史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

墨田 Ⅱ

2010年08月07日 | 東京都
(岐雲園跡)
 前回、墨田区を歩いたときは、ついに岐雲園跡を発見することはできなかった。今回、改めて探してみると、拍子抜けするほど簡単に行き着くことができた。墨田区教育委員会が建てた説明板は、スーパーの前にあった。
 岐雲園は、大老井伊直弼と対立して罷免された岩瀬忠震が隠退生活を送った別荘である。岩瀬は、隅田川に翔ぶ都鳥に因んで「鴎所」と号し、再び世に出ることなく、文久元年(1861)四十四年の生涯をこの地で閉じた。岩瀬の盟友永井尚志もやはり晩年もこの地で過ごした。


岐雲園跡

(三囲神社)


三囲神社

 三囲(みめぐり)神社は、京都の豪商三井家の尊崇が厚く、三井家が江戸に進出すると三越の本支店に分祀した。
 境内には数えきれないほどの石碑が林立し、うちいくつかは維新関係者の筆によるものでる。


表功碑

 ドイツ・プロイセンの警察大尉ヘーンの功績を賞した記念碑である。山県有朋の篆額。
 ヘーンは、明治十八年(1885)からの五年間、明治政府の招聘により来日し、全国を回って警察制度に対する助言や警察官の訓練、教育に尽くした人である。


一菴小林先生之碑

 一菴小林先生之碑は、榎本武揚の筆。


永田甚七君記念碑

 永田甚七記念碑は、渋沢栄一による扁額。永田甚七は、番頭として幕末三井組を支えた人物で、のちに渋沢栄一の設立した第一国立銀行の幹部となった。

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錦糸町 Ⅱ

2010年08月07日 | 東京都
(勝海舟揺籃之地)


勝海舟揺籃之地碑

 緑町四丁目の交差点を南に入った場所に、勝海舟揺籃之地と書かれた木柱が建てられている。揺籃とはゆりかごの漢語表現で、転じて幼少期のことを指す。海舟がこの地に住んだのは九歳のときである。

(霊山寺)
 この辺りまで来ると、建設中の東京スカイツリーを間近に見ることができる。霊山寺は、芳賀宜道が結成した靖兵隊が一時駐屯した寺である。甲州勝沼の戦闘後、新選組と決別した永倉新八、原田左之助らは、永倉と同じ松前藩脱藩で神道無念流同門の芳賀宜道を隊長として靖兵隊(靖共隊とも)を結成した。靖兵隊は鹿沼で旧幕軍と合流し、その後も各地を転戦した。


霊山寺

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日立

2010年08月07日 | 茨城県
(助川城跡公園)
 徳川斉昭が天保七年(1836)、海防を強化する目的で、助川の高台に城郭を築き、家老山野辺義観(よしみ)を海防総司に任命した。我が国でもほかに例のない、海防を目的とした城郭である。太平洋を見下ろす高台が本丸で、ここには異国船を見張る櫓があったという。現在、本丸跡には田中光顕の歌碑が建てられている。元治元年(1864)の天狗党の騒乱で、この城も戦場となり全焼してしまった。


史跡 助川海防城跡


助川海防城跡

 本丸を一段下がったところに「尊王攘夷碑」が建てられている。篆額は徳富蘇峰。


尊王攘夷碑


養正館跡

 養正館は、山野辺義観が天保八年(1837)に開設した子弟教育のための施設である。水戸の藩校弘道館に先立つこと四年前のことである。教育方針は文武一致であったが、時代の急迫とともに武術の修練に重点が置かれるようになった。


鳩石

 鳩石は、助川城主山野辺義観が、かわいがっていた鳩の死を悼んで、庭石に鳩の姿を自ら彫り刻んだものと伝えられる。
 山野辺義観は、通称山野辺兵庫。文政十二年(1829)、水戸藩主の継嗣問題が起こると、先頭に立って斉昭擁立に奔走し、その功により斉昭の信頼が厚かった。天保三年(1832)に海防掛に抜擢され、同年家老職に就いた。天保七年(1836)には助川、宮田、倉瀬、成沢、諏訪の五ヶ村を知行所として賜った。弘化年間、斉昭が失脚すると、義観も差控えに処されたが、嘉永六年(1853)のペリー来航直後、再び海防心得方を命じられた。安政六年(1859)五十九歳で没。
 義観の死後、山野辺家は義芸(主水)へ引き継がれた。元治元年(1864)天狗党の騒乱では、義芸は藩主目代松平頼徳の水戸入城を助けるために出兵したが、城兵の抵抗にあって空しく撤退し、更に諸生党に攻められて陣屋を脱し、二本松藩陣営に遁走した。その結果、幕命により家名断絶という思い処分を受けた。明治元年(1868)尊攘派が藩政に復帰すると、市川三左衛門勢の追討に加わった。明治十九年(1886)五十五歳にて死去。


