史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

馬来田

2009年04月26日 | 千葉県
(真如寺)


真如寺

 久留里線馬来田駅から真如寺まで、約一時間(往復二時間)のハイキングである。駅には駅周辺のハイキングコースを案内したパンフレットが置かれており、それを片手に真如寺を目指した。ハイキングコースは途中から里山に入っていく。カエルの大合唱を聴くのは久し振りのことであった。
 慶応四年(1868)の戊辰戦争は、この鄙びた田舎にまで及んでいた。旧幕軍撤兵隊はここに本営を置いたのである。ただし、撤兵隊は戦闘に至る前に敗走したため、官軍がここに来たときには既に姿がなかった。にもかかわらず、官軍は真如寺に火をかけ、伽藍を全て焼き尽くしてしまった。以後百余年、仮本堂のままであった。本堂が再建されたのは、平成三年(1991)のことである。


真如寺にて

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久留里

2009年04月26日 | 千葉県
(久留里城)


久留里城天守閣

 木更津から久留里線に乗り換えて三十分ほど揺られると久留里の駅に行き着く。久留里線は、ディーゼル車両が単線を走る典型的なローカル線である。車窓にはずっと田園風景が続く。
 久留里城へは、約2㎞の道のりである。次の下り電車が来るまでの五十三分の間に天守閣まで往復するのはかなり厳しかったが、半ば駆けるようにして頂上を目指した。
 三の丸跡は駐車場となっており、自動車で久留里城を訪れた人もここからは徒歩である。ここから天守閣まで高度差がまだ百m近くある。
 久留里城は、築城直後に三日に一度雨が降ったことから「雨城」の異名を持つが、この日は雲一つない快晴であった。天守閣に到着したときは息が上がり、汗が噴き出した。
 久留里城は戦国期に里見氏が築城したことがその起源であるが、その後江戸時代には、大須賀、土屋、黒田の各大名に引き継がれた。黒田氏が廃城となっていた久留里城に入城したのは寛保二年(1742)のことで、以来明治維新まで九代に渡って黒田氏の居城となった。
 幕末の藩主は、黒田直養。黒田氏は小藩であったが譜代の名門であった。しかし早々に勤王に決し新政府への恭順を表明していた。ところが、慶応四年(1868)四月、旧幕軍(撤兵隊)が領地に近づき威嚇を受けると、藩内は動揺した。幸いにして撤兵隊内部の乱れによって事なきを得た。

 土屋氏が城主だった時代、のちに幕政改革に手腕を発揮した新井白石、その父新井正済が仕えている。そのことを記念して、二ノ丸跡に建てられた久留里城址資料館の前に新井白石の像が建てられている。


新井白石像


天守閣より

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