矢とされる。因みに清蔵の墓に刻まれた「精勇船越守愚之墓」の文字は沢宣嘉の筆により、「精勇」の二文字は三条実万から賜った号である。この時の招魂祭は村上都平が執行し、祭主は吉田玄蕃なる人物が務めた。

吉田玄蕃は雲華院宮家の家士。文政五年(1822)、近江の生まれで、通称玄蕃、のちに嘿(もく)と称した。富岡鉄斎や西川耕蔵とともに梅田雲浜の門下で学んだ。大原重徳の家臣でもあり、大原重徳を通じて多くの公家と通じていたことから、船橋清蔵を初めとして上京してきた志士と公家のパイプ役を果たした。安政五年(1858)の廷臣八十八卿列参事件や戊午の密勅降下などに関与したといわれる。

明治になって政界から退き、明治十年(1877)以降、白峯神宮(京都市上京区)、龍田神社(生駒郡斑鳩町)、大和神社(奈良県天理市)の宮司を務めている。明治二十四年(1891)、大津事件が起き、畠山勇子が京都府庁前で自決すると、玄蕃はその義烈に感激し、墓参りと顕彰に熱心に取り組んだ。明治三十一年(1898)、七十七歳で没した。霊明神社南墓地に墓が設けられている。

松浦亀太郎や船越清蔵の神道祭祀に深く関わったのが久坂玄瑞である。国事に殉難した志士が霊明神社における招魂祭、神葬祭により葬られることになったのは久坂玄瑞の発案によるところが大きい。神道を崇敬していた玄瑞は、自らも国事に殉じたら霊山に葬ら得ることを切望していた。元治元年(1864)の禁門の変で自刃した玄瑞は、一度は詩仙堂に葬られたが、のち小田村伊之助(楫取素彦)の指示で霊山に改葬されている。

文久二年(1862)、安政五年(1858)以降、国事に殉じた者を赦免し、彼らを霊山に葬ることが勅旨により示された。具体的には、密勅返還を巡って分裂した水戸浪士が水戸街道長岡宿で衝突した事件で落命した者、安政の大獄の犠牲となった者、井伊大老襲撃事件の関係者、イギリス公使館を襲撃した東禅寺事件の関係者、老中安藤信正襲撃事件の関係者などである。

本書に登録されている「霊明神社神名帳」を見ると、寺田屋事件、天誅組の変、生野の変、池田屋事件、福岡藩乙丑事変の犠牲者や鳥羽伏見戦争、戊辰戦争の戦死者なども葬られている。

やや異質に感じるのが、慶應四年(1868)二月、英国公使パークスを襲撃した林田衛太郎(朱雀操)と三枝蓊の両名が霊山に葬られていることである。林田はその場で後藤象二郎に斃され、三枝は生け捕りにされて数日後に斬首された。

筆者村上繁樹氏は、「都平(くにひら)も明治維新を迎え入れる立場であり、新政策には心境は複雑であり、矛盾を抱く心持ちではなかったか」と推測しているが、彼らが霊明社に葬られた経緯は記載されていない。ただし、明治二十一年(1888)に林田の従弟喜多千穎(ちかい)が、林田の佩刀を霊明神社に奉納したという記録が残っていることから、彼らの遺族の強い希望があって実現したのかもしれない。

少々マニアックな本であったが、霊明社の歩みを本書で学んでから霊山の墳墓を歩くと、また違った風景を見ることが出来るかもしれない。

 

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「幕末の先覚者 赤松小三郎」 安藤優一郎著 平凡社新書

2023年02月25日 | 書評

「プロローグ」によれば、「知られざる幕末の先覚者である上田藩士赤松小三郎の生涯を通じて、歴史教科書には記述されていない幕末史を描き出す」ことが本書の主旨となっている。個人的には、京都金戒光明寺の赤松小三郎の墓や長野県上田市月窓寺の遺髪墓も掃苔したし、過去には上田高校同窓会の主催した赤松小三郎に関する講演会に参加したこともある。本書でも引用されている「日本を開国させた男、松平忠固」(関良基著)や「薩摩の密偵 桐野利秋」(桐野作人著)なども読んでいたし、比較的馴染の深い人物である。「知られざる」という謳い文句には多少ひっかかったが、赤松小三郎の生涯を丹念に追っており、あまり触れられることがない前半生も紹介されている。激動の幕末において自分の才覚を信じ、活躍を夢見ながら非業の死に倒れた一人の若者の生涯に改めて感銘を受けた。

