史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

長野 Ⅲ

2016年09月16日 | 長野県
(善光寺)


善光寺

 週末、思い立って長野まで往復した。新幹線で大宮から一時間。あっという間に長野駅に降り立つ。北に向かえば少しは暑さが和らぐかと期待していたが、内陸に位置する長野の夏は決して涼しくはない。この日は三十五度を越える猛暑日であった。
 善光寺を訪れたのは、多分高校の修学旅行以来である(ということは四十年近くも前ということである)。あの時と同じく、参道は多くの人で賑わっていた。
 本堂に入って内陣で本尊(一光三尊阿弥陀如来)にお参りすると、お戒壇めぐりに進むのがお決まりの順路である。お戒壇めぐりは、ご本尊の安置される瑠璃壇下の真っ暗な回廊を通り、手探りで「極楽の錠前」を探り当てるという、ゲーム感満載のイベントである。ここで錠前を探り当てることができれば、秘仏のご本尊と結縁ができ、極楽への道が約束されるという趣向である。今回、自分が極めて暗闇に弱いことを初めて認識する体験であった。片手で頭を抑え、へっぴり腰で暗闇を進んだものだから、当然ながら「極楽の錠前」を素通りしてしまった。背後で女性が「あった、あった!」とはしゃぐのが聞こえたが、今更引き返すわけにもいかず、へっぴり腰のまま、出口に向うことになった。どうやら極楽行きは難しくなった。


明治天皇長野行在所

 万延元年(1860)九月、信州松代に、師松陰の師である佐久間象山を訪ねた高杉晋作は、その二日後に善光寺を参拝している。
 ただ高杉晋作の印象には特に残らなかったようで、彼の「試撃行日譜」には
――― 途中善光寺に参る。日暮れ前に牟礼駅に宿をとる。
とあるだけである。

 拝観料を払って山門に登る。急な階段を上ると、今歩いてきた参道を見下ろすことができる。


善光寺 山門


善光寺 仁王門


日本忠霊殿

 本堂北西の三重の塔は、戊辰戦争から第二次世界大戦までの間の戦争で亡くなった二百四十万柱の霊を祀る日本忠霊殿である。建物内には善光寺史料館が併設されており、奉納絵馬や本堂等に安置されていた仏像などを見ることができる。


故参謀総長陸軍大将大勲位功二級有栖川熾仁親王尊霊 明治二十七八年役戦病死者
故近衛師団長陸軍大将功三級北白川能久親王尊霊 貮萬壹千四百貮拾四名 霊 供養塔

 日本忠霊殿と本堂の間に有栖川熾仁親王と北白川能久親王それに日清戦争における二万一千四百二十四名の戦死者の供養塔である。
有栖川熾仁親王は、明治二十八年(1895)一月、日清戦争のさ中、広島に大本営が遷されると、親王も広島に移って作戦に参加したが、そこで病を得て舞子の別荘で逝去した。
 北白川宮能久親王は、明治二十八年(1895)十月、近衛師団長として台湾島民の叛乱鎮圧のため出征したが、台南において病のため薨去した。

(秋葉神社)


秋葉神社

 長野駅で長野電鉄に乗って二つ目の駅が権堂(ごんどう)駅である。駅の目の前がイトーヨーカ堂で、その裏手に秋葉神社がある。
 秋葉神社の前の柳の木は「忠治柳」と名付けられている。長岡の百姓喜右衛門が、娘お福を五十両の前借金で、一年間山形屋に奉公に出した。山形屋の藤蔵は、手下を回して帰路に喜右衛門から五十両を奪い取った。権堂の宿でこれを聞いた国定忠治は、山形屋に乗り込んで五十両を取り戻してやった。その時、忠治は柳の小枝を投げて去った。藤蔵の女房おれんがそれを挿して育てたのが「忠治柳」というが、もちろん現在秋葉神社にある柳は何代目かのものである。


忠治柳

 秋葉神社の奥に四条霊社が鎮座する。明治三十九年(1906)の創建。料理の祖、四条流包丁道の祖、四条山蔭中納言藤原政朝を祭神とする。幕末の当主は四条隆謌である。四条霊社は、包丁・料理の神様として、全国に京都と長野二社しかない珍しい神社である。


