史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「五箇条の誓文で解く日本史」 片山杜秀著 NHK出版新書

2021年12月25日 | 書評

本書は、「企業トップが学ぶリベラルアーツ」と銘打ったシリーズ本の中の一冊で、明治維新から百五十年の歴史を五箇条の誓文を切り口として通覧しようという試みである。明治維新百五十年目となった平成三十年(2018)年に発刊されたもので、著者片山杜秀氏の独自の視点が光る。

「はじめに」で中谷巌氏が「「ビジネスパーソンにとって近代史はブラックボックスになっており、現在の諸問題を歴史的センスで捉える視点が著しく欠けている」というのはまさにご指摘のとおりで、私自身も思い当たるところがある。

筆者が「明治百五十年を貫いて、自由と不自由、戦争と平和を生み出した、ひとつの種」として位置付けたのが、五箇条の誓文である。

ここで五箇条の誓文を繰り返すことはしないが、筆者は「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と宣言された第一条を「民主主義」、「盛んに経綸を行うべし」という第二条を「経済発展」、第三条を「自由主義」、「天地の公道」を謳う第四条を「天皇中心宣言」、第五条は「学問の推奨」と「和魂洋才」と焼き直して解釈している。

もちろん戦前の歴史を振り返ると、五箇条がそれぞれ興隆を繰り返し、前面に現れることもあれば、遠く後景へ追いやられている時代もある。五箇条の誓文を、近代史を分かり易く解釈するためのツールとするユニークな試みは成功しているといえよう。

維新直後は藩閥独占時代が続いた。明治の最初の十年は、それに抵抗する内乱の時代であったが、西南戦争を最後に内乱は終息する。継いで盛んになったのが自由民権運動であった。自由民権運動も時に流血を伴う激烈なものであったが、その過程で大日本帝国憲法が生まれ国会が開設された。

それでも薩長藩閥による政治は存続していた。藩閥政治が終焉し、我が国に本格的な政党政治が誕生したのは、明治からちょうど五十年を経た大正七年(1918)の原敬内閣の成立まで待たねばならない。時まさに大正デモクラシーの時代であった。

明治以降の歴史を民主化の歴史ととらえれば、至極単純に大正デモクラシーは一つのゴールだったように受けとめられる。大正時代は日露戦争で勝利した我が国にとって、束の間の「明るい時代」のような印象があるが、筆者は別の考え方を提示している。

第一次大戦の戦勝国(英・仏・米)はいずれも民主主義国であった。独・墺(オーストリア=ハンガリー二重帝国)・オスマン帝国はいずれも皇帝支配の国であり、専制主義的統治をしていた国であった。ロシアに至っては、ロシア革命がおこって途中で戦争を継続できなくなった。

なぜこういう結果になったのか。デモクラシーの国では、国民が選んだ総理大臣、首相、大統領が参戦を決意する。トップの決断は、国民の総意ということになる。戦争というものは、国民に大変な負担を強いるものである。多くの戦死者が出て、食糧は不足する。それでも民主的に選ばれた政権が戦争を継続している限り、結局自分たちが決めたことだからやり続けなくてはならない。デモクラシーの方が総力戦体制には適しているというのが筆者の結論である。

このことを早くから見抜いていたのが、徳富蘇峰であった。蘇峰は、日本を一君万民型のデモクラシー国家に改造すべしと訴えた。蘇峰の念願は、普通選挙法(大正十四年(1925))という形で実現する。

大正デモクラシーがまるごとひっくり返ったのが昭和初期である。筆者は「明治維新に次ぐ、日本近代の第二の節目」と位置付けている。二大政党制も自由経済も世界恐慌によって機能不全に陥る。政党政治に代わって、天皇制社会主義という独特な仕組みが出現し、国家社会主義者や農本主義に影響を受けたテロやクーデターが頻発する。政党の要人が次々に暗殺されたのもこの時期である。濱口雄幸、若槻礼次郎、犬養毅、斎藤實、岡田啓介という五代の首相のうち、三人が暗殺され、二人は危うく殺されかけた。暗黒の時代の幕開けである。

