(無鄰庵)
山県有朋の別荘無鄰庵は、岡崎動物園の向かい側と木屋町高瀬川沿いに各一つずつある。山県は庭造りの名手で、東京の椿山荘、小田原の小陶庵などを残している。東山の無鄰庵は、明治二十七年(1894)に着工、二年後に完成した。明治三十六年(1903)四月、伊藤博文、桂太郎、小村寿太郎と山県が日露戦争に踏み切る無鄰庵会議をここで開いた。
無隣庵庭園
洋館
無隣庵会議が開催された部屋
(南禅寺)
二度目のアタックで天授庵墓地に進入することができた。広大な墓地には、細川幽斎夫妻を初めとした細川家の墓、それに梁川星巌・紅蘭夫妻、横井小楠の墓がある。
沼山横井先生墓
紅蘭張氏之墓・星巌梁川先生之墓
南禅寺の境内に、琵琶湖疎水の水路橋(水路閣)が走っている。レンガ製の近代建築は、やや南禅寺の建物とは異質であるが、今から百年以上前に建造された琵琶湖疎水の一部が今もここに息づいていると思うと、感慨深いものがある。レンガは百年の風雪を経て、深沈とした色合いを醸し出している。
水路閣
(順正)
南禅寺門前の順正は、かの間部詮勝が命名したという老舗である。
順正
(琵琶湖疎水)
琵琶湖疎水記念館
北垣国道書「意気如雲」(上)と河田小龍による「琵琶湖疎水路線全景」
琵琶湖疎水記念館は、平成元年(1989)に琵琶湖疎水百周年を記念して創設された資料館である。疎水の完工に向けた当時の関係者の熱い想いが伝わる展示品の数々に、心が揺さぶられる。是非、多くの人に見てもらいたい。琵琶湖疎水は、完工から百年を経た今日も京都市民の生活に欠かせぬ資産となっている。将に「国家百年の計」を具現化したものと言える。足もとの景気を刺激する公共投資も結構であるが、百年後の市民に感謝されるほどのインフラ建設がどれほどあろうか。為政者にはそれくらいの長期的視野が必要とされているのである。
(若王子神社)
銀閣寺の前から疎水分流に沿って「哲学の道」が通じている。「哲学の道」の南側の終点が若王子神社である。若王子神社は、京都ではごくありふれた神社に過ぎないが、「哲学の道」のおかげで桜の季節になると、その前を大勢の観光客が行き交うことになる。
若王子神社の人込みを抜けて、鬱蒼とした杉木立の中を登っていくと、小高い丘の上に同志社墓地が広がる。前夜の雨が残っていてぬかるんだ坂道に足を取られる。その一番奥まった場所に新島襄と八重子夫人の墓、それに新島とともに同志社設立に尽力した会津藩士山本覚馬の墓がある。
若王子神社
新島襄之墓
山本覚馬の墓
山本覚馬は会津藩士。九才のとき藩校日新館に入った。嘉永六年(1853)、二十五歳のとき江戸に出て佐久間象山の門下となった。のちに会津に戻って日新館教授、軍事取調役兼大砲頭取を歴任した。元治元年、京都守護職に任じられた藩主松平容保に従って上洛、禁門の変で殊功を立てた。鳥羽伏見の戦いのあと、捕えられて入獄したが、「管見録」を薩摩藩主に提出してその識見を認められ釈放された。明治三年(1870)京都府顧問となり府政に尽力し、その後は初代府会議長、商工会議所会頭などを歴任した。明治二十五年(1892)六十五歳にて没。