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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「幕末の大奥」 畑尚子著 岩波新書

2015年08月28日 | 書評
本書は平成十九年(2007)の年末に刊行されたもので、明らかに翌年の大河ドラマ「篤姫」を意識したものである。ただし、大河ドラマの放映も終了して七年が経過してなお書店に並んでいるということは、大河ドラマとは別に相応の評価を得ているという意味であろう。
副題に「天璋院と薩摩藩」とあるように、天璋院と薩摩藩を中心に取り上げている。
本書によれば、「多摩地域の女性は、江戸城大奥や徳川家一門、譜代大名家に奉公に行くことが多い(P.144)」そうで、その中の一人として、八王子宮下村の名主荻島家の娘、喜尾(まさ・滝尾とも)を取り上げている。この人は、薩摩藩の奥女中右筆を務め、その間数多くの書簡を残している。八王子郷土資料館では「荻島家文書」としてこれをまとめて発刊している。本書では、荻島家文書によって、当時のかなりリアルな大奥の風景を描き出すことに成功している。これによれば、薩摩藩始め、各藩は大奥を通じて盛んに情報戦や外交を展開していたことが分かる。
東征軍が江戸に迫ると、和宮(静寛宮)と天璋院は、ともに実家に働きかけ、江戸城総攻撃の中止、徳川家の存続、慶喜の助命嘆願に動いた。一般には、勝海舟と西郷隆盛の会談により江戸城無血開城が成ったとされるが、本書では、「攻撃中止は天璋院の書状を受け取ったときにほぼ決まっていた(P.179)」とする。本当にそうなのだろうか。両雄の会談の前に天璋院の書状が西郷に届いたことは検証されているが、それを受け取った西郷が即座に攻撃中止を決定したのか。その点については何の解説もないのだが、もう少し裏付けを明確にしてもらいたかった。

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「幕末の下級武士はなぜイギリスに骨を埋めたのか」 村田寿美著 祥伝社

2015年08月28日 | 書評
幕府が各国と修好条約を結ぶと、続々と外国商人が我が国にやってきた。これに対し、幕府は使節団を欧米に派遣した。維新前後には藩が競って優秀な若者を留学生として海外に送り出した。これが我が国における海外との人材交流の端緒だと思っていたが、ところがどっこい、実は幕末から明治にかけて、いわゆる曲芸師といわれる人たちが、欧米で公演を開き、熱烈な歓迎を受けていた。彼らは民間使節の役割も果たしていた。
曲芸師の一団は、何か歴史的な事件や経済活動に大きな枠割りを果たしたわけでもないので、あまり大きく取り上げられることもなかった。本書では「近藤筆吉」という一人の曲芸師の崇高な生き様を追うことで、この時代の日本人の精神性を浮き彫りにした。
本書によれば、筆吉は曲芸師の一人(筆者によれば、厳密にいえば筆吉は曲芸師ではなく、曲芸団における大道具掛のような役割であったらしい)として海を渡り、アメリカ、ヨーロッパを経由してイギリスに渡り、各地で巡業を続けていた。そしてブリストルで売春婦のジュリアと出会う。間もなくジュリアは妊娠し、筆吉は彼女との結婚を決意する。つまり母国と決別し、異国に骨を埋めることを決心したのである。
筆吉は、その頃、一種のブームとなっていた日本人村の建設などに関わり生計を立てていたが、その後、馬丁として雇われ、継いでブライトンで聖バーソロミュー教会の教会守という職に就く。以来、筆吉は二十四年に渡って教会守の職にあった。
筆吉は、言葉が不自由であった。同教会の50年史には「哀れなことにフデは、最期まで我々の言葉を理解できず、教会を訪れた人々は彼と会話することが困難であった」と記されている。「彼はいたるところに気を配って立ち働いていた。フデは仕事をしないでぶらぶらしていることがない。広い教会内を一人で掃除し、堂内は常に準備する人が出入するが、塵一つなく準備が整った」と彼の仕事ぶりを評価している。
筆吉は脳内出血を起こして、七十六歳の生涯を閉じる。ブライトンのウッドベイル市営墓地に、妻ジュリアとともに眠っている。墓石はない。
本書を読んでまず感じ入ったのが、よくもここまで無名の市井の人物の人生を調べきったものだということである。勿論、筆吉が日本で何をしていたかについては、調べても不明なところも多く、筆者が想像により補完している部分もある。
イギリスでは十年ごとに国勢調査が行われ、その結果は百年後に公開されている。この記録はオンライン・データとして誰でも利用可能で、かの国ではこれを利用してファミリー・ヒストリーを調べることが盛んに行われているという。そういうインフラが整っていたことが筆者の調査を助けたことは間違いないが、それ以上に筆者の執念によるところが大きいであろう
筆者は、筆吉は「乞胸(ごうむね)」と呼ばれる音曲で生計を立てる階層の出身とする。乞胸は、と同じく層の一つであり、武士と呼ぶにはやや抵抗がある。本書のタイトルに「下級武士」とあるが、我々が通常「武士」と聞いて連想するような武士とはちょっと違うことは銘記しておくべきであろう。
筆吉には、ジュリアと子供を残して、母国に帰るという選択肢もあったかもしれない。敢えて妻子ともに異国に骨を埋める選択をしたところに、この人物の道徳心の高さを感じる。恐らく同時代のイギリス人にもそれが伝わり、言葉は通じないながら、畏敬の念をもって接したのではなかろうか。

