史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

五所川原

2016年09月03日 | 青森県
(蓮華庵)
ここに来て雨が激しくなってきた。傘を持たないまま、五所川原の蓮華庵墓地を歩いた。


蓮華庵

どういうわけだか、中泊町(中里町と小泊町の合併により誕生)と五所川原市は入り組んでおり、地図で確認すると五所川原市(旧五所川原町と金木町・市浦町)は二つに分かれている。経緯は知らないが、いかにも不自然な合併である。


吉田松陰遊賞之碑

吉田松陰遊賞之碑の初代の碑が、五所川原市相内の蓮華庵墓地に残されている。

(史蹟神原の渡し)


史跡 神原之渡し
史蹟十三館岡街道 吉田松陰ゆかり之地

岩木川を北上した松陰は、途中で道を間違えたことに気が付き、もう一度川を渡って神原に出た。古くから神原の渡しとして知られた場所である。石碑の一面には「史跡 神原之渡し」と記され、もう一面には「吉田松陰ゆかりの地」と刻まれている。

(金木町元気村)


かなぎ元気村 かだるべぇ

五所川原市金木町の蒔田という集落の中に「かなぎ元気村 かだるべぇ」というカフェがあり、その前庭に「吉田松陰 宮部鼎蔵 巡見之碑」という、比較的新しい石碑が建てられている。彼らが当地を訪れたのは、嘉永五年(1852)三月三日のことで、昼食をとったといわれる場所は石碑のある地点から五十メートルほど進んだ右側である。昭和二十五年(1950)、当時蒔田小学校となっていた田中長十郎屋敷跡の一角に、この学校の教員有志が「吉田松陰先生昼食の場所」という木製の記念碑を立てていた。時を経て朽ちかけてきたことから、平成二十七年(2015)、近接するこの場所に新たにこの記念碑が再建されたという次第である。
松陰らは北端の津軽海峡をめざし、本道である「下之切通り・小泊街道」(現・国道339号)へ至るため、「神原の渡し」を利用し、川舟で岩木川を渡った。当時の神原船場の渡し守の一人は、金木神原出身の津軽三味線の始祖仁太坊(本名・秋元仁太郎)の父、三太郎であったといわれ、この時松陰と出会ったと推定されている。


吉田松陰 宮部鼎蔵 巡見之碑

(昼食の場所)

(赤堀道の渡船場跡)


吉田松陰先生渡舟記念碑

五所川原に入った吉田松陰は、里人に聞いた道を間違えて、赤堀から舟に乗り、岩木山を対岸の芦屋へ渡った。五所川原市田川高松に、その渡船場跡を示す石碑が建てられている。
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中泊

2016年09月03日 | 青森県
(小泊)
津軽半島を南下し始めたところで、雨が強く降り出した。出発前の予報では曇だったのだが、傘を持たずに出ると必ず雨に遭う。ここから先、雨に濡れるがまま史跡を訪ね歩くことになった。


みちのく松陰道入口

みちのく松陰道の小泊側の入口である。傍らを傾り石川(かたがりいし)が流れる。ここから算用師橋まで全長十キロメートルを超え、歩くと三~四時間という難路である。


右 みちのく松陰道

(十三湖)


十三湖

中泊町今泉唐崎の十三湖畔の公園内に吉田松陰遊賞之碑がある。徳富蘇峰の筆。吉田松陰は、十三湖の風景を「真に好風景なり」と旅日記に記した。これに因んで、当初、中里町今泉の七平から相内の山道に建てられたが、道路の拡幅工事中に倒壊したため、昭和三十九年(1964)に建て替えられた。しかし、この石碑も破損が進んだため、平成四年(1992)初代の碑を忠実に復元して、十三湖畔に建てられたのが現在のものである。なお、二代目の碑は、新しい三代目の碑の下に埋められているそうである。


吉田松陰遊賞之碑

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竜飛崎

2016年09月03日 | 青森県
(竜飛崎)
晴れていれば竜飛崎から対岸の北海道まで見渡せるはずだが、残念ながら時折雨がパラつく曇天で、見通しは悪かった。それでも360°のパノラマを楽しむことはできた。


竜飛崎

竜飛崎の吉田松陰詩碑は昭和四十一年(1966)に建てられたもので、既に五十年の歳月が経過している。ブロンズ製の詩碑は、緑青がふいて汚れているように見えるし、台座の石段も一部が剥落して補修の手も入れられていない。見るからに残念な状態である。
厳密に言えば松陰は、小泊から算用師峠を越えており、竜飛崎を訪れていない。詩碑には算用師峠越えの際に作られた詩が記されているが、やや「過大広告」気味である。


