史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

田野畑

2010年08月28日 | 岩手県
(ホテル羅賀荘)


幕府軍艦高雄記念碑

 宮古から更に北上し、田野畑に向かう。ホテル羅賀荘の前に幕府軍軍艦高雄記念碑がある。宮古港に向かう途中、艦隊を組んでいた軍艦高雄は暴風雨により機関に故障を来し、結局、戦闘には参加できなかった。新政府軍の軍艦春日に追われ、この地で座礁した。高雄が座礁したのは記念碑のある対岸のイシ浜付近といわれる。


イシ浜

 写真中央辺りがイシ浜。右端の岬は弁天崎である。


軍艦高雄の碇

 傍らには、高雄から引き上げられた碇などが置いてあるが、海風に晒され完全に錆びている。貴重な歴史的遺産を適正に保存することを望む。

 初日の旅程はここまで。宮古に引き返し、そこから更に盛岡経由でこの日の宿泊先である古川(宮城県大崎市)に向かう。振り返れば、この旅行で晴れていたのは初日だけで、あとは天候には恵まれなかった。盛岡では所謂ゲリラ豪雨に遭遇した。晴れると汗が止まらないほど厳しい猛暑となるが、それでも雨よりはずっと良いと思うのである。

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宮古

2010年08月28日 | 岩手県
(浄土ヶ浜)
 浄土ヶ浜は、天和年間(1681~84)、常安寺住職七世霊鏡竜湖禅師が「さながら極楽浄土の如し」と感嘆して命名したと伝えられる。白い流紋岩と濃紺の海と松の緑、そして鮮やかな空色のコントラストが実に鮮やかである。
 明治二年(1869)三月二十五日、浄土ヶ浜付近で史上有名な宮古港海戦が繰り広げられた。戦闘はわずか三十分程度の呆気ないものであったが、我が国で初めて洋式軍艦による海戦として歴史に刻まれることになった。


浄土ヶ浜


宮古港海戦記念碑

 浄土ヶ浜周辺には、二つの宮古港海戦記念碑が建立されている。一つは御台場展望台の入り口にある。のちの総理大臣鈴木善幸の書。


宮古港海戦解説碑
臼木山山頂

 もう一つは、臼木山山頂にある解説碑である。黒御影石製の解説碑には、土方歳三、東郷平八郎の肖像写真が入っている。
 臼木山山頂には県立水産科学館に車を停めて、水産科学館の脇から登ると近い。恐らく枝の葉が落ちた冬場であれば、解説碑のある山頂から海戦が展開された宮古港を見下ろすことができるのだろうが、夏場は葉が生い茂って見通しが利かない。

 宮古港海戦は、宮古港に停泊中の装甲軍艦甲鉄(ストンウォール号)を襲って捕獲しようという奇想天外な作戦であった。この奇襲作戦を発案したのは誰だったのだろうか。司馬遼太郎先生の「燃えよ剣」では主人公土方歳三が提案したことになっている。吉村昭の『幕府軍艦「回天」始末』では回天艦長甲賀源吾の起案としているが、そちらの方が自然のように思う。
 旧幕軍にとって乾坤一擲、起死回生の奇襲であったが、宮古港に達する前に暴風雨に見舞われ、蟠龍は遭難、高雄も機関に損傷を受け、宮古の新政府艦隊八艦を相手に襲撃に参加したのは回天単艦になってしまった。更に接舷した回天とストンウォール号の舷側には三メートル以上も高さに差があった。しかも回天は外輪船であったために艦をうまく横付けできなかった。その結果、得意の斬り込みも思うように行かず、多くの戦死者を出して戦闘は幕を閉じた。数々の不運が重なり作戦は失敗に終わる。

(大杉神社)


大杉神社


宮古港戦績碑

 大杉神社には、題字東郷平八郎、碑文小笠原長生海軍少将(小笠原長行の長男)による。東郷平八郎は、宮古港海戦時、新政府軍の軍艦春日に乗船していた。

(官軍勇士墓碑)


官軍勇士の墓

 愛宕小学校の裏の道をひたすら上ると、中学校の跡地に行き着く。その正門の横の細い道を進むと、官軍勇士の墓の入り口である。ここから二百メートルほど、鬱蒼とした林の中を歩いて行く。行き当たりが墓地となっており、そこに官軍勇士の墓がある。宮古港海戦で戦死した無名戦士四名の墓である。それにしてもどうしてこのような山の中に葬ったのであろうか。

(常安寺)


常安寺

 夏の史跡訪問は、日が長いのが利点であるが、寺院は墓参りで混雑するのが難点である。常安寺にもたくさんの車と墓参り客で混んでいた。明らかに目的の異なる私は、ちょっと肩身の狭い思いをしながら墓地へと急いだ。常安寺の墓地では、歴代住職の墓の周りで法要が行われており、そこにも紫色の法衣を着たお坊さんほか、多数の方が参集していた。そこを掻き分けて何とか小西周右衛門の墓にたどり着くことができた。小西周右衛門は、宮古港海戦の戦死者ではなく岡山藩の銃卒で、宮古から青森に向かう函館攻撃兵の一員だったが、宮古で病没したものである。


官軍小西周右衛門の墓

(藤原観音堂)


