史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

阿倍野 Ⅱ

2014年03月01日 | 大阪府
(阿倍野墓地)
 久しぶりに阿倍野墓地を歩いた。広い墓地なので、当てもなく歩いたのでは非効率である。阿倍野図書館で下調べをしてから…ともくろんでいたが、年末は休館であった。仕方なく「当てもなく」歩き回ることになった。


正七位粟谷品三良定墓

 粟谷品三は、文政十二年(1829)阿波の生まれ。文久二年(1862)大阪に出て勤王派と交わり、銃火薬を扱う商いを始めた。西南戦争でも小銃を献納し、表彰を受けた。明治二十八年(1895)六十五歳で亡くなった。


従五位山邉丈夫之墓

 山邊丈夫は、嘉永四年(1851)津和野の生まれ。明治三年(1870)上京して、いずれも同郷の先学、福羽美静の国文学塾と西周の育英舎に学んだ。さらに横浜に移って英語を学び、明治十年(1877)には渡英して、経済学、機械工学を修め、特に紡績業を研究した。明治十五年(1882)、渋沢栄一らと大阪紡績会社を創立、のちに三重紡績会社を合併して東洋紡績会社を創った。紡績業のほか、大阪病傷保険、豊田機械、大連土地家屋などの会社にも関係した。大正十年(1921)、七十一歳で死去。


従二位勲一等高崎親章之墓

 六区の警察墓地の前に高崎親章の巨大な墓がある。
 高崎親章は、薩摩藩士高崎親広の子。西南戦争では、警視庁権少警部として中原尚雄らとともに帰県し、私学校生らに捕えられた。父親広は、親章に私学校の状況を告げ、鎮撫に尽くしたので私学校生徒の恨みを買い斬殺されている。西南戦争後、救出され、茨城県、長野県、岡山県、宮城県、京都府、大阪府の知事を歴任した。いわゆる西郷暗殺団「東京獅子」の中では出世頭であろう。
 司馬遼太郎先生は、『翔ぶが如く』の中で
――― 遊説と離間が私学校生徒を挑発し、それが西南戦争の近因となったことはたしかであり、政府がそういうかれらをのちに重く任用したことはかれらの挑発の功をみとめたとみてよい(後略)
 と、解説している。


正五位勲三等土居通夫墓

 同じく六区にある土居通夫の墓である。土居通夫は天保八年(1837)、宇和島に生まれたが、慶応元年(1865)、脱藩して大阪に出た。維新後は官界に入り、大阪鎮台、外国事務局などに務めたのち、司法省に移り、兵庫、大阪裁判所の裁判長などを歴任した。明治十七年(1884)、鴻池家の招請に応じて官を去り、以後実業界で活躍した。大阪電燈会社の社長、日本生命保険会社取締役、京阪電気鉄道社長などを務め、大阪商業会議所の会頭にもなった。大正六年(1917)、八十一歳で死去。


臼田馬造之墓

 臼田馬造は、歯ブラシや靴墨を発明し、海外へも輸出したことで知られる。


日柳三舟君碑

 日柳三舟は、日柳燕石の長男。天保十年(1839)生まれ。大阪の学務課長を務め、浪華文会をつくって教科書を出版した。今日の教科書の原型は三舟に始まるといわれる。明治三十六年(1903)六十五歳にて死去。


外山脩造墓


従六位勲四等外山脩造君碑

 外山脩造は、天保十三年(1842)、長岡藩生まれ。戊辰戦争では河井継之助のそばにあって行動をともにした。このとき継之助から「戦争が終わったら商人になれ」と諭されたという。初代日本銀行大阪支店長や横浜正金銀行取締役のほか、アサヒビールの創立にも関わった。初代阪神電鉄社長に就いたことから「阪神タイガース生みの親」と呼ばれている。タイガース・ファンとしては忘れてはならない人物である。戦前には甲子園球場に外山脩造の銅像があったらしい。


村山龍平墓

 村山龍平は、嘉永三年(1850)紀州藩の支藩伊勢田丸の城下に生まれた。明治十二年(1879)、朝日新聞を創刊。上野理一とともに草創期の朝日新聞の経営に尽くした。今も村山家と上野家は朝日新聞の大株主である。明治二十四年(1891)以後は衆議員議員に当選し、衆議員議員を三期務めたほか、大阪府議会議員、大阪市議会議員、貴族院議員などを歴任した。昭和八年(1933)八十四歳で死去。


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谷町九丁目 Ⅱ

2014年03月01日 | 大阪府
(齢延寺)


齢延寺

 生玉魂神社の南に隣接する齢延寺には、藤沢東畡、南岳父子や土佐の刀工左秀行の墓がある。ついでにいうと、南岳の孫で小説家の藤沢桓夫の墓も同寺にある。


東畡藤澤先生墓

 藤沢東畡は、寛政六年(1794)讃岐国安原村の生まれ。中山城山に就いて徂徠派の古文辞学を修めた。のち高松に出て塾を開き、文政八年に大阪に移った。従学するものが多く、名声は天下に高かった。高松藩主は抜擢して中士となし、使番に任じた。元治元年(1864)には、二条城において将軍家茂に謁を賜った。同年十二月、七十一歳にて死去。