赤松小三郎は天保二年(1831)、上田藩の下級武士芦田家の次男として生まれた。実家芦田家も養子に入った赤松家も家禄はわずか10石余に過ぎなかった。

学問で身を立てようとした小三郎は勉学に励み、やがて藩から認められて江戸で学ぶ機会を得た。当初は和算家で幕臣の内田五観の塾で数学のほか蘭学を学び、ここでオランダ語の読み書きを習得した。さらに下曽根信教(金三郎)の塾で西洋の兵学にも通じた。江戸遊学中には勝海舟の塾にも入門し、その縁で長崎海軍伝習所において員外聴講生として伝習を許された。

海軍伝習所が閉鎖され、小三郎が江戸に戻った頃、遣米使節団が派遣されることになった。小三郎はその選に漏れたが、同じく藩士身分でありながら福沢諭吉はチャンスを活かし、渡米に成功した。福沢諭吉は文久年間に欧州へも渡り見聞を広めた。

小三郎は上田藩の軍制改革に取り組み、藩士に洋式調練を指導し、最新兵器の購入などに当たった。文久三年(1863)には藩当局に対し現状を憂える意見書を提出している。

長州藩を追討するため征長軍が組織されることになり、上田藩にも動員がかかった。小三郎はその準備にあたるため開港地横浜で武器弾薬の調達に奔走したが、そこで知り合ったイギリス公使館付の武官アブリンを通じて英語や英式兵制を学んだ。福沢のように洋行経験のなかった小三郎にとって、イギリス軍人と直接話す機会を持てたことは非常に貴重な経験となった。

この頃になるとイギリスが世界の覇権を握る強国であることが知れ渡り、英式兵制を導入する藩が多くなっていた。小三郎は、師匠である下曽根信教の依頼を受けてイギリス陸軍の「歩兵操典」を翻訳し、慶応二年(1866)三月、「英国歩兵操典」(五編八冊)を刊行した。兵学者小三郎の名は一躍諸藩に知られることになる。

幕府の長州再征が敗色濃厚となったことを受け、小三郎は幕府と上田藩に破格の改正を求める建白書を提出した。彼は、富国強兵のため家格や禄高に縛られない能力に応じた人材の登用を訴えた。自分を抜擢せよ、という強烈な自負の裏返しであった。

小三郎は、京都で兵学塾を開くかたわら、他藩の依頼に応じて英式兵制に基づく調練を指導した。英式兵制で軍事力強化をはかっていた薩摩藩も小三郎に注目し、兵学塾の出講、調練の指導を依頼した。

英式兵制に通じた兵学者赤松小三郎に幕府も注目し、幕府から出仕要請があった。それは小三郎自身の希望とも合致したが、上田藩は固辞した。上田藩は帰国を求めたが小三郎は痔の治療と称して滞京を続けた。

慶應三年(1867)五月にかけて京都では薩摩藩の主導により四侯会議が開かれた。小三郎はこれを機に島津久光、松平春嶽に対し、議会制度の導入により公議・公論を国政に反映させる「公議政体案」を建白した。小三郎は自分の構想が慶喜や四侯の間で議論され、議会制度への道筋が開かれることを望んだが、目論見通りには行かなかった。

小三郎の建白は多岐にわたっている。第一条は、日本が目指すべき議会制度に関する提案。第二条は人材育成に関するもので主要都市や開港地に大小学校を創設することを提案している。第三条は課税の平等性に関するもので、農民の年貢を減らして、従来無課税であった武士や商人にも課税することを説いている。第四条は世界に通用する貨幣制度の導入。第五条は陸海軍の整備。第六条はお雇い外国人による殖産興業。第七条は畜産業の振興と肉食への移行。そして最後に改革を担保するためのものとして、世界に通用する「国律」つまり憲法の制定を求めている。

