史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「幕末「長州」歴史散歩」 一坂太郎著 洋泉社歴史新書

2014年09月27日 | 書評
かつて新居浜市(愛媛県)に単身赴任していた頃、金曜日の夜に仕事を終えてから出発し、夜通し運転して早朝に萩や山口に着く。日曜日の深夜に新居浜に帰りつくような「弾丸ツアー」を繰り返していた。東京に戻って以来、長州藩はすっかりご無沙汰になってしまったが、本書を読むと改めて山口県には幕末維新関係の史跡が密集していることを思い知らされる。著者一坂太郎氏は、これまでも「幕末歴史散歩」シリーズ(中公新書)で、東京や京阪神の史跡を紹介する本を上梓しているが、「山口県編」は「出るべくして出た」本というべきであろう。もちろん、来年の大河ドラマの主人公に、吉田松陰の妹文が取り上げられることも、追い風になったのかもしれない。
さすがに山口県在住の歴史家が書く史跡紹介本というだけあって、私の知らない、見たことのない史跡を数多く紹介している。山口県にもまだまだ行かなくてはならないスポットがたくさん残されていることを痛感することになった。東京から山口を旅するのは、簡単なことではないが、「いずれ、また」という思いを強くした。
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「幕末維新の漢詩」 林田愼之助著 筑摩選書

2014年09月27日 | 書評
幕末という時代を生きた人と、現代日本人とは、本当に同じ日本人なのだろうか、と思うことがある。特に国語力について言えば、幕末日本人の(特に教養を身に着けた人たちの)漢語力、或は漢籍に対する造詣の深さは、とても我々の及ぶところではない。
この時代の教養といえば「四書五経」であった。我々は学校で、現代国語のみならず、古文も英語も学ばなくてはならない。現代人は漢文だけを勉強していれば良いわけではないのである。その点、この時代の日本人が漢籍を深く学習できたことは想像に難くない。
日本人は独自の読み下し方法をあみ出し、自在に漢文を読み取る能力を習得した。外国語をこのような方法で読解した国は、日本をおいて外に無いのではないだろうか。一方で、多くの日本人はナマの中国語に接したことはなく、中国語会話は全くできなかった。思えば、現代日本の英語教育において文法を重視し、その結果、ある程度読み書きはできても、会話はできないという有り様は、伝統的な外国語習得方法を投影したものと言えるのかもしれない。
本書では二十人の幕末人を取り上げる。彼らの残した漢詩は、いずれも中国人顔負けのものばかりである。彼らは漢詩を通じて、時に風景を愛で、時に心情を吐露した。
和歌の世界にも「本歌取り」という手法があるように、漢詩においてもそれに似た手法がある。
たとえば、藤井竹外に「孤鶴」と題した七言絶句がある。

 啄苔飲水自従容
 知汝鶏羣長絶蹤
 昨夜月明何処宿
 寒流石上一株松

字面とおりの意味は次のとおりである。恐らく孤高の鶴の気高い姿を自らに重ねて詠んだものであろう。
「一羽の鶴が、苔を啄み、清らかな水を飲み、つまり清貧にあまんじ富貴に媚びないで、みずから落ち着きはらっている。その鶴は群なす鶏と永久に交わりをたち、孤高を保って生きていることを知っている。昨夜の明るい月の光の中で、おまえはいったいどこに宿ってねむったのであろうか。察するに、冷たい渓流にのぞんだ巌上に立つ一本松のもとに宿っていたのであろう」(本書P173)
起句の「苔を啄み水を飲み」という下りは、南宋の詩人何承天の詩「飲啄するに勤苦すると雖も…」を踏まえている。因みに何承天の詩で描かれているのは雉子である。承句は「鶏羣の一鶴」という故事に拠っている。転句は、李白の「相思」という詩を意識したものである。さらに結句では、唐の蘆仝(ろどう)の詩にある「寒流の石上 一本の松」をそのまま取り込んでいる。つまり竹外の漢詩を読んだものは、その漢詩に折り込まれたオリジナルの漢籍の世界にも想いを馳せ、風景が広がるのである。幕末の知識人の間では漢籍の世界が共通言語化されており、そういう前提があって初めてこのような「本歌取り」的な韻文が成立するのである。

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「幕末維新消された歴史」 安藤優一郎著 日経文芸文庫

2014年09月27日 | 書評
薩長同盟→幕長戦争→大政奉還→討幕の密勅→王政復古→鳥羽伏見戦争→慶喜の恭順→江戸無血開城→上野戦争→会津戦争といった一連の政治的事件を表の歴史とすれば、事件と事件を結ぶ空間には、水面下における様々な駆け引きや策動が存在していた。表の歴史を追うだけでは、「明治維新を達成した薩摩・長州藩は勝つべくして勝った善玉で、政権の座から退いた徳川方は負けるべくして負けた悪玉という予定調和のストーリー」しか見えてこないが、それは「勝者側の言い分に基づいた歴史像にすぎない」と著者はいう。実はリアルタイムにその現場にいた人たちにしてみれば、幕長戦争や鳥羽伏見にしても、どちらに転ぶか分からない、一種の賭けであった。
第一章から第二章で語られる薩長同盟については、「孝明天皇と一会桑」(家近良樹著 文春新書)で解明された「倒幕を目指したものではなかった」という説を採用している。この本が発表されたのは、平成十二年(2002)であるが、以来、これが完全に定説となった。最近では、薩長同盟は薩長盟約と表現されるようになっているそうである。
薩長同盟以降の薩摩藩にしても決して一枚岩ではなかったし、西郷-大久保ラインの対幕強硬派が藩内の主流というわけでもなかった。比較的、西郷‐大久保に近いと思われる伊地知正治にしても、「慶喜を新政府のリーダー的な地位」に迎えようとまで主張したというから、西郷-大久保も薄氷を踏む思いだっただろう。反対派の中には西郷を暗殺しようという動きまであったというから驚きである。
大政奉還から王政復古のクーデターを経て鳥羽伏見開戦に至るまでの動きはさらに複雑である。歴史の結果を知っている我々は、薩摩藩が一直線に慶喜を開戦に追い詰めたように思いがちであるが、実際の歴史は予断を許さないものであった。松平春嶽、徳川慶勝を仲介役とした慶喜の処遇をめぐる交渉は、慶喜有利に進んでいた。慶喜の新政府入りも内定していた。大久保利通も「慶喜の上京と新政府入りは止むを得ない」とした上で、せめて会津・桑名藩兵を帰国させて軍事的な優勢だけは保持しようというところまで腹をくくっていたというのである。
そういう意味で、慶応三年(1867)十二月二十五日の三田薩摩藩邸焼き討ち事件は起死回生の逆転ホームランであった。一報を受けた大阪城内の幕府方は興奮の坩堝と化し、さらにこの興奮は慶喜に乗り移ってしまった。
もし―――歴史にIFは禁物であるが―――このとき慶喜が自重し、開戦を避けることができれば、その数日後には慶喜は新政府の幹部に登用されることになり、その後の徳川家の処分も違ったものとなったであろう。
本書を読めば、倒幕は決して直線的に進行したのではなく、巻末の解説で榊原英資氏が述べているように「いくつかの偶発的事件の積み重ねでそうなった」という内情が良く理解できる。最終的に倒幕派が勝利した背景には、彼らが「孝明天皇の死後は朝廷を握っていたことが大きかった」という説に納得である。

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