goo blog サービス終了のお知らせ 

史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

水天宮前

2014年03月16日 | 東京都
(箱崎公園)


松陰先生像

 昭和十二年(1937)末、箱崎尋常小学校の当時六年生であった岩井光子さんが病死した。光子さんは、吉田松陰の生き方に深い感銘を受けており、亡くなる前に自分の貯金で学校に吉田松陰の銅像を建てるよう両親に遺言を残した。両親は生活が苦しい中、この遺言を実現し、昭和十三年(1938)三月、盛大に除幕式が開かれた。当時この話は美談として東京日日新聞に掲載され、時の文部大臣や東京市関係者が列席した。台座の「松陰先生」の文字は、この話に感動した海軍大将高橋三吉の揮毫によるもの。戦前の松陰は、「憂国の忠臣」として神格化されていた。この銅像も時代の空気を今に伝えるものである。平成二十二年(2010)、箱崎公園(日本橋箱崎町18)に移設された。

 このところ、週末ごとに大雪となり、外出できない鬱憤がたまっていた。実は、その一週間前、雪かきで持病のギックリ腰を再発してしまい半日休みをもらって通院したが、ようやく回復してきたところである。晴天につられるようにして水天宮や茗荷谷を歩いた。特に無理をしたという意識はなかったのだが、その夜から腰痛が悪化し、翌日には起き上がれないほどになってしまった。嫁さんからは「無理をして出歩くから」と叱られることになってしまった。当面自粛します。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西大井 Ⅱ

2014年03月16日 | 東京都
(養玉院如来寺)


如来寺

 伊藤小学校の南、住宅街の中に養玉院如来寺がある。五体の大仏を安置する瑞応殿の裏手に墓地が広がる。墓地には高取藩植村家や対馬藩宗家の墓がある。


従四位巌光院殿智達映雲大居士(植村家教墓)

 高取植村家の墓地に十代藩主植村家教の墓がある。植村家教は、文政十一年(1828)家督を継ぎ、嘉永元年(1848)隠居するまで、藩主の座にあった。万延元年(1860)、七十五歳にて死去。
 植村家の墓は、奈良県高取の宗泉寺にもあって、幕末の藩主家保の墓はそちらにある。


宗家墓地

 対馬藩宗家の墓域に、義達の墓がある。


摂政院殿正二位普薫明徹大居士(宗義達墓)

 宗義達(よしあき)は、第十六代対馬藩主。元治元年(1864)の長州征伐の直後、佐幕派の起こしたクーデターにより、それまで藩の実権を握っていた義党(尊攘派)百名が処刑された。慶応元年(1865)には、義党の残党により佐幕派が暗殺されるなど、治世を通じて混乱が続いた。戊辰戦争では新政府軍に軍兵を送った。明治三十五年(1902)、死去。五十六歳であった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黄金町

2014年03月16日 | 神奈川県
(東福寺)


東福寺

 京急黄金町駅から徒歩で六~七分。東福寺は、赤門が印象的な寺である。本堂の裏手の山の斜面にこびりつくように墓地が広がっている。この中に新選組隊士近藤芳助の墓がある。その位置は極めて分かりにくい。墓地に達するには、赤門を通って右と左にそれぞれ入口があるが、近藤芳助の墓を目指すのであれば、左手から入る方が分かりやすいだろう。墓地の高い場所、左手の奥に近いところに近藤芳助は眠っている。


清壽院徹心正澄居士(近藤芳助墓)

 近藤芳助は、江戸深川の幕臣川村家の三男に生まれた。次兄は、同じく新選組に所属した近藤隼雄。幕臣近藤芳三郎の養子となり、近藤芳助と改めた。維新後は旧姓に復して川村三郎と名乗ったため、東福寺の墓石台座には「川村家」と記されている。
 実家が試衛館のそばにあったため、近藤周齋の門人となった。元治元年(1864)の入隊。鳥羽伏見にも参戦したが、銃弾を浴びて重態に陥った。全快はしていなかったが甲陽鎮撫隊にも従軍している。流山から白河、会津と転戦して仙台で降伏した。明治三十九年(1906)、「近藤芳助書翰」を記し、貴重な証言を残している。大正十一年(1922)、八十歳にて病死。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平塚

2014年03月16日 | 神奈川県
(神奈川銀行平塚支店)


平塚宿本陣旧蹟碑

 平塚宿本陣は、代々加藤七郎兵衛家が担っていた。現在、神奈川銀行平塚支店のある場所に南面して本陣の建物が建てられていたという。記録によれば、徳川家茂は文久三年(1863)二月と慶応元年(1865)五月の二回、平塚本陣にて休憩をとっている。また、明治天皇は東京行幸と遷都の際、当地に小休している。


