史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

弘前 Ⅴ

2016年09月01日 | 青森県
(月峰院)


月峰院


忠誠院殿武切保定居士(成田求馬墓)

成田求馬(もとま)は天保十年(1839)の生まれ。文久二年(1862)三月、家督を継ぎ、慶應元年(1865)目付役、慶応四年(1868)四月、足軽頭となった。同年七月、庄内追討軍の中隊司令士として従軍し、八月、秋田県由利郡吉沢村へ進み、政府軍の先鋒を務めて西滝村山本で隊兵八名とともに戦死した。年三十。同所に村民碑があり、秋田市の全良寺に改葬され、その翌年招魂社に合祀された。月峰院のこの墓には遺髪が納められている。


清光院殿忠學正行居士(小山内清作墓)

墓碑によれば、小山内清作は戊辰戦争に従軍し、明治十年(1877)の西南戦争にも一等巡査として出征した。「西南戦争戦歿士」と刻まれているが、亡くなったのは明治十三年(1880)八月となっている。

(普門院)


普門院


他山工藤先生之墓

工藤他山は文政元年(1818)弘前の生まれ。諱は主善。藩校稽古館に学び、その助教となった。弘化二年(1845)、助教を辞し、嘉永元年(1848)江戸に出て朝川善庵に学び、のち大阪に出て篠崎小竹に学んだ。帰郷して青森に寺子屋を開き、慶應三年(1867)、再び稽古館の教授となり、傍ら弘前五十石町に私塾思斉堂(のち向陽塾)を開いた。明治三年(1870)一等教授となり、翌年塾者を増築して子弟の教育に当たった。明治十年(1877)、東奥義塾に招かれた。明治十九年(1886)、辞して以降修史を専らにした。二男外崎覚は能くその家学を継いだ。明治二十二年(1889)、年七十二で没。

(真教寺)
真教寺も、箱館戦争後、旧幕軍を収容した寺である。


真教寺

(貞昌寺)
貞昌寺も、箱館戦争後、旧幕軍を収容した寺である。広い墓地に平尾魯仙、篠崎進、小島左近らの墓がある。


貞昌寺


平尾魯僊先生之墓

平尾魯仙は文化五年(1808)弘前に生まれた。父は魚商平尾三郎次。家業は小浜屋と称する魚商であったが、幼時から画を好んで、工藤五鳳、毛内雲林、今村渓寿などについて学んだ。花鳥山水とくに郷土の風物の写実画に優れた作品が多い。博学多芸で知られ、平田銕胤の門に入って国学にも通じた。芦川と号して俳諧を能くし、寺子屋も経営した。工藤仙乙、三上仙年など門人も多く、多数の著書作品によって地方文化に及ぼした影響は大きい。明治十三年(1880)、年七十三で没。


篠崎進先生墓

篠崎進は、文化十二年(1815)の生まれ。父に関流砲術を学び、天保十三年(1842)には下曽根金三郎の信敦塾に入門して西洋砲術を修得した。帰郷して弘前藩西洋砲術教授方に任じられ、銃隊編成や砲台構築を担当した。文久二年(1862)、幕府講武所下学頭に推挙された。戊辰戦争にも従軍した。明治二十年(1897)死去。


真忠院殿顕譽武功貞邦清居士(小島左近墓)

小島左近は、伊藤善兵衛の四男。小島嘉兵衛の養子、二百石。書院番、野内町奉行から足軽頭。明治元年(1868)九月二十三日、陸奥野辺地観音林にて戦死。三十七歳。

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弘前 Ⅳ

2016年09月01日 | 青森県
(高徳院)


高徳院


祖先歴代之墓(都谷森逸眠墓)

都谷森甚弥(とやもりじんや)は、諱は正守、のちに逸眠と称した。父は西館善司建正。西館弧清の実弟である。武頭都谷森甚之丞の養子となり、馬廻組頭となった。慶応四年(1868)八月、南部氏の佐竹領十二所来襲に際して大隊長として従軍した。翌年の箱館戦争では弘前藩副総督、一番手隊長として出征活躍し、禄百俵、刀料百両を賞与された。のち弘前藩権少参事を務めた。

(長徳寺)


長徳寺


源尚良神霊(高杉左膳墓)

