(蓮華庵)
ここに来て雨が激しくなってきた。傘を持たないまま、五所川原の蓮華庵墓地を歩いた。
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蓮華庵
どういうわけだか、中泊町(中里町と小泊町の合併により誕生)と五所川原市は入り組んでおり、地図で確認すると五所川原市(旧五所川原町と金木町・市浦町)は二つに分かれている。経緯は知らないが、いかにも不自然な合併である。
吉田松陰遊賞之碑
吉田松陰遊賞之碑の初代の碑が、五所川原市相内の蓮華庵墓地に残されている。
(史蹟神原の渡し)
史跡 神原之渡し
史蹟十三館岡街道 吉田松陰ゆかり之地
岩木川を北上した松陰は、途中で道を間違えたことに気が付き、もう一度川を渡って神原に出た。古くから神原の渡しとして知られた場所である。石碑の一面には「史跡 神原之渡し」と記され、もう一面には「吉田松陰ゆかりの地」と刻まれている。
(金木町元気村)
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かなぎ元気村 かだるべぇ
五所川原市金木町の蒔田という集落の中に「かなぎ元気村 かだるべぇ」というカフェがあり、その前庭に「吉田松陰 宮部鼎蔵 巡見之碑」という、比較的新しい石碑が建てられている。彼らが当地を訪れたのは、嘉永五年(1852)三月三日のことで、昼食をとったといわれる場所は石碑のある地点から五十メートルほど進んだ右側である。昭和二十五年(1950)、当時蒔田小学校となっていた田中長十郎屋敷跡の一角に、この学校の教員有志が「吉田松陰先生昼食の場所」という木製の記念碑を立てていた。時を経て朽ちかけてきたことから、平成二十七年(2015)、近接するこの場所に新たにこの記念碑が再建されたという次第である。
松陰らは北端の津軽海峡をめざし、本道である「下之切通り・小泊街道」(現・国道339号)へ至るため、「神原の渡し」を利用し、川舟で岩木川を渡った。当時の神原船場の渡し守の一人は、金木神原出身の津軽三味線の始祖仁太坊(本名・秋元仁太郎)の父、三太郎であったといわれ、この時松陰と出会ったと推定されている。
吉田松陰 宮部鼎蔵 巡見之碑
(昼食の場所)
(赤堀道の渡船場跡)
吉田松陰先生渡舟記念碑
五所川原に入った吉田松陰は、里人に聞いた道を間違えて、赤堀から舟に乗り、岩木山を対岸の芦屋へ渡った。五所川原市田川高松に、その渡船場跡を示す石碑が建てられている。
ここに来て雨が激しくなってきた。傘を持たないまま、五所川原の蓮華庵墓地を歩いた。
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蓮華庵
どういうわけだか、中泊町(中里町と小泊町の合併により誕生)と五所川原市は入り組んでおり、地図で確認すると五所川原市(旧五所川原町と金木町・市浦町)は二つに分かれている。経緯は知らないが、いかにも不自然な合併である。
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吉田松陰遊賞之碑
吉田松陰遊賞之碑の初代の碑が、五所川原市相内の蓮華庵墓地に残されている。
(史蹟神原の渡し)
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史跡 神原之渡し
史蹟十三館岡街道 吉田松陰ゆかり之地
岩木川を北上した松陰は、途中で道を間違えたことに気が付き、もう一度川を渡って神原に出た。古くから神原の渡しとして知られた場所である。石碑の一面には「史跡 神原之渡し」と記され、もう一面には「吉田松陰ゆかりの地」と刻まれている。
(金木町元気村)
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かなぎ元気村 かだるべぇ
五所川原市金木町の蒔田という集落の中に「かなぎ元気村 かだるべぇ」というカフェがあり、その前庭に「吉田松陰 宮部鼎蔵 巡見之碑」という、比較的新しい石碑が建てられている。彼らが当地を訪れたのは、嘉永五年(1852)三月三日のことで、昼食をとったといわれる場所は石碑のある地点から五十メートルほど進んだ右側である。昭和二十五年(1950)、当時蒔田小学校となっていた田中長十郎屋敷跡の一角に、この学校の教員有志が「吉田松陰先生昼食の場所」という木製の記念碑を立てていた。時を経て朽ちかけてきたことから、平成二十七年(2015)、近接するこの場所に新たにこの記念碑が再建されたという次第である。
松陰らは北端の津軽海峡をめざし、本道である「下之切通り・小泊街道」(現・国道339号)へ至るため、「神原の渡し」を利用し、川舟で岩木川を渡った。当時の神原船場の渡し守の一人は、金木神原出身の津軽三味線の始祖仁太坊(本名・秋元仁太郎)の父、三太郎であったといわれ、この時松陰と出会ったと推定されている。
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吉田松陰 宮部鼎蔵 巡見之碑
(昼食の場所)
(赤堀道の渡船場跡)
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吉田松陰先生渡舟記念碑
五所川原に入った吉田松陰は、里人に聞いた道を間違えて、赤堀から舟に乗り、岩木山を対岸の芦屋へ渡った。五所川原市田川高松に、その渡船場跡を示す石碑が建てられている。