(長谷寺)

橋本家之墓(橋本綱常の墓)
橋本綱常は、橋本左内の実弟。長崎に遊学してポンぺに学び、ポンぺの帰国後は松本良順について西欧医学を修めた。維新後、ドイツに留学。外科や内科を学んだ。明治十年(1877)帰国したが、明治十六年(1883)再び欧州に渡った。帰国後は、軍医総監、陸軍省医務局長、日本赤十字病院初代院長、東京大学教授として、我が国医学の発展に貢献した。明治四十二年(1909)、六十五歳にて逝去。
正五位勲一等寺原長輝墓
会津藩士の墓を集めた一角、その横に寺原長輝の墓がある。寺原長輝という名前にあまり馴染みはないが、実はこの人物は園田長照という名で、明治十年(1877)一月、物情穏やかならぬ鹿児島に派遣され、私学校党の離間を図った、いわゆる「東京獅子」の一人である。西南戦争終結後救出され、奈良県知事、茨城県知事、福岡県知事を歴任した。のちに貴族院議員に勅選された。大正元年(1912)死去。
東京獅子と呼ばれる工作員は、二十三~四名と言われるが、今のところ墓を特定できたのは、高崎親章、安楽兼道と寺原長輝の三名のみである。

橋本家之墓(橋本綱常の墓)
橋本綱常は、橋本左内の実弟。長崎に遊学してポンぺに学び、ポンぺの帰国後は松本良順について西欧医学を修めた。維新後、ドイツに留学。外科や内科を学んだ。明治十年(1877)帰国したが、明治十六年(1883)再び欧州に渡った。帰国後は、軍医総監、陸軍省医務局長、日本赤十字病院初代院長、東京大学教授として、我が国医学の発展に貢献した。明治四十二年(1909)、六十五歳にて逝去。

正五位勲一等寺原長輝墓
会津藩士の墓を集めた一角、その横に寺原長輝の墓がある。寺原長輝という名前にあまり馴染みはないが、実はこの人物は園田長照という名で、明治十年(1877)一月、物情穏やかならぬ鹿児島に派遣され、私学校党の離間を図った、いわゆる「東京獅子」の一人である。西南戦争終結後救出され、奈良県知事、茨城県知事、福岡県知事を歴任した。のちに貴族院議員に勅選された。大正元年(1912)死去。
東京獅子と呼ばれる工作員は、二十三~四名と言われるが、今のところ墓を特定できたのは、高崎親章、安楽兼道と寺原長輝の三名のみである。