高杉左膳は天保六年(1835)の生まれ。父は白鳥弥兵衛英範。兄に白鳥数馬がいる。諱は尚良。高杉友衛尚敬の養子となって家督を継いだ。慶応四年(1868)八月、足軽頭となり、秋田藩応援軍に加わって南部勢と戦った。翌明治二年(1869)四月には箱館戦争に一番隊の小隊長として従軍し、箱館桔梗野の戦いで先鋒を務め、五月十一日銃弾をうけて戦死した。年三十五。有川村に埋葬され、のち招魂社に合祀された。菩提寺長徳寺には神式をもって葬られた。

(寿昌院)


寿昌院


佐藤平吉墓

佐藤平吉は、佐藤末吉の三男。城下袋町住。米橋左太夫隊の銃士。慶応四年(1868)九月六日、羽後包丁長根で負傷。二十五日に死去。十九歳。


勲應院武功實安居士(三浦銀弥墓)

三浦銀弥は卒。城下新寺町住。文吾の長男。軍監岩田平吉手。明治二年(1869)五月十一日、桔梗野にて負傷死。十八歳。


館山累代之墓(館山善左衛門墓)

館山善左衛門は天保七年(1836)の生まれ。諱は正倫、のちに有孚と称した。足軽頭として慶応四年(1868)五月、庄内征討の先発隊を率い、新庄で沢為量副総督から菊章軍旗を受けた。副総督の先導を務めて、津軽領通過に努力したが、白石同盟の結果、一時藩境を閉鎖することになり実現しなかった。藩論が勤王に統一後、再び秋田藩応援に五小隊を率いて出張し、同年七月、九条道孝総督に謁して塩越進撃の命を受け、政府軍の副参謀として醍醐参謀を助けた。十月、南部氏帰順して弘前に凱旋した。廃藩後、北津軽郡深郷田村に帰農し、戸長を務めた。明治八年(1875)年四十で没。

(安盛寺)


安盛寺


大雄院武學清通居士(坂本友弥墓)

坂本友弥は士分。城下馬屋町住。善兵衛の三男。羽後大館、松前など歴戦。明治二年(1869)五月十一日、桔梗野で戦死。二十五歳。


武忠院殿収徳善方居士(八木橋善次郎墓)

八木橋善次郎は、百五十石彦市の弟。父は行作。城下塩分町住。奥瀬栄太郎隊銃士。明治元年(1868)九月二十二日、陸奥野辺地にて負傷。青森にて死去。二十五歳(三十二歳とも)。

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弘前 Ⅲ

2016年09月01日 | 青森県
(梅林寺)


梅林寺

木村藹吉は、天保十一年(1840)弘前藩の重臣の家に生まれ、文久二年(1862)江戸に出て福沢諭吉の塾で学んだ。その後、洋式兵術を江川塾で修得して帰郷し、藩の兵制の洋式改革に貢献した。戊辰戦争、箱館戦争では弘前藩の大隊長として腕に砲弾の破片が当たる怪我をしながら奮闘した。維新後は、兵部省に属し、一等中警部心得として東奥義塾の学生を引き連れ西南戦争に参加しようとしたが、その途中、終戦により京都で解隊して帰郷した。その後、北海道の開拓を志したが、明治十二年(1839)三十九歳で亡くなった。


木村藹吉墓

(隣松寺)


隣松寺


岩田恵則墓

岩田恵則(よしのり・やすのり)は、文政元年(1818)弘前藩士の家に生まれた。安政四年(1857)、洋流兵学研究のため江戸に出て塩谷宕陰に学び、のち清水太郎について学んだ。安政六年(1859)、弘前に帰り、学問所西洋砲術の教官となった。文久三年(1863)、再び出府して大鳥圭介、江川太郎左衛門に入門。西洋砲術を研究、翌元治元年(1864)弘前に戻って、藩の兵制改革に指導的役割を果たした。その兵学は江戸でも知られ、薩摩藩士黒田清隆、伊東祐亨らも教えを乞うた。箱館戦争に参加後、明治四年(1871)、兵部省に出仕。翌年海軍省に移り、造船局砲器科勤務を命じられた。明治九年(1876)辞職。明治二十八年(1895)、七十八歳で没。


