史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

平塚 Ⅱ

2015年02月01日 | 神奈川県
(宝積院)


宝積院

 成器塾跡から徒歩十分足らずの住宅街の中に宝積院がある。本堂向かって右手の墓地に宮崎拡堂の墓がある。


俱會一處(宮崎拡堂の墓)

 宮崎拡堂の名は長発。文政二年(1819)、加賀金沢の生まれ。明治二年(1869)、五十一歳で没した。同じ墓に拡堂の長男宮崎三昧も葬られている。三昧は、安政六年(1859)江戸の下谷仲徒町に生まれた。小説家として活躍した。大正八年(1919)六十一歳にて病没した。

(JAビルかながわ)


二宮尊徳先生像

JR平塚駅南口のJAビルかながわ前に二宮尊徳胸像がある。
平塚と二宮尊徳との関わりは浅くない。片岡村(現・平塚市片岡)では、天保の大飢饉などで疲弊し、打ちこわしなども発生していた。そこで小田原藩で飢民救済に成果を上げていた二宮尊徳の指導を仰ぎ、復興を果たしている。

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本駒込 Ⅳ

2015年02月01日 | 東京都
(大林寺)


誠徳院月潭秋芳居士(諸葛秋芳の墓)


諸葛秋芳君碑

 諸葛(もろくず)秋芳は長府藩士。名は信澄。報国隊器械方副役。維新後は、東京師範学校(のちの東京教育大学。現・筑波大学)の初代校長。その後大阪の師範学校長も務めた。明治十三年(1880)三十二歳で病没。本堂前には、中村正直撰文、立花種恭の書ならびに篆額になる顕彰碑も建てられている。

(海蔵寺)


海蔵寺

 海蔵寺には、水戸藩の儒者立原翠軒の墓や第十代横綱雲竜久吉の墓がある。


立原家の墓
中央が「立原翠軒居士之墓」


 立原翠軒は、延享元年(1744)、水戸城下竹原町にて生まれた。二十歳のとき江戸に出て、大内熊耳、細井平洲、松平楽山らに学んだ。水戸藩に戻って、七代藩主徳川治紀に仕え、彰考館総裁に任じられて、停滞していた「大日本史」編纂事業に尽力した。「大日本史」編纂については、藤田幽谷とその編纂方針を巡って対立した。文政六年(1823)没。八十歳。
 翠軒の墓の横には、翠軒の顕徳碑や孫の立原春沙(南画家)の墓もある。


第十代横綱雲竜久吉の墓

 第十代横綱雲竜久吉の墓である。墓石中央の「雲山玄龍居士」とあるのが、雲竜の法名である。雲竜型の土俵入りを始めたことで有名。
 雲竜久吉は、文政六年(1823)筑後国山門郡大和町皿垣開小字甲木に生まれた。十九歳の頃、土地の力士小桜らを師としていたが、弘化三年(1846)、江戸に出て追手風に弟子入りし、柳川藩主立花候の抱え力士となった。嘉永五年(1852)、入幕。安政元年(1854)、ペリー再来航の時、その妙技と怪力を披露した。安政五年(1858)大関に進み、文久元年(1861)、第十代横綱となった。慶応元年十一月、引退。年寄追手風となる。明治二十三年(1890)、年六十八にて没。
 雲竜久吉ら力士らがペリー艦隊の前で相撲を披露したのは、日米和親条約が締結された神奈川であった。時は嘉永七年(1854)二月二十六日。両国の間で贈り物を交換する場で、幕府は力士らを登場させた。現在でも欧米人と比べて日本人は圧倒的に体格で劣るが、今から百五十年前では今以上に体格差が顕著であった。外国人から侮られたくない一心から、「我が国にもこのような巨漢が存在している」ことを知らせるために、つまりささやかな示威行動の一つとして力士をペリーに見せたのである。
 ペリーは、その「遠征記」にその場面を記録しているが、あまり良い印象は持たなかったようである。
――― 力士たちはいずれも肉がつきすぎて、ひとりひとりの特徴を失ってしまったようで、たんに二五個の脂肪の塊としか見えなかった。(『ペリー提督日本遠征記』(角川文庫))

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白山 Ⅲ

2015年02月01日 | 東京都
(心光寺)
 再度、心光寺を訪ねた。以前、発見した吉岡勇平(艮太夫)の墓を再訪。裏面を確認すると「徳順院殿吉岡盡政大居士」 明治四年十一月没とあった。
 吉岡家の墓の横には、入江北嶺という函館出身の画家の墓がある。


北嶺江斎墓

 入江北斎(通称善吉)は、箱館出身の浮世絵師。文化七年(1810)生まれ。入江南嶺、葛飾北斎に学んだという。墓の前に、昭和十年(1935)に当時の函館市長が記した文が置かれている。


廣勝院延譽李蹊居士
(石本亀齢の墓)

 一坂太郎著「吉田松陰とその家族」(中公新書)でこの墓のことを知り、早速、心光寺を訪ねた。この墓は、本堂向って右側の奥にある。
 石本亀齢は、姫路藩の四百石取りの重役であった。安政二年(1855)十月二日、いわゆる安政の大地震で江戸城辰ノ口にあった姫路藩上屋敷でも火の手が上り、石本は一旦外に出て助かったものの、建物の中に老母がいることを知り、火に飛び込んで亡くなった。五十歳であった。
 この話に感激した吉田松陰は、当時実家である杉家の幽囚室で石本を称える漢文の墓碑銘を書き上げ、遺族に送った。遺族は、見知らぬ長州人から送られてきた銘文を手に戸惑ったことであろう。しかし、吉田松陰が「偉人」として知られるようになった昭和四年(1929)、石本亀齢の七十五回忌のとき、松陰の銘文を墓石の三方に刻むことになった。
 松陰は
――― 聖人といへるあり
身を殺して仁を成すと
天地崩れ裂く
豈に其の身を顧りみんや
急ぎて往いて抱持し
慈親に殉ず
澆季(軽薄な世の中)と謂ふなかれ
世かくのごとく人あり
 と、感激を文字にしている(原文は全文漢文)。



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