平塚宿脇本陣跡

 本陣跡から東に高札場跡、さらに脇本陣跡、見附跡があった。現在、それぞれ石碑が建てられている。


平塚宿高札場跡


平塚宿の江戸見附跡

 平塚宿の東西には、それぞれ江戸見附と京方見附が設置されていた。見附というのは、宿の出入りを監視するための施設で、同時に見附から正式に宿内であることを示すものであった。

(平塚商業高校)


成器塾跡

 平塚商業高校の東南角に成器塾跡碑がある。
 成器塾は、芳野金陵の高弟、宮崎拡堂が嘉永三年(1850)頃、相模国大住郡中原村に開いたもので、一時江戸御徒町に移ったが、文久二年(1862)、平塚に新築した。門下には大磯の伊東希元や上平塚の今井元啓などがいる。宮崎拡堂は、明治二年(1869)、五十一歳で死去。

(扇松)


扇松

 JR東海道線の北側には、旧東海道や国道が走り、賑やかな街が広がるが、南側は打って変わって閑静な住宅街である。平塚駅から海岸に向かって「扇松通り」と名付けられた道が伸びている。通りに沿って十五分ほど歩くと、道路を覆うように大きな黒松が植えられている。この黒松は扇松と呼ばれている。
 後藤象二郎は、この辺りに二扇庵と称する別荘を構えていた。この頃、後藤象二郎が詠んだ戯れ歌である。

 わが庵は 扇の松に ほど近く
 富士の高嶺を 軒端にぞ見る


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日野 Ⅳ

2014年03月16日 | 東京都
(宝泉寺)
 日野駅側の宝泉寺には、新選組助勤六番隊長井上源三郎の記念碑と墓がある。


誠願元忠居士(井上源三郎墓)


井上家之墓(井上泰助の墓)

 井上家の墓に井上源三郎の甥、井上泰助が合葬されている。井上泰助は、鳥羽伏見の戦争に参加し、叔父源三郎が戦死すると、その首級と刀を持って引き上げようとしたが、あまりの重さに途中の寺院(欣浄寺といわれる)の門前に埋めたという。このとき泰助は十二歳であった。傍らの墓標によれば、泰助の法名は「泰岳宗保居士」、昭和二年(1927)二月十日、七十二歳にて死去している。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茗荷谷 Ⅳ

2014年03月16日 | 東京都
(播磨坂)


極楽水

 茗荷谷駅から五分ほど東へ進むと、播磨坂と名付けられた、妙に幅の広い道に出会う。中央分離帯は公園となっており、道の両側には桜並木が植えられている。きっと春は花見客で混雑するだろう。この地名は、江戸時代この場所に常陸府中藩松平播磨守の屋敷があったことに由来する。ほとんど遺構らしきものは見当たらないが、小石川パークタワーというマンションの一角に、極楽水という名水が復元されている(文京区小石川4-16)。


高橋泥舟 山岡鉄舟 旧居跡

 播磨坂公園内に高橋泥舟・山岡鉄舟旧居跡の説明が建てられている。実際に旧居跡があったのは、この場所から西側の一角、現在マンションのあるところに両家は並んでいた(文京区小石川5‐1‐8)。
 高橋家は享保五年(1720)、山岡家は文化八年(1811)以降、この地に移り住んだといわれる。
 高橋泥舟は、槍術の大家山岡静山の弟で、母方の実家、高橋家を継いで、二十五歳のとき幕府の開いた講武所の師範となった。
 山岡鉄舟は、旗本小野家の出身であったが、山岡静山の妹英子(ふさこ)を娶って山岡家を継いだ。

(喜運寺)
 喜運寺には小さな墓地があり、そこに思案橋事件で殉職した河合好直の墓標がある。思案橋事件で殉職した警察官は、寺本義久と河合好直の二人。寺本警部補の墓は染井霊園にあるが、河合好直巡査の墓は、喜運寺墓地の一番奥まった場所にある。川路利良大警視の手によるものである。


喜運寺


為川合好直君

(国際仏教学大学院大学)


慶喜公屋敷大銀杏

 国際仏教学大学院大学の敷地には、江戸期に荻野山中藩大久保家の下屋敷があった。
 徳川慶喜は、水戸藩小石川の上屋敷で生まれ、幼少期を過ごした。維新後、長らく静岡で謹慎生活を送ったが、明治三十年(1897)、東京に戻り巣鴨に居を構えた。さらに明治三十四年(1901)、思い入れの深い小石川に近い当地に移った。学校正門脇に、慶喜邸にあった大銀杏がある。慶喜が急性肺炎のため世を去ったのは、大正二年(1913)十一月二十二日のことであった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする