史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

高尾 Ⅶ

2021年12月18日 | 東京都

(興福寺)

 東朝川の興福寺に八王子千人同心の墓が集められていると聞いたので、ひょっとしたら、千人頭河野仲次郎(なかじろう)の墓もそこにあるのではないかと一縷の望みをもって興福寺を訪ねた(八王子市東浅川町754)。

 興福寺の河野家・中村家の墓所に河野仲次郎の墓を発見した。八王子郷土資料館で調べても仲次郎の墓は青山霊園としか出ておらず、青山霊園ではいくら歩いても仲次郎の墓に出会うことはできなかった。ようやく長年の尋ね人に出会うことができて感慨一入であった。

 

興福寺

 

八王子千人頭 河野家・中村家累代墓所

 

十三代 仲次郎通聿墓

 

 河野仲次郎は、文政十年(1827)、六月二日、千人頭志村又左衛門貞慎の次男として千人町に生まれた。嘉永三年(1850)四月、叔父である河野左近通徳の養子となり、同年七月、二十三歳で千人頭となった、まだ少年時代の天保十二年(1841)五月、十四歳のとき、幕府の学問所昌平黌に寄宿生として入り、九年間在籍して勉学に励んだ。

 仲次郎が頭角を現したのは、幕末の軍制改革であった。嘉永六年(1853)三月、浦賀沖に現れたペリー艦隊により、幕府はそれまでの槍や刀という前近代的な武器では世界に通用しないことを痛感し、銃や大砲による軍備の必要に迫られた。同時に品川に台場を築き、旗本をはじめ陪臣に至るまで洋式砲術の訓練を命じた。安政三年(1856)、千人同心も江川太郎左衛門英敏の銃砲訓練所である新銭座に、まず組頭九名が入門し、銃砲の実技と、銃を装備した歩兵を操る調練を受けた。その後帰村し、散田村(現・八王子市めじろ台三丁目)の向原で、新銭座の銃砲指南役を迎えて、同心全員に近代的軍隊の調練を施した。

 仲次郎も志願して新銭座に入り、熱心に訓練に励み、僅かな期間に砲術皆伝と着発弾皆伝の免許を受けた。中でも着発弾皆伝の免許は、当時の洋式砲術に関する知識と実技において最高のレベルにあったとされる。

 仲次郎は、自身の研鑽にとどまらず、同心の調練にも意を砕き、安政五年(1858)四月、「小隊教練号令順次」という教練用の小型本を発行して同心に携行させ、調練の徹底を計った。この教練書は、オランダの教則本翻訳書をもとに仲次郎が編集したものである。

 慶應四年(1868)、明治維新によって千人隊は解体され、千人頭は徳川家達に従い、静岡に移住することになった。同年閏四月、歩兵指図役間宮金八郎は、本立寺ほかに駐屯して、千人隊に加入を迫った。この時、歩兵頭多賀上総介の説得に応じて一旦江戸に帰ったが、千人隊士百数十名はこれに応じて出府し、将軍家菩提寺警護を表向きの理由として麻布祥雲寺に入り、五月十五日の彰義隊戦争に遭遇した。同心に同行した仲次郎は、密かに八王子に帰ったが、上野彰義隊参加の嫌疑を受けて、甲斐鎮撫府に身柄を拘束された。約一年後に許されて家族の待つ静岡に移り、静岡学問所三等教授方に採用された。しかし、ほどなく学問所が廃止され、職を失った。その後、東京に出て大蔵省記録局に就職した。明治十五年(1882)、年五十六にて没。

 

八王子千人隊同心合同墓

 

 河野家・松本家累代の墓所より一段上の場所に八王子千人隊の墓地がある。

 慶應二年(1866)十月、それまでの千人同心を改め、千人隊と改称された。つまり千人隊という呼称は、それ以降、慶応四年(1868)六月に解体されるまでのものである。

 

千人隊 同心一族の墓所

 

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都留 Ⅱ

2021年12月18日 | 山梨県

(和みの里)

 

種徳館

 

