(善光寺)
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善光寺
週末、思い立って長野まで往復した。新幹線で大宮から一時間。あっという間に長野駅に降り立つ。北に向かえば少しは暑さが和らぐかと期待していたが、内陸に位置する長野の夏は決して涼しくはない。この日は三十五度を越える猛暑日であった。
善光寺を訪れたのは、多分高校の修学旅行以来である(ということは四十年近くも前ということである)。あの時と同じく、参道は多くの人で賑わっていた。
本堂に入って内陣で本尊(一光三尊阿弥陀如来)にお参りすると、お戒壇めぐりに進むのがお決まりの順路である。お戒壇めぐりは、ご本尊の安置される瑠璃壇下の真っ暗な回廊を通り、手探りで「極楽の錠前」を探り当てるという、ゲーム感満載のイベントである。ここで錠前を探り当てることができれば、秘仏のご本尊と結縁ができ、極楽への道が約束されるという趣向である。今回、自分が極めて暗闇に弱いことを初めて認識する体験であった。片手で頭を抑え、へっぴり腰で暗闇を進んだものだから、当然ながら「極楽の錠前」を素通りしてしまった。背後で女性が「あった、あった!」とはしゃぐのが聞こえたが、今更引き返すわけにもいかず、へっぴり腰のまま、出口に向うことになった。どうやら極楽行きは難しくなった。
明治天皇長野行在所
万延元年(1860)九月、信州松代に、師松陰の師である佐久間象山を訪ねた高杉晋作は、その二日後に善光寺を参拝している。
ただ高杉晋作の印象には特に残らなかったようで、彼の「試撃行日譜」には
――― 途中善光寺に参る。日暮れ前に牟礼駅に宿をとる。
とあるだけである。
拝観料を払って山門に登る。急な階段を上ると、今歩いてきた参道を見下ろすことができる。
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善光寺 山門
善光寺 仁王門
日本忠霊殿
本堂北西の三重の塔は、戊辰戦争から第二次世界大戦までの間の戦争で亡くなった二百四十万柱の霊を祀る日本忠霊殿である。建物内には善光寺史料館が併設されており、奉納絵馬や本堂等に安置されていた仏像などを見ることができる。
故参謀総長陸軍大将大勲位功二級有栖川熾仁親王尊霊 明治二十七八年役戦病死者
故近衛師団長陸軍大将功三級北白川能久親王尊霊 貮萬壹千四百貮拾四名 霊 供養塔
日本忠霊殿と本堂の間に有栖川熾仁親王と北白川能久親王それに日清戦争における二万一千四百二十四名の戦死者の供養塔である。
有栖川熾仁親王は、明治二十八年(1895)一月、日清戦争のさ中、広島に大本営が遷されると、親王も広島に移って作戦に参加したが、そこで病を得て舞子の別荘で逝去した。
北白川宮能久親王は、明治二十八年(1895)十月、近衛師団長として台湾島民の叛乱鎮圧のため出征したが、台南において病のため薨去した。
(秋葉神社)
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秋葉神社
長野駅で長野電鉄に乗って二つ目の駅が権堂(ごんどう)駅である。駅の目の前がイトーヨーカ堂で、その裏手に秋葉神社がある。
秋葉神社の前の柳の木は「忠治柳」と名付けられている。長岡の百姓喜右衛門が、娘お福を五十両の前借金で、一年間山形屋に奉公に出した。山形屋の藤蔵は、手下を回して帰路に喜右衛門から五十両を奪い取った。権堂の宿でこれを聞いた国定忠治は、山形屋に乗り込んで五十両を取り戻してやった。その時、忠治は柳の小枝を投げて去った。藤蔵の女房おれんがそれを挿して育てたのが「忠治柳」というが、もちろん現在秋葉神社にある柳は何代目かのものである。
忠治柳
秋葉神社の奥に四条霊社が鎮座する。明治三十九年(1906)の創建。料理の祖、四条流包丁道の祖、四条山蔭中納言藤原政朝を祭神とする。幕末の当主は四条隆謌である。四条霊社は、包丁・料理の神様として、全国に京都と長野二社しかない珍しい神社である。
四条霊社
国定忠治之墓
国定忠治は、権堂の島田伊伝治のもとを度々訪れた。その縁で群馬県伊勢崎市の養寿寺の墓から分骨されてこの地にも墓が設けられた。
(島田屋跡)
やきとり次郎長
島田伊伝治の島田屋跡は、この辺りのはずだが、何か石碑でも残っていれば分かりやすいのだが、それらしいものが見つけられない。ちょうどその辺りに「やきとり次郎長」という店があるが、せめて「忠治」というネーミングにしてくれれば、分かりやすいのだが…。
その後、長野市ガイド協会を訪問して、場所を確認したが、そこにいた三名のガイドさん方は誰一人として島田屋そのものを御存知なかった。当方は長野市ガイド協会のホームページで調べたというのに…。
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善光寺
週末、思い立って長野まで往復した。新幹線で大宮から一時間。あっという間に長野駅に降り立つ。北に向かえば少しは暑さが和らぐかと期待していたが、内陸に位置する長野の夏は決して涼しくはない。この日は三十五度を越える猛暑日であった。
善光寺を訪れたのは、多分高校の修学旅行以来である(ということは四十年近くも前ということである)。あの時と同じく、参道は多くの人で賑わっていた。