小山内建麿墓

小山内建麿(たけまろ)は天保二年(1831)の生まれ。性剛直で、深く藩主に信任され、手廻から転じて側役、郡奉行、勘定奉行の三職を兼ね、治績があった。さらに転じて藩学稽古館講司となり、学事の振興に努めた。維新の際、弘前藩の向背定まらない時、率先して勤王の大義を唱え、箱館戦争には監軍として功があった。のち朝廷に徴され、宣教使に任じられ、また岩木山神社権宮司に補され、神道の興隆に尽くした。明治三十五年(1902)、年七十二で没。

(陽光院)


陽光院


中田盛彌墓

中田盛弥は諱産紀とも。卒。城下山道町住。清作の子。千葉平弥隊砲手。明治元年(1868)九月二十二日、陸奥野辺地にて戦死。二十九歳。

(宝泉院)


宝泉院


香遠佐々木元俊墓

佐々木元俊は文政元年(1818)の生まれ。父は町医の佐々木秀庵。元俊は諱。雅号は香遠。嘉永元年(1848)江戸に上り、杉田成卿の塾に入り、蘭学を学んだ。安政元年(1854)、弘前藩の命令で種痘を購入し、国元に送った。安政六年(1858)、藩学稽古館に蘭学堂が設けられるに及び、その学士となった。蘭語辞書を翻刻して「蕃語象胥」として出版したり、硝石や火薬の製造に従った。文久二年(1862)より医学館にて種痘を行い、明治六年(1873)までその数二万余にのぼった。明治五年(1872)からは青森県立病院の開設に当り、これを指導した。明治七年(1874)、年五十七で没。

(福寿院)


福寿院


五十嵐貞隆翁墓

五十嵐貞隆は、文化十一年(1814)の生まれ。文久三年(1863)、弘前藩が御所警護の親兵を派遣したときその隊長に任じられた。戊辰戦争では藩兵を率いて秋田藩領まで進出し、盛岡藩と戦った。明治二十年(1887)没。

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弘前 Ⅱ

2016年09月01日 | 青森県
(青森県護国神社)
弘前城内にある青森県護国神社は、明治三年(1870)に時の藩主津軽承昭の意向を受けて、箱館戦争の戦没者慰霊のために創建された招魂社である。境内に明治三年(1870)に藩が建立した「弔戦歿諸霊碑」があるほか、西舘弧清碑もある(不覚にも見逃してしまった!)。


青森県護国神社


弔戦没諸霊碑

(宗徳寺)


宗徳寺山門


温明院殿宏量之悳居士(杉山上総墓)

杉山上総は、天保十二年(1841)、弘前に生まれた。諱は成知、字は龍江。弘前藩江戸用人で、禁門の変では家老代として上洛した。慶応四年(1868)家老となり、庄内派兵軍を総督し、同年五月、新政府軍の入国を拒んで藩境碇ヶ関口を閉鎖した。のち藩論が勤王に一決し、譴責されて蟄居した。復職して箱館戦争の軍事総督として渡道した。翌二年、弘前藩大参事となり、集議院議員にあげられた。西南戦争に際しては、旧藩士の召幕隊隊長として一等警部心得とおなり新撰旅団に編入されたが、東京で待機中終戦を迎えた。明治十七年(1884)、中津軽郡長、ついで北津軽郡長を務めた。明治二十八年(1895)、年五十五で没。


先祖代々之(大道寺繁禎)墓

大道寺繁禎(しげよし)は弘化元年(1844)の生まれ。族之助と称した。文久二年(1862)家督を相続し、表書院大番頭、藩校総司を経て、慶応四年(1868)六月、用人家老となった。同年十二月、弘前藩権大参事となって旧藩と県庁の事務引き継ぎの責を果たした。明治六年(1873)と同九年(1876)の二度、青森県第三大区長となり、明治十一年(1878)、第五十九国立銀行頭取に推された。県会開設とともに県会議員となり、明治十九年(1886)まで当選して常に議長を勤めた。のち中津軽郡、南津軽郡長を歴任し、退任後、明治三十三年(1900)、弘前市立図書館長を勤めた。歌道にも通じ、また大正二年(1913)、陸奥史談会会長となって郷土史界にも貢献した。大正八年(1919)、年七十六で死去。
墓石の側面には、繁禎の歌が刻まれている。

