(戸島)
柳剛院彰義居士(加藤光造の墓)
加藤光造の墓である。加藤光造は、本姓を横山といい、墓も横山家の墓域にある。杉戸町の農家の出身であるが、幕臣加藤家に養子に入って改姓した。十一番隊長として彰義隊に加わり、箱館まで転戦した。和田幸之進が残した「箱館脱走人名」によれば、加藤光造(同書では光蔵)は頭代や頭取改役、頭取といった幹部に継ぐ、差図役並という準幹部的な地位にある。差図役と差図役並は、合わせて十八人を数えるが、そのうち十三名が戦死もしくは負傷、脱走しており、加藤光造のように無傷というのは珍しい。墓碑には「柳剛院彰義居士」という戒名が刻まれている。墓碑によれば、明治三十二年(1899)三月没。
柳剛院彰義居士(加藤光造の墓)
加藤光造の墓である。加藤光造は、本姓を横山といい、墓も横山家の墓域にある。杉戸町の農家の出身であるが、幕臣加藤家に養子に入って改姓した。十一番隊長として彰義隊に加わり、箱館まで転戦した。和田幸之進が残した「箱館脱走人名」によれば、加藤光造(同書では光蔵)は頭代や頭取改役、頭取といった幹部に継ぐ、差図役並という準幹部的な地位にある。差図役と差図役並は、合わせて十八人を数えるが、そのうち十三名が戦死もしくは負傷、脱走しており、加藤光造のように無傷というのは珍しい。墓碑には「柳剛院彰義居士」という戒名が刻まれている。墓碑によれば、明治三十二年(1899)三月没。