(興福寺)
東朝川の興福寺に八王子千人同心の墓が集められていると聞いたので、ひょっとしたら、千人頭河野仲次郎(なかじろう)の墓もそこにあるのではないかと一縷の望みをもって興福寺を訪ねた(八王子市東浅川町754)。
興福寺の河野家・中村家の墓所に河野仲次郎の墓を発見した。八王子郷土資料館で調べても仲次郎の墓は青山霊園としか出ておらず、青山霊園ではいくら歩いても仲次郎の墓に出会うことはできなかった。ようやく長年の尋ね人に出会うことができて感慨一入であった。
興福寺
八王子千人頭 河野家・中村家累代墓所
十三代 仲次郎通聿墓
河野仲次郎は、文政十年(1827)、六月二日、千人頭志村又左衛門貞慎の次男として千人町に生まれた。嘉永三年(1850)四月、叔父である河野左近通徳の養子となり、同年七月、二十三歳で千人頭となった、まだ少年時代の天保十二年(1841)五月、十四歳のとき、幕府の学問所昌平黌に寄宿生として入り、九年間在籍して勉学に励んだ。
仲次郎が頭角を現したのは、幕末の軍制改革であった。嘉永六年(1853)三月、浦賀沖に現れたペリー艦隊により、幕府はそれまでの槍や刀という前近代的な武器では世界に通用しないことを痛感し、銃や大砲による軍備の必要に迫られた。同時に品川に台場を築き、旗本をはじめ陪臣に至るまで洋式砲術の訓練を命じた。安政三年(1856)、千人同心も江川太郎左衛門英敏の銃砲訓練所である新銭座に、まず組頭九名が入門し、銃砲の実技と、銃を装備した歩兵を操る調練を受けた。その後帰村し、散田村(現・八王子市めじろ台三丁目)の向原で、新銭座の銃砲指南役を迎えて、同心全員に近代的軍隊の調練を施した。
仲次郎も志願して新銭座に入り、熱心に訓練に励み、僅かな期間に砲術皆伝と着発弾皆伝の免許を受けた。中でも着発弾皆伝の免許は、当時の洋式砲術に関する知識と実技において最高のレベルにあったとされる。
仲次郎は、自身の研鑽にとどまらず、同心の調練にも意を砕き、安政五年(1858)四月、「小隊教練号令順次」という教練用の小型本を発行して同心に携行させ、調練の徹底を計った。この教練書は、オランダの教則本翻訳書をもとに仲次郎が編集したものである。
慶應四年(1868)、明治維新によって千人隊は解体され、千人頭は徳川家達に従い、静岡に移住することになった。同年閏四月、歩兵指図役間宮金八郎は、本立寺ほかに駐屯して、千人隊に加入を迫った。この時、歩兵頭多賀上総介の説得に応じて一旦江戸に帰ったが、千人隊士百数十名はこれに応じて出府し、将軍家菩提寺警護を表向きの理由として麻布祥雲寺に入り、五月十五日の彰義隊戦争に遭遇した。同心に同行した仲次郎は、密かに八王子に帰ったが、上野彰義隊参加の嫌疑を受けて、甲斐鎮撫府に身柄を拘束された。約一年後に許されて家族の待つ静岡に移り、静岡学問所三等教授方に採用された。しかし、ほどなく学問所が廃止され、職を失った。その後、東京に出て大蔵省記録局に就職した。明治十五年(1882)、年五十六にて没。
八王子千人隊同心合同墓
河野家・松本家累代の墓所より一段上の場所に八王子千人隊の墓地がある。
慶應二年(1866)十月、それまでの千人同心を改め、千人隊と改称された。つまり千人隊という呼称は、それ以降、慶応四年(1868)六月に解体されるまでのものである。
千人隊 同心一族の墓所