史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

佐賀城西側 Ⅱ

2015年08月01日 | 佐賀県
(日新小学校)


築地の反射炉跡

 日新小学校校庭は築地(ついじ)反射炉跡地である。鍋島直正は、長崎防衛強化のため強烈な火薬の爆発に耐えうる鉄製鋳造砲の必要を痛感し、嘉永三年(1850)、築地に反射炉を中心とする大銃(おおづつ)製造方を設けた。現在、日新小学校校庭には、小型の反射炉模型が築かれ、当時鋳造された大砲の模型も展示されている。


佐賀市史跡 築地反射炉跡

 嘉永六年(1853)幕府から江戸品川砲台に設置する大砲の注文があったため、藩では反射炉を多布施に移設・拡張した。
 鉄の製錬や大砲の鋳造は、決して平坦な道のりではなく、幾度も失敗を繰り返した末に成功した。佐賀藩技術陣は、苦難に耐え、幕府からの要請に応えた。


佐賀藩の反射炉


佐賀藩カノン砲

(高伝寺)


高伝寺


伯爵副嶋種臣先生墓


枝吉神陽先生顕彰碑

 枝吉神陽顕彰碑は、大隈重信の発起により撰文は副島種臣、相良頼善の書になるものである。碑文背面には、大隈重信以下、幕末維新期に活躍した佐賀藩出身者三十六名の名が刻されている。


贈従四位故枝吉經種(神陽)墓

 枝吉神陽は、文久二年(1862)八月、没。享年四十一。


歴代鍋島藩主墓

 本堂裏手の石畳をたどっていくと、玉垣で囲まれた鍋島・龍造寺両家の墓地がある。これは、明治四年(1871)、鍋島直大が諸方の寺に散在していた祖先の墓を集めたものである。墓石のほか、数百に及ぶ石灯籠も並んでいて、壮観である。ここには初代直茂から九代斉直までの歴代藩主の墓が並んでいる(十代直正と十一代代直大の墓は春日山もしくは東京(麻布・賢崇寺および青山霊園)にある。

(江藤新平誕生地)


江藤新平誕生地

 佐賀市鍋島町八戸の江藤新平の生誕地である。生誕地には上の小さな碑が建てられているのみで、拍子抜けするほど何も残されていない。
 江藤新平は、天保五年(1834)二月九日、この地に生まれた。

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佐賀城西側 Ⅰ

2015年08月01日 | 佐賀県
(龍泰禅寺)
 明治七年(1874)の佐賀の乱で、佐賀城二の丸、三の丸が炎上したが、本丸の玄関、式台、外御書院、御居間などは焼失を免れた。のちに玄関、式台は解体され、龍泰禅寺の本図堂に移建された。なお、御居間は、大木喬任生誕地の公民館の建物として利用されている。

 龍泰禅寺山門東には、大隈重信の墓がある。大隈重信の墓は、東京護国寺と龍泰寺の二か所にある。


龍泰禅寺


純誠院殿義海全功大居士
大隈重信墓所


(妙覚寺)
 妙覚寺に本島藤大夫の墓碑があるはずだが、墓地まで踏み入れる時間がなかった。次回以降の宿題である。
 本島藤大夫は、文化七年(1810)生まれで、長く鍋島直正の近くに仕えた。一貫して佐賀藩の軍備面を担当し、御台場増築方、公儀石火矢鋳立方、蒸気船製造役局、海軍取調方などの役職を歴任した。明治二十二年(1889)、没。


妙覚寺

(宝琳院)
明治七年(1874)、佐賀の乱の際、島義勇は宝琳院に憂国党本営を置いた。


宝琳院

(多布施の反射炉跡)
 嘉永六年(1853)、ペリーの来航に危機感を覚えた幕府は、江戸湾防備のために品川沖に台場を新設し、そこに据える鉄製大砲を佐賀藩に依頼した。佐賀藩では多布施に公儀用の反射炉を増設し、安政三年(1856)までに鉄製二十四ポンド砲二十五門、三十六ポンド砲二十五門を納め、さらに百五十ポンド砲三門を幕府に献上した。また、文久・慶応年間には当時世界でも最高水準の技術を要する鋳鋼製アームストロング砲の製造に成功し、佐賀藩が当時の我が国の科学技術の最高水準にあったことを示している。


