史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

能代

2012年05月12日 | 秋田県
(清徳寺)


清徳寺




戊辰役肥州八勇士墓

秋田の奥羽鎮撫総督府は、肥前佐賀藩の田村乾太左衛門を隊長に、肥前小城藩兵など五百余の援軍を急派した。田村らは秋田藩軍に合流すると、すぐさま盛岡藩軍を撃退した。肥前藩兵は射程距離の長い新式小銃を所有していた。着弾すると爆発するアームストロング砲が炸裂した。銃器で優位に立った征討軍は、八月二十九日に総反撃に移り、九月六日には大館を奪還し、七日には盛岡軍を三哲山に押し戻した。
二ツ井町の清徳寺には、このときの戦闘で戦死した佐賀藩、小城藩の戦死者八名の墓がある。

明治になって東北巡幸の際、明治天皇は随行していた佐賀藩出身の大隈重信に命じて、代拝させた。


明治天皇富根御小休所

(長慶寺)


長慶寺

慶応四年(1868)五月二十七日から約一か月間にわたり、奥羽鎮撫総督府沢為量副総督一行が長慶寺を本陣として滞在した。奥羽越列藩同盟の成立により、居場所を失った沢副総督らは、流浪の末、ようやく能代に行き着いた。当地には、平田国学に共鳴する町民や神主が多く、安住の地を見出したのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北秋田

2012年05月12日 | 秋田県
(薬師山スキー場入口)


薬師森古戦場

国道7号線は、大館から能代へ繋ぐ幹線道路である。北秋田市から能代市に入る直前に薬師山スキー場がある。この場所が戦地となったのは、慶応四年(1868)八月二十七日。押し寄せた盛岡藩軍を官軍・秋田藩軍が撃退した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大館

2012年05月12日 | 秋田県
(山王台日吉神社)


山王台日吉神社

大館市南郊外の山王台日吉神社付近でも激戦となった。兵力に圧倒的な差があり、八月二十二日、大館は盛岡藩軍に征圧された。

(佐竹大和本陣跡)


史跡大館城主佐竹大和本陣跡

大館市内、相染沢中岱の住宅街の中に佐竹大和本陣という石碑が建っている。
佐竹大和義遵は、秋田藩主佐竹氏の一族で、大館城を居城としていた。盛岡藩の大軍を迎え撃つにあたり、佐竹大和は農民や町人からも兵を募った。同時に弘前藩にも応援を求めた。駆けつけた弘前藩小隊長対馬寛左衛門は、大館軍が農民や町民に竹槍を持たせただけという現状に驚き、急いで弘前から鉄砲百丁を取り寄せた。といっても火縄銃ばかりで、とても近代戦に耐えられるものではなかった。


明治戊辰激戦之地

佐竹本陣跡から少し南に行った地点に、明治戊辰激戦之地碑が立っている。八月二十一日から二十二日にかけて、この辺りは激戦地となった。

(桂城公園)


桂城公園

現在、大館城(別名桂城)跡は公園となっている。部分的に堀や土塁が残っているだけで、ほとんどかつてここに城があった形跡は見出せない。敗戦を悟った佐竹大和は城に火を放って逃走した。このとき大館城は全焼した。

(一心院)


一心院

一心院は、もともと佐竹氏の出身地である常陸にあったが、佐竹氏の秋田移封に伴って慶長十六年(1611)この地に移った。一心院の堂宇も、戊辰の戦火で全焼し、現在、見ることができる本堂が再建されたのは、ようやく昭和四十年(1965)のことという。何故か墓地には真田幸村の墓がある。

ここでも十二所の長興寺と同様、「官軍 秋藩」と記された墓石を複数発見することができる。


官軍 秋藩 河野鐡之助墓


官軍 秋藩 柏勝治墓


官軍 秋藩 石塚織之助墓


官軍 秋藩 長井久米松墓


官軍 秋藩 山内形之助墓


官軍 秋藩 山本宮三郎墓


官軍 秋藩 瀬尾直之助墓

(宗福寺)


宗福寺

大館市内の宗福寺は、広い墓地を持つ寺である。ここにも「官軍 秋藩」と記された墓石が散在しているが、そのいずれも青柳姓というのは何かわけがあるのだろうか。


官軍 秋藩 青柳又蔵墓


官軍 秋藩 青柳市之進墓


官軍 秋藩 青柳外記墓


官軍 秋藩 青柳長治墓

(JR早口駅)


JR早口駅

大館から能代に至る道沿いにも、激戦地が点在している。大館市内では岩瀬、外川原、早口でも激戦が交わされた。今回、各所を訪ねて回る時間はなかったが、JR奥羽本線早口駅周辺も激戦地の一つである。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大館 比内

2012年05月12日 | 秋田県
(扇田神明社)


扇田神明社

大館、能代を訪ねたのは、実は今回が三回目である。比内には、かつて関係会社の工場があった。電子部品を製造する小さな工場であったが、建物の前に綺麗な手作りの花壇があって、何だかのどかな印象が残っている。今回、比内(現在は大館市の一部となっている)を訪ねたが、その印象に変わりは無かった。戊辰戦争では、この静かな街が激戦地となった。


