1月末に頸椎ヘルニアを発し、首から左上腕にかけて激しい痛みに襲われ、夜も寝られぬ状態に陥った。医者に行っても痛み止めの薬と湿布を処方されるだけで、なかなか良くならない。立って歩くこともできず、本を読むこともできず、ただひたすら痛みと戦う日が続いた。「人生のリモコン」があれば早送りしたいような十日間であった。まだ快癒とはいえないが、ようやくパソコンに向かえるようになった。ブログも再開することとしたい。
「龍馬イヤー」となった平成二十二年(2010)年末になって発刊された龍馬本であるが、龍馬を手放しに礼賛する風潮に真っ向から逆行する内容となっている。やや言葉が過ぎるところがあるものの、昨今の美化され過ぎた龍馬を見飽きた目には、こちらの龍馬像の方が真実に近いのではないかと見える。
著者は、海事補佐人として現実に海上で起きている紛争をいくつも裁いた経験を有するその道のプロである。著者も指摘しているように、現在の法をもって百五十年も前の事件を裁くのは全くのナンセンスであるが、法を持ち出すまでもなく、海の常識をもってしても紀州藩明光丸側には何の非もなく、土佐藩に多額の賠償金を払う理由はないと断言する。にもかかわらず、土佐が勝利した背景には脅迫と巧みな世論操作があった。
著者は司馬先生の名作「竜馬がゆく」に描かれるいろは丸事件についても、一章を割いて、丁寧に、実にねちっこく反証を試みる。項目だけ挙げると、以下十八項目にわたる。①大洲藩は竜馬の勧めで伊呂波丸を購入したとのこと②二隻の西洋船を持っているのは海援隊しかいないであろうということ③伊呂波丸の船名は竜馬が命名したということ④伊呂波丸の売主がボードインであるということ⑤竜馬が船長であったということ⑥坂本ら土州側が日本有数の万国公法に実務的な知識をもっていたということ⑦事故当時は霧中であったということ⑧佐柳が航海長で水戸浪士だということ⑨航海日誌のこと⑩鉄砲、弾薬を数多く積んでいたということ⑪高柳明光丸船長の経歴のこと⑫衝突時、明光丸に当直士官がいなかったとの非難のこと⑬沈没前に在船していた伊呂波丸の乗組員が汽笛を鳴らしたということ⑭伊呂波丸沈没時、讃岐箱崎の岬の上に片鎌の月がのぼっているということ⑮沈没時に伊呂波丸の乗組員が海に飛び込み明光丸に泳いできたということ⑯英国艦長が「残念ながら、紀州藩は有利ではない。」といったということ⑰岡本覚十郎、竜馬襲撃のこと⑱賠償金のこと。著者は一つ一つ証拠を挙げて、「竜馬がゆく」の記述は史実とは異なる、笑止千万な法螺話である、埒もない竜馬伝説だと切り捨てる。
「竜馬がゆく」は、いうまでもなく坂本龍馬をスーパーヒーローとして描いた小説である。龍馬を英雄に仕立て上げるために、司馬遼太郎先生が手管を尽くして書き上げたものである。龍馬の前半生については事実がはっきりしない部分が多いが、司馬先生は架空の人物を登場させ、想像力を駆使して若き龍馬の姿を描き出した。「竜馬がゆく」は司馬先生が作り上げた虚構であり、史実と異なるのは当たり前のことである。改めて検証すれば、史実と異なる部分など(いろは丸事件の下り以外でも)いくつでも指摘はできるだろう。小説とはそういうものである。ただし、「竜馬がゆく」はあまりにも多くの人に読まれた。結果的に、これが日本における龍馬像のスタンダードになってしまったのである。著者はこれが真の姿とは異なるという意味で警鐘を鳴らしたかったに違いない。伊呂波丸は鉄砲、弾薬を積んでいなかったとしか思えないし、それを理由に紀州藩から多額の賠償金を取った龍馬は決して小説や大河ドラマに描かれているような颯爽とした好男子ではない。
ただひと言付け加えれば、史実と異なるからといって、そのことで「竜馬がゆく」の価値を一つも減じるものではないということである。これほど長きにわたって日本人を鼓舞し続けた小説はほかに無いだろう。
著者の論調は核心を衝いており、小気味が良い。ただ第三章の末尾(P.50)で、平尾道雄の「海援隊始末」を
――― 「竜馬の妻女鞆子と書いているが、通説によれば妻女の名は「お龍」(おりょう)、旧姓楢崎龍だろうに。
