史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

新馬場 Ⅶ

2019年02月01日 | 東京都
(東海寺大山墓地)


本虚院透雲紹徹居士(渋川春海の墓)

 暦学者渋川春海(はるみ)は、幕府碁方安井算哲の子。それまで我が国では中国の宣明暦を使っていたが、春海は自ら計算して新しい暦(貞享暦)を作成した。我が国で初めて日本人の手によって作られた和暦である。春海は幕府最初の天文方に任じられ、屋敷内に天文台を設けて天体観測にあたった。正徳五年(1715)、七十七歳にて没した。東海寺大山墓地には渋川家代々之墓が並んでいる。


大機院仁翁滄洲大居士(渋川景祐の墓)

 渋川景佑(かげすけ)は江戸幕府天文方。高橋至時の次男で、天文方の渋川正陽の養子となった。同じく天文方の高橋景保の弟。日本最後の太陽太陰暦である天保暦の作成者として知られる。文化二年(1805)には伊能忠敬に従って東海地方・紀伊半島・中国地方の測量に従事している。

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仙台 Ⅴ

2019年02月01日 | 宮城県
(宮城県庁)
 現在、宮城県庁のある辺りに、藩校養賢堂があった。仙台藩が学校を開いたのは大変古く、五代藩主伊達吉村のとき元文元年(1736)学問所を開いたのが起源である。その後、七代藩主伊達重村が勾当台通(現在の宮城県庁)に移転させ、藩校養賢堂と称した。二代学頭に大槻平泉が就任して以来、大槻家出身の学頭が続き、大槻磐渓に至って花開いた観がある。大槻磐渓は江川太郎左衛門英龍に学び、吉田松陰、佐久間象山、福沢諭吉、中村正直、成島柳北らとも交流があった。彼の門下から、幕末仙台藩の指導者となった但木土佐や玉虫左太夫らが出ている。
 戊辰戦争に敗れると、養賢堂は新政府軍によって接収されて、屯所として使用された。明治四年(1871)廃藩置県をもって廃校となった。


藩校 養賢堂跡

 一日目は仙台、二日目は午前中に移動して午後は能代(秋田県)への出張が入った。本来、史跡探訪の時間はなかったが、初日の宴席が終わった後、仙台駅前から宮城県庁まで歩いて養賢堂跡石碑を探した。議会堂の前に石碑を発見したが、さすがに夜のことで写真を撮影しても真っ黒であった。
 そこで翌朝、日の出前にホテルを出て県庁を再訪して写真を撮影した。

(勾当台公園)
 宮城県庁の南側にある勾当台(くとうだい)公園も、かつて藩校養賢堂の敷地であった。現在はその面影はないが、公園の一角に仙台の生んだ第四代横綱谷風梶之助の立像が置かれている。


勾当台公園


谷風梶之助像

 谷風梶之助(1750~1795)は仙台藩、陸奥国宮城郡霞目村の出身。第四代横綱とされるが、三代までの横綱については実在に疑義があり、谷風が実質初代横綱ともいわれる。通算勝率九割四分九厘という圧倒的な強さを誇った。六十三連勝は、昭和十四年(1939)に双葉山に破られるまでの連勝記録。寛政七年(1795)、流行していた感冒に罹患して現役のまま死去。四十四歳。

(東二番丁スクエア)


青柳文庫跡地

 青柳文庫は、公事師兼商人の青柳文蔵が、仙台藩に書籍二千八百八十五部、九千九百三十六冊と文庫を開設するための資金千両を献上し、それを広く活用させるために、天保二年(1831)、藩の医学校があった場所に公開の文庫として設けられた。今でいう図書館である。文庫は明治維新まで存続したものの、戊辰戦争以来の混乱で蔵書は散逸した。明治七年(1874)、宮城師範学校が開設される際に一部の蔵書が同校に引き継がれ、さらに明治十四年(1881)、宮城書籍館(のちの宮城県図書館)の開設に伴い引き継がれた。

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信濃町 Ⅱ

2019年02月01日 | 東京都
(聖徳記念絵画館)


聖徳記念絵画館

 平成三十年(2018)十月六日から十一月十一日まで、明治百五十年行事の一つとして、聖徳記念絵画館にて「明治日本が見た世界」展を開催している。入場料は五百円(新宿区霞ヶ丘町1‐1)。
 展示は、「Ⅰ 異国から見た幕末維新」「Ⅱ 岩倉使節団の挑戦と米国に渡った女子留学生たち」「Ⅲ 渋沢栄一と日米親善に尽くした実業人たち」「Ⅳ 洋画家たちの明治西欧留学」「Ⅴ 『坂の上の雲』と主人公たちが見た世界」「終 明治神宮の誕生」のコーナーに分れ、その他にも協力展示「フィラデルフィアと明治二本」やコラム展示「近代日本を支えたお雇い外国人列伝」などもあって、いくら時間があっても足らないくらいであった。明治という時代については、今もって批判的見解もあるし、私も手放しに絶賛するつもりはないが、それでも国を挙げて欧米に追い付け追い越せで前を向いて進んでいた時代だったのだと実感できる。
 もともと聖徳記念絵画館は、明治天皇、昭憲皇太后の生涯・事績を大壁画で紹介するもので、我々が「大政奉還」「王政復古の小御所会議」「江戸開城」と聞いて連想する、あるいは教科書に掲載されている画像は、ほとんどこの記念館に収められている壁画が原画となっているのである。
 もっとも感銘を受けたのが、明治天皇が岩倉具視を見舞った情景を描いた「岩倉邸行幸」(北蓮蔵作)である。これまでも何度もこの絵は見ていたが、実寸大でみるとまた格別である。明治天皇が岩倉邸を訪れたのは、明治十六年(1883)七月十九日のことであった。暑い日だったようで、岩倉の病床の周りに大きな氷がおいてある。明治天皇を自宅に迎えた岩倉であったが、もはや自力で起き上がることもできず、長男夫人に支えられ上半身を起こしている。布団の上には礼を失わないよう袴が置かれ、岩倉夫人は天皇に向かってひれ伏している。岩倉も神を仰ぐように両手を合わせている様子がリアルに描かれている。岩倉具視はこの翌日息を引き取った。歴史の一瞬を切り取った見事な絵画である。

 なお、どうでも良いことながら気になる記述があった。「フィラデルフィアと明治日本」のコーナーに紹介されていた日下部太郎は「ラトガース大学を首席で卒業」と記載されていたが、日下部太郎は卒業を前に結核のため夭折している。成績優秀だった日下部のため大学は卒業を同じ資格を与えたとされるが、正確には卒業はしていないのである。福井県人としてはちょっとこだわりたいところである。

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