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「日本の名字」 武光誠著 角川新書

2015年08月28日 | 書評
我が国には十二万種近い名字があるそうである。お隣の韓国・中国と比べれば、明らかに数も多いし、多様である。一方で意外なことに欧米には姓の種類が多いらしく、アメリカでは百万以上の名字があるという。著者武光誠氏の専門は古代史らしいが、幕末に至るまで広く一般向けの書籍を上梓されている。特に藩や県民性に関する書物も多く、その方面にも造詣が深い。
本書では、都道府県ごとに偏在する名字などの解説がとても興味深かった。これまで私も四国・九州に転勤で住んだことがあるが、その都度、その県特有の名字の存在に気付かされた。
たとえば、愛媛県でもっとも多い姓は、(本書でも紹介されているように)村上である。村上水軍の流れを引いているといわれる。村上以外にも藤田、近藤、伊藤、加藤、安藤、高橋など、あまりに同姓が多いので、お互いに下の名前で呼び合うのが通例となっている。友人の加藤君が、高校受験のとき、一クラス全員が加藤だったという。
また、二十位までのランクには入っていないものもあるが、曽我、曽我部、青野、越智、真鍋、小野という名前が多いのも際立った特徴である。
宮崎県にいけば、ランクトップは黒木である。ランク外ではあるが青木、白木、甲斐も妙に多い。鹿児島では、園・薗・元という漢字を使った姓が多い。こういった都道府県ごとの特徴ある名字について、本書でも触れられているものの、概ねランク二十位までの分析にとどまっている。住んでみて実感するのは、数の多さで並べるとランク上位には入らなくとも、「何だか妙に多い」と感じる姓が多いことである。個人的にはもう少し突っ込んだ解析をして欲しかったと思う。
著者は「名字は一つの地域の歴史を伝える興味尽きないものである。この名字を手掛かりに、公式の歴史ではわからないさまざまな史実が浮かび上ってくる」という。全く同感である。
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「はじめての古文書教室」 林英夫監修 吉川弘文館

2015年08月28日 | 書評
やや僭越な物言いであるが、歴史の真実に近づくためには、古文書を自力で読めなくてはいけないのではないかと思い立ち、書店でこの本を入手した。これまで読んできた書籍等で、候文は比較的読み慣れている方なので、古文書独特のくずし文字も何とかなるのではないかと軽い気持ちで読み始めたが、そう簡単なものではなかった。著者の「習うより慣れろ」「ほかに王道はない」という言葉通りであろう。
仕事柄、議事録をとらなくてはいけないことが多いが、あとから自分が速記したメモを解読できなくて、四苦八苦している。もともと字が汚い上に、勝手にくずしているから、書いた本人はもとより、誰が見ても読めない文字になってしまう。
「読めない」という意味では古文書もなかなか読めないが、実は一定の法則があるので、その法則(要するにコツ)さえつかめば少しずつではあるが、読めるようになるという仕組みである。裏を返せば、自分のメモが解読不能なのは、法則性がないからである。一見すると、アリの行列のような、流れるような暗号を後世の者が「是ハ善右衛門様へはま二而上申候」と読むことができるのは神業である。この域に達するまでは、まだ何年もかかりそうである。引き続き勉強が必要です。

コメント (4)
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