史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

嬉野

2015年08月16日 | 佐賀県
(嬉野温泉)


シーボルトの湯

 シーボルトはオランダ商館長の江戸参府に随行した際、嬉野温泉で、通常藩主のみが使用する温泉場(現・古湯温泉)で寛いだ。シーボルトが訪れた頃、古湯温泉は鍋島藩の温泉場であり、隣接する東屋は鍋島藩の「湯の番所」であった。シーボルトはここで温泉玉子を食したと記録が残る。また、現在この地域の特産品である嬉野茶も、シーボルトが当地に伝えたといわれる。

(俵坂)


俵坂

 俵坂まで来れば、長崎県まであと少しである。江戸時代、ここは佐賀藩と大村藩の藩境であった。この地に番所が置かれ、平時は侍一人、足軽九人が常駐していたという。現在、関所跡に建つ石碑は、当時の門柱の石材を使用している。
 この関所のことを吉田松陰も日記に記しているし、坂本龍馬もこの道を往復したことであろう。ここから見る風景は、江戸時代とさほど変わっていないのではないか。


俵坂関所遺跡

 俵坂をあとにして大村空港を目指す。今回の長崎・佐賀の旅(五泊六日)は以上で終了である。寝坊した一日を除いて、連日日之出前に起きて、日没まで走り回った。この間、ほとんどまともな食事も取らず、ひたすら史跡を追った。無精髭を伸ばして、朝から汗だくになって撮影した画像は約千三百枚に及んだ。嫁さんからは連休中ずっと家を空けていたことに呆れられ大いに顰蹙を買ったが、個人的には夢のような時間であった。これで長崎・佐賀の史跡を全て回れたというわけではない。また機会を作って、両県の史跡を歩いてみたい。
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有田

2015年08月16日 | 佐賀県
(正司考祺生家)
 有田町岩谷川内の山の中、有田中学校の西側に正司考祺の旧宅がある。正司考祺(碩渓)は、寛政五年(1793)、この地に生まれた町人学者である。父は正司正三郎。出雲の尼子氏の家系と伝えられ、肥後を経て有田西山村に移り、その後、有田皿山に移り住んだといわれる。曽祖父の源七郎のときに絵筆の販売を業とするようになり、兄儀六郎は窯焼きとなって、考祺が家業を継ぐことになった。考祺は家業の傍ら、読書を好み、勉学に励んだ。儒学を基にした経世論などを残している。天保三年(1832)、「倹法富強録」を著し、佐賀藩主側近の古賀穀堂に提出した。ほかに「経済問答秘録」「家職要道」などを著した。文政十一年(1828)、皿山(内山)の大半を焼失し、死者数十人を出した大火の際、私財をなげうって救済したという。


正司考祺生家

 ここで写真を撮っていると、正司家から住人が出てきて、言葉を交わした。
「随分、早いですね。」
と言われたが、確かに私がここを訪れたのは、午前六時にもなっていない早朝で、この時間にここを訪問しようという人は稀有といえるだろう。


正司考祺旧宅

(正司家墓地)
 旧宅から徒歩数分の場所に正司家の墓地がある。その中に正司考祺の墓もある。


碩渓先生之墓(正司考祺の墓)

 正司考祺は安政四年(1857)十二月、六十四歳にて死去。

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武雄

2015年08月16日 | 佐賀県
(儒者河原幡平の墓)


寶屈道珠居士(河原幡平墓)

 実は平山醇左衛門の墓を求めて、武雄市山内町鳥海を早朝から走り回ったが、行き当らず。代わりに?河原幡平の墓を偶然発見した。
 河原幡平は、松浦党の一族、河原道助、貞の子で享和三年(1803)に生まれた。武雄領主二十代家信の家臣栗原帯刀の苗跡を継ぎ、栗原姓を名乗り、武雄鍋島家の家臣となった。武雄領内の第一儒学者であり、また政治家でもあった。号を思斎といった。蔵方役人や武雄藩校身教館の教授を務めた。しかし、領民救済の行動が領主の意思に合わず、家禄を没収され、浪人となった。以後、もとの河原姓に復し、文政年間は武雄に私塾を開いて、その後船ノ原に移した。船ノ原は領主の猟場で、鳥獣の捕獲禁止地区だったため、鳥獣の被害が大きく、見かねた幡平が佐賀藩主に直訴したため、領主は藩主から謹慎を命じられた。百姓たちは、幡平を恩人と崇めていたが、天保十四年(1843)五月、投獄され、同年十一月、白木塞で処刑された。行年四十。

(広福護国寺)


広福護国禅寺

 広福護国禅寺は、武雄温泉街から近い市街地にある。仁治三年(1242)、武雄領主後藤直明の発願で創建されたと伝えられる古刹である。寺には高麗・朝鮮から伝わったとされる画幅や釈迦如来像や四天王像などが安置される。私が訪れた時、本堂は工事中で、ちょうど出てこられた住職によれば、現在拝観できないという。


立野夢庵(元定)先生墓

 墓地には立野元定の墓がある。
 立野元定は、武雄鍋島家の家臣で儒者。幼少より学問を好み、六歳で漢詩を作り、神童と称された。清水龍門、松尾政孝、草場佩川らに学んだ。妻道子は、師清水龍門の娘である。初め武雄領の政治に参与し、のち邑校身教館の教授となった。元定は「三兵答古知機(サンペイタクチーキ)」によって兵学を講義した。戊辰戦争では部隊長として出陣した。帰郷後は自宅に家塾静好堂を開き、のちに中学校の教諭にもなった。生涯を通じて教育に情熱を注ぎ、多くの人材を育てた。墓碑には、谷口藍田による顕彰文が刻まれている。明治十九年(1886)没。