日本は、グローバル経済からブロック経済へ、自由経済から統制経済へと舵を切った。その流れの中で満州事変、日中戦争が起こり、アジア主義が台頭するようになった。

大日本帝国憲法が作ったシステムは、平時においてはタテ割り機構が分散し、その結果、権力の集中を防ぎ、乱暴なことをさせず、物事を慎重に進めることもできた。

しかし、一旦非常時となると、国家の意思統一ができない、部局を越えて議論することができない、統帥権が独立しているため軍隊の外から誰も命令することができない、その一方で天皇自身は常に免責される(つまり誰も責任ととらない)という恐るべきシステムであった。昭和二十年(1945)八月、明治憲法が禁じ手としてきた「天皇の聖断」により戦争に幕が下ろされ、その時が大日本帝国の終焉となった。

悲劇的終結から七十五年が経った。大日本帝国の終焉は、決して別の国の昔話ではなく、現代の我々の生活や政治とも連続している。グローバル化の波に飲み込まれようとしている今、二大政党制も崩壊し、民主主義が方向を失った姿は、昭和初期と重なるものがある。今の我々にできることは、せめて昭和の過ちを繰り返さないことである。

そのようなことを心配せずとも、現在の我が国の憲法下では、軍が暴走するようなことはあり得ないし、我が国が紛争の解決のために戦力を行使することなど考えられない、というご意見ご指摘はそのとおりかもしれない。

しかし、民主主義を過信し過ぎてはいけない。民主主義が常に正しい選択をするとは限らないのである。どこかの国のように、人権を侵し自由を制限する独裁的国家を目指すべきとは決して思わないが、民主主義の危うさと限界も感じざるを得ない。

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「鯨酔 山内容堂の軌跡 土佐から見た幕末史」 家近良樹著 講談社現代新書

2021年12月25日 | 書評

本書は、家近良樹先生が自身にとって「最後の評伝の仕事」と覚悟を決めた挑んだ渾身の一冊である。期待に違わない内容で、一気に読み通すことができた。

山内容堂というと「強硬な佐幕派」「武市半平太以下を処刑し、土佐勤王党を弾圧した張本人」「気に入らないことがあると大声を出して相手を威圧する我がままな殿様」というイメージが強烈で概して人気がない。容堂は、坂本龍馬らの草莽の活躍を描いたドラマでは、決まって悪役として登場する。本書では従来の容堂のイメージを覆し、歴史書を読む楽しみを改めて確認させてくれるものである。

一般的に容堂は、佐幕派と見られている。しかし、文久二年(1862)、三条実美らが勅使として江戸に下向すると、容堂は勅使の待遇改善や将軍の使者が品川で出迎えることを力説し、さらには攘夷決行を迫る勅命の受け入れを強く進言した。この言動を見ると容堂は尊王攘夷派とも見える。文久三年(1863)の八一八の政変以降、態度を急変させて土佐勤王党を弾圧する。時に尊攘派的であり、時に佐幕派的である容堂は、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄され、「時勢に流されただけの、単純で軽薄な人物」と批判されることになる。筆者によれば、それは「すべての政治勢力の上位に国家を位置付けていた(国家の下に、朝廷と幕府、それに諸藩が所属すると考えた)」ことによった」とする。従って、国家を危うくする盲目的な攘夷には断固として反対した(その延長線上で、長州藩のことを毛嫌いしていた)。容堂は、尊王攘夷、公武合体といった単純な二軸で評価しれきれない人物なのである。そこを分かっていないと、容堂の言動は理解できないだろう。

容堂は「頭脳明晰」で「物事の本質がよく見える炯眼の持ち主」であった。一方で、元治元年(1864)の参預会議では、(持病のリウマチによる足痛、腰痛、胸痛による)体調不良で欠席しておきながら、宿舎から出て鴨川べりや時には東山辺りをブラブラすることもあった。その姿は多くの人に目撃されており、中山忠能の日記にも皮肉たっぷりに記録されている。彼は生まれながらの貴人であり、世間的な常識が欠落しているところがあった。阿部正弘の没後、阿部の愛妾お鯉尾を、自分の側妾にと懇望したのも、容堂の常識外れの一例であろう。慶應三年(1867)五月、四侯会議が空中分解すると、大病を理由に退京を余儀なくされたにも関わらず、彼は雨が降りしきる中、あたかも健康人であったかのように堂々と乗馬で帰国した。比較的容堂に好意的な筆者も、「常識人ではおよそ考えられない」と呆れている。