 青い壁が印象的な種徳館は、明治二十年代の建築物である。幕末から明治時代に活躍した天野開三(海蔵)によって、都留の境区に建てられたものである。「種徳」とは「広く徳を世に施すこと」であり、青少年の修身鍛錬のために建てられたという。太平洋戦争の末期には学童疎開児童の臨時教育の場としても使われ、現在も様々な体験施設として利用されている(キャンプ場の受付施設のように思われる)。

 

種徳館

 

 正面には「種徳館」の額と、天野開三の肖像写真等が展示されている。特に和みの里に用事のなかった私には中に入るのは憚られたため、遠くから写真を撮影するだけに終わってしまった。

 

種徳館

 

 中央玄関の上部には半円形のバルコニーが設けられており、そこにも「種徳館」の額が掲示されている。

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勝沼 Ⅲ

2021年12月18日 | 山梨県

(生福寺)

 

生福寺

 

 勝沼町下岩崎の生福寺に高野積成(せきせい)の墓がある。生福寺の境内には墓地がない。Google Mapの航空写真で確認したところ、生福寺から数百メートル南側に墓地が確認できたので、すぐさまそちらに向かった。ぶどう畑に囲まれた墓地には高野家の墓所は一つしか確認できない。大きな墓石の裏面を確認すると、「傳正院」という積成の法名を確認することができた。

 

高野家之墓(高野積成の墓)

 

 高野積成は弘化三年(1846)の生まれ。少年時代古屋蜂谷に学び、勧業の志厚く、当時養蚕の改良すべき点の多きを見て、慶応二年(1866)、蚕種製造に着手し、桑園の改良、籠飼等を実施して近隣に勧誘した。明治の初めには、甲州産の良繭のほとんどが武州などの商人に買い取られ流出していたため、地方婦女子の職業の貧しさを憂慮し、県内に機械製糸工場の建設のために努力。明治七年(1874)には県内初の三六人繰工場を完成した。のちに県勧業掛、養蚕業と葡萄栽培の発達に寄与した。明治四十二年(1909)、六十四で没。

 

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石和 Ⅱ

2021年12月18日 | 山梨県

(妙油寺)

 石和町東油川の妙油寺に、甲州屋忠右衛門の墓を訪ねたが、完全な空振りに終わった。どうもこのところ空振りが多い。

 

妙油寺

 

 甲州屋忠右衛門は、本姓篠原といい、東油川村の名主の家に生まれた。村名主を務めるとともに、安政六年(1859)に横浜が開港されると、横浜本町に甲州屋を開き、甲州の物産を売り捌いた。明治七年(1874)に八王子に移住して、教育者を設立した。明治十一年(1878)には相模の上鶴間で原野を開拓した。のちに郷里に隠退した。明治二十四年(1891)、年八十二にて没。

 

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甲府 Ⅴ

2021年12月18日 | 山梨県

(愛宕神社)

 

愛宕神社

 

小野實命之墓

 

 実は愛宕神社には、医者にして文人でもあった小野泉の墓を訪ねることが目的であったが、墓地を探した結果、小野家の墓所はあったものの、そこに小野泉(小仙)の墓はなく、実弟小野實の墓を発見したにとどまった。神社は山の斜面に建てられており、この斜面を登ったり下りたり、近くの寺院の墓地まで足を伸ばしてみたものの、小野泉の墓に出会うことはできなかった。

 小野泉、實の父親である小野通仙も医者として名を成した人で、蘭方医学を学び、人体解剖を行ったことでも知られる。

 小野泉は、天保元年(1830)に通仙の長男に生まれ、初め松井渙斎に学び、弘化四年(1847)江戸に出て、嘉永二年(1849)には京都で広瀬元恭の時習館で蘭学を学んだ。帰国して父とともに種痘館を建てて牛痘法を広めた。明治元年(1868)、公立病院の設立を唱え、明治三年(1870)に県病院の実現を見た。のちに歴史地誌編輯主任としても活躍。私塾を甲府紅梅町に開いて和漢英書を講じた。明治十七年(1884)、年五十五にて没。

 小野實は、通仙の二男。天保八年(1837)の生まれ。安政三年(1856)、広瀬元恭の門に入り蘭医を修めた。明治五年(1872)、県立睦合病院、日野春分院長などを歴任した。

 

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