むら雲はふもとに消えて山松の
あらしの上に澄める月かな


武晃院殿大觀深江居士(一町田大江墓)

一町田大江は、天保十年(1839)の生まれ。目付、町奉行、勘定奉行を歴任した。戊辰戦争では、秋田、米沢、仙台三藩への副使節、奥羽鎮撫参謀転陣の応対役、南部藩領小坂口の戦い、函館戦争に従軍して功があった。維新後は郡長などに任命された。明治四十二年(1909)没。


西館家之(西館建哲)墓

西館建哲(たけあき)の墓である。天保五年(183)の生まれ。通称は栄次郎、雅号は翫󠄀水と称した。父は高倉駿河盛儀。十余歳で西館文之助の養子となった。家禄八百石。幼少より文武に秀で、嘉永六年(1853)、十九歳で表書院番頭に任じられ、安政二年(1855)の宇和野の演習では藩兵の訓練を統括した。文久の稔(1862)八月、修武堂の開設・運営についてよく人心を収攬した。文久三年(1863)には城代格家老となって重責を果たし、慶応元年(1865)には家老に進んだ。戊辰戦争の際、本多庸一、菊池九郎らの佐幕論を抑えて藩論を統一。明治二年(1869)、大参事に任じられたが、同四年(1871)辞任。明治十三年(1880)、年四十七で没。

(法立寺)


法立寺

箱館で降伏した旧幕軍兵は、明治二年(1869)六月、青森を経て弘前に送られ、法立寺、本行寺、耕春院など、市内の七ヶ寺に預けられた。

齋藤文吉勝利の墓が法立寺にあるというインターネットの記事を発見したので、これを頼りに再度法立寺を歩いた。しかし、齋藤家の墓は複数発見できたものの、文吉のものと特定できるには至らなかった。
齋藤文吉は、津軽藩の下級武士(足軽)で、文化四年(1807)、ロシア船が択捉島を襲った事件を受けて、弘前藩の蝦夷地派兵隊に一人として斜里町に派遣された。その時「松前詰合日記」という克明な記録を残している。

(長勝寺)
西茂森の長勝寺に続く道は禅林街とも呼ばれ、三十三もの寺院が集中する寺町である。長勝寺には津軽家の霊屋があり、津軽家初代藩主為信や二代信牧、三代信義、六代信著やその夫人らの墓がある。


長勝寺

平成二十四年(2012)七月、弘前市長勝寺にて松前徳広の墓所跡が発見されて話題になった。墓所跡は四メートルの深さがあり、中には二重の木枠が残っていた。遺骸を収めた木棺は発見されなかった。木室は最下層に胴木を二段積にしたもので、その上に約二・一メートル四方の井桁状に角材が七段積まれていた。更に、その内部に約一・三メートル四方の木槨(もっかく)が組まれており、木室との間には木炭が敷き詰められていた。また木槨の板材の継ぎ目には水が浸み込まないようにアスファルト様の樹脂が塗布されていたほか、内部には酸化防止用の石灰が敷き詰められていた。現在、墓所跡は埋め戻されているが、竹柵で囲まれており、その前に弘前市教育委員会が建てた説明があるので、場所は分かり易い。発見された墓所跡から埋葬者を特定できる資料は発見されていないが、墓の規模が藩主級であること、既に改葬されていることから、松前徳広の墓所跡と推定されている。
松前徳広は、松前藩十三代藩主。明治元年(1868)十一月、箱館戦争において旧幕府軍の攻撃を受けて居城福山城が陥落し、家族重臣とともに津軽海峡を渡って弘前藩の庇護を受けた。しかし、もともと病弱だった徳広は弘前到着後十日足らずで薬王院にて病没し、長勝寺境内に仮埋葬された。なお、徳広の遺体は戦後松前の法幢寺に改葬されている。

なお、大楽源太郎事件に連座して青森県で獄死した久留米藩の水野正名も長勝寺に葬られたらしいが、現存していない。


松前徳廣の墓


津軽家霊廟
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青森 Ⅱ

2016年08月26日 | 青森県
(常光寺)