歴史の「常識」に対し、新たな視点を提供するのが、歴史論説の価値といえる。従来、四侯と慶喜の対立、そしてその後慶喜による強引な勅許の獲得によって四侯が敗れると、四侯は幕府との対決を強めるという物語が語られてきた。特に薩摩藩は倒幕路線に転じたことが強調されてきた。

しかし、家近先生は四侯といっても一枚岩ではなく、伊達宗城が島津久光寄りの姿勢を強めたのに対し、方や春嶽と容堂とが連携を深めていく構図を解明して見せた。合わせて慶喜と容堂は信頼関係を深化させていった。のちに土佐藩からの大政奉還の建白を、慶喜が素直に受け入れた背景には、ほかならぬ「容堂からの建白だったから」という理由が大きかったであろう。

歴史を知っている我々は、大政奉還、小御所会議(王政復古のクーデター)、鳥羽伏見の戦いを経て、慶喜が政権を追われた事実を知っているので、必然的にその流れになっているような錯覚をしてしまうが、実際には大政奉還と小御所会議の間、そして小御所会議と鳥羽伏見の戦いの間には、数々の紆余曲折があった。

クーデター計画を告げられた後藤象二郎は、その提案を受け入れた。ただし容堂の上京まで待って欲しいという条件を付けた。筆者によれば、クーデター計画が持ち上がったときに容堂が在京していれば、「はたしてクーデターそのものが挙行されたか疑しい」とする。容堂にそれなりの時間があれば、クーデターを阻止する有効な手立てを考え、それを実行に移した可能性が十分にあるとする。確かにそうであるが、これはいわゆる「歴史のイフ」に属する話である。結局、容堂はその場にいなかった。そればかりか藩内の守旧派が容堂の上洛を阻止しようという意見書が出され、その説得に努めた結果、上洛は遅れに遅れてしまった。

結果から見て容堂には運がなかったということかもしれない。しかし、「運も実力のうち」というが、その場に居合わすことができなかったということも容堂の実力なのだと評価するしかないのではないだろうか。

小御所会議における容堂の奮闘は良く知られている。実はその場に誰が出席していて、誰がどのような発言をしたのか、いまでも十分に解明されていないという。ほぼ確かな史実としていえることは「会議の主役が岩倉具視と山内容堂の両者であったこと」だという。容堂と岩倉の両者が激しくやりあい、春嶽が容堂の発言を強く支持した。会議の席で後藤や大久保利通ら藩士クラスの発言があったことは確認できない。

ところが、これほど頑張った容堂が、休憩の後、会議が再開されると沈黙を守った。通説には、西郷が「短刀一本あれば片付く」と発言し、テロを恐れた容堂が、それ以上の発言を控えたというエピソードが流布している。

筆者はその通説を否定はしないが、それよりもこれ以上岩倉と論争すると、幕府贔屓だとみなされることを恐れたのではないかとしている。加えて、休憩に入り、酔いから醒めて冷静になるにつれ、周りのアドバイスを受け入れて、沈黙を守り通すことになったのではないか、と推察している。これも筆者の推測でしかないが、あり得る話かもしれない。

筆者は「歴史はほんのちょっとした偶然で、大きく様相を異なるものにする」と語る。容堂がクーデター決行前に京都にいれば…、容堂がもう少し早く上洛していれば…、容堂が参内して朝議に出て大久保に反論していれば…と、いくらでも「歴史のイフ」は思いつく。確かに容堂には「歴史を大きく動かす可能性」があったことは、そのとおりであるが、結果的に歴史を動かすことができなかったことも彼の実力だと思うのである。

 

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