佐賀藩多布施公儀反射炉跡

 水車場では、水車を利用して鋳鉄に砲道を開ける錐鑚機が稼働していた。これに用いられた多布施川は、佐賀城外堀と城下住民への給水を目的とした用水で、成富兵庫茂安(1560~1634)が心魂を注いで築造した近代河川の一つである。


公儀石火矢鋳立所跡


佐賀駅前の反射炉模型

 佐賀駅北口には、多布施の反射炉を模したモニュメントが置かれている。

(護国神社)


護国神社


戊辰戦争記念碑

 佐賀の護国神社は、明治三年(1870)、旧佐賀藩主鍋島直大が、戊辰戦争で戦死した藩士七十八柱を祀ったのが始まりで、その後佐賀の乱の戦死者も合祀した。明治八年(1875)、招魂社となり、昭和十四年(1939)、佐賀県護国神社と改められた。

(本行寺)


本行寺


明治十有四年五月建 江藤新平君墓

 本行寺には江藤新平の墓がある。墓碑は副島種臣の書。同墓地には、新平の妻や子孫で、政治家となった江藤夏雄らの墓もある。
 江藤新平の辞世が残されている。

 ますらをの涙を袖にしぼりつつ
 迷う心はただ君がため

 明治二十二年(1889)、刑名を除かれ、大正五年(1916)五月、正四位を追贈された。


(専修寺)
 専修寺に佐賀藩士中村奇輔の墓がある。中村奇輔は、工芸技術者として、長崎に来航したロシアの軍艦に乗船して視察し、また佐賀では当時の理化機械等あらゆる工業の試験研究所であった藩の精錬所で新しい技術者を養成した。一方、電信機の製作にも成功したが、のち実験中に火傷を負い、廃人となった。


専修寺


中村奇輔墓

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佐賀城東側

2015年08月01日 | 佐賀県
(大隈重信記念館)


大隈記念館


大隈重信侯生誕之地

 大隈重信生家跡には、立派な記念館が建設され、旧宅もここに保存されている。


旧宅跡

 この建物は、約二百年前の天明・寛政の頃に建てられた、禄高三百石取りの住居といわれる。当初は佐賀特有の凹型の屋根を持ったクド造りの建物で、藁葺、木造の平屋であった。大隈家は代々兵法家で、特に父信保(のぶやす)は荻野流砲術家として名声があり、禄高三百石の石火矢頭人(砲術長)であった。幕末には長崎警備に就き、砲台で勤務していた。天保三年(1832)、信保はこの家を買い取り、同九年(1838)二月、この家で重信が生まれた。重信は六歳のとき藩校弘道館に入学したが、母三井子の考えによって、勉強部屋が二階に増築され、これが住宅の中央部に位置している。


大隈重信の勉強部屋

 大隈重信記念館に入ると、いきなり重信の義足が展示されている。この義足はアメリカのAAマークス製で、所有していた三足の義足のうちの一つである。座ることの多い日本の生活様式にはあまり合わず、ひざ関節部の損傷が激しくなっている。


大隈記念館


大隈重信使用の義足

 館内には大隈重信の肉声による演説録音が流されている。重信の演説は熱してくると「であるのであるのである」と畳みかけるのが特徴であった。
 記念館二階は、まるで早稲田大学の宣伝のようであった。


大隈重信像

 大隈重信は、佐賀藩士大隈信保の長男として、天保九年(1838)、城下会所小路に生まれた。幼名を八太郎といった。六歳で藩校弘道館に入学、十七歳で蘭学寮に入った。長崎に英学校致遠館が開校されると、副島種臣とともに学生の監督として趣き、フルベッキに学んだ。明治元年(1868)、新政府が誕生すると、直ちに外国事務判事となり、諸外国との衝に当たった。明治三年(1870)には四参議の一人となり、内外国債の整理、金本位制を導入し、十進法の「円」に改めるなど、通貨制度を一新した。この頃、東京・神戸間の鉄道敷設にも着手した。明治六年(1873)征韓論が決裂し、同じ佐賀藩出身の副島、江藤が下野したのには従わず、閣内にとどまった。しかし、明治十四年(1881)、国会開設の意見書を提出して薩長勢力と対立し、参議を解任された。いわゆる「明治十四年の政変」と呼ばれる。翌年、立憲改進党を結成してその党首となり、イギリスを手本とした言論の政治を志した。その秋、早稲田大学の前身東京専門学校を設立。新しい国、時代に備える人材の育成に乗り出した。明治二十一年(1888)、黒田内閣の外務大臣として入閣。不平等条約の改正に尽力するが、不満を持つ暴徒に爆弾を投じられ、右脚を失った。明治二十八年(1895)、進歩党を結成して、野党勢力を結集した。翌年には松方内閣の外務大臣として入閣を果たし、日清戦争の戦後処理に当たった。そして明治三十一年(1898)、第一次大隈内閣を組閣。「隈板内閣」と言われ、寿命は短かったものの、日本憲政史上初の政党内閣として歴史を刻んだ。明治三十五年(1902)、東京専門学校を早稲田大学に改め、その後年後。総長に就任した。大正三年(1914)、七十六歳で再び総理大臣に就任。二年間の首相在任中に第一次世界大戦開戦という難局にも当たった。大正十一年(1922)、八十四歳にて死去。国民葬には百五十万人が参列したという。

