史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

堺筋本町

2015年02月06日 | 大阪府
(泊園書院跡)


泊園書院跡

 藤沢東畡が起こした泊園書院は、明治九年(1876)嫡子藤沢南岳によってこの地(現・淡路町1-5)に移され再興された。長く大阪の文教の維持発展に貢献した。

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八尾 Ⅱ

2015年02月06日 | 大阪府
(神宮寺)


神宮寺

 近鉄法善寺駅でレンタサイクルを借りて神宮寺を目指す。法善寺駅は柏原市に所在しているが、神宮寺の住所は八尾市である。
 神宮寺の背後には、大きな来迎寺墓地が広がる。見晴らしの良い高台の中腹に大谷家の墓域があり、その一角に新選組に籍を置いた大谷良助の墓石がある。


大谷有知墓(大谷良助墓)

 大谷良助は、柏原の郷士大谷十助の子。元治元年(1864)の第一次行軍録には、その名前は記載されておらず、その直後に新選組に入隊したものと思われる。翌慶応元年(1865)三月、切腹により死。その理由は伝わっていないが、丁重に葬られたといわれる。

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岸和田 Ⅱ

2015年02月06日 | 大阪府
(本町通り)


吉田松陰逗留の地
(久住家)

 久しぶりに岸和田の街を散策した。駅前の駐輪場で自転車を借りて、観光案内所で本町通りへの道筋を確かめると、一路吉田松陰が逗留したと伝えられる久住家を目指す。岸和田城北側の旧紀州街道沿いには古い町並みや建物を保存しており、タイムスリップ感を楽しむことができる。
 観光案内所の方から
「久住家は二つある」
と伺ったが、両家は向い合わせになっており、南側の住宅が嘉永六年(1853)二月、吉田松陰が森田節斎と逗留した塩屋平衛門宅(現・久住清子邸)である。
 今もこの場所には古い木造住宅が建てられているが、この住宅は明治三十年代後半に建てられたもので、残念ながら松陰が滞在したものではない。
 松陰は藩儒相馬九方ら岸和田藩士らと藩校講習館の一室で議論を重ねたという。せっかくなので、藩校講習館跡にも足を延ばしてみることにした。

(中央保育園)


岸和田藩校(講習館)跡

 岸和田藩校講習館は、岸和田岡部家九代藩主岡部長慎(ながちか)が隠居後設立した藩校で初代館長に相馬九方(きゅうほう)が招かれた。
 嘉永六年(1853)、岸和田を訪れた吉田松陰は、講習館の一室で囲炉裏を囲んで、茶を飲み、せんべいをかじりながら、時には夜を徹して時勢や詩文について議論を重ねた。松陰は、頻繁に姿を現すようになった外国船に対し、海防の手薄なことを繰り返し説いたという。
 現在、藩校跡は保育園となっており、その前に岸和田市が建てた説明板が置かれているのみで、遺構らしきものは一切残っていない。


相馬九方肖像画
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泉大津

2015年02月06日 | 大阪府
(田中家住宅)


田中家住宅

 田中家は助松本陣と呼ばれ、紀州徳川家御用の小休本陣として参勤交代の際に利用されていた。今も往時の広壮な住宅を偲ぶことができる。田中家は庄屋を兼ねており、飢饉に備えて食糧を備蓄した備窮倉などを備えていた。

(牛滝塚)
 南海本線北助松駅から南西に数百メートル進むと、住宅に囲まれるように場違いな森が出現する。駅前の地図にも「牛滝塚」と明記されているが、この場所は代々本陣を務める田中家の墓所である。鍵を押し開けて中に入ると、田中家歴代の墓がある。


田中矩方之墓

 この田中矩方の墓が、天誅組に参加した田中楠之助の墓だという情報をどこかで得た。しかし、手元の書籍をいくら調べても出典が分からない。田中楠之助は、法善寺村の庄屋の出なので、ここに墓のある田中矩方とは別人であろう。


田中楠三郎源重矩墓

コメント (1)
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