本堂に入って内陣で本尊(一光三尊阿弥陀如来)にお参りすると、お戒壇めぐりに進むのがお決まりの順路である。お戒壇めぐりは、ご本尊の安置される瑠璃壇下の真っ暗な回廊を通り、手探りで「極楽の錠前」を探り当てるという、ゲーム感満載のイベントである。ここで錠前を探り当てることができれば、秘仏のご本尊と結縁ができ、極楽への道が約束されるという趣向である。今回、自分が極めて暗闇に弱いことを初めて認識する体験であった。片手で頭を抑え、へっぴり腰で暗闇を進んだものだから、当然ながら「極楽の錠前」を素通りしてしまった。背後で女性が「あった、あった!」とはしゃぐのが聞こえたが、今更引き返すわけにもいかず、へっぴり腰のまま、出口に向うことになった。どうやら極楽行きは難しくなった。
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明治天皇長野行在所
万延元年(1860)九月、信州松代に、師松陰の師である佐久間象山を訪ねた高杉晋作は、その二日後に善光寺を参拝している。
ただ高杉晋作の印象には特に残らなかったようで、彼の「試撃行日譜」には
――― 途中善光寺に参る。日暮れ前に牟礼駅に宿をとる。
とあるだけである。
拝観料を払って山門に登る。急な階段を上ると、今歩いてきた参道を見下ろすことができる。
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善光寺 山門
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善光寺 仁王門
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日本忠霊殿
本堂北西の三重の塔は、戊辰戦争から第二次世界大戦までの間の戦争で亡くなった二百四十万柱の霊を祀る日本忠霊殿である。建物内には善光寺史料館が併設されており、奉納絵馬や本堂等に安置されていた仏像などを見ることができる。
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故参謀総長陸軍大将大勲位功二級有栖川熾仁親王尊霊 明治二十七八年役戦病死者
故近衛師団長陸軍大将功三級北白川能久親王尊霊 貮萬壹千四百貮拾四名 霊 供養塔
日本忠霊殿と本堂の間に有栖川熾仁親王と北白川能久親王それに日清戦争における二万一千四百二十四名の戦死者の供養塔である。
有栖川熾仁親王は、明治二十八年(1895)一月、日清戦争のさ中、広島に大本営が遷されると、親王も広島に移って作戦に参加したが、そこで病を得て舞子の別荘で逝去した。
北白川宮能久親王は、明治二十八年(1895)十月、近衛師団長として台湾島民の叛乱鎮圧のため出征したが、台南において病のため薨去した。
(秋葉神社)
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秋葉神社
長野駅で長野電鉄に乗って二つ目の駅が権堂(ごんどう)駅である。駅の目の前がイトーヨーカ堂で、その裏手に秋葉神社がある。
秋葉神社の前の柳の木は「忠治柳」と名付けられている。長岡の百姓喜右衛門が、娘お福を五十両の前借金で、一年間山形屋に奉公に出した。山形屋の藤蔵は、手下を回して帰路に喜右衛門から五十両を奪い取った。権堂の宿でこれを聞いた国定忠治は、山形屋に乗り込んで五十両を取り戻してやった。その時、忠治は柳の小枝を投げて去った。藤蔵の女房おれんがそれを挿して育てたのが「忠治柳」というが、もちろん現在秋葉神社にある柳は何代目かのものである。
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忠治柳
秋葉神社の奥に四条霊社が鎮座する。明治三十九年(1906)の創建。料理の祖、四条流包丁道の祖、四条山蔭中納言藤原政朝を祭神とする。幕末の当主は四条隆謌である。四条霊社は、包丁・料理の神様として、全国に京都と長野二社しかない珍しい神社である。
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四条霊社
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国定忠治之墓
国定忠治は、権堂の島田伊伝治のもとを度々訪れた。その縁で群馬県伊勢崎市の養寿寺の墓から分骨されてこの地にも墓が設けられた。
(島田屋跡)
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やきとり次郎長
島田伊伝治の島田屋跡は、この辺りのはずだが、何か石碑でも残っていれば分かりやすいのだが、それらしいものが見つけられない。ちょうどその辺りに「やきとり次郎長」という店があるが、せめて「忠治」というネーミングにしてくれれば、分かりやすいのだが…。
その後、長野市ガイド協会を訪問して、場所を確認したが、そこにいた三名のガイドさん方は誰一人として島田屋そのものを御存知なかった。当方は長野市ガイド協会のホームページで調べたというのに…。