史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

伏見 Ⅵ

2015年02月21日 | 京都府
(欣浄寺)


欣浄寺

 墨染の欣浄寺は、新選組の井上源三郎の首が埋葬された寺と言われている。この説に確たる根拠はないが、井上源三郎の生家のごく近所に同名の寺があり、その縁で甥の井上泰助がこの寺に源三郎の首を埋めたのではないかと推定されているのである。
 欣浄寺の撮影を済ませた直後、季節外れの夕立のような豪雨に襲われた。傘は持っていたが、それでもズボンがずぶ濡れになってしまった。

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淀 Ⅱ

2015年02月21日 | 京都府
(淀城)


田邊治之助君記念碑

 前回、淀城趾を訪ねたのは、もう十年以上も前のことになる。今回、淀藩の田邊治之助の記念碑と墓を訪ねて、再度淀周辺を歩いた。
 まず、淀城趾に置かれている田邊治之助記念碑を訪問する。
 田邊治之助は淀藩士である。鳥羽伏見戦争の際、淀藩は敗走する旧幕軍に対して淀城の門を堅く閉ざして受け入れなかった。淀藩の裏切りとして知られる事件の裏で、田邊治之助は藩論を勤王に統一する立役者となった。しかし、その後、旧幕兵が城内に乱入した責を負って、自刃した。「淀藩の裏切り」事件の背後にこのような事件があったことは特記しておくべきであろう。

(妙教寺)


觀壽院照遠日覺居士(田邊治之助の墓)

 再び納所の妙教寺を訪ねた。今回の目的は田邊治之助の墓である。本堂の裏に墓地があるが、その入り口に田邊家の墓域がある。側面に「田邊治之助信教墓」とあるのが、治之助の墓である。
 田邊治之助は、天保三年(1832)、淀藩家老田邊刑部の二男に生まれた。元治元年(1864)第一次長州征伐にも参加。鳥羽伏見の戦争では、藩中は尊王佐幕二派に分れて紛争したが、治之助は時勢を説いて中立を守らせ、城門を閉ざして戦局より逃避させた。しかし、正月五日、旧幕兵が敗走し、淀城の御大手門を破って数名が城内に乱入した。大手門警備に当たっていた責任を負って、治之助は同夜自刃して藩を朝敵の汚名から救ったという。三十七歳。
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三井寺 Ⅳ

2015年02月21日 | 滋賀県
(川瀬太宰宅跡)


川瀬太宰先生邸宅趾

 皇子山中学校の正門向い辺りに、川瀬太宰邸宅趾碑が建てられている。
 川瀬太宰は、文政二年(1819)の生まれ。膳所藩の同志をはじめ、広く諸方の志士と交わって尊攘活動に従事したが、その時期は主として文久以降といわれる。太宰の家は裕福で、その邸宅は広壮であったのみならず、妻女幸(彦根藩医飯島三大夫の娘)も同憂の女丈夫であったことから、志士が潜行して、その庇護を受ける者が多かった。禁門の変に敗れた長州藩を助けるために同志と語らい、遠く彼の地まで赴いて画策するところもあったが。転じて江戸に潜入した。ここで捕吏の追うところとなり、逃れて京都に入り、さらに大津の自宅に隠れようとしたが、途中慶応元年(1865)閏五月、雲母越にて新選組に捕えられて京都の獄に繋がれ。翌年斬首された。年四十八。
 太宰が逮捕されたとき、邸宅にいた幸も新選組に踏み込まれ召喚されようとしたが、関係書類を火中に投じて自刃を図り絶命した。

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膳所 Ⅱ

2015年02月21日 | 滋賀県
(杉浦重剛旧宅)
 京阪瓦ヶ浜駅近くの住宅街の中に、今も杉浦重剛の旧宅が当時のまま保存されている。周囲は重剛に因んで杉浦町と名付けられている。
住宅の内部には重剛の遺墨や資料などが多数保管されているらしいが、今回は屋外を見学したのみである。
 屋外には杉浦重剛の胸像や顕彰碑、漢詩碑などが建てられている。