(南水公民館)


大木喬任誕生地

 大木喬任は、天保三年(1832)この地に生まれ、長じて佐賀藩校弘道館に学んだ。枝吉神陽らの影響を受けて勤王の志を抱き、義祭同盟にも参加。中野方蔵、江藤新平らと親交を結び、佐賀藩の勤王活動に参画した。明治新政府に招かれ、江藤新平とともに江戸遷都を建議し、その実現のために奔走した。のち民部、文部、司法各卿、東京府知事、文部大臣、司法大臣、枢密院議長などを歴任したが、特に文部・司法は大木の独壇場と称された。明治五年(1872)、初代文部卿として「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」を実現するために学制を発布し、近代国民皆学の基礎を築いた功績は大きい。明治三十二年(1899)没。

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佐賀城南側

2015年08月01日 | 佐賀県
(構口番所跡)


構口番所跡

 佐賀城下の東の入口が構口である。長崎街道は、構口から牛島町、柳町、元町、白山町、多布施町、伊勢町、六座町を経て、八戸町に至る。構口には番所が設けられ、当街道を旅する人は必ずこの番所を通らねばならなかった。

(宗龍寺)


宗龍寺

宗龍寺は、明治七年(1874)の佐賀の乱の折、憂国党および征韓党が集合した寺院である。


(乾亨院)


乾亨院

 乾亨院には、佐賀の乱で戦死した官軍の墓碑三基がある。


佐賀の乱官軍墓地

 戦死したのは、熊本鎮台第十一大隊士官二十名、兵卒七十五名、軍属九名など合計百七名である。三基の墓碑表面にはいずれも明治七年 佐賀役戦死者之墓と書かれているが、裏面には階級に応じて、その階級、所属、身分、氏名が刻まれている。


朝倉尚武(弾蔵)之墓

 官軍墓地からさほど離れていない場所に征韓党の首脳の一人、朝倉弾蔵尚武の墓がある。

 乾亨院に隣接する空き地(公園か?)が、龍造寺隆信の生誕地で、大きな記念碑が建てられている。

(副島種臣・枝吉神陽誕生地)


副島種臣先生生誕生之地

 佐賀城の南側の堀端に接した場所に副島種臣、枝吉神陽兄弟の誕生地がある。

 枝吉神陽は、文政五年(1822)、枝吉種彰(南濠)の長男としてこの地に生まれた。幼時より神童ぶりを発揮し、二十歳にして江戸の昌平黌に学んだが、たちまち学才群を抜き、舎長に推された。二十六歳で帰郷して、藩校弘道館教諭となり、父南濠の唱えた「日本一君論」を受け継ぎ、同窓を集めて義祭同盟を結成した。この義祭同盟からは維新を推進する幾多の人材を輩出した。彼らに与えた影響の大きさから「佐賀の吉田松陰」とも称される。

 副島種臣は、文政十一年(1828)、枝吉南濠の二男としてこの地に生まれた。安政六年(1859)副島家の養子となる。長崎では大隈重信とともに致遠館の責任者となり、フルベッキの薫陶を受けた。このことが維新後外務卿として活躍した際に役に立った。兄神陽や父の感化を受けて尊王活動に参加。維新後は新政府に招かれ、参与、参議、外務卿、内務大臣等を歴任した。その間、樺太境界についてロシアと談判し、明治五年(1872)、ペルー船マリア・ルース号に奴隷として監禁されていた清国人を解放するなど、副島外交の名を内外にうたわれた。のちに中国で日清修好条約を締結。さらに琉球が日本国領であることを認めさせた。和漢の学問に通じ、その学殖と高潔な人柄をもって明治天皇の一等侍講を務めた。また蒼海という号を有し、明治を代表する卓越した名筆家、漢詩人としても知られた。

