史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

西麻布 Ⅱ

2014年03月09日 | 東京都
(長谷寺)


橋本家之墓(橋本綱常の墓)

 橋本綱常は、橋本左内の実弟。長崎に遊学してポンぺに学び、ポンぺの帰国後は松本良順について西欧医学を修めた。維新後、ドイツに留学。外科や内科を学んだ。明治十年(1877)帰国したが、明治十六年(1883)再び欧州に渡った。帰国後は、軍医総監、陸軍省医務局長、日本赤十字病院初代院長、東京大学教授として、我が国医学の発展に貢献した。明治四十二年(1909)、六十五歳にて逝去。


正五位勲一等寺原長輝墓

 会津藩士の墓を集めた一角、その横に寺原長輝の墓がある。寺原長輝という名前にあまり馴染みはないが、実はこの人物は園田長照という名で、明治十年(1877)一月、物情穏やかならぬ鹿児島に派遣され、私学校党の離間を図った、いわゆる「東京獅子」の一人である。西南戦争終結後救出され、奈良県知事、茨城県知事、福岡県知事を歴任した。のちに貴族院議員に勅選された。大正元年(1912)死去。
 東京獅子と呼ばれる工作員は、二十三~四名と言われるが、今のところ墓を特定できたのは、高崎親章、安楽兼道と寺原長輝の三名のみである。


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南麻布 Ⅱ

2014年03月09日 | 東京都
(天真寺)


天真寺

 南麻布の住宅街の中に忽然という感じで、天真寺がある(南麻布3-1-15)。墓地には歴史を感じさせる墓石が並ぶ。その中に戊辰戦争における福岡藩戦死者の墓がある。


舊福岡藩戊辰
戦役戦病死者 墓


戊辰役従軍福岡藩戦死者墓

 墓地中央の一番立派な墓は、小川団之助實輝のもの。慶応四年(1868)九月二十九日、磐城中村にて戦死。十七歳。
 その左は頭山左仲正方の墓。銃隊司令官。慶応四年(1868)八月二〇日、磐城中村方面にて負傷。一一月二十九日、東京にて死亡。四十二歳。
 向かって右は阿部政吉秀則の墓(『幕末維新全殉難者名鑑』によれば、姓は安部となっている)。慶応四年(1868)閏四月三日、下総船橋にて負傷。のち死亡。二十二歳。
 左手に並んでいる二基の墓石の奥の方は、二宮順之亟正保のもの。慶応四年(1868)六月十四日、江戸にて陣没。二十四歳。手前は大森小源太(『幕末維新全殉難者名鑑』によれば、小伝太)の墓。東京にて病死。
 右手中央は大森與左衛門兼文の墓。慶応四年(1868)東京にて病死。その手前は濱田正親とあるが、『幕末維新全殉難者名鑑』に記載されている浜田左七郎のことか。


従五位下藤原朝臣小出播磨守嫡男清兵衛之墓

 箱館奉行など、幕末の重職を歴任した小出秀実の墓を訪ねて天真寺の墓地を歩き回ったが、発見できたのは、同姓英道の嫡男の墓のみであった。墓地には大名墓や古い墓石がたくさんあったので、その中に小出秀実の墓もあるのかもしれないが、探しきれなかった。

(曹渓寺)
曹渓寺(港区南麻布2-9-23)には、土佐新田藩主山内家(土佐藩山内家の分家)の墓や、儒者藤森弘庵(天山)の墓がある。


曹渓寺

 さっそく墓地に向かおうとすると、住職に呼び止められた。最近、「墓荒らし」が出没しているらしく、檀家からも妄りに墓地に人を入れないように言われているそうである。ここを訪ねた主旨を申し上げると、お線香をいただき、墓地へ案内していただいた。