(円応寺)
 円応寺は、永正十六年(1519)に創建され、文禄年間(1592~96)に現在地に移されたという歴史を有する。江戸時代は、武雄鍋島家の庇護を受けてきた。墓地には武雄鍋島家の墓地があるが、ほとんど手入れがされておらず、木造の御霊屋はボロボロだし、雑草は永らく刈られた様子がない。目当てであった鍋島茂義の墓は探しきれなかった。

 鍋島茂義十左衛門は、寛政十二年(1800)の生まれ。文政五年(1822)、部屋住のまま本藩佐賀藩の執政を命じられたが、領内一統人別銀一人前定銀四匁の制定に反対して、同年十二月辞職し、翌年再び執政となった。また財政を核心しようとしてその処置が甚だ過激であったため、執政の職は自然消滅したが、またその翌年この職を命じられた。その後、西洋文化の輸入に努力、特に西洋砲術を高島秋帆に学び、武雄で大砲を鋳造した。天保五年(1834)、命じられて長崎の防備監覧のため長崎に出張した。同六年には佐賀城が炎上したため、城普請頭人を命じられた。天保八年(1837)には、種痘を領内に施行した。文久二年(1862)、六十三歳にて没。
 佐賀の鍋島直正(閑叟)にも多大な影響を与えたといわれる。幕末の佐賀が、他国に先んじて西欧の技術を導入してその面で先進国となった背景には、茂義の存在を抜きには語れない。


円応寺


戊辰戦死者墓

 円応寺に戊辰戦争で戦死した武雄領の藩士の合葬墓がある。墓標に刻まれているのは、「樋口泉兵衛親英 御厨源三郎源芳 馬渡栄助金秋 大古場佐吉包道 西邨喜八孝之 大渡岩太郎満房」の六名である。いずれも鍋島上総茂昌(茂義の長男)の率いる部隊に属していた。

 以下、「幕末維新全殉難者名鑑」の記載による。
 樋口泉兵衛は、慶應四年(1868)八月五日、羽後平沢にて戦死。二十七歳。
 御厨源三郎は、同年九月十二日、羽後長浜にて戦死。十七歳。
 馬渡栄助は、足軽。同年八月二十九日、羽後新屋村にて戦死。三十四歳。
 大古場佐吉も足軽。同年九月十二日、羽後追分にて戦死。二十二歳。
 西邨喜八は、明治元年(1868)九月二十七日、羽後観音森にて戦死。二十六歳。
 大渡岩太郎は軽卒。同年九月二十七日、同じく羽後観音森にて戦死。二十二歳。


(武雄市歴史資料館)


武雄市図書館

武雄市の図書館は、地方の図書館としては驚くほど立派な施設である。館内にはスターバックスが運営するカフェがあり、蔦屋の書店やCD・DVDレンタル店が併設されている。そういえば少し前にテレビのニュースでこの図書館のことが取り上げられていた。賛否両論あるようだが、試みとしては面白いのではないか。
私がこの図書館を訪れたのは、鍋島茂義が手掛けた蘭学資料を集めた「蘭学館」を見るためである。しかし、残念なことに武雄市図書館は、GW期間中は休館となっており、空しく引き上げるしかなかった。
蘭学館はこの施設内の歴史資料館内にあるとか、閉鎖されたとか、ほかに移設されたか、実は色んな説があって良く分からない。図書館の運営を民間に委託しようが、私は普段利用する者ではないのでどちらでも構わないが、貴重な郷土の史料を集めた施設は、大切にしてもらいたい。歴史を大事にしない街は、ロクな人間を育てない。

(花島公民館)


山口尚芳誕生地

 武雄市大字永鳥は、山口尚芳(ますか)を生んだ土地である。そういう史実でもなければ、東京からわざわざ訪れることも無い、とりたてて特徴のある街ではない。
 山口尚芳は天保十年(1839)五月、山口尚澄の子として武雄に生まれた。生家は花島公民館となっているが、地元では「太政官屋敷」と呼ばれている。この小さな田舎町から太政官の高官を生んだ誇りと驚きが入り混じった呼称である。
 尚芳、名は範蔵、治喜人といい、幼い頃から学問に優れ、第二十八代武雄藩主鍋島茂義に見込まれ、長崎で洋学・英語を習得し、佐賀の大隈重信や副島種臣らと交わった。明治四年(1871)には岩倉具視を全権大使とする米欧視察団の副使に任命された。帰国後は、元老院議官、会計検査院長、貴族院議員を歴任し、正三位勲一等を受けた。明治二十七年(1894)六月、死去。

(玉垂神社)
 玉垂神社の急な石段を登っていくと、その突き当りに山口家の墓所がある。その中に山口尚芳やその息尚義、範蔵らの墓がある。


玉垂神社


正三位勲一等山口尚芳墓

 岩倉使節団は明治四年(1871)十二月に横浜を発つと、明治五年(1872)にはアメリカ、イギリス、フランスを歴訪し、翌明治六年(1873)にはベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア、スイスさらにスエズ運河を経て、シンガポール、サイゴン、香港、上海を回り、同年九月、横浜に帰着するという長旅であった。

コメント (8)
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