(佐賀清和高体育館)


島義勇屋敷跡

 島義勇は、(1822)佐賀藩士島市郎右衛門の子として佐賀城下に生まれた。幼名は市郎助、長じて団右衛門と名乗ったので、「団にょさん」という愛称で呼ばれた。藩校弘道館で学び、各地で三年間遊学した後、弘道館に勤務して藩主直正の側近となった。安政三年(1856)、直正の意向を受け、北海道樺太を探検し、「入北記」をまとめ、北方防備とロシアとの交易の参考資料とした。戊辰戦争に従軍した後、直正が蝦夷地開拓を命じられると、開拓使首席判官に任じられ、特に札幌の都市計画の先鞭をつけた。その後、明治天皇の侍従や秋田県令を歴任。しかしながら明治七年(1874)、憂国党の首領となって佐賀の乱を起こすが、政府軍によって鎮圧された。
 この場所は、明治維新前後に、島義勇一族が住居としていたところである。

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佐賀城北側 Ⅱ

2015年08月01日 | 佐賀県
(城雲院)
 城雲院には、初代東京医学校校長を務めた相良知安の墓がある。知安の墓を探して墓地を歩いていると、住職が出てきて場所を教えてくれた。


城雲院


鐡心院覺道知安居士(相良知安墓)

 相良知安は、天保七年(1836)、佐賀城下八戸町に生まれ、幼名を弘庵といった。生来明敏強情な弘庵は、佐賀藩医学校、佐倉の佐藤尚中の順天堂塾、長崎の精得館に進み、蘭医学の研鑽を積んだ。その後、佐賀に帰って鍋島直正の侍医を命じられ、慶応四年(1868)、直正に従って上京した。明治二年(1869)一月、新政府から医学校取調御用掛に任じられ、医学制度改革を命じられた。続いて徴士、大学少丞、権大丞に抜擢された。このとき新日本医学は従来の蘭英医学を廃して、専らドイツ医学に依るべきことを強く建議し、東奔西走してその要を説き、明治二年(1869)五月、遂に容れられた。明治五年(1872)、第一大学区医学校校長、文部省築造局長兼医務局長に任じられ、医学体系をドイツ式に整え、現代日本医学の基礎を確立した。明治三十九年(1906)没。

(称念寺)


称念寺


佩川草場先生之墓

 草場佩川は、天明七年(1787)、佐賀藩儒の家に生まれた。幼時に父と死別し、邑主多久長門の命により藩校弘道館に学び、長崎にて華語を学び、文化六年(1809)、江戸に出て古賀精里に師事した。文化八年(1811)、精里に従って対馬にて朝鮮信使に応対し、詩文の交歓をした。帰国後、邑主に侍して学監となり、藩校の学風を定めた。安政二年(1855)、将軍に召されたが辞退。佐賀本藩の侍講として世子鍋島直大を教導した。詩文・和歌のほか武術にも長じ、安政三年(1856)には槍隊長も務めた。また、初め江越繍浦について南蘋流の画を学んだが、のちには墨竹を得意とした。慶応三年(1867)、年八十一歳で没。


圯南武富先生墓碑

 武富圯南は、通称文之助。佐賀城下に生まれ、中村嘉田に学び、のちに江戸に出て古賀侗庵の門に入った。佐賀に戻って藩校弘道館教授として子弟の教育に当たった。詩文、書画にも優れた。廃藩後は江戸に移り住んだ。東京青山霊園にも墓がある(もちろん掃苔済みである)。

(楠神社)
 楠神社は、安政五年(1858)佐賀藩執政鍋島安房が造営したものである。楠公父子の桜井の驛における訣別の像が祀ってある。この像は寛文二年(1662)、佐賀藩士深江平兵衛入道信渓が京都の仏師に製作を依頼して、同三年、佐賀郡大和町永明寺に小堂を建てて祀ったもので、それから百八十年後、佐賀藩校弘道館教授枝吉神陽らが古文書によって楠公父子像を発見し、嘉永三年(1850)、義祭同盟を組織して深江信渓の末裔、深江俊助種禄を盟主として高伝寺の末寺梅林庵において盛大なる祭典を行った。これが義祭同盟の起こりであり、佐賀勤王論の始まりであった。藩主直正も義祭同盟を支持したため、時の執政鍋島安房は安政五年(1858)、五月、八幡神社境内に新装された社殿で盛大な義祭を挙行した。このとき同盟に参加したのは、江藤新平、大木喬任、副島種臣、島義勇らであったが、当時十七歳の大隈重信、十六歳の久米邦武も参列していた。


