(両国高校)
国産マッチ発祥の地
両国高校の京葉道路に面したところに国産マッチ発祥の地碑がある(墨田区江東橋1‐7‐14)。
明治九年(1876)、フランス留学から帰国した清水誠(石川県士族)がこの場所に「新燧社」を設立し、我が国で初めてマッチの製造を始めた。その二年後には早くもマッチは輸出されるようになり、明治から昭和初期にかけて マッチの輸出は黄金時代を迎えた。戦後は広告マッチが流行し 生産量が拡大したが、昭和五十年代より使い捨てライターが急速に普及し、 マッチの生産量も急減した。
(五柱稲荷神社)
五柱稲荷神社
五柱稲荷神社内に「勝海舟揺籃之地」と書かれた木柱が建てられている(墨田区緑4‐11‐6)。海舟は、八歳から十代後半まで旗本岡野孫一郎の屋敷地で過ごしており、そのことを記念したものである。
史跡 勝海舟揺籃之地
(すみだふれあいセンター)
すみだふれあいセンター(墨田区緑4‐35‐6)の前に墨田区教育委員会の建てた説明板がある。勝海舟は、文政六年(1823)に両国にあった父小吉の実家、男谷氏の屋敷(現・両国公園)で誕生した。その後、父母とともに本所の旗本屋敷を転々としたが、天保二年(1831)頃、この地にあった岡野氏の屋敷に落ち着き、十代後半までの多感な時期を過ごした。岡野氏は、後北条氏の旧臣板部岡江雪を祖とする旗本で、文政九年(1826)十二月の屋敷替えを経て、翌年三月頃、当地に居住していた。家の経営費を捻出するための屋敷替えだったようで、旧知行所に伝わる資料によれば、旧居を担保に数百両の金を用立て、代わりに旧居の半分ほどしかない屋敷に移ったようである。幕府草創期から続く由緒ある武家とはいえ、岡野氏の家計は大変逼迫していた。
勝海舟居住の地
旗本岡野氏屋敷跡
(秀和両国レジデンス)
坪内逍遥が「江戸演劇の大問屋」と称した狂言作者河竹黙阿弥終焉の地である(墨田区亀沢2‐11‐11)。
河竹黙阿弥終焉の地
河竹黙阿弥は本名吉村芳三郎。江戸日本橋の商家に生まれたが、遊興にふけって勘当され、遊蕩三昧の生活を送る中で細木(さいき)香以らと交流を深めた。歌舞伎を始め、狂歌や茶番などに通じ、二十歳で五代目鶴屋南北に弟子入りし、勝諺蔵を名乗った。後に二代目河竹新七を襲名し、嘉永七年(1854)に江戸河原崎座で初演された「都鳥廓白波」が四代目市川小団次との提携で大当たりをとり、「小袖蘇我薊色縫」「三人吉三廓初買」など、現在も上演される作品を次々と世に送り出した。七五調の美しい科白を巧みに生かして、幕末の人びとを生き生きと描き出し、三六〇編に及ぶ作品を残した。明治の新時代にも活躍したが、明治十四年(1881)に引退を表明し、黙阿弥と号したが、その後も劇作の筆を置くことはなかった。明治二十年(1887)三月、黙阿弥は浅草の自宅を三代目新七に譲り、自身は葦原だった本所南二葉町三十一番地(現・亀沢2‐11)に自宅を新築し、転居した。周囲に堀をめぐらせた広い新宅は、南割下水(現・北斎通り)のほど近くでもあり、庭には潮入りの池や二階建ての土蔵、書斎とした四畳半の離れがあった。黙阿弥は「本所の師匠」と呼ばれて、この地で六年間を過ごし、九代目市川團十郎のために「紅葉狩」、五代目尾上菊五郎のために「戻橋」などを書き残した。
黙阿弥は彼の作品とは対照的に穏やかで物静かな人柄だったといわれる。自らの死を予期した黙阿弥は、財産分与や蔵書の整理、友人への挨拶まわりなどを終えて、明治二十六年(1893)一月、七十七歳の生涯を閉じた。
(亀沢第一児童遊園)
三遊亭圓朝住居跡
三遊亭圓朝は、江戸時代後期から明治にかけて活躍した落語家で、本名は出渕次郎吉といった。父は、二代目三遊亭圓生の門人橘家圓太郎で、後に圓朝も圓生に弟子入りした。
初舞台は弘化二年(1845)三月で、その頃小圓太と名乗っていた。異父兄で僧侶の玄昌の勧めにより一時高座から離れ、池之端の紙屋葛西屋で奉公したり、玄昌の住む谷中の長安寺で母と同居し、この頃の体験が新作怪談の創作に影響を与えたといわれる。
その後、再び圓生の門に戻り、十七歳で圓朝を称した。元治元年(1864)に二十六歳で両国垢離場の昼席で真打となった。人情噺、怪談噺、落し噺などで江戸落語を集大成し、とりわけ人情噺では落語の話芸を高度な次元に押し上げたとされる。明治九年(1876)十月に浜町から本所南二葉町二十三番地(公園の南側 亀沢2‐12‐7)に移り、明治二十八年(1895)に牛込に転居するまでの十九年間をこの地で過ごした。代表作に「真景累ヶ淵(かさねがふち)」「怪談牡丹灯篭」「怪談乳房榎」「塩原多助一代記」「文七元結」など多数。明治三十三年(1900)没。年六十二。生前山岡鉄舟と交流があり、全生庵に葬られた。