常光寺

 常光寺は、清水谷公考が本陣を置いた寺院である。コンクリート製に建て替えられており、往時をしのぶことはできないが、広い境内は昔のままだろう。

(三内霊園)
 新幹線の新青森駅から南に一キロほど行くと、大きな霊園がある。これが三内霊園である。ちょうどその中央付近に戊辰戦争戦死者の墓が集められた一画がある。三内霊園の墓は、市内の戊辰堂、常光寺、蓮華寺、蓮心寺に官修墓地として祭祀されていたが、昭和二十三年(1948)官修墓地制度が廃止となり、その後の管理が各市町村へ移管されたのを機に、青森市がこの地に改装したものである。


官修墓地

 いずれも異郷の地から政府軍の一員として箱館戦争に参加して戦病死した人たちである。

渡辺吉太郎(水戸) 黒羽平七(水戸) 吉田留五郎(大野) 福田佐市(津) 広瀬佐兵衛(津) 森田芳次郎(津)  勝島喜左衛門(津) 今井環平(岡山) 河村秀三郎(福山) 中木初右衛門(福山) 李家内蔵太(長州) 重吉(長州) 柴田平助(長州) 長松登人(長州)  松原啓助(長州) 吉田甲熊(長州) 清水留之進(徳山) 竹蔵(徳山)  藤川駒之進(徳山) 藤村隼人(西条)

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野辺地 Ⅱ

2016年08月26日 | 青森県
(藩境塚)
現在も二本又川が野辺地町とその隣の平内町の町境となっているが、江戸時代、津軽藩と南部藩の境界であった。境界を示す塚が、津軽藩領側と南部領、それぞれ二基ずつ、計四基築造されている。築造年代は不明。


藩境塚

(町立中央公民館)


野辺地代官所跡

野辺地は北前船の寄港地であり、尾去沢鉱山の産出物を搬出する港でもあった。さらに敵対する弘前藩に対する最前線でもあり、下北に通じる交通の要衝でもあった。そのため、盛岡藩では代官所を設置して、常時代官を配置していた。慶應四年(1868)の野辺地を舞台として戦争では、野辺地代官所も激戦地となり、盛岡藩では津軽藩を敗走させた。現在、代官所跡には公民館や図書館が開設されているが、目立った遺構は見当たらない。

(大砲台場跡)


大砲台場跡

風間浦から折り返して、次の目的地は野辺地である。六年前にも野辺地に足を運んだが、その時回り切れなかった史跡を訪ねる。
大砲台場は、盛岡藩によって安政三年(1856)に築造された台場である。慶応四年(1868)の戊辰戦争では、野辺地を艦砲射撃した新政府軍の船に対し、盛岡藩ではこの台場から反撃した記録が残っている。

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風間浦

2016年08月26日 | 青森県
(海峡いさり火公園)


海峡いさり火公園


新島襄寄港記念碑

むつ市から三十キロメートル以上離れるが、ここから一時間足らずのドライブで風間浦の海峡いさり火公園に達する。海辺に造られたこの公園には潮の干満により海水を引き入れる仕組みになっている池がある。
新島襄は元治元年(1864)四月十八日から二十日にかけて、洋式帆船快風丸にて箱館へ向けて航海中、この地(下風呂)に寄港した。新島襄は、温泉の快適さや当地における見聞を「箱館紀行」に書き留め、江戸の実父にも書き送っている。この時点から二か月後の六月十四日、箱館から脱国してアメリカに渡った。このことを記念して、平成四年(1992)、この石碑が建立された。

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むつ

2016年08月26日 | 青森県
(北洋館)


北洋館

海上自衛隊の大湊基地に隣接して北洋館という建物がある。この石造りの建物は、大正五年(1916)、海軍大湊要港部の水交社として建築されたものである。水交社とは、明治九年(1876)に海軍省の外郭団体として創設された海軍士官の社交場である。東京に本部を持ち、各鎮守府・要港部に支社を置いていた。大湊の建物は当初木造で建てられたが、火災で焼失したため石造りの洋風建築により再建された。外装は、釜臥山から採石した石材を用い、内装にはモザイク模様で欄干等に手掘りの飾り付けが施されていた。海軍士官の社交場として隆盛を極めた水交社であったが、戦後一時期米軍に接収され、昭和二十九年(1954)に防衛庁に移管となり、その後海上自衛隊が所管した。昭和五十六年(1981)、内部の改修を施し、北洋館を移転して海軍資料館として活用されている。海軍の歴史のみならず、東郷平八郎の「日本海海戦の勝利は小栗さん(上野介忠順)のおかげ」というコメントなどが紹介されている。