楠神社

 義祭同盟は、明治十三年(1880)まで毎年五月二十五日に厳粛な義祭を行い、祭典終了後は無礼講として談論風発、悲憤慷慨して縦横の議論を闘わせたという。ここから明治政府を支える人材を輩出したのである。


義祭同盟之地碑

(徴古館)
 佐嘉神社の西隣りの現在徴古館(鍋島家史料館)のある辺りが藩校講道館の跡地である。天明元年(1781)の創建当時には、この場所よりさらに北側にあったが、天保十一年(1840)、この地に移された。創建当時には、「寛政の三博士」の一人、古賀精里が招かれ、藩士子弟の教育に当たった。
 ここで教授されたのは、儒学や佐賀藩の歴史、武道などであったが、いわゆる「葉隠」が授業で用いられたことはなかったという。
弘道館から江藤新平、副島種臣、大隈重信、大木喬任、佐野常民といった人材が巣立っている。


徴古館


弘道館記念碑

 私が徴古館を訪れたとき、残念なことに休館であった。ゴールデンウイークのような観光シーズンにこそ、営業してもらいたいものである。

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佐賀城北側 Ⅰ

2015年08月01日 | 佐賀県
(佐嘉神社)


佐嘉神社

 佐嘉神社は昭和八年(1933)に造営された神社で、直正と直大を祭神としている。

 ここにもアームストロング砲と鉄製カノン砲、それに七賢人の碑などがある。


佐賀の七賢人碑

 七賢人とは、鍋島直正、大隈重信、江藤新平、大木喬任、佐野常民、島義勇、副島種臣をいうが、彼ら以外にも、電信機器を製作した中村奇輔、からくり儀右衛門こと田中儀右衛門父子、アームストロング砲を研究した秀島藤之助ら、多彩な人材を生んでいる。佐賀藩は、特に科学技術の分野に優れた人材を輩出した。


佐賀藩鋳造鉄製150ポンド砲(復元)

 佐賀藩では、寛永十九年(1642)から長崎の警備に当たってきた。文化元年(1804)ロシア使節レザノフの来航、さらに文化五年(1808)にはイギリス軍艦フェートン号の長崎港侵入があり、長崎港の警備は緊迫した空気に包まれた。鍋島直正が十代藩主に就くと、外国からの脅威に対抗するため、長崎港周辺の台場の増設と洋式大砲の設置の必要性を痛感し、嘉永三年(1850)、築地(現・日新小学校)に反射炉を築き、我が国最初の鉄製大砲の鋳造に成功した。嘉永六年(1853)、ペリーが来航すると、幕府は江戸湾防備のため品川沖に台場を新設し、大砲を佐賀藩に注文した。これを受けて、佐賀藩では多布施に公儀用の反射炉を増設し、安政三年(1856)までに24ポンド砲二十五門、36ポンド砲二十五門を納めた。さらに150ポンド砲三門を幕府に献上した。また当時、世界で最高の技術を要するアームストロング砲を佐賀藩では元治~慶応年間に三門鋳造することに成功している。


9ポンド アームストロング砲

 アームストロング砲は、イギリス人アームストロングが1854年頃発明したもので、元込め式、長弾使用、砲身の螺旋状溝などの特徴を持ち、飛距離、正確さ、破壊力とも従来の砲に比べ、際立った性能を持っていた。当時世界最高技術であったアームストロング砲を、文久三年(1863)、佐賀藩は独力で製造することに成功し、慶応四年(1868)五月、上野に籠った彰義隊を二門で砲撃した。また会津戦争でもその威力を発揮した。

(蓮成寺)
 江藤新平の墓は市内本行寺にあるが、初めは鍋島町の蓮成寺に葬られた。江藤新平の孫にあたる江藤冬雄は、「南白江藤新平実伝」では「家永、浦、中村の三人に協力、南白の遺骸を棺に納め、佐賀城の北西一里、江藤家の菩提寺、鍋島村木の角在、蓮成寺に運び、山門を潜ってすぐ左手、現在、三十六番神(三十番神の誤記と思われる)を祀ってある所に鄭重に葬った。」とある。