杉浦重剛旧宅


杉浦重剛先生像


漢詩碑

 鉄骨水心長養真
 一枝斜處更無塵
 寒香僅々両三點
 先占東風万里春
梅窓剛

 梅窓は重剛の号である。号に因んで邸内には紅白の梅が植えられている。

(茶臼山公園)
 杉浦重剛の旧宅跡から、北西に二十分以上歩くと、茶臼山公園がある。茶臼山古墳を中心とした公園で少し小高い場所にあるが、杉浦重剛の誕生地碑があるのは、道路をはさんでその向い側の小さ目の公園である。写真では伝わらないかもしれないが、仰ぎ見るような巨大な石碑である。


杉浦重剛先生誕生地碑

 杉浦重剛は、安政二年(1855)三月、膳所藩の儒者で、藩校遵義堂の教授杉浦重文の次男に生まれた。長じて藩より推されて、東京開成学校(東京大学の前身)に学び、明治九年(1876)、二十二歳のときからイギリスに留学の後、東京予備門長(旧制第一高等学校長)を務め、また称好塾という家塾を開いて多くの子弟を育てた。明治・大正にわたって教育者として有名であった。大正十三年(1924)死去。

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近江八幡

2015年02月21日 | 滋賀県


八幡堀

 近江八幡といえば、近江商人の里として有名である。市内の新町通り周辺には、昔ながらの商家が当時のまま軒を連ね、これを楽しみに訪れる観光客も多い。
 また町の北側の八幡堀沿いには、往時の屋敷や蔵が立ち並ぶ。これも人気スポットである。
 駅前でレンタサイクルを借りる。年末でも休み無く営業しているのが有り難い。本来は観光用だろうが、私の目的は、西川吉輔宅跡と西川吉輔の墓を訪ねることにある。

(近江兄弟社メンターム資料館)


勤王家 西川吉輔宅跡

 西川吉輔宅跡の石碑を探して、付近を探し回った。結局、この分かりにくい石碑は、近江兄弟社メンターム資料館の裏手にひっそりと建っていた。この場所が、西川吉輔が帰正塾を開いた地である。
 西川吉輔は、文化十三年(1816)、近江国八幡に生まれた。富商西川屋善六の七代目として家業の肥料商を営んだが、幼時より学を好み、長じて大国隆正について国学を学び、弘化四年(1847)には、平田篤胤の没後門人となった。嘉永元年(1848)には自宅に帰正館なる私塾を開いて学を講じ、門人の数は百五十人を越えた。門下には住友第二代総理事伊庭貞剛もいる。安政五年(1858)十月、安政の大獄に連坐して町預かりに処せられたが、脱出して京都に潜匿し、文久三年(1863)二月の足利三代木像梟首事件に連坐。この間、家産を蕩尽した。ついて谷鉄臣と親交を結び、井伊直弼没後の彦根藩を勤王方に引き入れるについては大いに功労があった。王政復古の直後、新政府において金穀出納御用掛に登用されたが、間もなく皇学所へ転じ、明治二年(1869)七月には大学少博士に任ぜられた。明治三年(1870)以降は大教宣布運動に従事し、晩年は日吉・生魂両社宮司を歴任した。明治十三年(1880)、年六十五で没。

(西山共同墓地)
 近江八幡観光物産協会のホームページに、西川吉輔の墓は「市内西山の共同墓地に葬られています。」とあるのを頼りに西川吉輔の墓を探すことにした。地図で調べても、近江八幡市内に「西山」という地名は見つからない。多分、西の方に在る山だろうというアテズッポウで市街の西側一帯を走り回った。自転車で探すこと四十分。ついに「さざなみ浄苑」という葬祭場の横に墓地を発見した。共同墓地と呼ぶには、あまりに手入れがされておらず、本当にここに西川吉輔の墓があるのか半信半疑であったが、雑草と枯葉だらけの小径を上って行くと、その突き当りに西川吉輔の墓があった。ちょっと感動的な出会いであった。


西川吉輔君墓

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