(阿倍野墓地)
久しぶりに阿倍野墓地を歩いた。広い墓地なので、当てもなく歩いたのでは非効率である。阿倍野図書館で下調べをしてから…ともくろんでいたが、年末は休館であった。仕方なく「当てもなく」歩き回ることになった。
正七位粟谷品三良定墓
粟谷品三は、文政十二年(1829)阿波の生まれ。文久二年(1862)大阪に出て勤王派と交わり、銃火薬を扱う商いを始めた。西南戦争でも小銃を献納し、表彰を受けた。明治二十八年(1895)六十五歳で亡くなった。
従五位山邉丈夫之墓
山邊丈夫は、嘉永四年(1851)津和野の生まれ。明治三年(1870)上京して、いずれも同郷の先学、福羽美静の国文学塾と西周の育英舎に学んだ。さらに横浜に移って英語を学び、明治十年(1877)には渡英して、経済学、機械工学を修め、特に紡績業を研究した。明治十五年(1882)、渋沢栄一らと大阪紡績会社を創立、のちに三重紡績会社を合併して東洋紡績会社を創った。紡績業のほか、大阪病傷保険、豊田機械、大連土地家屋などの会社にも関係した。大正十年(1921)、七十一歳で死去。
従二位勲一等高崎親章之墓
六区の警察墓地の前に高崎親章の巨大な墓がある。
高崎親章は、薩摩藩士高崎親広の子。西南戦争では、警視庁権少警部として中原尚雄らとともに帰県し、私学校生らに捕えられた。父親広は、親章に私学校の状況を告げ、鎮撫に尽くしたので私学校生徒の恨みを買い斬殺されている。西南戦争後、救出され、茨城県、長野県、岡山県、宮城県、京都府、大阪府の知事を歴任した。いわゆる西郷暗殺団「東京獅子」の中では出世頭であろう。
司馬遼太郎先生は、『翔ぶが如く』の中で
――― 遊説と離間が私学校生徒を挑発し、それが西南戦争の近因となったことはたしかであり、政府がそういうかれらをのちに重く任用したことはかれらの挑発の功をみとめたとみてよい(後略)
と、解説している。
正五位勲三等土居通夫墓
同じく六区にある土居通夫の墓である。土居通夫は天保八年(1837)、宇和島に生まれたが、慶応元年(1865)、脱藩して大阪に出た。維新後は官界に入り、大阪鎮台、外国事務局などに務めたのち、司法省に移り、兵庫、大阪裁判所の裁判長などを歴任した。明治十七年(1884)、鴻池家の招請に応じて官を去り、以後実業界で活躍した。大阪電燈会社の社長、日本生命保険会社取締役、京阪電気鉄道社長などを務め、大阪商業会議所の会頭にもなった。大正六年(1917)、八十一歳で死去。
臼田馬造之墓
臼田馬造は、歯ブラシや靴墨を発明し、海外へも輸出したことで知られる。
日柳三舟君碑
日柳三舟は、日柳燕石の長男。天保十年(1839)生まれ。大阪の学務課長を務め、浪華文会をつくって教科書を出版した。今日の教科書の原型は三舟に始まるといわれる。明治三十六年(1903)六十五歳にて死去。
外山脩造墓
従六位勲四等外山脩造君碑
外山脩造は、天保十三年(1842)、長岡藩生まれ。戊辰戦争では河井継之助のそばにあって行動をともにした。このとき継之助から「戦争が終わったら商人になれ」と諭されたという。初代日本銀行大阪支店長や横浜正金銀行取締役のほか、アサヒビールの創立にも関わった。初代阪神電鉄社長に就いたことから「阪神タイガース生みの親」と呼ばれている。タイガース・ファンとしては忘れてはならない人物である。戦前には甲子園球場に外山脩造の銅像があったらしい。
村山龍平墓
村山龍平は、嘉永三年(1850)紀州藩の支藩伊勢田丸の城下に生まれた。明治十二年(1879)、朝日新聞を創刊。上野理一とともに草創期の朝日新聞の経営に尽くした。今も村山家と上野家は朝日新聞の大株主である。明治二十四年(1891)以後は衆議員議員に当選し、衆議員議員を三期務めたほか、大阪府議会議員、大阪市議会議員、貴族院議員などを歴任した。昭和八年(1933)八十四歳で死去。
