史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「幕末の将軍」 久住真也 講談社選書メチエ

2009年04月18日 | 書評
 ひと言で「徳川将軍」といっても、十五代それぞれ個性的である。
 この本では、幕末の将軍の対極にある存在として、十一代家斉の「大御所時代」から説き起こす。家斉は在職年数五十年、更に大御所として四年権力の座にあり、その治世において何か功績があったというわけではないが、輝かしい「権威の将軍」の時代として同時代の人々の記憶に刻まれた。
 家斉の第四子、十二代将軍家慶の治世は、まさに「内憂外患」の時代であった。天保の改革とその失敗、そして水戸斉昭との確執、外国船の出没による開国圧力の高まり…。家斉と比べると、苦悩に満ちた将軍であった。「しかし、従来の将軍と同じく、定められた伝統的な政務をこなしさえいれば、御威光と権威の中に安住できたという点では、やはり「権威の将軍」であった」という。
 次の十三代家定というと、暗愚で無能な君主というイメージが定着している。しかし、狂言などの遊興に耽溺した家慶と比べても、将軍としての繁多な政務も精力的にこなし、(英明とはいえないまでも)問題のない君主だったという。
 さて、この本の大半は、十四代将軍家茂に割かれている。家茂は二十一歳という若さで世を去っており、どちらかというと将軍に祭り上げられただけのお飾りと思われがちである。しかし、激動の政局はこの若者に平穏な日常を許さなかった。
 家茂は武芸や馬術を好み、記憶力が良くて早口の、活発な青年であったという。家茂は、上洛して国事に奔走することになった。それまでの徳川将軍は見えない「権威の将軍」であったが、上洛を機に「見せる将軍」へと劇的に転換したのである。
 筆者は、歴代の徳川将軍と比べて、十五代慶喜の特異性を指摘する。まず終始「在京将軍」であったこと。ほかの将軍が持ち得なかった政治的経験を有していたこと(その結果、将軍就任時に既に政治的敵対勢力を生んでいた)。将軍の居城である二条城に入らず、若州屋敷にとどまり続けたこと(筆者はこれを臨機応変の政治活動のためと解析する)。確かに将軍自ら摂政の邸宅に乗り込み、時の摂政に対して恫喝に近い言葉を吐くなどということは、それまでの将軍には考えられないことであった。家茂の時代に「権威の将軍」から「国事の将軍」へと変容を始めた将軍は、慶喜の時代に至って、完全に「国事の将軍」へと変貌を遂げた。と同時に徳川将軍は一気に消滅へと向かったのである。

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「徳川将軍家 十五代のカルテ」 篠田達明 新潮新書

2009年04月18日 | 書評
 たまたま「徳川将軍家 十五代のカルテ」と「幕末の将軍」という二つの本を並行して読んだ。両著に共通するのは、我々が徳川将軍に抱いている固定観念に対する鋭い指摘である。
 例えば三代将軍家光といえば、時代劇の世界では男前のりりしい将軍と相場が決まっているが、「その実像は貧相な小男であった」という。虚像が独り歩きしたのは、「権現(家康)の再来のごとし」という幕府の喧伝効果であろう。
 増上寺の徳川歴代将軍の墓は、昭和三十三年(1958)に改修工事がおこなわれ、全身の骨格が発掘された。また三河の大樹寺には、歴代将軍の等身大の位牌が安置されているという。これらの資料から推定された歴代将軍の身長がこの本に紹介されているが、二代将軍秀忠の160㎝が最高で、ほかは全てそれ以下である。無論、この時代の日本人の身長はそれが平均的な水準で、徳川将軍家だけがちっちゃかったというわけではない。その中にあってひと際目を引くのが五代将軍綱吉である。綱吉の身長はわずか124㎝というから現代でいえば小学校生低学年並みである。犬公方と称され天下の民衆を苦しめた張本人が、実はこんなちっぽけな男だったとは、何だか拍子抜けするほどである。
 京都の霊山歴史館で、等身大の徳川慶喜肖像が展示されていたのを見たことがある。慶喜といえば、フランス式の軍装に身をつつんだ騎乗の凛々しい写真が残されている。時代劇で役者が演じる慶喜は、長身で男前と相場が決まっているが、実際は150㎝そこそこの小男であった。といっても幕末における慶喜の存在を損なうものではないが、ドラマとは異なる現実を知っておくことも歴史の実像を正確にイメージするには必要なことかもしれない。

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