蓮成寺


三十番神堂

 江藤新平が最初に埋葬されたとされる三十番神堂である。ただし、蓮成寺住職によれば、三十番神のお堂は、この寺に古くからあったもので、そこに新平の墓を建てたとは考えにくい。三十番神のお堂に仮安置したのち、本堂西側の江藤家墓所に埋葬。明治十四年(1881)に本行寺に改葬という順序ではないかという。

(神園公園)


神園公園

 神野公園は、旧藩主鍋島閑叟の別荘で、弘化三年(1846)、造成。一般に「神野のお茶屋」と呼ばれていたが大正十二年(1923)に公園として市民に開放され、佐賀市が管理することになった。園内には多布施川の清流を引いて池を造り、小山を築いて四季の植物を配した日本式庭園と、睡蓮池と展望台を備えた洋式庭園があり、動物園、遊園地なども設置されている。


江藤新平像

 神野公園には江藤新平像がある。昭和五十一年(1976)、江藤新平卿記念碑建設委員会が建立したものである。
 佐嘉の乱で処刑された江藤新平の罪名が消滅したのは、大正元年(1912)のことで、大正五年(1916)には正四位を復位追贈された。


神野のお茶屋

 神野のお茶屋は、佐賀藩十代藩主鍋島直正(閑叟)が弘化三年(1846)に築いた別荘である。木造平屋の寄棟造り藁葺一棟と、木造平屋の四方廻屋根藁葺一棟の二棟から成り、二棟を瓦葺の廊下で繋いでいる。
 この別荘は、大正十二年(1923)に直正の嫡孫直映から佐賀市に寄付され、以来神野公園として一般に公開されている。


隔林亭

直正公の茶室隔林亭は、弘化三年(1846)に直正によって建立された。フルベッキや大久保利通が来訪するなど、佐賀藩の迎賓館的機能を有していた。明治維新後、数々の人の手に渡り、第二次世界大戦、解体されその歴史を閉じたが、平成五年(1993)、当時の資料を参考に復元されたものである。

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佐賀城

2015年08月01日 | 佐賀県

幕末の佐賀を語るとき、藩主鍋島閑叟(直正)の存在を抜きに語ることはできない。カリスマ性という意味では、あるいは薩摩の島津斉彬や水戸の斉昭の方が上かもしれないが、維新まで生き抜いて藩を引っ張ったという意味では閑叟に軍配が上がる。熱心に洋学を振興したという点では宇和島の伊達宗城も負けていない。しかし、人材の育成という観点でいえば、佐賀の弘道館の歴史は長い。佐賀藩では、閑叟が藩主を継ぐ五十年近く前に藩校を開設している。人材の育成には長い年月が必要である。幕末に至って佐賀の人材が花開いた底流には、長年にわたる教育熱が存在していた。
佐賀にも、土佐勤王党のような一つ間違うと討幕勢力となりうるグループがあった。枝吉神陽が主催した義祭同盟がそれである。だが、佐賀藩が土佐と異なったのは、藩主が強烈に藩士を統御しながらも、政治的には無色であったことであろう。一時期、江藤新平が脱藩して政治活動に走ったことがあったが、基本的には藩士はよく統制されていた。
幕末の政局に佐賀藩はほとんど登場しなかった。つまり、薩長土三藩とは比べものにならないくらい血を流すことは少なかった。それでも明治新政府には有能な人材を送り込んで、存在感を示した。それが「七賢人」と呼ばれる人たちである。七賢人とは、鍋島閑叟、島義勇、江藤新平、大木喬任、佐野常民、副島種臣、大隈重信のことをいう(これに枝吉神陽を加えて、八賢人と呼ばれることもある)。
新政府の要職を独占した薩長両藩も、佐賀人の持つ(特に西欧文明に関する)卓越した知識、実務能力、構想力に頼らざるを得なかったのであろう。全国三百藩の全てが佐賀藩のようであれば、維新は成らなかっただろうが、佐賀藩のような存在があったから、維新が成ったのもこれまた事実である。


(佐賀城)


