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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

愛西

2014年03月03日 | 愛知県
(西音寺)


名鉄丸渕駅

 この日の最後の訪問地は、愛西(あいさい)市の西音寺である。ここに青松葉事件で斬首された横井時足の墓がある。
 西音寺の最寄駅は、名鉄尾西線丸渕駅である。休日であっても一時間に四本ほど走っているので、丸渕駅までは比較的簡単に到達できる。問題は、丸渕駅から西音寺へのアクセスである。直線距離で約三㎞。路線バスか、せめて貸自転車でもあれば…と微かな期待を抱いて駅を降り立ったものの、そのような気の利いたものは全くない。目的地までひたすら歩いて往復することになった。


西音寺

 西音寺まで来ると、木曽川は近い。東海大橋を越えれば岐阜県海津市である。
 西音寺は藤ケ瀬横井家の菩提寺であり、歴代の墓が並べられている。その中に、青松葉事件で斬首された横井時足の墓がある。この数カ月、青松葉事件で処刑された尾張藩士十四名の墓を追ってきたが、結論としては現存しているのは八名のみである。残念ながら残る六名の墓は、行方が知れない。


春月院殿即入大覚大禅定門(横井時足墓)

 丸渕駅から西音寺に向かう途中、リュックサックが開き、中に入れていたカメラやら地図やらが、全部飛び出てしまった。その衝撃でズーム・レンズが真っ二つに折れてしまった。買い換えたばかりのカメラ本体には影響はなかったものの、レンズを一本台無しにしてしまい、半泣き状態であった。

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蟹江

2014年03月03日 | 愛知県
(寺西家墓所)


佐野七五三之助源重之神霊

 新選組の佐野七五三之助の墓が発見されたという。新選組隊士の墓など調べつくされているものと思っていたが、まだ「新発見」があったとは驚きである。
 佐野七五三之助は、本姓寺西蔵之丞といい、実家は須成天王社の神職を務める家である。のちに母方の姓である佐野を名乗った。
 十八歳から二十歳頃に故郷を出て、江戸に上り、北辰一刀流の剣術を学んだ。攘夷を志して、開港地横浜に潜居し、神奈川奉行や運上所の警備などをしていた。結局、攘夷実行の機会を得られないまま、元治元年(1864)、三十一歳のとき、伊東甲子太郎らとともに新選組に加入し、京都に赴いた。慶応三年(1867)六月、新選組が幕臣に取り立てられたことに反発して離脱を企てたが、仲間三人とともに会津藩京都守護職邸で斬殺された。三十四歳であった。当初、光縁寺に葬られたが、慶応四年(1868)二月、伊東甲子太郎らとともに戒光寺に改葬された。故郷須成村に佐野七五三之助の死が伝えられたのは、明治二年(1869)のことであった。一報を受けて関係者の手により、寺西家墓所に墓碑が建立された。当地には、佐野七五三之助の両親、祖父、弟とその妻の墓が集められている。


寺西家墓所

(佐野七五三之助生家付近)
 付近には「寺西」という表札を掲げた家が妙に多い。龍照院の裏手辺りが佐野七五三之助の生家跡と推定されている。何も残っていないが、一応写真を撮っておいた。


佐野七五三之助生家付近

(八釼神社)


八釼神社

 佐野七五三之助の実家が神職を務めたという神社がどれなのか不明であるが(須成地区には少なくとも四つから五つの神社が確認できる)、墓所から一番近い八釼神社を紹介しておく。八釼神社とその隣に位置している冨吉建速神社は、ともに室町時代後期に建築されたという古い社殿を有している。


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