日立市

 日立周辺には、助川海防城以外にも山野辺家の墓地や幕末に水戸藩が構築した海防陣跡などが点在している。非常に興味深い土地であるが、あまりの暑さにこの日はこれで退散することとした。日を改めて歩いてみたい。

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水戸 城西 Ⅲ

2010年08月07日 | 茨城県
(祇園寺)
 桜田烈士の一人、森山繁之介の墓を訪ねて再び祇園寺に足を運んだ。この日、出張で東海村に宿泊していた私は、早朝五時に起きて水戸まで往復することにした。結果からいうと、一時間、祇園寺の墓地を歩き回って森山の墓は見いだせなかった。
 この日、午前中、茨城県庁でのアポのあと、午後の仕事まで時間があったので、三度祇園寺をアタックした。今度は住職に墓の場所を訊くことにした。住職はCADで描いたと思しき立派な地図を取り出し、丁寧に森山の墓の場所を教えてくれた。茨城高校の体育館の前、墓地の端っこに近い森山家の墓域に繁之介の墓はある。


森山繁之介政徳墓

 森山繁之介は、桜田門外で大老を襲撃し重傷を負った。そのまま熊本藩邸に自訴した。文久元年(1863)死罪に処された。二十六歳。

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虎ノ門 Ⅱ

2010年08月07日 | 東京都
(乃木将軍由縁地)


乃木将軍由縁地

 虎ノ門二丁目の交差点付近、セブンイレブンの前に乃木将軍由縁地の石碑が建っている。乃木希典は、西南戦争終戦直後の明治十一年(1878)、第一連隊長に任じられてほどなく、この地に住宅を購入し、静子夫人と新居を構えた。翌明治十二年(1879)八月、長男勝典誕生とともに転居するまでの一年足らずをこの地で過ごした。

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六本木 Ⅱ

2010年08月07日 | 東京都
(さくら坂公園)


乃木大将生誕之地碑

 六本木ヒルズの南側、さくら坂公園の片隅に乃木大将誕生之地碑が建っている。建立は昭和七年(1932)。

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板橋 Ⅱ

2010年08月07日 | 東京都
(板橋宿中宿脇本陣)
 板橋宿は、中山道最初の宿場町で平尾宿、中宿、上宿から成る、全長十五町四十五間(約1.7㎞)におよび大きな宿場町であった。天保十四年(1843)には人口2,443人、家数573軒を数え、旅籠屋、料理屋、駕籠屋などが軒を連ねた。飯田家は、江戸期を通じて、板橋宿の中心である中宿の管理運営に当たる名主を務めた。文久元年(1861)の和宮下向に際しては本陣役を務め、慶応四年(1868)岩倉具定が東山道軍を率いて江戸に入ったときも本営となった。明治に入って明治天皇行幸のときも本陣となった。


板橋宿中宿脇本陣 名主飯田総本家

(板橋)


板橋

 板橋という地名の由来となった板橋である。この橋より京都寄りを上宿、日本橋寄りを中宿、平尾宿と呼んだ。江戸時代の板橋は、太鼓状の木製のものであったが、自動車の普及に対応するため、昭和七年(1932)には早くもコンクリート製に架け替えられている。現在の板橋は昭和四十七年(1972)製である。

(縁切榎)


中山道板橋宿 上宿


縁切榎

 上宿に縁切榎と呼ばれる古木があった。和宮下向に際して、この榎を避けるためにわざわざ迂回路を作ったという。
 たかが迷信のために大仰なことをと思うが、当時、東海道を使わずに中山道を選んだのも、途中で(“去った”に通じる)薩埵峠を忌避したためとの説もある。ただ東海道は川の増水による日程の遅延が頻発したのに対し、中山道は日程は長いものの、川越えがないことから当時から女性には良く利用されていたというのが真相のようである。

(東京都老人医療センター)


子爵渋澤栄一像

 明治五年(1872)、東京本郷に養育院が創設された。養育院とは、身寄りのない子供や老人を養う施設である。渋沢栄一は、明治九年(1876)に養育院の事務長(院長)に就任し、以来昭和六年(1931)に逝去するまで、約五十年以上にわたりその任にあった。養育院は大正十二年(1923)に板橋に移転した。渋沢栄一像は、大正十四年(1925)に完成し序幕された。

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