史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

小田原 Ⅶ

2021年12月04日 | 神奈川県

(新光明寺)

 

猛進院志願光乗居士(浅田門次郎の墓)

 

 「最後の幕府公許の仇討」の主役浅田兄弟の墓を訪ねて、新光明寺と高長寺の墓地を歩いた。

 浅田兄弟の父只助が殺害されたのは、文政元年(1818)七月十二日のことであった。下手人は、同僚成滝万助である。万助は捕らえられたが、脱牢して出奔した。鉄蔵、門次郎兄弟は、父の仇を報いんと決心して願い出たところ、老中職にあった藩主大久保忠真がその志に感じ、幕府に諮ってこれを許可した。

 兄鉄蔵は二十一歳、弟門次郎は十二歳のとき、文政三年(1820)八月、兄弟は仇討に出発した。初めは江戸、大阪をはじめ、中国、四国、九州まで訪ね歩いたが徒労に終わり、空しく江戸に帰った。生活に困窮して武家に奉公しながら仇を探すうち、水戸に万助がいるとの情報を得て、勇躍して常陸に向かい、同国鹿島郡磯浜村祝町で煙草商を営んでいた万屋九兵衛が万助の変名であることを突き止め、遂に本懐を達した。特に文政七年(1824)四月のことで、兄二十五歳、弟は十六歳になっていた。藩主忠真は篤く孝子を賞し、二人を足軽から士分に取り立て、各々五十石を給与し、嫡子賢次郎の傅役に任じた。当時、この仇討は「文政曾我」と称され、多くの書物に記録された。

 兄鉄蔵は元治元年(1864)、六十五歳で没した。弟門次郎は明治十二年(1879)、七十一歳で没。

 

(高長寺)

 

高長寺

 

 高長寺には、詩人北村透谷の墓があることで知られる。北村透谷は明治元年(1868)、小田原の生まれで、近代浪漫主義文学の先駆者として大きな功績を残したが、明治二十七年(1894)、自ら命を絶った。

 

透谷北村門太郎墓

 

潜龍院大道義孝居士(浅田鉄蔵の墓)

 

(大長院)

 

大長院

 

 大長院に、二宮尊徳門下の福山滝助の墓を訪ねた。大長院の墓地はさほど広くなく、二周してみたが、福山家の墓さえ発見できなかった。ちょうど寺の御婦人が出てきたので確認したところ、「福山家の菩提寺ではなくなった」ということであった。

 

(瓜生坂)

 

瓜生坂

 

 ノグチ様より瓜生坂の写真が違うというご指摘をいただいた。本物の瓜生坂は、天神社からもう一つ西側の坂だという。

 この日は三島まで行かなくてはならなかったが、小田原で下車して戻るまで四十分。限られた時間で瓜生坂まで往復してきた。冬の寒い日だったが、速足で往復すると体が温まった。

 今も瓜生坂には、瓜生外吉の屋敷があった石垣が残っている。

 

 

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箱根 Ⅴ

2021年12月04日 | 神奈川県

(早雲寺つづき)

 

福住正兄翁墓

 

 早雲寺の北条氏五代(早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直)の墓の傍らに福住家の墓所があり、そこに福住正兄(まさえ)の墓がある。

 福住正兄は文政七年(1824)、大名主の末子として生まれた。少年の頃、近郷の俳人森百亀、歌人原久胤に学び、また巡歴の儒学者千賀桐蔭にも経書の手引きを受けるなど、早くから学問文学の道に入る素養をつくった。父兄の勧めに従って弘化元年(1844)、二宮尊徳の塾に入り、嘉永三年(1850)十月まで七年間、報徳の教訓と鍛錬を受けて帰った。衰運に向かっている親戚の復興こそ報徳の道の実践であるとして、自ら選んで箱根湯本の温泉旅館福住家の養子となり、家名九蔵(十代目)を襲名して、以後大いに努めて一家の復興を完遂した。家業の傍ら、報徳の教えの紹介と指導家の実践のために多数の報徳の書を著述したが、「二宮翁夜話」「富国捷径」は世に聞こえ、富田高慶、斎藤高行、岡田良一郎と並んで尊徳門下の四大人と称された。また嘉永四年(1851)、小田原藩の国学者吉岡信之に入門し、その翌年より鎌倉円覚寺の東海和尚に師事して参禅し、元治元年(1864)には平田篤胤の没後門人となり、鈴木重胤、権田直助にも師事して国学と神道を修めた。この間に、湯本の名主となって村の再興に励んで、慶応元年(1865)、小田原藩から苗字帯刀を許され、小田原藩校集成館の教職にも挙げられ、藩士に列して国学一等助教となった。明治以降は同好とともに歌道の発展に努めて自らも多くの詠草を残した。道路の改修、史跡の保存、観光書の著述などによって、箱根観光の高揚に努めると同時に、各地の報徳社の結成と実践を指導し、尊徳を祀る二宮神社の創建を企図するなど、多彩な生涯を送った。明治二十五年(1892)、年六十九で没。正兄が再興した旅館萬翠楼福住は、今も箱根湯本で営業を続けている。

 

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木更津 Ⅴ

2021年12月04日 | 千葉県

(八劔八幡神社)

 木更津駅から徒歩数分という場所に鎮座する八劔八幡(やつるぎやわた)神社は、源頼朝鎌倉幕府開幕に当たり、神領を寄進して社殿を造営したと伝えられる。

 境内には嶺田楓江(ふうこう)の長寿と業績を讃えた嶺田楓江寿碑が建てられている。

 