南岳藤澤先生墓

 藤沢南岳は、天保十三年(1842)、東畡の長男に生まれた。慶応元年(1865)、父の職を継いで高松藩の儒者となった。戊辰戦争では高松藩は幕府側についたが、これに反対して尊王論を説いた。南岳は薩摩の大山綱良に陳情し、藩論を翻して新政府軍に味方させることに成功した。廃藩置県後は、官途に就かず、大阪に居住して門人の教育に努めた。大正九年(1920)、七十九で死去。


土州豊永東虎左秀行墓

 左(さの)行秀は、筑前の刀工左文字の流れを汲んでいることから、左と称した。土佐に来て、弘化三年~四年頃、幡多郡入野郷で鍛刀に従事し、安政三年には刀工・鍛冶職として山内家に仕官した。幕末を代表する刀工の一人である。維新後、帰国して東虎と称する。晩年は居所を転々として、失意のうちに大阪で没したといわれる。

(万福寺)


新選組 大阪旅宿跡

 平成二十三年(2011)六月、歴史地理史学者中村武生氏の手により、万福寺の門前に「新選組 大阪旅宿跡」碑が建立された。

(正法寺)


正法寺

 谷町九丁目周辺は、ともかく寺院が多い。大阪市内随一の寺町である。正法寺は、イギリス公使パークスが大阪滞在時に宿泊した寺である。

(法雲寺)


法雲寺

 慶応四年(1868)二月、神戸事件の直後、アーネスト・サトウが宿泊した寺である。サトウが当寺に宿泊中に堺事件が発生している。

(谷町グランドハイツ)
 現在、谷町グランドハイツのある辺りに、幕末当時は本覚寺があったとされる。
 慶応三年(1867)三月、本覚寺にてアーネスト・サトウと薩摩の西郷隆盛が兵庫開港問題で会談している。歴史的舞台となった場所であるが、残念ながら何も残されていない。


本覚寺跡


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上本町 Ⅱ

2014年03月01日 | 大阪府
(大福寺)


池内陶所先生之墓

 大福寺に池内大学とその妻の墓がある。池内大学は、文化十一年(1814)に近江に生まれた。幕末京都の烏丸下長者町に住み、医業の傍ら青蓮院宮、知恩院宮の侍読となり、公家の子弟を教えた。安政年間、外交問題、将軍継嗣問題が起こると、青蓮院宮・三条実万らに入説した。安政五年、水戸藩に降下された密勅事件にも関与し、梁川星厳、梅田雲浜とともに尊皇攘夷論者として知られた。安政の大獄が起こると、伊勢に逃げたが逃れ難きを知り、京都町奉行所に自首し、江戸に檻送された上で糾問された。死罪は免れたが、退蔵と改名して大阪に籠居した。しかし、尊攘派から「裏切者」とにらまれることになった。文久三年(1863)土佐藩山内容堂が上京の途中、大阪に立ち寄った際、酒席に招かれ、その帰途、暗殺された。下手人は岡田以蔵らというが、以蔵以外の下手人は不明である。池内大学の首は、耳が削がれ、その耳は紙箱に入れ油紙に包まれ、一つは正親町三条実愛、もう一つは中山忠能の両大納言の屋敷に投げ込まれた。この事件がきっかけとなり両卿は退任した。


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本町 Ⅱ

2014年03月01日 | 大阪府
(AAホール)


AAホール

 淡路町三丁目のAAホールという施設の前に専穪寺跡を示すステンレス製の説明が掲げられている。うっかりすると見逃してしまいそうなものである。
 文久三年(1863)勝海舟がここに居住しており、坂本龍馬や近藤長次郎らが海軍技術を学んだ場所である。


勝海舟寓居・海軍塾(専穪寺跡)


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天満橋 Ⅳ

2014年03月01日 | 大阪府
(瑞光寺)


瑞光寺


長慶院恩富良儀居士(吉村武兵衛の墓)

 吉村武兵衛は久留米藩の参政で、佐幕派の重鎮であった。慶応四年(1868)四月、大阪瑞光寺で自刃した。墓の側面には辞世が刻まれている。戊辰戦争が終結し、官軍に参加した久留米藩軍が凱旋すると、藩内の佐幕派は次々と切腹に追いやられた。吉村武兵衛を含め、このとき粛清された久留米藩士は十名に及んだ。


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大阪城公園 Ⅱ

2014年03月01日 | 大阪府
(大阪城)


明治天皇駐輦之所碑


城中焼亡埋骨墳

大阪城が新政府軍に引き渡されることを潔しとしない幕臣たちが、城内に火を放ち自害した。薩長両軍の有志は、彼らの挙を武士の鑑と称え、慶応四年(1868)七月、遺骨を埋葬して石碑を建立した。


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