史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

トーク・イベント「幕末の漢詩人・大沼枕山の世界」 台東区立中央図書館 郷土・資料調査室主催

2019年02月22日 | 講演会所感
台東区立中央図書館にて企画展「幕末・明治の漢詩人 大沼枕山」が開催されている(平成三十年十二月二十一日~平成三十一年三月十七日)。これに合わせて、二月二日、トーク・イベントが開かれると知ったので、早速申し込んだ。応募多数の場合は抽選になると予告があったが、幸いにして当選したとの通知をもらうことができた(さほど人気のあるイベントとも思えないので、特に激戦ではなかったと思われる)。
会場である台東区立中央図書館は、一階に地元出身の作家池波正太郎記念文庫を併設している。トーク・イベントが始まる前に池波正太郎記念文庫を拝観した。池波正太郎は、言うまでもなく高名な歴史小説家であるが、同時に随筆家、美食家としても知られ、映画評論家としても筆を振るった。記念文庫には、たくさんの自筆絵画が展示されており、改めて池波正太郎の常人離れした多芸多才ぶりを実感することができる。
トーク・イベントの前に二階の郷土史料コーナーに立ち寄り、短時間であったが企画展を見た。展示じたいはごくわずかなものであったが、その後のトーク・イベントで引用・解説された資料もあったので、事前に見ておいて正解であった。


台東区立中央図書館

大沼枕山ときいてピンと来る人も少ないだろう。
トーク・イベントに登壇した国立国会図書館司書の大沼宜規氏(枕山と血縁はないそうです)によれば、『日本漢詩翻訳索引』に掲載されている漢詩の掲載数のランキングは、以下のとおりとなっている。1.頼山陽 2.菅茶山 3.藤井竹外 4.森春涛 5.絶海中津 6.成島柳北 7.大沼枕山 8.梁川星巖 9.菅原道真 10.柏木如亭。五位の絶海中津は室町時代の禅僧、十位の柏木如亭は頼山陽より少し前に活躍した漢詩人である。こうしてみると、我が国において、漢詩が幕末から明治期に隆盛を迎えたことが分かる。その中にあって、大沼枕山は、十代のときから下谷吟社(同人サークル)を主宰し、天保の人名録に早くも名が現れる名士であった。枕山は天保年間から明治までの人名録に継続して登場する稀有な人物であるという(台東区立中央図書館 郷土・資料調査室専門員 平野恵氏)。残された門人録によれば、門人は全国に広がる。書簡を通じて、秋月種樹、徳川家達、松平春嶽といった華族、勝海舟、楫取素彦、杉孫七郎ら政治家、岩崎弥之助、高島嘉右衛門、安田善次郎ら実業家、岡本黄石、杉浦梅潭(誠)、向山黄村といった学者・詩人ら、広い交遊関係をもっていたことが分かる。幕末から明治という時代を代表する漢詩人であった。
枕山は、生涯丁髷をきらず、東京のことを江戸と呼んでいた。開化政策には心底賛同できなかったのであろう。交友範囲を見ても、いくらかは明治政府の高官の名前も見られるが、少なくとも薩閥とは縁がなかった。顕官に取り入るようなことは苦手だったようである。
大沼宜規氏提供の配付資料によれば、幕末明治期の漢詩は次のとおり評価されている。
――― 文学史上の空白の時代ともいうべき幕末から明治十年代にかけての低迷・混乱期に、唯一、文学の高みを支え、近代文学誕生の基盤を培ったのは漢詩である(尾形仂『漢詩人たちの手紙 大沼枕山と嵩古香』
――― 漢詩は、明治時代中期をもって、時代の生き生きとした人間精神を盛り込む具としての役割を終了した(日野龍夫『江戸詩人選集』第一〇巻)
確かに幕末から明治初期の知識人の漢文・漢詩力は現代人を遥かに超越している。志士たちは漢詩の世界に精通していた。酒がまわり、興がのると漢詩を熱唱した(その最たる例が藤田東湖の「正気の歌」であろう)。己の気持ちを表現するのは和歌か漢詩であった。当時の知識人は、漢文で清国人とコミュニケーションできたというし、彼らが交わした書簡も漢文調であった。
枕山の継嗣鶴林は、枕山以上に知名度は低い。枕山の長女嘉年を娶り、大沼家を継いだ人である。枕山に見込まれただけあって、漢詩の力でいえば枕山にひけをとらないであろう。にもかかわらず、生活は苦しかったようで、多くの就職斡旋依頼を断られた書簡が残っている。
幕末から明治にかけて隆盛を極めた漢詩であったが、枕山の死後、明治三十年代以降、急速に衰微したのである。
これも大沼宜規氏提供の配付資料から。
――― (明治三十年代以降)(国分)青涯は碁に暮れ、(森)槐南もやがて没し、詩壇の牛耳を執る者もなく愈々衰えていった(三浦叶『明治漢文学史』)
――― 明治二十年代後半以降、(中略)漢詩は、抜きがたい擬古性を持つ文芸とみなされるようになる
――― 社会的に大きな勢力を持ったメジャーな文芸から、少数の愛好者たちによって支えられるマイナーな文芸へと、漢詩の位置づけはかわってゆくのである(合山林太郎『幕末・明治期における日本漢詩文の研究』)
盛名を誇った枕山であったが、今では「知る人ぞ知る」という存在になってしまった。それは現代における漢詩の位置づけとも同機しているのである。

