史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

小田原 Ⅵ

2019年02月15日 | 神奈川県
(養託寺)


養託寺

 小田原駅西口を出て数百メートル北へ行くと、寺院の密集する寺町がある。住所表記は「城山」である。
 竹様の「戊辰掃苔録」によれば養託寺には石川廉治(小田原藩士 慶応四年(1868)五月二十六日、箱根湯本にて戦死)の墓があるはずでった。さして広くない墓地をぐるぐると歩き回ったが、発見することはできなかった。平成三十年(2018)十月に真新しく建て替えられた石川家の墓があり、この際に撤去されてしまったのであろう。

(桃源寺)


桃源寺

 本堂前の無縁墓の中に小野豹二郎の墓がある。
 小野豹二郎は、慶応四年(1868)五月二十六日、箱根にて戦死。


大成軒策鄰宗功居士(小野豹二郎の墓)

 小野豹二郎の墓の写真を撮り終えて寺を出て行こうとすると、寺の方に呼び止められた。来意を説明すると、「そこに戦死者の顕彰碑がある」と教えていただいた。碑文は摩耗が著しく半分程度が読解不能であるが、顕彰されているのは西南戦争で戦死した旧小田原藩士杉浦義三である。杉浦少尉が戦死したのは明治十年(1877)三月十五日、山鹿口における戦闘であった。享年二十五。顕彰碑は明治十四年(1881)に建てられたもので、篆額は黒川通軌。撰文は三島中洲(毅)。


杉浦君碑(杉浦義三顕彰碑)

(新光明寺)


新光明寺

 小田急大雄山線の緑川駅の近く、新光明寺には戊辰戦争で戦死した小田原藩士久下(くげ)佐久兵衛の墓がある。


實證院眞岳良心居士(久下佐久兵衛の墓)

 久下佐久兵衛は、慶応四年(1868)五月二十七日、箱根にて戦死。

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湯河原

2019年02月15日 | 神奈川県


土肥実平夫婦像

 JR湯河原駅を降りると、鎧兜の勇ましい銅像が立っている。土肥実平(といさねひら)とその妻である。土肥氏は平氏の一族であるが、源頼朝の平氏討伐や東北征伐に参陣し、功があった。のちに備前・備中・備後三ヶ国の守護となった。戦国時代に活躍した小早川家の祖ともいわれる。JR湯河原駅周辺は、土肥氏の館址といわれる。ここから歩いて数分の場所に、土肥氏の菩提寺城願寺がある。

(城願寺)


城願寺


七騎堂

 城願寺境内にある七騎堂は、治承四年(1180)、それまで二十年間伊豆で蟄居生活を送っていた源頼朝が、手勢三百で石橋山で蹶起したが、衆寡敵せず山中の堂宇に身を隠すことになった。辛うじて漁船に乗って房州に落ち延びた際、同船した頼朝以下主従七騎の像を刻み、堂内に安置したものである。


土肥一族の墓所

 城願寺は土肥氏の菩提寺で、十坪ほどの広さの墓所に六十六基の墓石が並べられている。
 土肥家墓所の前に「伊能忠敬測量隊 土肥家墓を参拝」と記載された石碑がある。
 文化十二年(1816)十二月十九日、門川(もんかわ)村名主富岡与次右衛門から、先祖である土肥実平が頼朝を援け鎌倉幕府を成立させたという話を聞き、感動した伊能忠敬は測量後に城願寺を訪ね、土肥家の墓地を参拝した。


伊能忠敬測量隊 土肥家墓を参拝

(吉浜・向笠家)
 湯河原駅から海に出ると、海岸線に沿って国道135号線と真鶴道路が並行して走っている場所がある。湯河原町吉浜地区である。
 文化十二年(1816)十二月十八日と十九日の二日間、測量に訪れた伊能忠敬一行は、吉浜村の名主向笠彦右衛門宅に宿泊した。さらに同月二十四日にもこの家で昼休みをとっている。


伊能忠敬測量隊宿泊地 
吉浜村名主 向笠彦右衛門宅跡

(門川・富岡家跡)
 湯河原近辺で、もう一か所、伊能忠敬所縁の地がある。門川(もんかわ)村名主の富岡家跡である。向笠家には今も末裔の方が住んでいるが、富岡家は「跡」である。
 駅前の観光案内所で聞いてもどなたも分からないと言うし、現地を歩いてみるしかなかった。残念ながら今回は見付けることができなかった。