四条霊社


国定忠治之墓

 国定忠治は、権堂の島田伊伝治のもとを度々訪れた。その縁で群馬県伊勢崎市の養寿寺の墓から分骨されてこの地にも墓が設けられた。

(島田屋跡)


やきとり次郎長

 島田伊伝治の島田屋跡は、この辺りのはずだが、何か石碑でも残っていれば分かりやすいのだが、それらしいものが見つけられない。ちょうどその辺りに「やきとり次郎長」という店があるが、せめて「忠治」というネーミングにしてくれれば、分かりやすいのだが…。
 その後、長野市ガイド協会を訪問して、場所を確認したが、そこにいた三名のガイドさん方は誰一人として島田屋そのものを御存知なかった。当方は長野市ガイド協会のホームページで調べたというのに…。

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靖国神社 遊就館 Ⅳ

2016年09月16日 | 東京都
(靖国神社)


能楽堂

 久しぶりに靖国神社を歩いた。最近、オジサンの必携アイテム万歩計を身に着け、一日一万歩を目標に歩いている。平日は一万歩がやっとであるが、週末史跡巡りをしていると、あっという間に二万歩を越えてしまう。靖国神社境内を歩き回っていると、情けないことに足にマメができてしまい、脚を引きずるように歩くことになった。
 拝殿前の能楽堂は、岩倉具視が華族に呼びかけて建てられたもので、かつては芝公園にあった。


金燈籠

 神門の横に一対の金属製の燈籠がある。これは西南戦争で犠牲となった警視隊を慰霊するために警視局から奉納されたものである。


鎮霊社

 拝殿の横に鎮霊社と元宮という二つの祠がある。小さくて目立たないためにほとんど訪れる人もいない。拝殿側からではなく、練兵館跡の横を通って行くが、金属製の柵に遮られて近づくことはできない。
 鎮霊社は、ペリー来航以来、本殿に祀られていない戦死者の霊が祭られている。ここには国内のみならず、諸外国の戦死者の霊も祀られている。


元宮

 鎮霊社の横の元宮は、津和野藩士が倒幕派同士を祀って京に建てた小祠である。これが靖国神社に奉納され、元宮と称されている。


石灯篭

 参道に並ぶ石灯篭は六十二基。そのうち六十基は西南戦争で戦死した政府側の戦没者に奉納されたものである。


大石燈籠

 大鳥居の横にある一対の大石燈籠は、西南戦争で亡くなった政府軍戦没者を慰霊するために別働第二旅団(山田顕義少将)が奉納したものである。


常陸丸殉難記念碑

 輸送船常陸丸は日露戦争で敵艦の攻撃を受けて沈没した。この時、大隊長山縣少佐以下一千有余名が波間に没したといわれる。この慰霊碑は、東郷平八郎の揮毫による。

(遊就館)


青銅八十封度陸用加農砲

 もう一つの青銅砲は、安政元年(1854)に湯島馬場大筒鋳立場にて鋳造され、品川台場に据え付けられていたものである。


鋼製三十封度船用加農砲

 遊就館から少し奥に行くともう一つ大砲が置かれている。こちらは鋼(スティール)製である。安政元年(1854)に伊豆下田で座礁したロシアのディアナ号の備砲である。幕府はプチャーチン以下の帰国のためにスクーナー船二隻を建造してロシアに贈った。この厚誼に謝するためにロシア政府から幕府に五十二門の大砲が贈られたが、そのうちの一門である。

(九段坂公園)


高燈籠

 和洋折衷の不思議なデザインの燈籠は、戊辰戦争の戦没者を慰霊するために建立されたものである。

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白山 Ⅳ

2016年09月16日 | 東京都
(高島秋帆寓居跡)
 白山一丁目の住宅街の中に高島秋帆寓居跡がある(文京区白山1‐23‐10)。民家の片隅に文京歴史研究会なる組織が設置した説明板がある。


高島秋帆寓居跡

 江戸に招かれた高島秋帆がこの地に居住したのは、天保十二年(1841)のことで、以降高島は徳丸ヶ原で洋式砲術の調練を行ったり、門人に高島流の砲術を伝授するなど、精力的に活動した。しかし、翌年、逮捕投獄され概ね十年間、岡部藩に幽囚されることになった。