戊辰激戦之地

激戦地を示す木柱。朽ちて根っこが折れている。文字も読み取りにくい。是非とも善処していただきたい。


忠魂碑

扇田出身者の戦死者の慰霊碑。山城ミヨの名もある。


明治天皇巡幸紀念碑

最初の戦闘があった十二所から、米代川を下ると、川舟の港として栄えた扇田の街がある。旧比内町市街地である。慶応四年(1868)八月十二日、茂木筑後は夜明け前に盛岡軍を急襲し、扇田を奪い返した。しかし、わずかにその一週間後、盛岡軍の反撃を受け、敗走を余儀なくされた。


官軍 吉田亥三郎秀一墓

扇田神明社に隣接する墓地には、官軍吉田亥三郎の墓がある。八月十二日の戦闘で戦死した秋田藩兵の一人である。

(寿仙寺)


寿仙寺

扇田の寿仙寺には、山城ミヨの墓がある。八月二十日の戦闘で盛岡藩の反撃を受けて、秋田藩軍は敗戦を喫した。茂木筑後の軍で兵糧を運ぶ手伝いをしていた山城ミヨは、銃弾を受けて戦死した。三十五歳。扇田のタバコ屋の娘という。本来、夫山城八右衛門が従軍すべきところ、病身の夫に代って男装をして参加した。
戊辰戦争では数少ない女性の戦死者である。翌明治二年(1869)には日本で初めて女性として靖国神社に合祀されることになった。


山城美与墓


烈婦山城みよ女之像

寿仙寺境内には、山城ミヨの銅像台座が残されている。恐らく銅像は、戦時中の金属供出で失われたのであろう。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大館 十二所

2012年05月12日 | 秋田県
(三哲山)


三哲山

慶応四年(1868)八月六日、秋田南方の本荘が落城し、亀田藩が降伏したという報が秋田の奥羽鎮撫総督府に届いた。追い打ちをかけるように、その直後の同月九日には盛岡軍千六百という大軍が大館に進入したという報告が入った。
大館での最初の戦場は、十二所という小さな城下町である。十二所は秋田藩の重臣茂木筑後の「預かり領」であった。その東にある標高三百九十四mの三哲山が攻防の焦点となった。茂木筑後は三哲山に陣を敷いて盛岡軍を迎え撃った。わずか三百の兵では衆寡敵せず、扇田まで撤退することになった。

(成章書院址)


成章書院趾

十二所の公民館の前に成章書院趾石碑が建っている。旧成章小学校の跡地である。
成章書院は、寛政五年(1793)に秋田藩の命により開校された郷校の一つである。成章書院には、藩校明徳館より督学が定期的に派遣され人事や学習指導などを行った。成章書院の学業成績はほかに比べても高く、風紀も厳正で生徒は勉学に熱心だったといわれる。
郷校成章書院の名称を継いだ成章小学校は、場所を移転して、今も健在である。


成章小学校

(長興寺)


長興寺

秋田県下を旅して実感したのは、官軍として戦った秋田藩の戦死者が多いことである。大館十二所でも激戦が交わされ、双方に多くの犠牲者が出た。長興寺墓地にもたくさんの秋田藩戦死者が眠る。いずれも墓石に「官軍 秋藩」と刻まれている。


官軍 秋藩 忍菊吉墓


官軍 秋藩 月居才助墓


官軍 秋藩 菊地順之助墓


官軍 秋藩 武田富蔵墓


官軍 秋藩 奈良善吉墓


官軍 秋藩 成田又右衛門墓


官軍 秋藩 羽澤半蔵墓

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鹿角 十和田

2012年05月12日 | 秋田県
(先人記念館)
東北道を青森に向かって走ると、一瞬、秋田県を通過する。そこが鹿角である。鹿角は、もともと盛岡藩領であったが、明治四年(1871)の廃藩置県の際、それまで岩手県であった鹿角地方が秋田県に編入された。戊辰戦争の敗戦国から戦勝国へ領地を移す措置だと言われたが、実は正式に文書でその主旨が明確にされたものはない。
今も鹿角は、秋田県にあって風土が異なるという。もとより秋田の風土というものを認識していない私には、その違いというものの理解のしようもない。
司馬遼太郎先生が「街道をゆく」で秋田を旅したとき、鹿角を訪ねている。司馬先生にとって、鹿角を代表する人物といえば、内藤湖南だという。内藤湖南は、明治から昭和初期に活躍したジャーリスト、東洋史学者である(名探偵ではない)。父は、盛岡藩の儒者内藤十湾。大阪朝日新聞記者から京大講師に転じ、中国史や日本文化史にも独自の見識を示した。


鹿角市先人記念館

鹿角市先人顕彰館では、内藤湖南のほか、和井内貞行ら郷土出身の先覚者を紹介している。和井内貞行は、魚の棲まない十和田湖でヒメマスの養殖に成功したという人物である。
私が先人記念館を訪ねたとき、例によって開館時間のずっと前だったため、展示を見ることはできなかった。