北洋館の展示

(斗南藩士上陸の地碑)
海の日の三連休、何もしないで家でゴロゴロしているのはイヤだったので、青森への史跡旅行を計画した。六年振りの青森である。
時間を有効に使うために、金曜日の終業後、会社内で私服に着替え、新宿から夜行バスを利用することにした。19時45分に出たバスは、むつ下北駅前にほぼ半日後の午前八時前に到着する。十二時間あればヨーロッパまで行けてしまう時代、青森への時間距離はかなり遠い。
夜行バスの車内は決して快適とはいかず、例によって早々にいびきをかき始める肥満した青年を尻眼に、眠れない時間を過ごした。下北駅前に立ったときの開放感は格別であった。ここでレンタカーを入手して、むつ市内を探索する。
下北半島は、戊辰戦争後、会津藩が移住した土地である。当時斗南藩領は三万石と称されたが、実際には極寒不毛の地であった。移住した会津藩士たちは、飢えと厳しい寒さに苦しんだ。この地における極限の生活を知るには「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書」(石井真人編 中公新書)を読むことがもっとも近道であろう。私がむつ市を訪れた時、梅雨の晴れ間がまぶしいくらいの好天で、とても会津藩士たちの苦難を想像することはできなかった。
最初の訪問地は、会津藩士上陸の地である。斗南藩に移住した会津藩士は、山川浩以下約一万七千人といわれる。明治三年(1870)春、新潟から海路をたどってこの地に至り、上陸を果たしたといわれる。上陸の地の碑は、鶴ヶ城の石垣にも使用されている慶山石を会津若松より取り寄せ、飯盛山をイメージして組み立てたものである。この記念碑は遠く会津若松と向き合って建てられている。


斗南藩士上陸の地碑

(釜臥山)


釜臥山

斗南藩士上陸の地から釜臥山を臨むことができる。むつ市の至る場所から釜臥山(標高878メートル)を仰ぐことができるが、移住した会津藩士はこの山を故郷の磐梯山に見立て「斗南磐梯」と呼んだ。山頂には展望台が設けられ、ここから見下ろすむつ市の夜景は大変美しいらしいが、今回はここで夜を過ごさなかったのでお預けである。

(呑香稲荷)


呑香稲荷


旧斗南藩柴五郎一家居住跡

運動公園の東側の未舗装道路を数百メートル北上すると、そこに吞香神社の赤い鳥居がある。ここ落の沢は、柴五郎一家が家族で過ごした場所である。柴五郎の厳父佐多蔵は「ここは戦場なるぞ、戦場なれば犬肉なりとて食らうものぞ、やれやれ会津の乞食藩士ども下北に餓死して絶えたるよと、薩長の下郎武士どもに笑わるるぞ、生き抜け、生きて残れ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」と叱咤し、幼い柴五郎は「嘔吐を催しつつ、犬肉の塩煮を飲み込」んだという。

(円通寺)


円通寺

徳玄寺に隣接する円通寺の本堂前に、招魂之碑が建てられている。建碑は明治三十三年(1900)。撰文ならびに書は南摩綱紀。
以下、読み下し文
――― 明治戊辰の乱、会津藩士各地に奮戦す。死者数千人、その忠勇節烈は凛乎として風霜を凌ぐ。乱平ぐに及び生者は皆、一視同仁(差別を設けず全て同じように愛する)の澤(恩恵)に浴す。而して死者の幽魂は独り寒煙たる野草の間を彷徨し、その所を得ず。ああ哀しいかな、今茲庚子(かのえね)はその三十三年忌辰なり。是に於いて旧藩士の南部下北郡に居する者、碑を圓通寺に建て、招魂の祭りをあい謀る。この寺は即ち旧藩主容大公の斗南に封せらる時の館なる所也。

