史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「語り継がれた西郷どん」 一坂太郎著 朝日新書

2020年03月28日 | 書評

著者一坂太郎氏が偶然東大赤門前の古書店で見つけた古い新聞のスクラップ帳。そこには西郷隆盛を知る薩摩士族やその妻など同時代人の証言が詰まっていた。

冒頭紹介されているのは、生麦事件や薩英戦争の体験談である。

先導組で鉄砲組に所属していた久木村治休(のちに陸軍に入って日清戦争では第十三連隊中隊長、日露戦争では第六中隊長)は当時十九歳。「異国人を斬ってみたい」と切望する若者であった。馬上の英人(リチャードソン)が片腹の傷口を抑えて近づいてくると、治休は抜き打ちに切り払った。治休によれば、「真っ赤な傷口から血の塊がコロコロと、草の上に落ちだ」というのである。「奴の心臓らしかった」と証言するが、心臓が転げ出るようなことがあるのだろうか。大正元年(1911)「鹿児島新聞」に掲載された記事である。治休は悪びれる様子もなく、自慢げに当時のことを語っているが、この事件が薩摩とイギリスの間の戦争を引き起こしたのである。

森元休五郎は薩英戦争で西瓜売りに変装してイギリス軍艦に乗り込んだ決死隊の一人である。休五郎の回想談によれば、十人一組が編成され、彼は海江田(信義)組に編入された。同じ組に黒田了介(のちの黒田清隆)、西郷信吾、大山弥助(巌)、木藤市助、赤塚源六らがいたという。彼らは首尾よく旗艦ユーリアラス号の甲板に上がったものの、陸からの合図の号砲が鳴らなかったため、何もせぬまま引き上げた。勢い込んで乗り込んだものの、決死隊の誰一人刀を抜くことなく終わってしまったのは、やはり怖じ気づいてしまったのであろう。

西郷隆盛と島妻愛加那との間に生まれた西郷菊次郎は、当時京都市長を務めていた。たくさんの人間が父(隆盛)に書を所望したが、その多くは西郷家に居候していた川口雪蓬の代筆だったと告白している。このエピソードは、西郷の身近に生活していなければ証言できないものである。

戊辰戦争や西南戦争からおよそ半世紀を経た大正年間に、西郷を知る人たちからヒアリングした記事が中心となっている。維新時には若者だった人たちが、すっかり老人となっているわけで、記憶というものは間違いがあったり、美化されたりするものなので、こういった証言の史料的な価値は低いのはやむを得ないが、それはさておき、体験したものでなければ残せない情報が山ほど記述されており、とても興味深いものであった。

 

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「「坂本龍馬」の誕生」 知野文哉著 人文書院

2020年03月28日 | 書評

筆者知野文哉氏は、TBSに勤務するサラリーマンでありながら、龍馬好きが高じて佛教大学通信教育学部修士過程にて青山忠正先生の謦咳に触れて、明治維新史を学問的に追究するようになった。その一つの到達点が本書である。本書の中で、いわゆる坂本龍馬の「船中八策」は後世の創作であり、「存在していなかった」という事実を証明してみせた。言わば素人がアカデミックの世界に一石を投じた一作である。龍馬好きを自任する人にも、そうでない人にも是非一読をお勧めしたい。

筆者によれば、管見の範囲で「船中八策」という用語が初めて登場するのは、大正五年(1916)十一月十五日、京都で行われた坂本中岡両先生五十年記念講演会において、岡部精一なる人物の講演だという。まさに龍馬没後五十年を経て初登場を果たしたわけである。その後、大正十五年(1926)の「坂本龍馬関係文書一」あるいは昭和四年(1929)の平尾道雄「坂本龍馬海援隊始末」では、「船中八策」はすっかり史実として定着している。

筆者は有名な坂崎紫瀾の「汗血千里の駒」(明治十六年)を初めとして、弘松宣枝の「阪本龍馬」、坂崎紫瀾「後藤伯の小傳」(明治三十年)、同じく坂崎の手になる「少年読本・坂本龍馬」、岩崎鏡川「後藤象次郎」(明治三十一年)、「殉難録稿」(明治四十年)等、「船中八策」が生まれるまでに作成された龍馬の伝記において、「建議案十一箇条」がいつしか「建議八策」に変容していく様を「重箱の隅をつつく」ような執念深さで解き明かした。

本書第二章では、先年の大河ドラマにも登場した坂崎紫瀾がどういう意図で「汗血千里の駒」を書いたのかを解明する。筆者によれば、「汗血千里の駒」は「ただの娯楽作品や評伝」ではなく、政治的意図をもった「政治小説」なのだという。坂崎紫瀾の父耕芸も勤王派である山内大学、山内民部等に仕え、国事に奔走した志士であった。紫瀾もその強くその影響を受けたと思われる。明治七年(1874)には、愛国公党に参加し、板垣退助や後藤象二郎らと行動をともにした(現代風にいえば「板垣チルドレン」であった)。板垣らの自由民権運動が、土佐勤王党の活動になぞらえ、幕末に活躍した土佐人の衣鉢を継いでいるのが自由党だと主張し、さらにいえば板垣と後藤の二人に自由民権運動の正嫡性を賦与するのが、「汗血千里の駒」の真の狙いだという。だから明治十六年(18883)の時点で、物語の主人公は、上士層によって切腹に追い込まれた武市半平太や平井収二郎ではなく、殉教者坂本龍馬でなければならなかったのである。