内藤湖南先生誕生地碑

(仁叟寺)


仁叟寺


戊辰戦没之碑

先人顕彰館に近い仁叟寺境内には、戊辰戦争で戦死した盛岡藩士の霊を弔うために「戊辰戦没之碑」が建立された。当初、戦死者十六名がこの寺に葬られたが、墓石が風化したため昭和三十六年(1961)に合葬したものである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鹿角 花輪

2012年05月12日 | 秋田県
(恩徳寺)


恩徳寺

鹿角花輪の恩徳寺と、隣接する長年寺には、戊辰戦争で戦死した盛岡(南部)藩士四十三名が葬られている。内訳はそれぞれ恩徳寺には十六名、長年寺には二十七名となっている。いずれも墓石は自然石を使ったものである。
奥羽越列藩同盟に離反した秋田藩の非を質すという名目で、慶応四年(1868)八月九日、盛岡藩は藩境を越えて攻め入った。緒戦で花輪、扇田を抜いた盛岡藩は、大館城を落とし破竹の勢いで久保田城に迫った。このとき近代兵器で武装した佐賀藩の支援を受けた秋田藩の反攻にあい、領境まで退却し対峙することになった。
四十三名の戦死者は、花輪での戦闘の犠牲者である。


戊辰之役戦死者之墓

(長年寺)


長年寺


戊辰之役戦死者之墓


戊辰役追悼紀念碑

(圓徳寺)


専正寺

ちょうど圓徳寺本堂は修理中で写真撮影ができなかった。花輪大堰には圓徳寺のほか、専正寺、長福寺という三つの寺が軒を連ねる。圓徳寺の代わりに専正寺の山門の写真を掲載しておく。専正寺山門は、花輪代官所の正門を移築したものである。

花輪の圓徳寺には、やはり盛岡藩の戦死者、村山廉治の墓がある。


村山廉治墓

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鹿角 尾去沢

2012年05月12日 | 秋田県
今年のゴールデン・ウィークの訪問先は、秋田県であった。これから当面、秋田それから山形の史跡が続くが御辛抱いただきたい。

秋田県と聞いて連想するのは、「秋田美人」「秋田犬」「きりたんぽ」くらいのもので、一般的には幕末の史跡旅行のターゲットになるとはあまり思えないかもしれない。実は県域全体にわたって戊辰戦争の戦場となっている。
秋田(すなわち当時の久保田藩)が、奥羽越列藩同盟軍から攻撃されるに及んだのは、一つの陰惨な事件がきっかけとなっている。
慶應四年(1868)七月四日、同盟軍として出兵を促す仙台藩の使者十一人を、秋田藩は惨殺してしまったのである。総督府下参謀の大山格之助(薩摩藩)がそそのかしたためともいわれるが、あまりに陰湿な行為である。
これに激怒した同盟軍は、南北から秋田に攻め込んだ。秋田藩は弱兵であった。最終的には、新政府軍からの支援を受けて辛うじて勝利を収めたが、多くの犠牲を払うことになった。戊辰戦争における秋田藩の戦死者の数は三百名を越える。これは新政府軍の主力として全国を転戦した薩摩、長州に継ぐ犠牲である。非戦闘員の数を加えると、犠牲者の数はもっと増えるだろう。
秋田における史跡訪問の旅は、ほとんどが無名の戦死者の掃苔となる。

仕事を定時で切り上げ、速攻で帰宅。夕食をかき込んで、風呂を済ませて、自宅を出発したのは午後八時四十分であった。順調にいけば、秋田まで六時間程度と見込んでいたが、途中何度も休憩を取りながら、しかも岩手に入ったところで力尽きてサービス・エリアで仮眠をとったりしたので、一気に秋田までドライブする計画は頓挫した。仮眠から目が覚めたらもう外は明るかった。

(マインランド尾去沢鉱山)
最初の目的地は、マインランド尾去沢である。
尾去沢鉱山は伝説によれば、和銅年間(708~)には既に操業していたというが、いずれにせよ古い歴史を持つ鉱山である。江戸時代には、別子銅山、阿仁鉱山(秋田)と並んで三大銅山と呼ばれた。明治の初め、俄かにこの鉱山が世の注目を集めることになった。明治五年(1872)、当時鉱山経営を請け負っていた盛岡の商人、村井茂兵衛から明治政府が没収し、政商岡田平蔵に払い下げるという不可解な事件が起きた。これが明るみに出て、時の大蔵大臣井上馨が刑事責任を問われ、明治新政府を揺るがす大疑獄事件となった。


尾去沢鉱山 石切澤通洞坑

その後、尾去沢鉱山の経営は三菱に引き継がれたが、昭和五十三年(1978)にその長い歴史を閉じた。
跡地は現在テーマパークとして営業している。選鉱場跡や製錬所事務所跡などの遺跡も残されている。


選鉱場跡

(長泉寺)


長泉寺


荒木田政次郎墓

尾去沢の長泉寺には、扇田(現・大館市)の戦闘で戦死した盛岡藩士荒木田政次郎の墓がある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする