史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「誰も知らない 江戸の奇才」 河合敦著 サンエイ新書

2020年04月25日 | 書評

「誰も知らない」かどうかは別として、本書で紹介されているのは、以下の十三人である。田中久重、武田斐三郎、佐竹義宣、銭屋五兵衛、調所広郷、西川如見、佐藤直方、浅見絅斎、三宅尚斎、河田小龍、牧庵鞭牛、白井亨、江馬細香。私個人は西川如見、牧庵鞭牛のことは本書で初めて知ったが、「誰も知らない」とはちょっと言い過ぎという気がしないではない。
中浜万次郎からの聞き書きをもとに「漂巽紀畧」を著わした河田小龍は、坂本龍馬にも大きな影響を与えたといわれる。本書によれば、龍馬は「人材を造ることは君に任せる。私は船を得ることに専念する」と小龍に告げたという。その数年後、龍馬は蒸気船を手に入れ、小龍は約束に従って、近藤長次郎や長岡謙吉、新宮馬之助といった優秀な門弟を龍馬のもとに送った。
吉田東洋が暗殺され、土佐勤王党が政治を牛耳るようになると、小龍は政治と距離を置き、製塩業に乗り出す。これも船を手に入れようという龍馬を助けるためだという。
龍馬と小龍の間にこのような約束が交わされ、両者がその約束に従って行動し、小龍が龍馬を支援し続けたとすれば、これは美談であるが、本当だろうか。何か著者の脚色が加えられているような気がしてならない。
難道を開削することに生涯を捧げた牧庵鞭牛や十七世紀初頭に世界地理を紹介して江戸の人びとの世界認識を変えたといわれる西川如見の話も面白かったが、疑って申し訳ないが最後まで「ほんまかいな」という気がしてならなかった。

 

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「神と仏の明治維新」 古川順弘著 洋泉社

2020年04月25日 | 書評

一年ほど前に文春新書「仏教抹殺」(鵜飼秀徳著)を読んだところだが、同じ「廃仏毀釈」をテーマにした本である。内容はほぼ「仏教抹殺」と同様であったが、本書では個別の神社・寺院で何が起きたかをより詳細に・具体的に紹介しているのが特徴である。
奈良の名刹興福寺にも廃仏毀釈の波が押し寄せた。藤原氏の氏寺興福寺と氏神春日社は「一体」となっていたという。明治三年(1870)には、興福寺の伽藍や仏像は縁の深い西大寺と唐招提寺に託されることになった。仏器、仏具は売却されて地金となり、仏像は薪となるなどして寺宝の散逸が続いた。明治五年(1872)には教部省から廃寺の指令が下り、諸堂、塔頭、子院はことごとく破壊され、わずかな堂塔が残るのみとなってしまった。この時、五重塔は二十五円(現在価値にして百万円程度)で売却され、買主は金具を得ることでこれを現金化しようとしたが、解体に多額の金がかかることが分かったので、火を着けて燃やしてしまおうとしたらしい。類焼を恐れた近隣住民からの抗議で沙汰止みとなり、おかげで辛うじて五重塔は残った。
興福寺は、もともと春日大社があったということは、明治政府が命じた神仏分離は、そもそも成されていたのである。にもかかわらず、興福寺の僧侶たちは慌てて還俗して春日社の神官になろうとした。その結果、由緒ある寺院が放棄されることになり、廃仏毀釈に繋がった。内務省から興福寺再興の許可が出たのは、明治十四年(1881)のことで、境内は大幅に縮小され、多くの堂宇は今もなお失われたままである。現在、令和五年(2023)完成を目標に、大規模な伽藍復元・整備事業が行われているそうである。
本書で興味深かったのは、廃仏毀釈とは直接的な関係はないように見えるが、「浦上四番崩れ」と呼ばれる明治のキリスト教弾圧である。
平成三十年(2018)に世界遺産に登録された大浦天主堂は、居留地在住のフランス人のための礼拝堂であった。ところが、浦上村の住人の中には、家康が発した大禁教令から二百五十年が経っていたが、弾圧と監視の目をかいくぐって密かにキリシタンの信仰を守り続けていた者がいたのである。その数は七百戸に及んだ。彼らは、フランス人神父に次々と信仰を告白した。
慶應三年(1867)、彼らは檀那寺との断絶を宣言したが、これに対し長崎奉行所は村を探索して、キリシタン六十八人を捕縛して投獄した。この迫害を、浦上では江戸時代を通じて四回目にあたることから「浦上四番崩れ」という。
幕府は瓦解したが、キリシタンは引き続き禁教のままであった。浦上キリシタンは転宗を拒否したため、全信徒は諸藩に配流されることになった。南は鹿児島、北は北陸、郡山に至る二十の各藩に移送された。その数は三千三百八十名という。そこでは重労働が課され、洗脳教育が施され、あるいは拷問を受けて棄教を強要された。
外国からの抗議もあって新政府がキリシタン禁制の高札を撤去したのは明治六年(1873)二月二十四日のことであった。各地に配流されていたキリシタンは帰村を許された。この間、殉教者六百人を出している。
筆者は「あとがき」で「明治政府による神仏分離は成功したといえるのか」と問う。「神仏分離政策によって生まれた「新宗教」としての神道の延長線上にある、現在の神社神道への評価如何にて変わることになるだろう」と明言を避けているが、私には神社神道が宗教として確立しているようにはとても思えない。明治の神仏分離政策は、無駄な犠牲と文化財の散失を生じただけで、失策だったとしか思えないのである。

 

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