「船中八策」がフィクションだという指摘のほかにも、本書中には目を開かせる主張が多い。たとえば、大政奉還を提案したとされる龍馬は「平和革命論者」といわれているが、「むしろ(大政奉還)拒絶後の武力展開こそが想定されるシナリオであり、龍馬は明らかに土佐の武力行使勢力の一翼を担う存在だった」という指摘は納得感がある。慶應三年(1867)後半期の龍馬の関心は、土佐藩のプレゼンスをいかに高めるかという点にあった。

ほかにも薩長同盟の際、坂本龍馬が西郷隆盛を一喝したという事実はなかったとか、維新後新政府に入るつもりだったとか、いわゆる「龍馬伝説」を次々と否定してみせる。筆者は「本当にお前は龍馬が好きなのか」と批判されているそうで、確かにそういわれても仕方ないかもしれないが、筆者の「真実を突き止めたい」という熱意の根底にあるのは龍馬への愛着と尊敬だということは、本書を通じてビンビンと伝ってきた。

 

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別役実を悼む

2020年03月28日 | 書評

去る三月三日、別役実が死去した。

別役実は、我が国における不条理劇の第一人者といわれる。

高校に入学して、演劇部に入部した私が最初に出演したのが、別役実の「マッチ売りの少女」であった。冷静に考えれば、高校の演劇部で別役実の作品を取り上げること自体が無謀極まりない暴挙だと思うが、演劇部の先輩方は別役実に傾倒されている方が多数を占め、入部早々の私は何がなんだか分からぬまま、ひたすらいわれる通りやったというだけである。市内の高校演劇祭でも、毎年のように我が演劇部は別役実らの不条理劇をやって不評を買っていた。平たく言うと「おまえらちょっと頭がええかもしれんけど、わけの分からん劇をやって見るものを小馬鹿にしているのか!!」というご批判である。

先輩方の思いを受け継ぎ、高校二年のときには別役実の「スパイものがたり」に挑戦したが、これはミュージカル風の作品でさすがに高校生には荷が重かった。夏休みを費やして練習したが、結局公演(秋の文化祭)の二週間くらい前に断念し、急遽ほかの芝居に差し替えたという苦い思い出が残っている。

しかし、私が卒業の年、後輩たちが「スパイものがたり」に挑戦し、見事成功した。今思えば、彼らは相当に力量があったということであろう。「スパイものがたり」では小室等作曲による劇中歌「雨がしとしと降れば」が生まれた。別役実の代表作の一つである。

高校を卒業して演劇から離れることになったが、その後、熱狂したのが「づくしシリーズ」である。別役実にしてみれば余技に入るのだろうが、超越した言語感覚から紡ぎだされるナンセンスな文章は、エッセーでも小説でもましてや学術論文でもない、独自の世界を切り開いた。「こんなもの何の足しにもならない」という考える向きにはまったく時間の無駄になるのかしれないが、個人的にはドハマりしてしまいました。「けものづくし」「虫づくし」「魚づくし」「鳥づくし」「道具づくし」「サンズイづくし」と続くが、一番面白いのは「虫づくし」だろうか。

「虫づくし」は、「虫についてかなり詳しい」人間、木南有人(ユダヤ名ユージン・キナミ)が残した膨大な虫に関する著述、解読可能な文字が一つもない原稿を、「オトミ語に詳しい友人」とともに解読したものである。作業は遅々として進まなかったが、やがて「その原稿が何の虫の考察であるか」をつきとめると、その後は「ほとんど原稿などを見ることもなく解読」した成果なのである。あとは読んでのお楽しみである。

ちょうどその頃、FM放送で俳優の矢崎滋や常田富士男が「けものづくし」や「道具づくし」を朗読したものが放送され、それを録音して繰り返し聴いた。「声に出して読みたい日本語」というタイトルの本があったが、まさに「づくしシリーズ」は読むだけでなく、声に出して読むと一層その面白さが際立つ。

「余技」といえば、別役実が生み出した探偵X氏も傑作であった。いわゆるミステリー小説や推理小説とは一線を画した作品で、「探偵X氏」が無駄に活躍する迷作である。今では古本でもなかなか手に入らない希少本となってしまったが、このまま埋もれてしまうのはもったいない。

なお、別役実は、「流離譚」を残した作家安岡章太郎と遠い縁戚関係にあたる。つまりルーツは土佐にあるということである。別役という姓は、長宗我部家に仕えた別役氏の末裔といわれ、今も高知県に多い名前である。異なる分野で活躍した二人であるが、飄々としてそこはかとないユーモアが感じられる文体は、相通じるところがある。才能は血の中にあるのかもしれない。

 