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「彰義隊遺聞」 森まゆみ著 新潮文庫

2019年02月22日 | 書評
十年前に文庫化された「彰義隊遺聞」が、同じ新潮文庫から再刊されることになった。再刊当日、早速手に入れたが、帰宅して本棚を見たら同じ本が既に並んでいた。しかし、十年前に読んだ記憶が全くないので、ためらうことなく読み始めた。
彰義隊が結成された際、「主家徳川家の冤を晴し、薩賊を討ち、万民を安心させる」と宣言し、その旗印のもとに続々と隊員が集まった。敗戦後も箱館まで走って抗戦した者も多い。そう聞くと忠義の士ばかりの集団のような印象を抱くが、実際には支度金につられて加入した者とか、無理矢理送り込まれた者とか、兵力増強のため町人でありながら隊士に仕立てられた者まで、そのモティベーションにはかなりばらつきがあった。だから戦争が始まると、命懸けで戦う者がいる一方でたちまち脱走する者や、最初から姿を消してしまう者までいた。
戦争は多くの人たちの人生を変える。彰義隊に参加して、運よく生き延びた者にとって、明治は生きづらい世だったようである。商売に手を出して失敗した者も多かったといわれる。
幹部では、本多敏三郎(晋)は上野東照宮の宮司となり、小川椙太(興郷)は彰義隊の墓守となり、丸毛靱負(利恒)は新聞記者となり、須永於菟之輔(伝蔵)は箱根村長となった。渋沢成一郎は実業家として成功した。佐久間貞一は、秀英舎(大日本印刷の前身)を創立した。戸川残花や木村熊二らは牧師として身を立てた。
もっともユニークな人生を歩んだのが松廼家露八こと土肥庄次郎であろう。土肥庄次郎はもともと旗本の家に生まれ、武術を修めたが、遊興に明け暮れた挙句に廃嫡され、ついに幇間(すなわち「たいこもち」男芸者のこと)となった。決して戦後、零落して止むに已まれず幇間になり下がったのではない。
その男がどうしたものか、刀を帯びて彰義隊に加わり、上野戦争を戦ったのである。生家の大事、あるいは主家の危機に彼の血が騒いだのかもしれない。
幇間として生きた土肥庄次郎のさまざまなエピソードを本書で紹介しているが、彼は決して肩身の狭い想いをしながら生きたのではなく、元彰義隊士として誇り高き人生を送ったことが見て取れる。
巻末に主要参考文献がズラリと紹介されているが、綿密な文献調査に加え、筆者が足を使って集めた「聞き書き」により彰義隊を立体的、多面的に描くことに成功している。新選組には子母澤寛の新選組三部作があるが、本書は彰義隊のそれに匹敵する記念碑的作品といえるだろう。

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