円通寺は斗南藩の仮館として藩庁が設置された場所で、松平容保、容大父子が起居をともにした。現在もこの寺には容大公愛玩の布袋像などが保存されている。


招魂之碑

(徳玄寺)


徳玄寺

徳玄寺は、幼い藩主松平容大(かたはる)が食事や遊びの際に使用された場所である。当時三歳の容大は、移住した藩士を激励するために各地を回村し、人々の精神的支柱となった。
徳玄寺では、重臣たちが会議を開き、大湊の開港や種々の産業開発などが議論され、実行に移された。

(斗南藩史跡地)


斗南藩史跡地

この地に、領内開拓の拠点として斗南藩が市街地を設置し、「斗南ヶ丘」と名付けた。明治三年(1870)、一戸建約三十棟と二戸建約八十棟を建築し、東西には大門を建てて門内への乗り打ちを禁止した。町内十八か所に堀井戸を作り、屋敷割は土塀を巡らせて区画されていた。しかし、下北の過酷な気候は斗南藩士の夢を打ち砕いた。想像を超える風雪により建物は倒壊し、追い打ちをかけるように野火に襲われ、次々と藩士たちはこの地から転出した。今はわずかに当時の土塀が残されているのみである。


斗南ヶ岡市街地跡

斗南藩史跡地には「秩父宮両殿下御成記念碑」が建てられている。この石碑は、昭和十一年(1936)十一月、皇弟秩父宮雍仁親王殿下とその妃勢津子殿下が下北郡下を巡遊し、その際に斗南ヶ丘も立ち寄ったことを記念して昭和十八年(1943)に建立されたものである。昭和三年(1928)、秩父宮殿下と松平容大の令姪松平節子(婚礼後勢津子と改名)戸の婚儀は、戊辰以降、朝敵という汚名を負って生きてきた会津人にとって大きな喜びをもって歓迎された。さらに最果ての地にまで両殿下に足を運んでもらったという感激から、会津相携会(その後、斗南会津会)が中心となってこの碑が建立された。


秩父宮両殿下御成記念碑

私が斗南ヶ丘を訪ねた時、近所の子供たちがおままごとの真っ最中であった。子供たちから大きな声で「いらっしゃいませ」と声をかけられた。


斗南藩屋敷土塀跡

(旧斗南藩墳墓の地)


旧斗南藩墳墓の地


斗南藩追悼之碑

斗南の生活のあまりの過酷さに、藩の権大参事として実質的なリーダーであった山川浩は

みちのくの斗南いかにと人問はば
 神代のままの国と答へよ

と詠んだ。ここには旧会津藩士の追討碑と数基の墓碑、それに斗南ヶ丘で唯一生き残った島影家の墓所が残されている。


斗南藩士の墓

左は思案橋事件にて逮捕、斬罪に処された竹村俊秀の祖母の墓である。


島影家の墓
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弘前

2010年09月03日 | 青森県
(弘前城)


弘前城

 弘前城は、津軽を統一した津軽為信によって計画され、二代藩主津軽信枚によって慶長十六年(1611)に完成された城である。築城当時、五層の天守閣が設けられたというが、築城から十六年経ったとき、落雷により焼失した。文化七年(1810)、本丸にあった辰巳櫓を解体して、現在の三層の天守閣が建造された。全国に城跡は多いが、江戸時代の建造物を現在まで伝えている城郭はそれほど多くない。弘前城は東北地方では唯一の江戸時代から現存している天守となっている。


菊池九郎先生碑

 弘前城の一角に菊池九郎を顕彰する石碑が建てられている。菊池九郎は、弘前藩士。早くに父を失い、賢母のもと育てられた。藩学稽古館を経て、書院番、小姓を務め、幕末には奥羽各藩の間を奔走した。東京、鹿児島に留学後、帰郷して東奥義塾創設に尽力した。のち郡長、県会議員を経て、明治二十二年(1889)、初代弘前市長に選ばれた。翌年には衆議院議員、明治三十年(1897)山形県知事の後、再び懇請されて弘前市長となった。昭和元年(1926)、一月一日、年八十で没。


