(三戸大神宮)
三戸大神宮
二日目は、小牛田駅に息子を送り届けてから、松山の満徳寺を訪問。そこから高速道路に乗って三戸、八戸、五戸、十和田、七戸そして三沢を経由して盛岡に戻るという強行軍であった。途中、岩手県内の一戸、二戸も含めて、「戸」が付く土地を次々と通過することになった。それにしても「戸」とは何だろうか。
会津藩は、戊辰戦争で敗れて、斗南藩への移封(実態としては挙藩流罪)という苛烈な処分を受けた。青森県内には移住した会津藩士の残した史跡が散在している。
三戸の中心部に三戸大神宮がある。境内には会津藩に関係する二つの墓碑がある。
一つは日新館教授杉原凱(がい)の墓である。杉原凱は、戊辰戦争後、三戸に移住し、明治四年(1872)、この地で病死した。享年六十六。亡骸は三戸大神宮に葬られたが、その後、遺族も他所に移り、墓も荒れるに任されていた。明治十九年(1887)、これを惜しんだ門人らが墓碑を建てたものである。
杉原凱先生之墓
会津藩殉難者無縁墓
杉原凱の墓のそばには、無名の会津藩士の墓が建立されている。建立は昭和五十一年(1976)。
招魂之碑
同じく三戸大神宮の境内には招魂碑が建てられている。日露戦争後、この手の招魂碑は各地に建てられているが、三戸大神宮の招魂碑は小倉藩出身の奥保鞏(おくやすかた)の筆によるものである。この他にも青森県下で見かけた招魂碑、忠魂碑は奥保鞏の書が多いが、同じ佐幕藩出身という縁だろうか。
(悟真寺)
悟真寺
三戸大神宮の近くに所在する悟真寺境内には、明治二十七年(1894)、当地に移住した旧会津藩士によって建立された招魂碑がある。
招魂碑
(観福寺)
観福寺
近くを歩いていた老婆に観福寺の場所を尋ねたところ、「あぁ、この近くにあるよ」と、丁寧に道順を教えていただいたが、強烈な訛りのため半分も理解できなかった。今回の東北旅行では自分の日本語ヒアリング能力に自信を失った。
観福寺には、「わが国最古の白虎隊墓碑」と称する墓碑がある。横に建てられている由来碑によれば、この碑が建てられたのは明治四年(1871)のこと。会津藩士大竹秀蔵の母シヲの一周忌に建立されたと記載されている。この墓碑は長らく埋もれていたが、昭和二十五年(1950)、当寺住職が苔に埋もれていた墓碑を発見した。
わが国最古の白虎隊墓碑