伊能忠敬測量隊昼休地
門川村名主富岡与次右衛門宅跡

 今年の年末年始は、久しぶりに自宅で過ごした。五日間、遠出を控えていたが、六日目に辛抱しきれず、前回訪ね当てられなかった湯河原の富岡家跡に再挑戦することにした。といっても駐車場の一角に目立たない木柱が建てられているのみである。前回、ここを訪ねたとき、電信柱の影になってこの木柱を見付けることができなかった。

 この地で土肥氏の子孫である名主富岡与次右衛門から、土肥実平の事績や城願寺の墓のことを聞いた忠敬らは、翌日城願寺の土肥氏墓地を参拝したという流れになる。

 この日はちょうど箱根駅伝の復路が争われていた。東海道線で小田原、湯河原方面に向かった私は、どこかで駅伝ランナーとすれ違ったはずであるが、帰路につく時間には勝負は決していた。

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裾野 Ⅱ

2019年02月15日 | 静岡県


富士山

 裾野は、文字とおり富士山の裾野に位置する街で、至る場所から富士山の美しい姿を眺めることができる。

(荘園寺)
 裾野市御宿の荘園寺は、「江戸の訴訟」(高橋敏著 岩波文庫)の主役、湯山吟右衛門の菩提寺である。
 千福が丘の研修所から荘園寺まで歩いて四十分強。日の出前に研修所を抜け出し、ちょうど日の出時間に荘園寺に着いた。さすがに江戸時代を通じて代々この地域の名主を務めた湯山家歴代の墓域は、荘園寺の墓地の三分の一程度を占めている。


荘園寺

 吟右衛門は、文化五年(1808)閏六月、駿河国富士郡中比奈村(現・富士市比奈)の渡辺家の三男に生まれた。渡辺家はこの地域有数の豪農で、代々の当主が名主を世襲する家柄であったが、正確な年次は不明ながら、駿東郡御宿村(現・裾野市御宿)の下湯山家半七の養子となった。天保十三年(1842)、養父半七の死去にともない湯山家の当主となり、吟右衛門を名乗った。嘉永二年(1849)八月二十一日、御宿村にて無宿人惣蔵が殺害される事件が起こり、名主として吟右衛門はその訴訟のため奔走している。判決が下されたのは嘉永四年(1851)五月のこと。そこから、多額に及ぶ江戸訴訟費用の負担の落着に一年半を要した。無宿惣蔵変死事件の取り扱い不行届きにより一旦名主を罷免されたが、嘉永七年(1854)、再度名主に就任。それだけ声望の厚い人だったのであろう。文久二年(1862)、妻よしが五十一歳で逝くと、その半年後、あとを追うようにこの世を去った。行年五十五。


湯山家の墓
吟右衛門夫婦の墓は左から二番目


摂取院念譽佛生居士(湯山吟右衛門の墓)

 正面は吟右衛門と妻與志(よし)の戒名。側面には「當國冨士郡中比奈邑 文久二壬戌星 渡邉佐右衛門佳言(亨)次男湯山吟平保豐 行年五十五才」と刻まれる。吟右衛門はたびたび名を変えており、吟平もその一つである。「江戸の訴訟」によれば吟右衛門は渡邉佐右衛門の次男ではなくて三男だそうである。

(湯山家)
 御宿平山西交差点の北東の角に今も湯山家は存続している。通りに面して格式を感じさせる長屋門がどっしりと構えている。


湯山家長屋門
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東京 Ⅷ

2019年02月15日 | 東京都
(大手町フィナンシャルシティ)


庄内藩酒井家神田橋上屋敷跡

 現在、大手町フィナンシャルシティのある辺りに庄内藩上屋敷があった(大手町1‐9)。ビルの北側に平成元年(1989)、致道博物館東京友の会が建てた木柱が建てられている。
 庄内藩士はここを江戸市中取締の拠点とした。庄内藩の指揮下にあった新徴組も、飯田橋の屯所から一旦上屋敷に出向いてから市中巡邏に出向いたという。慶応四年(1868)一月二十三日、庄内藩による市中取締は廃止となり、藩主酒井忠篤以下は二月二十日、藩地へ帰還した。その後、上屋敷跡地には薩摩藩島津家が入った。

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