吉田松陰詩碑


竜飛崎灯台

竜飛崎灯台は、津軽海峡の西側玄関に位置する重要な灯台である。昭和七年(1932)七月に点灯。

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今別

2016年09月03日 | 青森県
(袰月海岸)


袰月海岸

朝食を済ませて、津軽半島の旅に出発する。ここからは吉田松陰の足跡をたどる旅となる。
ペンションを出て、最初の目的地は鋳釜崎の袰月(ほろつき)海岸にある東北遊日記碑である。ペンションの女性も「鋳釜崎はお薦めです」と推奨していたが、なるほどここからの景色も素晴らしい。
嘉永五年(1852)三月五日、小泊から算用師峠を越えて三厩から南下した松陰は、津軽海峡の異変を敏感に感じ取っている。

――― 小泊、三厩の間、海面に斗出するものを竜飛崎と為す。松前の白神鼻と相距ること三里のみ。而れども夷舶憧々として其の間を往来す。これを榻(とう=寝台)側に他人の酣睡(熟睡)を容すものに比ぶれば更に甚だしと為す。筍も士気ある者は誰れか之が為に切歯せざらんや。独り怪む、当路者漠然として省みざるを。


吉田松陰東北遊日記碑

(上山崎)
袰月海岸から国道280号を南下し、上山崎の集落に入った辺りに「松陰くぐり」と呼ばれる場所がある。潮の干満により見え隠れする岩穴である。往時は、松前街道を進む旅人は必ず通過する場所であり、海岸沿いを歩いてきた松陰も、ここを通過したことであろう。現在はその上を国道が開通し、ここを徒歩で通過する人ほぼ皆無である。


松陰くぐり

(三厩)


みちのく松陰道入口

三厩の算用師橋の前に「みちのく松陰道入口」と記した木標が立っている。ここから小泊方面へ通じる道の入口である。

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外ヶ浜

2016年09月03日 | 青森県
(平舘台場跡)
今回の青森行を計画したのが遅かったので、最も難渋したのが宿泊場所の確保であった。青森市内や弘前市内のホテルはどこも満杯で、空いているのは一泊二万円以上もする部屋しかなかった。どうせ寝るだけだし、ホテルライフを楽しもうという気もない私としては一泊二万円超というのは採算が合わない宿泊費であった。半ば諦めつつネットで検索していると、平舘台場の近くにペンションを発見した。夕食・朝食付きで一泊七千八百円はお得である。躊躇なく予約した。
夕食はイカやウニなど近海の海の幸を盛り合わせた豪勢なものであったし、いつも史跡旅行でコンビニのオニギリか菓子パンで済ませていることを思えば十分過ぎる朝食であった。このペンションはこの場所で二十九年の長きにわたって営業を続けているそうで、コストパフォーマンスや家族的な雰囲気を経験すれば、その理由も納得できるだろう。
前夜は夜行バスで寝苦しい夜を過ごしたが、のびのびと身体を伸ばして眠る快適さを存分に堪能した。部屋にはエアコンも付いていたが、窓を少し開けるだけで心地よい冷気が部屋に入ってくるので、エアコン無しでもまったく快適であった。

旧幕軍の侵攻により松前を追われた藩主松前徳広は、熊石から出帆して平舘付近に上陸した船内で死亡した前藩主崇広の娘鋭姫(五歳)は平舘の福昌寺に仮埋葬された。徳広も上陸後、一週間足らずで病死した。松前藩にとって悲惨な歴史がこの地に刻まれている。


ペンションだいば


平舘台場跡


朝食前に散歩がてら平舘台場跡を見学する。この台場は、嘉永二年(1849)に弘前藩が構築したもので、弘化四年(1847)に平舘に異国船が現れ、乗組員が上陸した事件を受けて、急遽築造されたものである。台場の遺構は、土塁に囲まれており、大砲を据えたと考えられる窪地が七か所、出入口が二か所残されている。土塁の高さは約二・三メートル、幅は概ね十メートルで、土塁内部は南北八十メートル、東西十一メートルほどである。遺構が良く保存されている。
この台場を東北旅行中の吉田松陰も視察し、「此れ尤も要扼の処なり。台位已に其の所を得、而して台の制(つくり)も亦頗る佳し」と称賛している。

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