八幡堀
近江八幡といえば、近江商人の里として有名である。市内の新町通り周辺には、昔ながらの商家が当時のまま軒を連ね、これを楽しみに訪れる観光客も多い。
また町の北側の八幡堀沿いには、往時の屋敷や蔵が立ち並ぶ。これも人気スポットである。
駅前でレンタサイクルを借りる。年末でも休み無く営業しているのが有り難い。本来は観光用だろうが、私の目的は、西川吉輔宅跡と西川吉輔の墓を訪ねることにある。
(近江兄弟社メンターム資料館)
勤王家 西川吉輔宅跡
西川吉輔宅跡の石碑を探して、付近を探し回った。結局、この分かりにくい石碑は、近江兄弟社メンターム資料館の裏手にひっそりと建っていた。この場所が、西川吉輔が帰正塾を開いた地である。
西川吉輔は、文化十三年(1816)、近江国八幡に生まれた。富商西川屋善六の七代目として家業の肥料商を営んだが、幼時より学を好み、長じて大国隆正について国学を学び、弘化四年(1847)には、平田篤胤の没後門人となった。嘉永元年(1848)には自宅に帰正館なる私塾を開いて学を講じ、門人の数は百五十人を越えた。門下には住友第二代総理事伊庭貞剛もいる。安政五年(1858)十月、安政の大獄に連坐して町預かりに処せられたが、脱出して京都に潜匿し、文久三年(1863)二月の足利三代木像梟首事件に連坐。この間、家産を蕩尽した。ついて谷鉄臣と親交を結び、井伊直弼没後の彦根藩を勤王方に引き入れるについては大いに功労があった。王政復古の直後、新政府において金穀出納御用掛に登用されたが、間もなく皇学所へ転じ、明治二年(1869)七月には大学少博士に任ぜられた。明治三年(1870)以降は大教宣布運動に従事し、晩年は日吉・生魂両社宮司を歴任した。明治十三年(1880)、年六十五で没。
(西山共同墓地)
近江八幡観光物産協会のホームページに、西川吉輔の墓は「市内西山の共同墓地に葬られています。」とあるのを頼りに西川吉輔の墓を探すことにした。地図で調べても、近江八幡市内に「西山」という地名は見つからない。多分、西の方に在る山だろうというアテズッポウで市街の西側一帯を走り回った。自転車で探すこと四十分。ついに「さざなみ浄苑」という葬祭場の横に墓地を発見した。共同墓地と呼ぶには、あまりに手入れがされておらず、本当にここに西川吉輔の墓があるのか半信半疑であったが、雑草と枯葉だらけの小径を上って行くと、その突き当りに西川吉輔の墓があった。ちょっと感動的な出会いであった。
西川吉輔君墓