八劔八幡神社

 

嶺田楓江寿碑

 

 嶺田楓江は、文化十四年(1817)に江戸に生まれ、儒学や蘭学を学び、各地を視察した。天保十四年(1843)には蝦夷地を回り、幕府に屯田制や北方警備の必要性を訴えた。嘉永二年(1849)にはアヘン戦争の実情を詳しく調べ上げ、木版絵画を挿入した「海外新話」を刊行したが、治安を乱したとされ投獄された。江戸から追放され。請西村に移り住んだ。安政元年(1854)のペリー来航時には、江戸に上って幕閣に進言した。その後は木更津に戻って子弟の教育に専念し、維新後の木更津地方の教育史上重要な存在となった。明治十四年(1881)、楓江の長寿と業績を讃えて、この石碑が建てられた。英国領事官コラウブスが題字、地元の重城保が撰文、清国の劉世安が書を担当したという、珍しい三国合作の碑である。

 

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久留里 Ⅲ

2021年12月04日 | 千葉県

(正源寺)

 

正源寺

 

 久留里へ行くには、もちろん木更津から久留里線を利用するのが一般的かもしれないが、高速道路が混雑していなければ、東京駅から高速バス(アクティー号)に乗るのが時間的に効率的である。朝七時三十五分に東京駅を出て、九時十分過ぎに久留里に着く。

 急いで駅前の観光交流センターに駆け込む。まずここでレンタサイクルを調達しなければならない。ところが、観光交流センターは、新型コロナ感染対策のため休館中で、自転車を借りることはできなかった。仕方なく正源寺、妙長寺、真勝寺、円覚寺を歩いて回った。結果、この日の歩数は軽く二万歩を越えることになった。

 正源寺は、観光交流センターにほぼ隣接しており、久留里駅から歩いて数分という場所にある。

 「明治維新人名辞典」によれば、広沢俊憲の墓が正源寺にあるというので、実は二度正源寺の墓地を歩いてみたが、広沢家の墓所すら見つけることはできなかった。完全な空振りでした。

 広沢俊憲は、久留里藩士。通称は吉郎、あるいは定五郎といった。慶應三年(1867)十二月、藩主の江戸市中警備には巡羅隊長となり、薩摩藩邸襲撃や徳川氏歩兵騒擾等に活躍した。慶應四年(1868)六月、徳川脱走兵が横田村で起こした騒動には兵を率いて指揮した。のち権大参事、少参事を経て、明治六年(1873)十二月には千葉県授産掛に就いた。明治十八年(1885)、年五十九で没。

 

(妙長寺)

 

妙長寺

 

 本堂前に建てられた説明板には、「本寺には、久留里藩主黒田家二代直純の姫於栄、於多勢や側室五代直方の姫多喜子が眠るほか、黒田家に仕えた最後の家老森光新の墓や久留里藩士の墓が多数あります。」と記載されている。墓地もさほど広いわけでもなく(三ヶ所に分かれている)、発見は時間の問題と思われたが、結局、「これが森光新の墓」と特定することはできなかった。

 

森光新の墓?

 

 森光新(こうしん)は、文政七年(1824)の生まれ。弘化四年(1847)、藩老森光福の養子となり森家を継いだ。文久元年(1861)、家老に進み、以後江戸と藩地を往復して藩務をとった。慶應三年(1867)暮、藩地にあって薩摩藩邸襲撃を聞き、三百名を率いて下谷藩邸に急行した。慶應四年(1868)二月、北白川宮の小田原行に随従、同年六月の脱走士の横田村騒動では藩兵を指揮した。のち藩大参事、権大参事に任じられ、明治五年(1872)久留里組貫族取締となった。明治九年(1876)、年五十三で没。

 

(上総小学校)

 

史跡 新井白石居住之地

 

新井白石居宅跡

 

 徳川家六代将軍家宣、七代小′家継の相談役として活躍した儒学者新井白石は、久留里藩主土屋利直に仕え、青年期の数年間、久留里に居住していた。白石は、利直の江戸詰めの家臣の子で、幼少期より優秀で、十三歳にして藩主の代筆を勤めたといわれる。二十一歳のとき、土屋家の内紛により久留里藩を追われ、その後、江戸へ出て木下順庵の門下生となった。

 久留里における白石の住まいは、安住の侍屋敷にあったといわれ、現在の上総小学校周辺とされている。

 

(円覚寺)

 

円覚寺

 

 この日は正源寺、妙長寺、真勝寺と回って、ほとんど収穫がない一日となってしまった。円覚寺にてようやく荒木栄懐の墓と出会うことができた。

 

松山院泰雲武標居士(荒木栄懐の墓)

 

 荒木栄懐(えいかい)は、文化六年(1809)の生まれ。種田流槍法を修め、天保二年(1831)正月、小姓広間番士となり、弘化三年(1846)五月、家中槍術師範となった。嘉永六年(1853)、ペリー来航の時、出水平学の下に派遣され、安政四年(1857)には藩主黒田直和の両総東海岸検分に従った。文久二年(1862)二月、用人となり、元治元年(1864)十一月、藩預りの水戸脱藩士肥田金蔵ら三十五人を下総銚子にて受け取った。慶應四年(1868)二月、家老となり、藩主に代わって上洛し四月に帰藩。旧幕府撒兵隊福田八郎右衛門道直の協力要請に対し、形勢を説いて勤王を主張し、藩論を動かした。明治二十三年(1890)、年八十二にて没。

 

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