弘前城追手門

 弘前藩(通称 津軽藩)は、現在の青森県西部を領地とする外様藩である。戦乱が東北に及ぶと盛岡藩等と同調して当初奥羽越列藩同盟に参加したが、早々に離脱して新政府軍に加担した。この功により、藩主津軽承昭に賞典禄一万石が与えられたが、その後、弘前市民と盛岡市民は犬猿の仲になったとか…。

(弘前市立観光館)


稽古館跡地

 弘前城の南側、現在市立観光館のある場所にかつて稽古館があった。稽古館は、寛政八年(1796)津軽藩九代藩主寧親のとき開かれた藩校である。


旧東奥義塾外人教師館

 東奥義塾は、藩校稽古館を母体として、明治五年(1872)に菊池九郎(初代弘前市長)らによって創立された私立学校である。新時代を担う人材を育成するため、英学主体の教育を実施し、宣教師が次々と着任して教師を務めた。昭和六十二年(1987)まで東奥義塾高校として現弘前市立観光館の場所に存続していたが、このとき校舎は移転して建物は弘前市に寄贈された。この建物は明治三十三年(1900)に焼失した初代の外人教師館に代わって再建されたものである。

(青森地方裁判所)
 青森地方裁判所の前の石碑は、明治十四年(1881)の東北巡幸の際、明治天皇が弘前を訪れたことを記念したものである。


明治天皇御臨幸之所

(養生幼稚園)
 嘉永五年(1852)、宮部鼎蔵とともに東北遊歴に出た吉田松陰は、三月一日、弘前に入り津軽藩士伊東広之進(号は梅軒)を訪い、国事や津軽藩の軍事、海防について意見を交わした。当時の建物と部屋が松陰室と名づけられ大切に保存されている。


松陰室

 松陰室の内部見学には事前予約が必要。残念ながら今回予約はしていなかったので、外観の写真のみである。

(伝統的建造物群保存地区)


伊東家

 弘前城北側に伝統的建造物群保存地区と呼ばれるエリアがある。関東でいえば埼玉県川越、四国では愛媛県の内子、或いは山口県の萩のようにタイムスリップを楽しめる空間かと期待したが、伝統的建造物と呼べるような家屋は数軒しか残っておらず、やや期待外れであった。

(薬王院)


薬王院

 箱館戦争終結後、降伏した新選組隊士は青森に護送され、斬時滞留したのち、明治二年(1869)六月九日から約一ヶ月半にわたり、弘前の薬王院に収容された。その後、青森の蓮華寺、さらに十月には再び箱館の弁天台場へ戻された。弁天台場での謹慎生活は明治三年(1870)四月まで続いた。

(宗徳寺)


宗徳寺

 弘前市西茂森一帯は、弘前藩の政策で市内の寺院が集められた寺町となっている。その一角に所在する宗徳寺は、かつて耕春院と称していた。箱館戦争後、新選組の安富才助は一時この寺に収容された。
 安富才助は、足守藩(現岡山県)の出身といわれ、元治元年(1864)の江戸における隊士募集に応じて新選組に加入している。安富才助は隊の事務方として次第に重用されるようになった。鳥羽伏見の戦争以降、隊の経費の出納や負傷した隊士の治療費、更には小荷駄方として物資の輸送手配まで激務に追われた。一時近藤勇の助命のために江戸に向かった土方に代わって新選組を率いて会津に入った。箱館政府では、土方の補佐役である陸軍奉行添役に就いている。箱館政権が降伏すると、安富才助はほかの新選組隊士とは別に耕春院に監禁され、その年の夏には東京へ護送されている。東京でも厳重に身柄を拘束され、年末には出身藩である足守に送られた。安富才助がほかの新選組隊士とは別の取り扱いを受けた背景には、箱館政府の要職にあったということが重視されたのだろう。

(法立寺)


法立寺

 箱館で降伏した旧幕軍兵は、明治二年(1869)六月、青森を経て弘前に送られ、法立寺、本行寺、耕春院など、市内の七ヶ寺に預けられた。

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黒石

2010年09月03日 | 青森県
(感随寺)
 黒石市の感随寺には、推定樹齢三百年というサルスベリの大木がある。本堂前で美しいピンク色の花を咲かせている。


感随寺

 感随寺も、やはり箱館府知事清水谷公考が本営を置いている。

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