と批判するが、これは著者の勇み足というべきであろう。「海援隊始末」でも「ここで龍馬は、あらためて小松帯刀や西郷隆盛らに彼女を妻女として披露し、名を『鞆』とあらためさせた」と書いてある。龍馬がお龍のことを「鞆」と呼んでいたことは、龍馬通の間では、常識である。この本は世の竜馬ファンの多くを敵に回す内容となっているが、揚げ足を取られぬようご用心を。
「龍馬イヤー」となった平成二十二年(2010)年末になって発刊された龍馬本であるが、龍馬を手放しに礼賛する風潮に真っ向から逆行する内容となっている。やや言葉が過ぎるところがあるものの、昨今の美化され過ぎた龍馬を見飽きた目には、こちらの龍馬像の方が真実に近いのではないかと見える。
著者は、海事補佐人として現実に海上で起きている紛争をいくつも裁いた経験を有するその道のプロである。著者も指摘しているように、現在の法をもって百五十年も前の事件を裁くのは全くのナンセンスであるが、法を持ち出すまでもなく、海の常識をもってしても紀州藩明光丸側には何の非もなく、土佐藩に多額の賠償金を払う理由はないと断言する。にもかかわらず、土佐が勝利した背景には脅迫と巧みな世論操作があった。
著者は司馬先生の名作「竜馬がゆく」に描かれるいろは丸事件についても、一章を割いて、丁寧に、実にねちっこく反証を試みる。項目だけ挙げると、以下十八項目にわたる。①大洲藩は竜馬の勧めで伊呂波丸を購入したとのこと②二隻の西洋船を持っているのは海援隊しかいないであろうということ③伊呂波丸の船名は竜馬が命名したということ④伊呂波丸の売主がボードインであるということ⑤竜馬が船長であったということ⑥坂本ら土州側が日本有数の万国公法に実務的な知識をもっていたということ⑦事故当時は霧中であったということ⑧佐柳が航海長で水戸浪士だということ⑨航海日誌のこと⑩鉄砲、弾薬を数多く積んでいたということ⑪高柳明光丸船長の経歴のこと⑫衝突時、明光丸に当直士官がいなかったとの非難のこと⑬沈没前に在船していた伊呂波丸の乗組員が汽笛を鳴らしたということ⑭伊呂波丸沈没時、讃岐箱崎の岬の上に片鎌の月がのぼっているということ⑮沈没時に伊呂波丸の乗組員が海に飛び込み明光丸に泳いできたということ⑯英国艦長が「残念ながら、紀州藩は有利ではない。」といったということ⑰岡本覚十郎、竜馬襲撃のこと⑱賠償金のこと。著者は一つ一つ証拠を挙げて、「竜馬がゆく」の記述は史実とは異なる、笑止千万な法螺話である、埒もない竜馬伝説だと切り捨てる。
「竜馬がゆく」は、いうまでもなく坂本龍馬をスーパーヒーローとして描いた小説である。龍馬を英雄に仕立て上げるために、司馬遼太郎先生が手管を尽くして書き上げたものである。龍馬の前半生については事実がはっきりしない部分が多いが、司馬先生は架空の人物を登場させ、想像力を駆使して若き龍馬の姿を描き出した。「竜馬がゆく」は司馬先生が作り上げた虚構であり、史実と異なるのは当たり前のことである。改めて検証すれば、史実と異なる部分など(いろは丸事件の下り以外でも)いくつでも指摘はできるだろう。小説とはそういうものである。ただし、「竜馬がゆく」はあまりにも多くの人に読まれた。結果的に、これが日本における龍馬像のスタンダードになってしまったのである。著者はこれが真の姿とは異なるという意味で警鐘を鳴らしたかったに違いない。伊呂波丸は鉄砲、弾薬を積んでいなかったとしか思えないし、それを理由に紀州藩から多額の賠償金を取った龍馬は決して小説や大河ドラマに描かれているような颯爽とした好男子ではない。
ただひと言付け加えれば、史実と異なるからといって、そのことで「竜馬がゆく」の価値を一つも減じるものではないということである。これほど長きにわたって日本人を鼓舞し続けた小説はほかに無いだろう。
著者の論調は核心を衝いており、小気味が良い。ただ第三章の末尾(P.50)で、平尾道雄の「海援隊始末」を
――― 「竜馬の妻女鞆子と書いているが、通説によれば妻女の名は「お龍」(おりょう)、旧姓楢崎龍だろうに。
と批判するが、これは著者の勇み足というべきであろう。「海援隊始末」でも「ここで龍馬は、あらためて小松帯刀や西郷隆盛らに彼女を妻女として披露し、名を『鞆』とあらためさせた」と書いてある。龍馬がお龍のことを「鞆」と呼んでいたことは、龍馬通の間では、常識である。この本は世の竜馬ファンの多くを敵に回す内容となっているが、揚げ足を取られぬようご用心を。