(平田篤胤の墓)
平田篤胤の墓
平田篤胤の遺言に従って、衣冠束帯の姿でこの地に葬られた。師である本居宣長のいた伊勢の方角に向けられているという。
平田篤胤の著述は、「古史伝」「霊能真柱」など百部千巻を超えるといわれ、荷田春満(あずままろ)、賀茂真淵、本居宣長とともに国学の四大人と称される。平田篤胤は、儒教や仏教の渡来以前の、天皇が国を治めていた古代日本に理想社会を求め、王政復古の思想的根拠になった。同時に、人はそれぞれ職業を通じて政治に関わることができると説いたため、身分制に不満を持つ農民、町人に歓迎された。
(天徳寺)
天徳寺
天徳寺総門は焼失を逃れて、慶長年間以来のもっとも古い建造物である。上掲の山門は寛永年間の建造。
戊辰戦争では、天徳寺は臨時の野戦病院となった。
佐竹氏菩提所
天徳寺は秋田藩主佐竹氏の菩提寺で、慶長の国替えのとき常陸から移されたものである。歴代藩主と夫人の御廟所が並んでいるが、施錠されており近くで見ることはできない。なお、最後の久保田藩主佐竹義尭は、明治後東京で亡くなっており、墓所は東京浅草総泉寺にあり(現在、板橋小豆沢に移転)、天徳寺には第十一代藩主佐竹義睦までの墓がある。
(護国神社)
護国神社
秋田市には、久保田城と秋田城の二つの城が存在していた。佐竹氏の居城が久保田城であり、佐竹氏が秋田に入部する以前は、高清水丘陵の秋田城が政治の中心であった。秋田城の歴史は、天平時代まで遡る。
明治二年(1869)、この地に佐竹義尭が戊辰戦争に殉じた戦没者四百二十五柱を祀った招魂社を創建した。招魂社は明治三十二年(1899)に一時千秋公園に移転したが、昭和十五年(1940)に秋田城址に戻った。
高清水公園 秋田招魂社址
秋田城政庁跡
秋田城址からは多くの遺跡が発掘されており、現在も発掘調査は続けられている。再現された政庁は、一見の価値がある。
(西來院)
西來院
仙台藩殉難碑
慶応四年(1868)七月四日、秋田藩に同盟軍としての出兵を促すために、仙台藩からの使者志茂又左衛門ら十一名が市内の旅宿に宿泊していた。夜になって、秋田藩士二十二人が彼らを襲って斬殺、旭川にかかる五丁目橋のたもとに首を晒した。いくらこの時代であっても、武装していない使者を殺すというのは道に反する行為であり、秋田藩の幕末史に汚点を残すことになった。
明治二十一年(1888)になって、西来院に仙台藩殉難碑が建立された。
(全良寺)
全良寺
秋田市八橋本町に所在する全良寺には、官修墓地がある。寺院本堂は建て替えられて、まるで教会のような建物である。
全良寺の官修墓地には、秋田藩と薩摩、肥前、筑前、新庄など、計十六藩の新政府軍側の戦死者を葬っている。全良寺十一世、大内海山和尚が発願して、石工辻源之助が協力し、両者多額の私財を投じて明治二十八年(1895)に完成したものである。その後、明治政府が官修墓地に指定した。当初は五百二十三基(六百六十五霊)を建立したが、のちに遺族が故郷に改葬したこともあり、現在は三百二十三基(三百九十五霊)がここに眠る。
官修墓地 秋田藩士の墓
薩摩藩戦死者墓
薩摩藩の戦死者は、合葬墓となっている。
この四角錐型の墓は、全国十カ所に建立されている。いずれも激戦地であり、秋田が選ばれたのも自然のように思われる。
参考情報として、ほかの建立地を挙げておく。これで八つ目をゲットしたことになる。完全制覇までマジック2。
①京都 林光院 ②東京 大円寺 ③上越高田 金谷山 ④新潟 護国神社 ⑤宇都宮 報恩寺 ⑥白河 白河城 ⑦会津若松 東明寺 ⑧山形 国分寺薬師堂 ⑨函館 護国神社
長州藩合葬墓
長州藩の戦死者も合葬墓となっている。筆頭に世良修蔵の名前を見ることができる。
肥前藩の戦死者
弘前藩の戦死者