佐賀城

 佐賀城は、鍋島三十五万七千石の居城である。享保十一年(1726)の大火で天守ほか本丸の大半の建造物を失い、また明治七年(1874)の佐賀の乱で戦火に見舞われたため、城内には石垣以外ほとんど遺構らしきものは見当たらない。


鯱の門


佐賀の乱の弾痕

 鯱の門は、本丸の門として天保六年(1835)の火災後に建造されたもので、天保九年(1838)に完成した。現在、佐賀城の数少ない遺構の一つとなっている。明治七年(1874)の佐賀の乱における弾痕が生々しく残っている。


本丸歴史館

 本丸御殿は、慶長十三年(1608)から慶長十六年(1611)の佐賀城総普請により造営されたが、享保十一年(1726)の大火で焼失し、その後百十年間再建されることはなかった。その間、藩政は二の丸を中心に行われた。ところが、その二の丸も天保六年(1835)に火災に襲われ、藩政の中核を失うことになる。そこで藩主鍋島直正は、それまで分散していた役所を集約し、行政機能を合わせ持つ、本丸御殿を再建した。現在、本丸御殿を忠実に再現した本丸歴史館がその跡地に建設されている。


アームストロング砲

 アームストロング砲といえば佐賀である。佐賀の人にとって、戊辰戦争で威力を発揮したアームストロング砲や当時の先進性を示す大砲は、余程の誇りなのかもしれない。市内の至るところで見ることができる。本丸歴史館の前にもアームストロング砲と大砲が置かれている。


モルチール砲

 本丸歴史館前に置かれている洋式砲は、モルチール砲(臼砲)と呼ばれ、西洋砲術の開祖高島秋帆によって作られた。この洋式砲の背中には、「冠軍」という銘がある。もう一方の大砲は長崎神ノ島砲台に配備されたものである。


冠軍の銘


先憂後楽の書(閑叟の書)


(県立博物館)
 県立博物館裏庭に、十三烈士の碑がある。江藤新平、島義勇以下佐賀の乱で処刑された幹部十三名の名前を刻したもので、彼らの賊名を注ごうという郷土の人たちの強い想いを感じる。

 江藤新平 島 義勇 重松基吉 中川義純
 副島義高 福地常彰 山田平蔵 村山長栄
 西 義質 朝倉尚武 山中一郎 香月経五郎 中島鼎蔵


十三烈士の碑

(万部島公園)
 万部島というのは、佐賀城の古い絵地図によれば、東堀に半島状に突き出た場所で、今も四方を堀で囲まれている。


佐賀の役記念碑

 万部島公園には、歴代鍋島藩主が国家安全、万民安楽を念じて法華経を拝誦し、その結願を祈念して建立した石塔十一基がある。
 同じ公園の南隅に、大正九年(1920)建立の佐賀の役記念碑がある。佐賀の乱による戦死者百二十二名を祀る招魂碑である。
 佐賀の乱前夜の佐賀には、征韓論の実行を主張する征韓党と、政府の欧化政策に反対する保守的な憂国党の二大士族グループがあった。征韓党は江藤新平を首領に迎え、憂国党は前秋田県令島義勇を党首とした。明治七年(1874)、両党は連携して小野組の金品を奪って蜂起した。その人数は一万人を超えたといわれる。江藤はひとたびことを起こせば、全国の反対分子が相次いで呼応すると期待していたが、その足並みはなかなかそろわなかった。一方、佐賀における不穏の動きを察知した政府の動きは速かった。二月四日には陸軍省に出兵を命じ、内務卿大久保利通に兵馬の全権を授任して現地に出張させた。岩村高俊を佐賀県権令に任じ、岩村は熊本鎮台兵を率いて十五日には佐賀城に入った。翌十六日より戦闘が開始され、佐賀士族軍は一時佐賀城を奪還したものの、二月二十二日には洋式訓練を受けた政府軍が攻勢に転じ、敗走した。
 江藤新平は佐賀を脱して鹿児島の西郷隆盛を頼ったが、西郷は動かず、渡海して四国にわたり、高知で林有造、片岡健吉らと面会するも、ただ自首を勧められたのみであった。江藤はなおも東上を試みたが、高知県東端の甲の浦で逮捕され、佐賀に護送された。直ちに佐賀で開かれた軍事裁判により、同年四月十三日、江藤新平、島義勇らは処刑、梟首された。ほかにも参加した士族は、斬首、懲役、除族、禁固の刑に処された。

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