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「明治天皇の聖蹟を歩く」 打越孝明著 KADOKAWA

2020年03月28日 | 書評

明治天皇が、歴代のどの天皇とも異なるのは、行幸で日本全国を訪問し、大衆の前にその姿を現した「見せる天皇」だったことである。その結果、全国至るところに明治天皇の聖蹟が残ることになった。

明治天皇が、慶応四年(1868)二月三日、御所を出て二条城に向かったのが、践祚して初の行幸となった。同じ月には大阪に行幸し、そこに五十日滞在した。以後、明治天皇は積極的に各地に行幸した。

初めての東京行幸は明治元年(1868)九月二十日のこと。翌明治二年(1869)に再び東京行幸の途についた。

明治五年(1872)五月の九州・西国巡幸を皮切りに、明治十八年(1885)にかけて「六大巡幸」が実施された。六大巡幸二回目は明治十年(1877)の京都・大和行幸。三回目は明治十一年(1878)の北陸・東北行幸。第四回は明治十三年(1880)、山梨・三重・京都巡幸。明治十一年(1881)に第五回の東北・北海道巡幸。第六回は、明治十八年(1885)、山陽道巡幸である。

これだけの頻度で全国を巡幸した明治天皇のことだから、全国普く足を踏み入れているものと思っていたが、存外未踏県が存在している。たとえば、山陰巡幸は実現しなかったということを本書で初めて知った。

明治二十七年(1894)には、島根・鳥取両県知事連名で内務大臣に宛てて巡幸を請願した。しかし、清国との緊張が高まっていたため予定されていた九州での演習が中止となり、山陰巡幸も実現しなかった。両県知事は、明治二十八年(1895)に開催予定の京都博覧会の際に天皇の山陰巡幸を願ったが、日清戦争開戦間近の情勢となったため、博覧会が中止となり、またも巡幸は叶わなかった。

その後も再三にわたり両県知事は請願したが、結局実現することはなかった。ようやく明治四十年(1907)に皇太子嘉仁親王の行啓が実現したが、ついに明治天皇その人が山陰に行幸することはなかった。

四国にも明治天皇はほとんど上陸していない。香川県では小豆島と丸亀のみ。愛媛県では今治市の小部湾に天皇の乗船した横浜丸が停泊しただけであった。徳島県、高知県にも行幸はなかった。九州では、意外なことに宮崎県、大分県には行幸がなかった。

これまで全国の史跡を回る中で、明治天皇聖蹟にも数多く出会った。相当数回ったつもりであったが、本書で紹介されている聖蹟を見ると、その半分も見ていないようである。

「はじめに」によれば「二年後、明治神宮の鎮座百年を期して「東日本編」が刊行される予定」とのことである。二年後といえば、令和二年(2020)、つまり今年である。「東日本編」の刊行を楽しみにしている。

 

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「天狗党の乱と渡船場栗橋関所の通行査検」 丹治健蔵著 岩田書院

2020年03月28日 | 書評

栗橋(現・埼玉県久喜市)は、日光街道上にあって利根川の渡船場があった。即ち交通の要衝であった。本書は水戸天狗党の乱に際し、栗橋関所でどのように対応したかを明らかにしようというものであるが、天狗党が挙兵した太平山や通過した栃木までは、三十キロメートルほども離れており、一見すると無縁に思えるが、実際には慌ただしい動きが見られた。

 

栗橋関所址(埼玉県久喜市栗橋北2)

 

天狗党挙兵直後の四月には十人ほどの古河藩士が鉄砲を携えて関所警衛に当たった。栗橋関所は、平時には関東代官の管掌下に置かれていたが、非常時には幕府の目付やその配下(徒目付・小人目付等)が責任者となり、関所番士はその差配下に入った。

四月十五日、日光山警衛のために派遣された目付高木宮内以下千百九人が大砲四挺、小銃三九〇挺を持参。関所ではその査検に立ち会っている。

六月十七日、水戸藩家老市川三左衛門一行およそ二〇〇人が下館方面へ進行するために関所を通過した。

六月二十五日には、歩兵九百四十人、ケウエル筒(ゲベール銃のことか)六〇〇挺、大筒四挺、小銃三〇〇が栗橋関所を通行している。幕府の追討軍は、七月七日から九日にかけて常州高道祖(たかざい)村(現・下妻市)で天狗浪士軍と激突し、追討軍は総崩れとなり敗退している。

さらに七月中旬から八月上旬にかけて、若年寄田沼玄蕃頭(意尊)を中心とするおよそ四千人余りの大部隊が大砲や鉄砲を携行して関所を通行している。

これらの記録を見ると、幕府は総力を挙げて乱の鎮圧に対応していたことが鮮明になる。天狗党は、追討軍や下仁田や和田峠で迎え撃つ高崎藩や高島藩、松本藩兵を撃破し、言わば局所戦では勝利を収めたが、組織力では幕府が上回っていた。

筆者は交通史学会顧問、文学博士という肩書で、長年にわたって関東を中心とする水陸交通史の研究をされてきた市井の研究者である。現代に伝わる関所の記録を網羅して、当時の緊迫した様子を浮き彫りにしている。

 

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