(念速寺)
 念速寺には遊女美幾の墓がある(文京区白山2‐9‐12)。


念速寺

 美幾女(みき)は、駒込追分の彦四郎の娘といわれる。病重く、死を予期した美幾女は、死後の屍体解剖の勧めに応じ、明治二年(1869)八月十二日、三十四歳で没した。死後、直ちに解剖が行われたが、当時の社会通念、道徳観などからいって、自ら屍体を提供することは難しい時代であった。美幾女は特志解剖第一号として、我が国の医学研究の進展に大きな貢献をした。透明なアクリルのケースに覆われた墓石の裏には「我が国病屍解剖の始めその志を嘉賞する」と、解剖に当たった医学校教官の銘が刻まれている。


美幾女の墓

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韮崎

2016年09月16日 | 山梨県
(雲岸寺)


雲岸寺


窟観音本尊聖観世音菩薩


横枕君碑

 「筑後郷土史研究会誌」(昭和六十三年 筑後郷土史研究会発刊)に山口光郎氏が寄稿した「『横枕覚助』と『大楽源太郎』および“久留米藩難事件”の一端」と題する一文が掲載されている。
 この一文で初めて横枕覚助なる人物のことを知った。横枕覚助は、弘化元年(1844)、下妻郡溝口村に横枕菟平の長男に生まれた。覚助は胆力があり、気骨稜々として義気に富んでいたという。覚助の家は、古松簡二(別名・清水真郷)の家に近く、小さい頃から行き来があり、強くその影響を受けた。文久三年(1863)には山梔子(くちなし)の家における十年に及ぶ幽囚を解かれた真木和泉を古松とともに訪れ、益々勤王の志を強固にした。明治二年(1869)、久留米藩では覚助を殉国隊(長州の奇兵隊にならって農民を組織したもの)の隊長に任命した。長州藩で奇兵隊の反乱が鎮圧されると、大楽源太郎らが久留米藩に潜入した。古松簡二や藩参政小河真文は覚助に頼んで、大楽らを匿うことにした。やがてそのことが長州藩の探索部隊に知られるところとなり、西南諸藩に動員命令が下された。追い込まれた久留米藩では大楽らを密かに謀殺し、水野正名や小河真文、古松簡二らも相次いで逮捕投獄された。覚助も日田から東京に護送され、そこで糺問された。覚助は、「忠義の人と聞いて匿ったが、誰とは知らなかった」と言い逃れたが、禁獄三年の判決を受け、新潟に送られた。出獄後は三瀦󠄀県の戸長、区長、郡長などを務めた。西南戦争では嫌疑を受けて一時拘束されたが無罪判決を受けている。明治十七年(1884)、山梨県警部に転じ、その後南津留郡郡長や北巨摩郡郡長などを歴任した。明治二十三年(1890)、コレラに罹患して四十七歳で死去。
 山梨県に奉職した縁で、韮崎の窟観音(あなかんのん)に県知事中島錫胤の撰文を刻した顕彰碑がある。この顕彰碑を見るためだけに、片道二時間近くかけて韮崎まで往復した。雲岸寺・窟観音は、韮崎駅から徒歩五分くらいの場所にあり、あっさりこの顕彰碑も見つけることができた。

(にらさき文化村)


小林一三翁生家跡


小林一三生誕の地 韮崎市

 韮崎といえば、サッカー選手の中田英寿が韮崎高校出身だということと、平成二十七年(2015)にノーベル賞生理学・医学賞を受賞した大村智博士の出身地である。その程度の予備知識しか持ち合わせていなかったが、駅前の観光案内所の前に「小林一三生誕の地 韮崎市」という説明を見て、ここが阪急電鉄生みの親小林一三の生地であることを知った。小林一三は阪急や宝塚歌劇団、東宝映画などの創立に関わった実業家で明治六年(1873)韮崎本町に生まれた。現在、生誕地は「にらさき文化村」という施設となっている。

(千野眼科医院)


韮崎宿本陣の跡

 韮崎は甲州街道の宿場町の一つで、千野眼科の前に本陣跡碑が建てられている。また、そのすぐ近くに馬の手綱を繋いでおくための石がある。


馬つなぎ石

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