山内家累代之墓

 墓地中央に土佐新田藩山内家の墓がある。土佐新田藩山内家は、江戸定府で麻布に住んでいたため、麻布山内氏とも称された。幕末の当主、山内豊福(とよよし)は、安政三年(1856)、豊賢のあとを継いで藩主に就いた。徳川慶喜が鳥羽伏見に敗れ帰城すると、豊福は江戸城内で主戦論を主張したが、帰邸して本家山内家の情報に接して、進退に悩んだ。そのとき老臣堀越忠三郎から自重を諫言された。その夜、自刃。三十三歳であった。夫人典子もこれに殉じて自刃した。


天山藤森先生墓標

 藤森弘庵(雅号 天山)の父は、播磨小野藩士。父のあとを継いで小野藩の祐筆となったが、致仕した。天保五年(1834)、土浦藩に招かれ学政、郡務にあたった。嘉永六年(1853)には「海防備論」を著し、攘夷論を徳川斉昭に建白した。これにより名声が挙がった。安政の大獄では江戸追放に処され、のち許され江戸に戻ったが、文久二年(1862)病のため没した。


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青山霊園 補遺Ⅳ

2014年03月09日 | 東京都
(青山霊園)
1種イ1号13側


富小路家之墓

富小路敬直(とみのこうじ ひろなお)は、堂上公家の出。文久元年(1861)、和宮降嫁問題が起きると、岩倉具視、久我建通、千種有文らと降嫁を推進したため、その後尊攘派から「四奸二嬪」の一人として執拗な排斥と威嚇を受けた。このため、文久二年(1862)、蟄居を命じられ、辞官・落飾。さらに洛中居住を禁じられたため、洛北一乗寺村に幽居した。慶応三年(1867)、孝明天皇の大喪により洛中居住を許された。維新後は右京太夫、侍従に任じられ、権大宣教使を兼任した。明治二十五年(1892)、五十一歳で没。

1種ロ8号1~14側


頭山満

頭山満は、明治から昭和初期にかけて活躍した右翼の巨頭。玄洋社を首催。大隈重信を爆殺しようとした来島恒喜は、玄洋社の元社員であった。

1種ロ8号1~14側


安楽家之墓


安楽君碑銘

安楽兼道は、川路利良の命を受けて西南戦争前夜、私学校生徒の離間を狙って、鹿児島に潜入した「東京獅子」の一人。戦後、山口県知事、福島県知事、岐阜県知事を歴任したほか、警視総監を三度務めた。昭和七年(1932)没。
墓の横には、牧野伸顕の篆額になる墓碑銘が建立されている。

1種ロ8号36側


八田知紀之墓

寛政十一年(1799)、薩摩西田村に生まれた。文政八年、京都薩摩藩邸の留守居下役。香川景樹に歌道を学び、熊谷直好とともに同門の逸材と称された。近衛家に仕え、御広敷番頭、ついで御用人、明治元年(1868)には京都の皇学所御用掛となった。東京に移って、明治五年(1872)宮内省八等出仕歌道御用掛となった。門弟の育成に努め、高崎正風、黒田清綱を育てた。明治六年(1873)、七十五歳にて病没。
「幕末歴史散歩」(一坂太郎 中公新書)、「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)、いずれも八田知紀の墓は、杉並区和泉の大円寺にあると記載されていたので、大円寺の墓地を隈なく歩き回った(それも二回も)が、発見できなかった。いつの間にか青山霊園に移葬されたようである。

1種ロ12号6側


肥後藩士の墓


巡査亀鑑


安舘精一之墓

肥後藩士の墓は、左から倉田萬助、村上藤四郎、安藤七十郎(中央は村上と安藤の合葬墓)、高田平蔵。彼らは明治二年(1869)、一月四日、箱館に赴く途中、上総鬼ヶ浦(勝浦沖)にて遭難溺死。
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四ツ谷 Ⅳ

2014年03月09日 | 東京都
(迎賓館)


迎賓館

 四ツ谷駅から歩いて数分。迎賓館の広大な敷地はかつて紀州藩の上屋敷の敷地であった。


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