平田篤胤の墓
平田篤胤の遺言に従って、衣冠束帯の姿でこの地に葬られた。師である本居宣長のいた伊勢の方角に向けられているという。
平田篤胤の著述は、「古史伝」「霊能真柱」など百部千巻を超えるといわれ、荷田春満(あずままろ)、賀茂真淵、本居宣長とともに国学の四大人と称される。平田篤胤は、儒教や仏教の渡来以前の、天皇が国を治めていた古代日本に理想社会を求め、王政復古の思想的根拠になった。同時に、人はそれぞれ職業を通じて政治に関わることができると説いたため、身分制に不満を持つ農民、町人に歓迎された。
(天徳寺)

天徳寺
天徳寺総門は焼失を逃れて、慶長年間以来のもっとも古い建造物である。上掲の山門は寛永年間の建造。
戊辰戦争では、天徳寺は臨時の野戦病院となった。

佐竹氏菩提所
天徳寺は秋田藩主佐竹氏の菩提寺で、慶長の国替えのとき常陸から移されたものである。歴代藩主と夫人の御廟所が並んでいるが、施錠されており近くで見ることはできない。なお、最後の久保田藩主佐竹義尭は、明治後東京で亡くなっており、墓所は東京浅草総泉寺にあり(現在、板橋小豆沢に移転)、天徳寺には第十一代藩主佐竹義睦までの墓がある。
(護国神社)

護国神社
秋田市には、久保田城と秋田城の二つの城が存在していた。佐竹氏の居城が久保田城であり、佐竹氏が秋田に入部する以前は、高清水丘陵の秋田城が政治の中心であった。秋田城の歴史は、天平時代まで遡る。
明治二年(1869)、この地に佐竹義尭が戊辰戦争に殉じた戦没者四百二十五柱を祀った招魂社を創建した。招魂社は明治三十二年(1899)に一時千秋公園に移転したが、昭和十五年(1940)に秋田城址に戻った。

高清水公園 秋田招魂社址

秋田城政庁跡
秋田城址からは多くの遺跡が発掘されており、現在も発掘調査は続けられている。再現された政庁は、一見の価値がある。
(西來院)

西來院

仙台藩殉難碑
慶応四年(1868)七月四日、秋田藩に同盟軍としての出兵を促すために、仙台藩からの使者志茂又左衛門ら十一名が市内の旅宿に宿泊していた。夜になって、秋田藩士二十二人が彼らを襲って斬殺、旭川にかかる五丁目橋のたもとに首を晒した。いくらこの時代であっても、武装していない使者を殺すというのは道に反する行為であり、秋田藩の幕末史に汚点を残すことになった。
明治二十一年(1888)になって、西来院に仙台藩殉難碑が建立された。
(全良寺)

全良寺
秋田市八橋本町に所在する全良寺には、官修墓地がある。寺院本堂は建て替えられて、まるで教会のような建物である。
全良寺の官修墓地には、秋田藩と薩摩、肥前、筑前、新庄など、計十六藩の新政府軍側の戦死者を葬っている。全良寺十一世、大内海山和尚が発願して、石工辻源之助が協力し、両者多額の私財を投じて明治二十八年(1895)に完成したものである。その後、明治政府が官修墓地に指定した。当初は五百二十三基(六百六十五霊)を建立したが、のちに遺族が故郷に改葬したこともあり、現在は三百二十三基(三百九十五霊)がここに眠る。

官修墓地 秋田藩士の墓

薩摩藩戦死者墓
薩摩藩の戦死者は、合葬墓となっている。
この四角錐型の墓は、全国十カ所に建立されている。いずれも激戦地であり、秋田が選ばれたのも自然のように思われる。
参考情報として、ほかの建立地を挙げておく。これで八つ目をゲットしたことになる。完全制覇までマジック2。
①京都 林光院 ②東京 大円寺 ③上越高田 金谷山 ④新潟 護国神社 ⑤宇都宮 報恩寺 ⑥白河 白河城 ⑦会津若松 東明寺 ⑧山形 国分寺薬師堂 ⑨函館 護国神社

長州藩合葬墓
長州藩の戦死者も合葬墓となっている。筆頭に世良修蔵の名前を見ることができる。

肥前藩の戦死者

弘前藩の戦死者