洋行の経験のない小三郎がこれだけの提案をなし得たのは、慶応二年(1866)に福沢諭吉の「西洋事情」が刊行されベストセラーとなっており、当然ながら小三郎もこれを読んでいただろう。「西洋事情」から知識を仕入れたという部分は大きいにせよ、西洋の進んだ科学技術を取り入れようというだけではなく、小三郎はその背景にある文明を支える国の仕組み、つまり西欧文明の本質を把握していた。それが議会制度であり、教育制度、課税制度、通貨制度、憲法であった。小三郎の提言というと、慶応三年(1867)の時点で二院制議会制度を提言した点に注目されがちであるが、彼の慧眼は西欧文明の本質を見抜いていたところにあるというべきである。

四侯会議が空中分解すると、慶喜と薩摩の蜜月期間も終わりを迎える。幕府と薩摩の良好な関係が続いていれば、薩摩藩にも会津藩にも要請があれば調練に出向く小三郎の姿勢は問題にならなかっただろう。

しかし、武力倒幕に舵を切った薩摩藩にとって、軍事機密を握る小三郎が幕府や会津とも接点を持つことが大きなリスクになっていた。事実、会津藩は小三郎から薩摩の内情を聞き出すことを期待していた。小三郎が藩からの命令に抗し切れずに帰国を決意すると、薩摩藩はその直前の慶應三年(1867)九月三日、攘夷の志士による天誅に偽装して小三郎を暗殺した。三十七歳という若さであった。

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「幕末の漂流者・庄蔵 二つの故郷」 岩岡中正著 弦書房

2023年02月25日 | 書評

幕末の漂流者というと土佐のジョン万次郎やジョゼフ彦が有名であるが、本書で紹介されている庄蔵(原田庄蔵)の事歴も彼らに負けないくらい劇的である。

庄蔵は、天保五年(1834)に自らが船頭を務める船で天草から長崎に向かう途中、嵐に遭遇して漂流し、ルソン島(現・フィリピン)に漂着した。ここで現地の人間に襲われたり、まさに九死に一生を得る思いをしながら天保八年(1838)マカオに移り、ここで漂流してアメリカ船に救助された音吉らと出会う。彼ら総員7名は、同年7月、帰国するためアメリカ商船モリソン号で日本に向かったが、異国船打払令によって砲撃を受ける。この時の庄蔵らの悲しみ、衝撃は想像に余りある。

続いて薩摩でも上陸を試みるが、この地でもやはり砲撃を受け、彼らは失意のうちにマカオに戻ることになった。

この時、庄蔵は「日本には再びかへらぬと定め我共其かわりに」漂流日本人について「身を粉にしても世話」することを決心したと日本に送られた手紙に書いている。想像するに帰国を諦めたのと、自分と同じような境遇の日本人の帰国支援をしようと決めたのは時間的なギャップがあったのではないだろうか。帰国しないことは母国から砲撃されるという仕打ちを受けたときに腹を固めたのだろう。

同じく手記によればモリソン号で撃退されたときのことを「我々共七人のものせつなさかなしさ誠に云ふ計りなくすでにしがひ(自害)を致す筈に相極め候へば天を念じ仏神念じ必ず必ずあやまるな」と記し、薩摩で砲撃を受けたことについても「数十挺石火矢時の声を上打出に相成誠に我々はたましいを飛し身躰もかなはぬゆへ夢如くに相成候へば」と記述している。

筆者は、「まるで軍記物を語る講談師のような緊張感のあるリズムで文章を表現する力と冷静さは驚くほど」と解説を加えているが、この人の文章力・表現力は天性の頭の良さと故郷肥後川尻で培われた教養に裏打ちされたものであろう。

本書には、故郷に宛てた手紙(これは江戸時代の漂流者の中で唯一の自筆書簡であり、しかも故郷の家族に届いた唯一の例)の全文が掲載されている。現代人が読んでも訥々として心を動かされる名文である。庄蔵と一緒に漂流しモリソン号にも乗り合わせた寿三郎は全文カタカナで書いている。内容はほぼ同じだが、それぞれ個性がにじみ出ている。

庄蔵の文章力・表現力は、米国宣教師ウィリアムズ(のちにペリーの来日に同行し日本語公式通訳を務めた人)を手伝って聖書「マタイ伝」の邦訳に活かされた。「わしチャラメラを吹いてもおまえたち踊らぬ」とか「これどの人でも刀を用いるは刀の歯糞(はぐそ)になる」「そういたさるならば天の国に汝らの褒美甚だたんとあり」「汝らは娑婆の光なり」といった平易で明快にしてどこかユーモアも含んだ表現は、庄蔵の理解力、語彙力、人間性まで映して秀逸なものである。