藤原観音堂

 藤原観音堂の前に「幕軍無名戦士の墓」が建てられている。宮古港海戦における旧幕軍の戦死者は五十余名と言われているが、そのうちの一人の墓である。戦後、藤原須賀の海岸に一体の首の無い死体が流れついた。土地の人が手厚く葬り、墓を建てて供養したもので、回天士官大塚浪次郎或いは新選組隊士野村利三郎とも言われるが判然としない。小さな墓石には「忠岳義剣居士」と刻まれている。


幕軍無名戦士の墓

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釜石

2010年08月28日 | 岩手県
(釜石駅)


大島高任像と新日鐵釜石工場

 釜石は、言うまでも無く新日鐵釜石の企業城下町である。この地で製鉄業が発展した背景に一人の技術者の存在があった。釜石の駅前に銅像の立つ大島高任がその人である。
 大島高任は、盛岡藩の侍医の子として、文政九年(1826)に盛岡に生まれた。十七歳で江戸や長崎に出て蘭学を修めるとともに、西洋の兵法・砲術、採鉱・冶金術等を体得して、その後、水戸藩の那珂湊に反射炉を築造し、大砲の鋳造にも成功したが、原料が砂鉄だったため強度に問題があった。そこで高任は、高炉築造の場所として、良質の鉄鉱石が大量に埋蔵されている盛岡藩釜石の西方大橋を選び、洋式高炉を築造した。安政四年(1858)、鉄鉱石を原料とした初出銑に成功した。ここから日本の近代製鉄業は大きな発展をしていくとになった。

(鉄の歴史館)
 「鉄の歴史館」では、釜石および製鉄の歴史を紹介している。
 建物の前にはガス燈が置かれている。我が国におけるガス燈は、明治五年(1872)に横浜外人居留地の街灯として使用されたのが始まりと言われているが、その十七年前の安政二年(1856)に大島高任が石炭からコークスを造り出す過程で発生する石炭ガスを灯りに利用したのが起源という。


鉄の歴史館

(栗林観音堂)


三浦命助之碑

 釜石の栗林地区は、嘉永年間に起きた大規模な一揆の指導者である三浦命助の出身地である。
 盛岡藩領では、近世においてもっとも頻繁に百姓一揆が発生した。その数、実に百三十二回に及ぶという。嘉永元年(1848)に藩の圧政に反発した農民が起こした一揆は、藩が要求を飲むことで決着を見たが、その後藩は次々と公約を反故にした上、再び増税、新税の徴発を強行した。嘉永六年(1853)またも盛岡藩が巨額の御用金を課したことに端を発し、三浦命助、畠山太助らを指導者とする一揆が蜂起した。一時、一揆勢は一万六千壬余りに達したという。三浦命助らは仙台、南部両藩を相手に粘り強く交渉を続け、要求項目の大半を認めさせ、同時に一揆の指導者を処分しないことも約束させた。盛岡藩では藩の責任者の更迭を決め、十ニ代藩主利済(としただ)は江戸に謹慎を命じられた。その後、三浦命助は藩の憎しみに耐えかね、藩を抜け出して京都に潜伏した。京都二条家の家臣となって帰国したところを捕えられ、盛岡で投獄された。元治元年(1864)牢死。享年四十六であった。


供養碑
三閉伊一揆に参加して
苦難の生涯を閉じた
当時の栗林村住民の為

 釜石は近代産業遺産の宝庫である。それを訪ねて回るだけでも、一日はかかるだろう。先を急ぐ旅だったので、残念ながら今回はパスしたが、別に時間を設けてゆっくり歩いてみたい町である。

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陸前高田

2010年08月28日 | 岩手県
(今泉天満宮)
 気仙沼から一時間強のドライブで陸前高田の町に行き着く。陸前高田は幕末の剣豪千葉周作の出生地である。実をいうと、千葉周作の生誕地には諸説あり、陸前高田以外にも栗原市花山や大崎市荒谷も周作出生地を主張している。因みに司馬遼太郎先生の小説「北斗の人」では、荒谷説を採っており、花山は父幸右衛門の出身地、陸前高田気仙は母の出身地として三者の顔を立てている。


今泉天満宮

 今泉へは浜街道が通じており、古来より往来の多い土地であった。街道沿いにあった千葉周作(幼名:於兎松)の誕生地には、現在今泉天満宮が建立されている。


千葉周作成政
於兎松生家(天神別家)之跡敷

(千葉周作生誕之地)


幕末の剣豪 千葉周作生誕之地

 千葉周作の生年は寛政六年(1794)。十五歳のとき、父に従い、浅利又七郎について小野派一刀流を学んだ。浅利の師、中西猪太郎について頭角を現した。のちに甲武駿遠参信の諸国を遊行して、名声を挙げるとともに多数の門人を得た。中西の一刀流と父祖千葉常胤の伝える北辰流を合わせて、北辰一刀流を編み出したと言われる。撃剣道具を改良して、新しい剣法を拓いた。のちに江戸神田のお玉ヶ池に玄武館を開設した。隣接した東条一堂の学塾と合わせ、文武の修練に励む者が多く、ここからたくさんの志士を送りだした。天保十年(1839)には水戸藩主斉昭の招きに応じて、水戸藩馬廻役に取り立てられた。安政二年(1855)、六十二歳にて没。

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