久しぶりに阿倍野墓地を歩いた。広い墓地なので、当てもなく歩いたのでは非効率である。阿倍野図書館で下調べをしてから…ともくろんでいたが、年末は休館であった。仕方なく「当てもなく」歩き回ることになった。
正七位粟谷品三良定墓
粟谷品三は、文政十二年(1829)阿波の生まれ。文久二年(1862)大阪に出て勤王派と交わり、銃火薬を扱う商いを始めた。西南戦争でも小銃を献納し、表彰を受けた。明治二十八年(1895)六十五歳で亡くなった。
従五位山邉丈夫之墓
山邊丈夫は、嘉永四年(1851)津和野の生まれ。明治三年(1870)上京して、いずれも同郷の先学、福羽美静の国文学塾と西周の育英舎に学んだ。さらに横浜に移って英語を学び、明治十年(1877)には渡英して、経済学、機械工学を修め、特に紡績業を研究した。明治十五年(1882)、渋沢栄一らと大阪紡績会社を創立、のちに三重紡績会社を合併して東洋紡績会社を創った。紡績業のほか、大阪病傷保険、豊田機械、大連土地家屋などの会社にも関係した。大正十年(1921)、七十一歳で死去。
従二位勲一等高崎親章之墓
六区の警察墓地の前に高崎親章の巨大な墓がある。
高崎親章は、薩摩藩士高崎親広の子。西南戦争では、警視庁権少警部として中原尚雄らとともに帰県し、私学校生らに捕えられた。父親広は、親章に私学校の状況を告げ、鎮撫に尽くしたので私学校生徒の恨みを買い斬殺されている。西南戦争後、救出され、茨城県、長野県、岡山県、宮城県、京都府、大阪府の知事を歴任した。いわゆる西郷暗殺団「東京獅子」の中では出世頭であろう。
司馬遼太郎先生は、『翔ぶが如く』の中で
――― 遊説と離間が私学校生徒を挑発し、それが西南戦争の近因となったことはたしかであり、政府がそういうかれらをのちに重く任用したことはかれらの挑発の功をみとめたとみてよい(後略)
と、解説している。
正五位勲三等土居通夫墓
同じく六区にある土居通夫の墓である。土居通夫は天保八年(1837)、宇和島に生まれたが、慶応元年(1865)、脱藩して大阪に出た。維新後は官界に入り、大阪鎮台、外国事務局などに務めたのち、司法省に移り、兵庫、大阪裁判所の裁判長などを歴任した。明治十七年(1884)、鴻池家の招請に応じて官を去り、以後実業界で活躍した。大阪電燈会社の社長、日本生命保険会社取締役、京阪電気鉄道社長などを務め、大阪商業会議所の会頭にもなった。大正六年(1917)、八十一歳で死去。
臼田馬造之墓
臼田馬造は、歯ブラシや靴墨を発明し、海外へも輸出したことで知られる。
日柳三舟君碑
日柳三舟は、日柳燕石の長男。天保十年(1839)生まれ。大阪の学務課長を務め、浪華文会をつくって教科書を出版した。今日の教科書の原型は三舟に始まるといわれる。明治三十六年(1903)六十五歳にて死去。
外山脩造墓
従六位勲四等外山脩造君碑
外山脩造は、天保十三年(1842)、長岡藩生まれ。戊辰戦争では河井継之助のそばにあって行動をともにした。このとき継之助から「戦争が終わったら商人になれ」と諭されたという。初代日本銀行大阪支店長や横浜正金銀行取締役のほか、アサヒビールの創立にも関わった。初代阪神電鉄社長に就いたことから「阪神タイガース生みの親」と呼ばれている。タイガース・ファンとしては忘れてはならない人物である。戦前には甲子園球場に外山脩造の銅像があったらしい。
村山龍平墓
村山龍平は、嘉永三年(1850)紀州藩の支藩伊勢田丸の城下に生まれた。明治十二年(1879)、朝日新聞を創刊。上野理一とともに草創期の朝日新聞の経営に尽くした。今も村山家と上野家は朝日新聞の大株主である。明治二十四年(1891)以後は衆議員議員に当選し、衆議員議員を三期務めたほか、大阪府議会議員、大阪市議会議員、貴族院議員などを歴任した。昭和八年(1933)八十四歳で死去。