日本に帰国できないことを絶望し、孤独に打ちひしがれた寿三郎は阿片におぼれて亡くなり、一方庄蔵は香港に移住してアメリカからきた女性を妻として家族をもった。洗濯屋仕立て屋として成功し、ゴールドラッシュにわくアメリカ・カリフォルニアに苦力(クーリー)十人を連れて渡って金採掘に携わったこともあったという。今となっては没年や墓、子孫については不明であるが、自らの境遇を受け入れたくましく自活した一人の日本人の姿が浮かび上がる。彼の生き様は、人間が生きていく上で必要な生活力とか人間力とは何かを考えるヒントになるだろう。

庄蔵には漂流した時点で妻と三人の子がいた。当時五歳だった長女ニヲは、長じて岩岡伍三郎を養子に迎え、原田家を継いだ。筆者岩岡中正氏(熊本大学名誉教授・法学博士)はその四代の末裔である。先祖に対する尊敬と愛情、そして故郷川尻への厚い思い入れも感じられる本書は、読み応えのある快作だと思う。

 

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「上野彰義隊 墓守の伝承」 小川潔著 地湧社

2023年01月28日 | 書評

海外に居ながらにして日本の書籍を購入できるサービスがあり、まとめて8冊ほど注文した。数週間もしないうちにハノイのアパートに届いた。有り難いシステムがあるもので、これからも大いに利用させてもらうことにしよう。

本書は、上野公園の彰義隊の墓守として知られる小川興郷の子孫の方が、自費出版の形で出されたものである。筆者は東京学芸大学名誉教授で、環境科学を専門とされている先生で、本書も論文風に書かれている。

とはいえ、歴史学が専門というわけではないので相当部分を同じく東京学芸大学の竹内誠名誉教授や大石学名誉教授らのサポートを受けながら、手書き文書を翻刻されたという。

小川興郷は明治初期までの名前を椙太といい、出身地は秩父小川村とされる。一橋家に新規召し抱えになった縁で、慶應四年(1868)、彰義隊に参加した。戦後、上野戦争で戦死した彰義隊士の墓を建設するのに私財を擲って奔走し、半生を墓守として尽くした。しかも、その養女ミツ、その夫眞平、彼らの子長男彰、そして筆者潔の代に至るまで、この墓を守り続けている。この律義さ、義理堅さ、使命感はどこからきているのだろうか。筆者は「あとがき」にて「上野に彰義隊の墓を建てることは、大谷内を含めた隊士たちの悲願であり、小川(興郷)、齋藤、百井にその任が託されたと考えることは荒唐無稽だろうか?椙太(興郷)はこの役割を一生背負ったのではないか?」と、想像を逞しくしているが、あながちデタラメな空想でもないだろう。

「大谷内」というのは、元古河藩士で旗本大谷内家の養子に入った人で、彰義隊では九番隊長を務めた。戦後、明治二年(1869)、元彰義隊士の救済を訴える建白書を沼津郡政役所に提出した。この筆頭者が大谷内でナンバーツーが小川椙太であった。のち離反者2名を粛清した責任を負って切腹した。

「齋藤、百井」は、ともに元彰義隊士齋藤駿、百井求造の二人のこと。興郷とともに上野公園における彰義隊の墓の建設許可願いに名前を連ねたが、その後の経歴は不明である。どういう経緯か分からないが、興郷のみが墓守として彰義隊の墓の側で過ごした。

本書には、興郷が上野の彰義隊之墓建設について「しるしを残したい」と語っていたという。これは養女小川ミツが伝え聞いたもので、文書に残されたものではない。子孫だからこそ書ける貴重な伝聞である。

今となってはこの言葉の真意は不明であるが、主君慶喜への新政権による理不尽な仕打ち、それに対して異議を唱えて集まった彰義隊の存在、戦闘は一日で終わってしまったが多くの仲間が命を落とした無念さ等々、興郷が上野に墓を建てることで後世に伝えたかったことは想像できる。

本書は自費出版であり広く読まれることにはならないかもしれないが、彰義隊士の末裔の方が残した記録として貴重なものである。かつて上野に「上野彰義隊資料室」なるものが存在していたことも本書で初めて知った。可能であれば復活してもらえないものだろうか。

 

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